もふもふの魔女

かわせひろし

もふもふの魔女

 森の中。街道沿い。

 緑の梢の上の青い空に、大きな、少し欠けた丸い星が昇ってきた。

 月ではない。

 もっと大きい。

 青く光って、白い雲が浮かんでいる。

 それはよく知っている星。

 地球だった。

 写真なんかで見るだけだった宇宙からの地球が、今自分の目前で輝いている。

 水戸みつみはその光景を見るたびに、ふつうの中学生の自分に似つかわしくない、とんでもない世界に来てしまったことを実感する。

 本当にちょっと前まで、ふつうに学校に通い、ふつうに部活に出て、ふつうに友達と遊んでいたのに、今や異世界の住人だ。

 空に浮かぶ地球はその象徴。みつみは足を止め、その姿に見入っていた。

 そこに厳しい声がかかる。

「みつみ、ぼーっとしてんな。さっさと歩けよ。お前が疲れた疲れた言って休んでばっかだから、まだ宿場に着いてないんだぞ」

「えっ、あ、ご……ごめん」

「こら、ササラ! みつみ様になんてことを! みつみ様は、まだこちらの暮らしに慣れてないんだ。仕方ないじゃないか」

 みつみは自分の側に立つ二人のお供に、視線を落とした。

 厳しい言葉を投げつけてきたのはササラ・スケトラネル。

 かばってくれた優しい子がアツル・カクノーブル。

 ササラは耳がピンと立った金色の瞳の、黒猫。

 アツルはたれ耳のクリクリした目の、白犬だ。

 いや、正確には似ているというだけで猫や犬ではない。何しろ、まっすぐ二本足で立って、言葉をしゃべっている。服もちゃんと着ていて、人間のようにふるまう。サイズ的には、小さい子供が着ぐるみを着ているみたい。

 この姿も、異世界に来ちゃったなあと感じさせる光景だ。

「お前がそうやってみつみを甘やかしているのも、遅れてる原因なんだぞ。このまま野宿なんてことになったら、どうすんだ。まったく先が考えられないバカだな、お前は」

「な、何だと! そんなこと言って、みつみ様に無理させて、疲れ果てて寝込んじゃったら同じじゃないか!」

「ちょっと歩いたぐらいじゃ寝込んだりしねえっての。本当に甘いなスカタン」

「何を!」

「ちょ、ちょっとダメだよー。ケンカしないで」

「お前が原因なのに、のんきなこと言ってんなよ。ケンカされたくなかったら、とっとと歩け」

「うっ」

「だからそういう言い方……大丈夫ですよ、みつみ様。マイペースで行きましょう」

 アツルは優しくて人なつっこいいい子。対してササラは生意気で当たりが強く、いつもきついことを言ってくる。

 何が起きているのか、まだ飲み込めていなかった最初の頃は、そういうササラの態度に、みつみはけっこうへこんだ。

 でも最近は大丈夫。

 ササラの弱点を握ったからだ。

「ササラ」

 みつみの声の調子に、ササラがビクッとした。ササラも学習しているようだ。

「私のせいで遅れているのはごめんなさいなんだけど、そのイライラをアツルにもぶつけるのはよくないと思うよ」

 そう言いながら両手をすっと前に出す。そして手のひらを上にし、わきわきと指を動かし始めた。

「ううっ」

 ササラはふらりと前に出る。

 そこでみつみは手を引っ込める。

 あっ、そんな、と表情に出した後、ササラはしまったという顔をする。みつみはにんまりと笑う。

「ケンカしないよね?」

「……善処する」

 そこでみつみはまた手を差し出す。そこにササラがあごを乗せる。指をわきわきと動かしてあごをなでてやると。

「ふにゃああああ……」

 ササラはすっかり体の力が抜けてしまう。

 これがササラの弱点。この誘惑に勝てないのである。

(本当に猫みたいだなあ)

 自分の手の上でゴロゴロとのどを鳴らすササラをながめながら、みつみもちょっとほっこりする。

 なによりササラの毛並みがいい。サイズ的には猫というよりは大きな山猫のササラは、毛もそれなりに長く、もふもふとした素敵なさわり心地だ。

 しばらく恍惚としたのち我に返ったササラは、のどをなでられすっかり籠絡されたのが恥ずかしかったのか、そそくさとみつみの元をはなれた。向こうで頭を抱え尻尾をくねらせている。彼のプライドに関わる大失態なのだ。

