ちんどん

 知らない土地だった。そこまでどうやって来たのか分からないが、電車だった気がする。駅前だった。ロータリーは荒廃し、アスファルトの隙間から方波見が顔をのぞかせていた。ビルディングの塗装は剥げ、看板はひどく焼け切っている。タクシーが一台止まっていたが、私の視線を感じたのか、にわかに車を発進させ、それであたりは静かになった。腰を曲げた老婆が遠くからこちらを見ていた。

 駅前から走る大通の両脇はアーケードになっているが、店というものはなく、いまにも崩れ落ちそうなトタンづくりの家屋ばかりが並んでいる。人はひとりも歩かない。歩みを進めるうちに、なんだかとても心細くなってきた。歩いていけばどこかにたどり着くと思っていたが、この町はこの町だけで完結している気配を感じた。

 すると、ちんどんが来た。四辻の角から現れた。鳥追い笠の女たちが何人か騒がしくしていた。看板には何か文字が書かれているが、それを読むことはできなかった。日本語ではないのかもしれぬ。遠く西方の文字かもしれぬが、ちんどんたちは確かに日本語を話していた。しかしそれも、言葉ひとつひとつの意味は分かるのだが、束になれば決して意味をなさない。全額ヒクイドリ、輪郭泥棒、先日そこから四年の中間種、こどだま教えてドイツ帝国、林彪。まっすぐ立てない言葉たちが、誰もいない通りにむなしく響く。いな、私がいた。しかし、ちんどんはこちらに一瞥もくれないで、ずんずんと通りを渡る。なんとも長い人の列だった。通りを渡りきるのに、何分もかかっている。担い手はみな笠をしてたが、ひとりだけ、素顔の女がいた。よくみれば、馴染んた顔だった。女はむかし、学び舎を同じくした。たいして親交もなかったが、忘れることのない顔のつくりをしていた。ゆえに、間違うはずがない。

 女の名前を呼んだ。自分がその名前を憶えていたことに驚きもした。女の名前をまた呼んだ。女はこちらに一瞥をくれると、にこりと笑って、それからまた前をむいて、ちんどんの掛け声に戻っていった。

 ちんどんは行ってしまった。そうすれば、また、無人の通りに戻った。鳩が何羽か群れをなして低い位置を飛んでいた。よく見れば、そのうちの一羽は坊さんだった。袈裟は薄汚れており、禿頭にはだらしなく産毛が生えていた。坊さんは私を見るなり、ありがとうございますと言った。それから、通りの一軒の、すりガラスの引き戸を開けて、内へと消えていった。

 ちんどんの騒ぎはまだ耳の端に残っていた。追いかけることにした。どこを探しても、ちんどんの音だけは聞こえるが、彼らの姿は見えなかった。あきらめて座り込むと、小さな地蔵が目の前にあった。地蔵の眼から涙がこぼれ、地に落ちると、そこから、先ほどの女が生えてきた。

 ごめんください。

 女は頭を下げてとことこと歩き出した。どこへ行くのか後ろから声をかけても、振り返ることはない。その姿をおいかけると、やがて山へと入っていった。お待ちください、と振り返ることもなく女が言ったので、それからしばらく待ち続けていると、しだいに夜になり、それからしばらくして、東の空が白みはじめた。ようやく山から下りてきた女が、私に手渡したのは、ひとつの指輪だった。それは私が、彼女に一度だけあげたことのあるものだった。

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祭壇 百目鬼 祐壱 @byebyebabyface

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