第3話 味

 台所から戻ってきた犬村さんが持っていたのは、卵焼きだった。

 すでに切られていて、一切れほど食べられているようだった。


「もご……ん。これ私の分に作ったやつ。味は普通の奴だよ」

「それでどうするの?」

「こうしてみんの」


 突然、口をふさがれた。


「んんっ!?!?!?」


 上から覆いかぶさり、先ほどのようにわたしに馬乗りになってキスをしていた。

 女の子同士だとか、いきなり何してんのだとかの精神的驚愕と、彼女の舌が強引にわたしの口をこじ開けてそのまま口の中のものを流し込んでくる物理的な驚愕。


 二つの驚愕がぶつかり合ってすさまじい衝撃になってわたしの脳内でスパークした。

 それは目がちかちかするほどで、彼女の中にあったものが流し込められたという事実を認識しただけで身体がしびれたように熱を上げて頭が真っ白になる。


「ん、ふぅ……どう?」

「はぇ……ど、どうって?」

「だから、味」

「わ、わからない」

「そ、ならもう一回ね」

「はい? んぐぐ!?」


 再び覆いかぶさられ、頭を押さえられた唇を奪われる。

 柔らかな感触と同時に彼女がかみ砕いた卵焼きが押し込まれてくる。


 わたしは抵抗ができない。

 犬村さんは軽いからいざとなれば、そのまま押しのけられるはずのなのに、どうしてだかできない。

 身体が動かない。


 流し込まれた熱くて、しびれるような衝撃をただただ意識させられる。

 脳が揺れているように感じられた。

 世界がぐるぐると回っている。これは知ってる。

 祖母が死んだときと同じだ。


 世界が変わる予兆。

 わたしの中で何かが確実に変わってしまう予兆。

 前は怖かった。不安だった。

 だから味がしなくなった。


 じゃあ、今は?


「どう?」

「……わからない……でも、次されたらわかる、かも……」

「いいよ」


 再び彼女の顔が近づく。

 青い瞳は閉じられて見えない。

 まつげが長くて、本当に整った顔だと思う。

 少しだけ頬に朱がさしているのがなんだかわからないけれど嬉しいと思ってしまう。


 唇が触れて、今度はわたしから口を開けていた。ひな鳥が親鳥にするように。

 ゆっくりと犬村さんの舌がうねってわたしの中に卵焼きを流し込む。


 ふっと、舌同士が触れた。

 その瞬間、感じた。

 甘い、甘い、甘い味。


 ゆっくりと犬村さんが離れていく。

 唾液がわたしたちの間に橋を作る。


「どう?」

「……甘かった」

「ほら、味覚戻ったでしょ?」

「…………うん」


 わたしは顔を背ける。

 顔を腕で隠して。


 今、まともに犬村さんの顔が見れない気がする。

 これはちょっとヤバイ。いや、まずい。

 軽い気持ちで彼女を引き込んだことを後悔している。


 味覚はあまりの衝撃に色々なことが吹っ飛んで戻った。

 あっさり過ぎて拍子抜けするくらいだった。

 それ以上に、わたしの中の何かがもう二度と戻らないってことだけは確かだった。


「…………いつまで、乗ってるの?」

「あっ、ごめん。重かった?」

「いや、軽いからいいけど」

「ふふん、そこそこ頑張ってるからね」

「…………」


 わたしは、意を決して言った。


「来週も、来ていいよ」

「いいの? 夏伐、嫌じゃない? あんなことまでした相手だよ?」

「嫌、じゃない。犬はすぐに顔舐めてくるし」


 犬村さんはからからと笑う。


「夏伐ってさ、変だね」

「犬村さんほどじゃない」

「いやいや、絶対夏伐の方が変だって」

「私をあんたの犬にして、なんて言ってきた人に言われたくない」

「その犬に味覚戻してもらったのは誰ですかー?」

「…………」

「…………」

「ははは」

「あはは」


 わたしたちはどちらともなく笑った。


「はぁ、笑ったらお腹すいちゃった」

「これ、どうするの?」


 わたしは食卓の上のヤバイ食事を指さす。


「勿体ないけど捨てちゃうー」

「本当に勿体ないね」

「味覚チェックしたくてさー」

「二度としないでね」

「しないしない。まあ、一人分を二人でわけよう」

「足りる?」

「足りなかったら、夏伐が何か作ってよ」

「ピーマンの肉詰めにするね」

「嫌いって言ったよね!?」

「犬は飼い主に従うものでしょ」

「おーぼーだー!」


 わたしは本当に久しぶりに笑っている。


「それじゃあ、これからよろしくね。わたしの犬さん?」

「ん、これからよろしくね、私の飼い主さん?」


 契約完了のようにわたしたちは握手した。


 いつまで続けるかは聞かなかった。

 いつまでも続けたかったから。

 犬村さんも聞かなかったし、同じ気持ちだと思いたい。


 わたしはどうやら彼女に恋をしてしまった。

 これはもう元には戻らないと思う。


 食卓に食事を並べて二人分に分けている彼女を見ながら、わたしは元に戻らない思いを少しだけ胸にしまう。

 この思いを告げてこの関係が壊れてしまうのが怖かったから。


「さあ、食べよう」

「待て」

「またやるの?」

「しつけは大事だから。ほら、お手」

「はいはい」

「はいは一回」

「ワンワン」

「ワンなら二回で良いとか言うつもり?」

「あはは、バレたか」

「んもう。勝手な犬だなぁ」

「犬は勝手だからね」


 この関係が少しでも長く続けば良いなと思う。


 飼い主と犬というおかしな関係だけど、それが今は居心地がいいから。

 いつかこの思いを告げられるだろうか。


「あっ、そうだ」

「何?」

「あんなこと、さ……よく、やるの?」

「あんなこと?」

「あの、キス……とか……」

「あー、やらないやらない。特別な人とだけだよ。夏伐にはー、まあお礼と飼い主だからね」

「ふ、ふーん、そうなんだ」


 そっか。

 そっかー。

 どうやらわたしというやつはかなりちょろいらしい。

 この先どうなるのか、楽しみなようで不安なようで。

 わたしはその思いを紛らわせるように窓から彼女の瞳のような空を見上げた。


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犬小屋に入っていた女の子を飼うことになった 梶倉テイク @takekiguouren

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