 その様子がちょっと可愛くて、みつみはきつく当たられても許せてしまう。

「みつみ様……」

 声をかけられ振り向くと、アツルがもじもじとしながら、期待のこもった目でこちらを見上げている。

「うん、おいで」

 これもササラを懐柔したあとの恒例行事だ。みつみが両手を広げてやると、アツルはうれしそうに尻尾を振りながら飛び込んできた。思う存分なで回してやる。やはりアツルも毛並みがよくてもふもふで、なでるみつみも癒される。

 地球がだいぶ高く空に昇り、そんな三人を見下ろしていた。

 この世界に、みつみはいわゆる召喚をされてやって来た。

 気がつくと、暗闇に光る魔方陣の中で横たわり、周りを不気味なフードをかぶった獣人たちに取り囲まれていたのだ。

 最初は何が起きたのかわからず、パニックになった。

 けれど話してみると、獣人たちはみつみを傷つけるつもりはなく、むしろとても優しかった。

 そう、獣人。

 この世界は、人のように直立二足歩行する動物たちが暮らしていた。ササラやアツルのような犬猫だけではなく、多種多様な民族で構成されている。町並みと暮らしは、地球の中世くらいの感じ。みつみを召還したように、魔法が存在している、剣と魔法の世界だ。

 彼らの世界には人間はいない。だが天空の星には、ヒト族が暮らしていると伝えられている。

 みつみはまた、空を見上げる。

 太陽は西に傾き、東の空はだいぶ暗くなっていた。地球が明るく目立っている。そしてその欠けた部分をよく見ると、うっすらと街明かりが見える。都市の明かりだ。

 地球の大都市は夜でも明るいので、それが宇宙からでも見えるのだ。

 今日の地球は明るい部分の方が多いのでよく見えないが、欠けた部分が多いときには、はっきりと陸地の形がわかる。海岸沿いに街が並んでいるからだ。

 日本は特に明るくて、くっきりと列島の形が見える。それをながめていると、みつみはちょっとホームシックになってしまう。

 空にかかっている星は明らかに地球だ。しかも街明かりの多さから、現代の地球だと思われる。だが地球から、今いるこの星は見えていなかった。それだけではなく、月の数も増えている。よく知っている本来の月以外にも三つの月があり、こちらの空はとても握やかだ。

 この惑星は、自分が地球にいた時にも空をめぐっていたのだろうか。他の星といっしょに見えないまま、私を見下ろしていたのだろうか。みつみは、ここは本当に不思議な世界だなあと思う。


「ああ、ようやく着いた」

 ササラがほっとした声でつぶやいた。すっかり日が暮れた中、地球の明かりに照らされた道を歩き続けて、ようやく先に宿場町が見えてきた。

「みつみ、耳はちゃんとしてるか」

「あ、うん。大丈夫だよ」

 みつみは自分の頭に手をやって、そこに付けられている付け耳を確認した。これがないと自分がこの世界の住人ではない、伝説のヒト族だとばれてしまう。するとちょっと困った事態になる。

 この世界にはいろいろな姿形の獣人がいるので、とりあえず耳が付いていればなんとかなる。最初にそう聞いた時には本当だろうかと疑ったのだが、実際今のところ何とかなっている。

 もう一つの方法として、ヒト族に似ているサル族のふりをする、という手もあると言われた。ただ無制限に伸びる髪がサル族とヒト族のちがいなので、髪の毛をなんとかしなくてはいけなかった。思い切り短くして丸坊主にすると聞いて、みつみは断固拒否した。ファッションでやっているお姉さんは見たことがあるけれど、今自分がやったら、ただの中学生男子野球部員になってしまう。みつみは野球どころか運動部でさえない、吹奏楽部員だ。丸坊主にするのはちょっと。

 ということで、付け耳作戦を選んだ。これならディズニーランドにでも来たような感じで、むしろちょっと楽しい。みつみの付け耳は犬っぽい立ち耳で、ちょっと先っぽが垂れているのが可愛くてお気に入りだ。


