第2話 彼女の事情、わたしの事情

 風呂から上がってきた犬村さんの為に客間の用意をしておく。

 押し入れから布団を出して敷いたところで犬村さんが上がってきた。

 タオルを首にかけたまま全裸である。どこも憚ることなく晒している。


「ちょ、服服!」

「いや勢いで飛び出してきたから持ってないし。それに私、今犬だから別にいいかなーって」

「わ、わたしが良くない!」

「夏伐って犬に服着せる派なの?」

「いいから、ちょっと待ってて!」


 顔が赤くなるのを隠すように足早にわたしは客間を出て自分の部屋に服を取りに行く。

 その間、脳裏にはずっとさっきの犬村さんの姿が焼き付いていた。


 真っ白な染みも傷もない肌とか、わたしとはくらべものにならないくらいに形がよくて大きな胸だとか、やわらかそうなお腹だとかおへそだとか、その下にある大切なあそこ、だとか。


 そんなものが脳裏で燃えているかのように、わたしの頭を熱くする。

 なんだこれ、わたしは本当に正気を失ってしまったのだろうか。

 自分と変わらないはずの身体なのに、どうしてあんなにだなんて思うのか。自分で自分がわからない。


「ああもう、突然あんな姿で出てくるからだよ」


 わたしはそれらをはじき出すように頭を振って服を片手に客間に戻る。


「犬村さん、服てきとーなの持って……」

「すぅ……すぅ……」


 犬村さんは眠っていた。

 よっぽど疲れていたのか、気を張っていたのが緩んだのか。

 一応、しっかりと身体はふいて髪は乾かして布団に入っている。

 問題はない。


 ただわたしは服を手に持ったまま立ち尽くしてしまった。


 ●


 朝。

 わたしは、随分と早く起きたことに驚いた。

 古い柱時計は五時を示している。

 普段は朝食を食べずに走らないと間に合わないというをもらうためにギリギリまで眠っているのに、こんな時間だ。


「久しぶりだな、この時間に起きるの」


 わたしは二度寝しようかと思って、そう言えば昨日、犬村さんを泊めたのだと思い出す。

 夏場とは言え、裸で眠るのはちょっと危ない。風邪なんか引いてないだろうかと思って見に行くことにした。


 客間の襖をそっと開けると、犬村さんはいなかった。

 気配は台所からした。

 そちらに行ってみると、犬村さんがわたしが昨日枕元に置いていった服を着て料理をしていた。


「あっ、夏伐。おはよー」 

「お、おはよう……何してるの?」

「ん? 忠犬がご主人様の為にご飯作ったろーってね」

「別にいいのに……というかこんなに早い時間に?」

「いつ起きるかわかんなかったからさー。でも夏伐って真面目そうだし、早く起きるかなって」

「別に真面目なじゃいよ。いつも遅刻ギリギリ」

「あー、そうだっけ?」

「名前は憶えているのに、それは覚えてないんだ」

「一々行動を見てるってストーカーっぽいじゃん?」


 それもそうか。


「まあ、起きてきたしもーまんたいもーまんたい。もうちょいでできるから座ってて―」

「……わかった」


 味気ない食事は食べる気がしないからあまり食欲はないけれど、犬村さんの好意を無駄にするわけにはいかない。大人しく食卓に座る。

 すぐに料理が運ばれてきた。

 味噌汁にアジの煮つけと卵焼きというメニューだった。菜物はない。

 昨日も野菜は残していたし、結構偏食なんだろう。


 味がしないから別にどうでもいいけど。

 それより気になったのはこれらを作るための食材は、この家になかったということだ。


「これ、どうしたの?」

「ん? 買ってきた」

「その恰好で?」

「これしかないしね」


 犬村さんの恰好はぶかぶかのTシャツにただのスウェットパンツだ。

 下着をつけていないのは見ればわかるので、そんな恰好で外を出歩いたことに心底驚く。


「変態……?」

「はは。夏伐って素直だねー。もちろんこの格好なわけないでしょ。恥ずかしい」

「…………」


 どうやらちゃんと、昨日着ていた服で24時間のスーパーに買い物に出て帰ってきたらこの格好になったということらしい。

 より正確に言うなら買い物から帰ってから置いてある服に気が付いて、着替えたということらしい。


「ごめんごめん。ちょっとしたジョークだったんだって。まさか信じるとは」

「だって犬になるような人だし」

「あー、まあそりゃそうか。はは」


 犬村さんは良く笑う。

 まるで悩みがないように見えるけれど、犬になるくらいの悩みがあるというのだから人は見た目からはわからないものだ。


「それより食べて」

「……いただきます」


 アジの煮つけを一口、舌にのせる。

 味がない。

 バレないように噛んで飲み込もうとしたとき。


「おいしい?」

「うん、おいし――」


 その瞬間、わたしは押し倒されて口に指を突っ込まれていた。