 宿場に着く。町としてはまあまあの大きさだが、道に人出は少なく、ちょっとさびれた雰囲気だ。

 ただ、おかげで宿は簡単に取れた。遅く着いたせいで部屋が空いていなかったらどうしようと心配していたので、みつみはホッとした。

「さあ、飯だ、飯だ」

 荷物を置くと、本当に心待ちにしていた様子のササラを先頭に、宿屋の一階の食堂に向かう。アツルも尻尾をぱたぱたと振ってうれしそう。もちろんみつみもおなかはすいている。さっきからみんなの腹の虫がぐうぐうと合唱しているのだ。

 席に着くとウェイトレスのイヌ族のお姉さんがやってきた。ここはイヌ族の町のよう。ちらほらといる他のお客さんもイヌ族だ。

「いらっしゃいませ。本日のおすすめはこちらになります。……あら、お客様、あまり見ないお顔ですね。どちらからいらしたんですか?」

「あ、えーっと、別の大陸から……」

 みつみはいつもの定番の言い訳を口にする。この世界は交通事情も地球の中世並み。現代地球のように飛行機が飛んでたりはしない。別の大陸と言っておくと、みんな行ったことがなくてよく知らないので、たいていごまかせる。

「あらあら、それはずいぶんと遠いところから。サル族に似てるけどちがうお顔立ちなので、不思議に思ったんですよ。ああでも、立派なお耳ですね。毛並みも素敵」

「ありがとうございます」

 この世界では耳がやたらとポイント高い。特に毛並みがいいとほめられる。

 その点でサル族は耳がつるつるでよくないという評判らしい。それを聞くと同じような耳を持つ人間のみつみはちょっとガッカリなのだ。本当の耳は二重の意味で見せられない。

「遠いところからいらしたのなら、こちらのお料理でお口に合わないものとかあったりします?」

「あ、だいたい大丈夫です」

「そうですか、それはよかった。それでしたらこちらなんかがおすすめですよ。この地方特産のお野菜を使ったシチューです」

「じゃあ、それにします。飲み物は……」

 みつみ一行は料理を注文。ササラは食事の時は上品で、わりと小食。アツルはその反対でガッツリ食べる派だ。二人ともいつもそれぞれおすすめの料理をおすそ分けしてくれるので、みつみもこちらの食事にすっかり慣れた。食材も地球の物と似ていて、食べやすい。

 料理が運ばれてくる。本当に地球のシチューとよく似ている。濃茶のデミグラスソースに根野菜がごろりとたっぷり入っている。食欲をそそるいいにおい。一口食べる。

「おいしい!」

 おすすめというだけのことはある。大きめにごろりと切った野菜はとてもやわらかく煮込まれていて、ほろほろと口の中でくずれる。田舎風の大雑把な切り方に見えて、これは野菜ごとに一度別々に下ゆでして、ねらったやわらかさが出るように調節している。全部がほろほろにやわらかいわけではなく、歯ごたえのある木の実などがアクセントを加えていて、細やかな仕事がほどこされている。本当においしい。

 ただこちらの料理には、一つ地球とちがうところがあった。

 入っているのはいろいろな根野菜。地球のニンジンやジャガイモに似たもの。アクセントの木の実。香りのよいハーブ。そして豆。

 見た目はビーフシチュー風だが、肉ではなくて豆である。

 たまたま、これが豆のシチューなのだということではない。他の料理をたのんでも、肉ではなく豆が入っていることが多い。この世界には動物、正確には哺乳類の肉を食べる文化がないのだ。

 だが、それは当然のことと言えた。だって動物たちはみんな獣人で、二本足で立ってしゃべっている。肉食をするということは、そういう人たちを殺すということになる。だから豚肉、牛肉、羊肉とか鹿肉とかは存在しない。

 みつみはもともとガッツリ食べるタイプではないので、そういうこってり系肉料理がないことはそんなに苦ではなかったが、さすがにたまには食べたいなと思うことがある。お母さんの作るハンバーグは大好物だった。

 しかしハンバーグを作るには、合い挽き肉がいる。つまりウシさん、ブタさんを殺し、皮をはぎ、肉を切り出し、その肉をミンチにしなければいけない。そう考えると、まるで猟奇殺人のようだ。ササラやアツルに言ったらびっくりされてしまうので、とてもではないがハンバーグが食べたいなんて言えない。

 それに対して、鳥や魚は地球と同じ、ふつうにしゃべらない生き物なので、そちらの料理は出てくる。鶏の香草焼きが来た。こちらは丸焼きの大皿料理。アツルはもうたまらんという顔をしている。やっぱり肉食獣なんだなあと思う。ガツガツ食べるアツルの様子がほほえましい。

 宗教上の理由で、牛肉、豚肉はだめだが鶏肉はありというケースは、地球でも見られる。ただ、みつみ的にはこの場合、相手がしゃべることによって罪悪感が生まれ、食べられない気分になっている。いつも何も考えずに食べていたけれど、他の命をいただくということが実は複雑な行為なのだと、こちらに来てから考えるようになった。

 川魚の料理も来た。こちらはササラが垂涎ものの一品だ。

 その皿をテーブルに置く時に、ウェイトレスのお姉さんの腕が、みつみの耳に当たった。

 ちょうどみつみが振り向こうとしていたので、勢いがついて付け耳がポロリと取れた。

 ウェイトレスさんはぎょっとした。

「耳が……! ちぎれて……! すいません、だ、大丈夫ですか! そんな、引っかけたつもりもないのに……!」

 パニックになるお姉さん。それは当然だろう。本当に耳がちぎれたのなら大事故だ。

「だ、大丈夫です。これ本物じゃないので」

「えっ?」

 お姉さんは床に落ちた耳を見る。カチューシャ式の付け耳だ。

「え、付け耳……? じゃあ、サル族の……? でもちがうわ、サル族はそんなに毛が長くないし……。って、もしかしてニンゲンですか?」

 おどろいたお姉さんの声に、辺りがざわめいた。みんながみつみの顔を見る。やっちゃったと、みつみはこれから起きる事態に身構える。

「ニンゲン……?」「ニンゲンだって……?」「本物? 本物のニンゲンだ!」

 食堂はあっという間に大騒ぎになり、みつみたちの座ったテーブルは人垣に囲まれた。

 ヒト族の伝承はこちらの世界各地に残っていて、獣人たちはみんな知っている。天空の星に住むという数々の伝説にいろどられた民族だ。そして単に伝説というだけではなく、みつみのようにたまに召喚される人がいるので、実在するということも知っている。

 伝承も悪い話が伝わっているのではなく、むしろあこがれの存在なので、身に危険がおよぶということはないが、大騒ぎになり人が集まり、身動き取れなくなってしまうのだ。

 今回もあっという間に、のんびりご飯を食べる雰囲気ではなくなってしまった。

 テーブルを取り囲むその中に、小さな子供がいて、みつみを期待のこもった瞳で見上げている。これはニンゲンのあの話を知っているなと、みつみは思った。手のひらを見せ腕を開く。

 するとその子は顔を輝かせて、みつみの懐に飛び込んできた。

 その毛並みを、みつみはもふもふしてあげる。子供はうっとりした顔。

 ヒト族は、魔法の手を持っているという評判なのだ。例の、ササラとアツルが骨抜きになったアレである。二人によると、みつみの手でなでられると、とてつもなく気持ちいいのだそうだ。

 これはたまたまみつみと二人の間だけの話ではなく、昔から伝承に残っているし、召喚された他の地球人もそうだったとのこと。それは神の手、魔法の手。その手になでられるとすべてを忘れる心地よさ、忘我の境地に至れる。

 みつみ的には人間の手がどうだというよりも、ここの獣人たちがなでられるのに弱すぎるのではないかと思うのだが、とにかくみつみの手は魔法の手、みつみはもふもふの魔女で、どんな獣人もいちころなのである。

 子供がすっかり骨抜きになった様子を見て、周りの大人の獣人たちも、もじもじし始めた。ニンゲンの魔法の手は大人気で、もし大勢の人がいたら、なでてもなでても終わらなくなってしまう。これが身動き取れなくなるということの正体。だから付け耳をしてヒト族であることをかくしていたのだ。