 飲み込みかけたアジの煮つけを掴まれて取り出される。


「うっ……」

「ねえ、あんた、もしかして味感じてないんじゃない?」

「っ!?」


 バレたことに驚く。

 その反応を犬村さんは見逃さなかった。


「やっぱり。昨日ちょっと食べてる時から変だと思って確かめようと思ったのよ。勿体ないけど、この料理味がめちゃくちゃなのよね」


 犬村さんは言った。

 アジには、大量のデスソースを塗り込んであると。

 味噌汁には砂糖をたっぷりと入れているし、卵には柑橘系の果汁をたっぷりと入れてやった。


「だから、これを美味しいとかいう奴は頭がおかしいか、味覚がおかしいかだよ」


 ほらと手で持つわたしが飲み込みかけたアジを見せてくれる。

 ぎゅーと絞るようにすると赤い汁が出てくる。いかにも辛そうである。


「……別に犬村さんには関係ないから」

「そうだね、関係ないね。でも私は夏伐の犬だよ」

「だから何?」

「犬になった以上、飼い主を癒すのも犬の役目でしょ」

「そんなこともするの? 気楽だから犬になったのに?」

「だって、ご飯の度に辛気臭い顔されてたらご飯が美味しくなくなるしね」

「勝手だ」

「犬はいつだって勝手でしょ。さ、事情を話して」

「……条件がある」

「条件?」

「犬村さんも話して、犬になりたい事情」

「……それが筋か。うん、わかったいいよ。あんたに踏み込むんだし、私に踏み込ませないとね」

「律儀だ」

「不器用なだけだよ。じゃあ、あんたから」

「……おばあちゃんが死んでさ……」


 わたしは犬村さんにわたしのことを話した。

 今まで誰にも話したことがなかった話だから、自分でも意外だった。

 なんのかかわりもないのに一晩泊めただけでわたしは両親が死んで祖母に育てられたこと、その祖母が死んで味がしなくなったことを話した。

 わたしはそれくらいにはおかしくなっていたのかな。


「そっか、寂しいんだ夏伐」

「そう……なのかな……」

「そうだよ、それでストレスで味がわかんなくなったんだよ」

「……でも犬村さんがいても特に味はしないし」

「そりゃ一日で治るわけないでしょ。こういうのは気長にやるかガツーンと衝撃を与えるかだよ」

「……じゃあ、犬村さんの番だよ」

「……あー、話したくないなぁ」

「約束と違う」

「約束してないし? なーんて、嘘嘘。だから睨まないで。夏伐に睨まれるとこわいよ」

「早く」

「はいはい。えっとね、ママが再婚することになってさ」


 犬村さんは母親と二人暮らしをしているらしい。

 父親は離婚。良い父親だったけれど、母親とは合わなかったらしく犬村さんが高校に入ると同時に離婚したのだそうだ。


「本当はパパの方についていきたかったんだよね。でもママが許さなくてさ。養育費が欲しかったんだろうけど」

「……酷いね」

「酷いでしょ。こっからさらにひどいよ。離婚して一日もしないで次の男見つけてくんの」

「うわ……」


 思わずガチの声が出た。


「はは。そうなるよね。私もなった。んでー、まあそっからとっかえひっかえと」

「それで家にいたくないの?」

「うんにゃ? 違うよ。それが落ち着いたから家に居づらいの」

「落ち着いたから?」

「うん、ママが結婚したいって男を連れてきたわけ」

「それが酷い人とか?」

「いや? めちゃくちゃ良い人。金曜日にうちに来て土日でママとデートしたりとかしてるらしいんだけど。そのたんびに三万くれるの」

「すご……」

「お金持っててさらに性格も良くてね。再婚相手になると色々と気を遣ってくれてるっぽいし。だから、居づらい」

「気を遣わせるから?」

「それもあるし、気を遣うでしょ。離婚したばっかだし、新しいパパになるとか言われてもねぇ。気を遣ってばっか。私さ、気を遣うの苦手なんだよね。学校でも遣って、家でもだなんてまっぴら。だから、いつも外に出てるわけ」

「で、今週はわたしの家だったと?」

「そう」

「さらに犬になったって?」

「気を遣いたくなかったし。そしたら、なんか家にあげられて焦った」

「予定外だった?」

「別に友達じゃないし、周りに言いふらすような奴じゃないだろうから、開き直って気を遣わず遠慮せずにやってみたらなんも言われなくて案外良かった」


 わたしとしても家に人がいてほしかったというのもあるから気にしなかった。

 いや、無遠慮だなとは思ったけども。


「それは良かったね」

「うん、ありがとね夏伐。で、ありがとうついでにさ、あんたの味しない奴どうにかしてみる案があるんだけど、試す?」

「何やる気?」

「いいからいいからちょっと待ってて」


 わたしの返事も聞かずに彼女は再び台所へ向かった。

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