 ただ幸いこの食堂には、そんなに多くの客がいなかったので、みつみはサービスしてあげることにした。みつみ自身も、たくさんのイヌ族をもふれるなんて、ちょっとうれしい。

 おたがい存分にもふもふして、みんなすっかり打ち解けた。

「ニンゲン様は、どうしてここに来たのですか?」

 さっきの男の子は打ち解けすぎて、みつみの膝の上にちゃっかり座っている。さらになで回されてご満悦だ。そんな子供の質問に、みつみとササラ、アツルは視線を合わせた。

 みつみにはもう一つ、ヒトの使える魔法がある。そのためにこの世界に召喚され、この土地まで来たのだ。

「実はこちらに、トガビトが出ると聞いたのですが」

 ササラの問いかけに、人々の顔色が変わった。

「トガビト退治に来てくださったのですか?」

「ええ」

 それがみつみ一行の目的。いわば世直しの旅のため、みつみは呼ばれた。

「よかった! 本当に困っているんです。この宿も本来はもっと繁盛していて、この食堂もお客様でいっぱいになっていました。でもこの辺りにトガビトが出て旅人をおそうようになったので、人の足が遠のいてしまって……。町の人間もおそわれているんです。森に出かけることもできないし、隣町へ行くのも命がけなので、商売もとどこおっていて……」

 ウェイトレスのお姉さんが、身を乗り出してうったえる。とても深刻そうだ。周りの人もうなずいている。

 みつみは、任せてくださいという意思を込めて、うなずき返した。

「どの辺りで被害が出ているのか、くわしく教えてください」


 次の日、一行は宿を出て、被害が多く出ているという北の森へ続く街道を進んだ。

「見つかるかな」

「まあ、アツルがいるから大丈夫だろう」

「うん、任せてよ」

 そう言ってアツルは、クンクンとにおいをかいだ。アツルは特別な訓練を受けたイヌ族だ。もともと鼻は利くが、さらにトガビトのにおいをかぎ分けることができる。三日前、住人がおそわれたという場所に着くと、アツルはうなずいた。

「うん、確かににおいが残ってる。これなら追えると思うよ」

 アツルはごそごそと藪の中へふみこんでいった。二人も後に続く。

「みつみ、笛の用意はいいか? いつ出くわすかわからないぞ」

「うん、大丈夫」

 みつみは懐に忍ばせてあった小さな笛を取り出した。

 手を握ればかくれてしまうぐらいの、小さな棒状の笛。ホイッスルに比べれば大きい。でもリコーダーと比べるとはるかに小さい。

 それをすぐに吹けるように、みつみは右手に握り締めた。

「この辺、においが濃い。近いみたい」

 アツルがつぶやいた。ササラも辺りを見回す。

「あそこか」

 洞窟を見つけた。出入りしやすいように周囲が片づけられ、人の手が入っているのがわかる。風下から近づく。

「中にいる?」

「いいえ、においが残っていますけど、気配はしません」

「じゃあ、どこかにかくれて待ち伏せしよう。奇襲をかけるんだ」

 そのササラの言葉に、知らぬ声で返事があった。

「それはもう無理だな」

 その声に振り向くと、藪の向こうに人影があった。洞窟の風下から近づいたみつみたちのさらに風下になるので、アツルも気づかなかったのだ。

 シルエットはイヌ族だ。だが大きい。アツルどころではない。みつみよりもずっと大きい。サイズとしてはイヌというよりヒグマのようだ。

 しかもその体つき。ふつうの犬とはちがう。ずっとがっちりして筋骨隆々。そして顔つきも、大きく牙をむき出しにして、いかにも凶悪な人相だった。

 これがトガビト。

 彼らの背負った咎とは、「人食い」だ。

 心の奥底に眠る本能に逆らえず、動物の、つまり獣人の肉を食べるようになってしまった。

 そうするとなぜか、体つきも人格も狂う。怪物として生まれ変わってしまうのだ。

 肉を食べたというだけでそんなことになってしまうのは、みつみにとってとても不思議なことだったが、獣人たちも理由はわかっていないらしい。ただ、そういう者が現れたときの被害は甚大だ。

 一度獣肉の味を覚えてしまうと、もう我慢できなくなり、体力的に圧倒できるのをいいことに次々と罪を重ねていく。獣人の肉を食べるという強いタブーを犯す者はそういないので、滅多に生まれないけれど、一度そうなるともう引き返せない。

 トガビトはそこらの若木をつかむと、力任せにへし折った。邪魔な枝も次々に折り、即席の槍を作る。

 若木と言ってもそこまで細い木ではない。みつみだったら両手でないと握れない太さ。しかも生木は本来しなやかで折れづらい。それをいとも簡単に片手で折る力。みつみたちは、体力的にはとても太刀打ちできそうにない。

 しかもトガビトは今の姿になる時に、体のつくりもいろいろ変化している。その毛皮は毛の一本一本が太く硬くなり、まるで鎧を着ているよう。刀や弓などふつうの武器が役に立たない。

 この世界には魔法があるが、簡単に使えるものではなかった。杖をちょいと振るえば攻撃魔法が、というわけにはいかない。準備に時間がかかると、トガビトのような単体の動く標的相手には、むしろ使いづらかったりする。この世界の攻撃魔法は一部例外を除き、攻城戦等に使われる大砲のような性格のものだった。

 大砲は狩りには使わない。となると、トガビトには結局物理攻撃だよりになるが、その攻撃が通じない。通常であれば兵士を大量動員して、大きな損害に目をつむって仕留めなくてはいけない、やっかいな相手なのだ。

 つまり、たった三人でトガビト退治に来たみつみたちは、通常ではありえない構成だということだ。トガビトもこの三人が敵になるとは微塵も思っていない様子。だから声をかけて姿を現したのだろう。余裕たっぷりに近づいてくる。

「最近ちょっと食べ過ぎちまって、ここらに人が寄りつかなくなってなあ。ねぐらも変えないとダメかと思ってたとこなんだが、最後にエサの方から飛び込んできてくれるたあ、ついてるぜ」

 トガビトがニヤリと牙をむき出しにして笑う。みつみたちは洞窟のある崖を背にして逃げ場がない。絶体絶命。

 その時。

「みつみ!」

「うん!」

 ササラの合図とともに、みつみは右手に持った笛を口に運ぶ。そして曲を吹き出した。

 流れるような調べだけれど、テンポの速い曲。それと共に生まれる力が対象者を包み、あらゆるものをはね返す、護身の法が発動する。

 獣人たちの間に伝わる魔法の曲、イクサカグラ。

 この世界には、伝説によればヒト族が作ったとされる不思議な力を持った道具が存在する。この笛もそうだ。そして、この笛を吹くためにニンゲンが必要なのだ。

 ササラたちも音だけなら出せる。しかし曲を吹くのが難しい。獣人の口の形では牙の脇あたりから息がもれてしまうからだ。

 さらにこの短い笛は、リコーダーとちがい音階ごとに穴が空いているわけではない。息の吹き方、握る手のゆるめ方で微妙な音を調節する。みつみはその点、吹奏楽部なので、こういう楽器になじみやすかった。

 相手の打撃は、みつみのイクサカグラの加護で、ササラとアツルの体まで届かず、その数センチ手前ではじき返される。

「なんだこれは! くそっ、透明な鎧でも着てやがんのか!」

 その鎧を力任せに叩き壊そうとトガビトが大きく振りかぶる。そうなると今度は二人のすばしっこさが上回る。大振りの攻撃なら当たらない。

 そうやって二人がみつみを守っている間に、みつみにはもう一つ仕事があった。みつみは吹く曲を変えた。

 それはずっとゆったりとして、ピッチの変化も繊細。心を落ち着けるような曲。

 その効果は今度はトガビトに現れた。動きがにぶり、目をしばたたかせ、頭を振る。覚醒レベルが下がっている。

 今度は対象を強制的に常闇の眠りへといざなう曲、ネムリカグラだ。

「今だ!」

 ササラの合図でアツルも息を合わせて、小さな袋をトガビトの顔前に投げつける。起きているのが精一杯になってしまっているトガビトにはかわせない。

 それははじけて、中の粉がぶわっと飛び散った。吸い込んだトガビトの動きが止まる。ぐらりとよろめくと、地面にどうと倒れた。

 ぶつけたのは眠り薬。ネムリカグラに薬の重ねがけで、物理攻撃が効かない相手を行動不能にしようという作戦だった。

「よし、効いた!」

「ササラ、早く薬を!」

「よしきた!」

 ササラがさらに別の薬を取り出し、注射する。こちらも麻酔薬だが、中和剤を打たない限り効果が切れないという劇薬だ。副作用があるので、ふつう人には使わない、トガビト限定品。

「よし、これで回収班が来るまで目を覚まさない。一応しばり上げとこう」

「僕は人が入らないように結界を張ってくるよ」

 二人がてきぱきと後始末をしているのをながめながら、みつみはそばの切り株に腰をおろして一息ついた。繊細な操作が必要な神笛で、音階もピッチも複雑なカグラを吹くのは、けっこう疲れる。

 この神笛のような、ヒト族が作ったとされる不思議な道具。みつみを召喚した時にもそういう道具が使われた。寿命だったのかそこで壊れてしまい、帰りのゲートを作るためにはよその大教会へ行かねばならず、どうせ行くのなら道中トガビトを捕まえてほしいとたのまれたのだ。最近多く発生しているそうで、ここまでにすでに二人、捕まえている。

 トガビトはある種の中毒患者だとササラは言った。一度獣人の肉を食べて体が変わってしまうと、食べ続けなければいけなくなってしまう。

 教会はそんなトガビトを捕まえて治療しているのだが、成功率は低い。かろうじて中毒から抜け出せた者以外は死んでしまう。けれどそのままにしておけば、トガビトは獣人たちを喰らい続けるので、仕方がない。中毒治療で生き残れた者は、教会の監視下で罪を償うための厳しい禁欲生活を送る。

「みつみ様、お疲れ様でしたー」

 座り込んで様子を見ていたみつみの元へ、作業を終えたアツルがやってきた。

「さすがですね、みつみ様。素晴らしいカグラでした」

「うん……」

「どうかなさいましたか?」

「うん……。必要なことだとはわかってるんだけど、やっぱりこうやって人を捕まえるのは、ちょっとね……」

「でも、みつみ様のおかげで、この町は平和になりましたよ。みんな感謝すると思います!」

「うん、わかってるよ。ありがとう」

 それでもこの後のことを考えると、やはりみつみは気が重いのだ。トガビトは確かに罪を重ねた。だがその処刑人となる覚悟も責任も、ふつうの女子中学生には重すぎる。ため息をつく。

 するとアツルがさらに近寄ってきて。

 ぷに。

 みつみのほっぺたを両手ではさんだ。

 おどろいてみつみはアツルを見つめ返す。

「どうしたの?」

「いつもみつみ様がこうして優しくしてくれるので、僕も元気づけたいなって……。あ、でも、僕の手じゃ気持ちよくないですよね」

「……ううん、そんなことないよ。もっとして」

「えへへー」

 うれしそうにアツルはぷにぷにとみつみの頬をこねる。肉球の感触が気持ちいい。

 この世界に来た時、私が帰りたがっていると知って、みんなおどろいていた。今までの人はそうではなかったのだそうだ。もしかしたら、元の世界に未練のない人ばかりが呼ばれていたのかもしれない。もともと不思議な道具なので、そういうこともありそうだ。ただ、それだとみつみが呼ばれたのが不思議なのだが。

 これで無理矢理この世界にとどめられていたら最悪だったが、みつみを呼んだ獣人たちは、アツルのように優しかった。帰す手立てを用意すると約束してくれたし、手厚くお世話してくれた。

 家には帰りたいけれど、そのためにお別れするのは悲しい気持ちも、ちょっとある。

 みつみとアツルがおたがいになかよくもふもふしていると。

 その前に、ササラが立った。

 じっとみつみを見つめている。

「何? ササラ」

「……」

 ぶにー。

 急に両手を顔に押しつけられた。

「なっ、なんなの、ササラ?」

「……別に」

 プイッと横を向く。

(あ!)

 その表情に、みつみは気づいた。

 アツルみたいに慰めたつもりなんだ。

 獣人は顔にも毛が生えているので顔色はわからないけれど、ふてくされたようにそっぽを向くササラが、照れているのがわかった。

 素直じゃないなあ、もう。

 みつみの胸に愛おしさが湧き上がる。

 帰りたいけど別れは惜しい。

 相反する気持ちが、ますます抑えられなくなるみつみだった。

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