後世の評価:ウイキペディアより

 感想にて後世のウィキが見たいとのことだったので書いてみました


 ナポレオン・ボナパルト


「ナポレオン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ナポレオン (曖昧さ回避)」をご覧ください。


 ナポレオン・ボナパルト(フランス語: Napoléon Bonaparte、1769年8月15日 - 1841年5月5日)または、省略してナポレオンは、革命期のフランスの軍人・政治家である。


 フランス革命後、ほぼ無政府状態となっていたフランスの混乱を海軍提督並びに第一執政として収拾して、フランスを当時の覇権国家に導いた。


 家族

 父:シャルル・ボナパルト

 母:マリア=レティツア・ラモリーノ


 配偶者 :デジレ・クラリー

 子女 ナポレオン2世


 生涯


 生い立ち


 1769年、コルシカ島のアジャクシオにおいて、父カルロ・マリア・ブオナパルテと母マリア・レティツィア・ラモリーノの間に、12人の子供(4人は夭折)のうち4番目として生まれた。


 出生時の洗礼名はナブリオーネ・ブオナパルテ。


 これは先に夭折した子供と同名である。


 コルシカ島を追われてフランスで一生を暮らすと決めた1794年ごろに、ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテというイタリア風の名前から、フランス風のナポレオン・ボナパルトへと改名し、署名も改めた。


 ブオナパルテ家の先祖は中部イタリアのトスカーナ州に起源を持つ古い血統貴族で、記録上最古のボナパルトはグッリェルモ・ディ・ブオナパルテで13世紀の人物である。


 彼はイタリアのサルツァーナの貴族、法学士、公証人であった。


 後にフランチェスコ・ディ・ブオナパルテが1514年ごろジェノヴァ共和国の傭兵隊長としてコルシカ島に渡り16世紀頃に土着した。


 判事であった父カルロは、1729年に始まっていたコルシカ独立闘争の指導者パスカル・パオリの副官を務めていたが、ナポレオンが生まれる直前にフランス側に転向し、戦後に寝返りへの見返りとして報奨を受け、実質上フランス貴族と同等の権利を得た。


 旧ジェノヴァ共和国領であるコルシカ島には貴族制度がなかったが、新貴族としての身分を認められたことで特権を得てフランス本国への足がかりを得た父カルロは、やがてコルシカ総督とも懇意になり、その援助でナポレオンと兄ジュゼッペ(ジョゼフ)を教育を受けさせるためにフランス本国へと送った。


 ナポレオンは初め修道院付属学校で短期間だけ学んでいたが、1779年に貴族の子弟が学ぶブリエンヌ陸軍幼年学校へ国費で入学し、数学で抜群の成績をおさめたという。


 幼年時のナポレオンは、節約をかねて読書に明け暮れていた。裕福な貴族子弟と折り合いが悪かったためである。


 1784年、ナポレオンはフランスの海軍兵学校の試験を受けて無事入学し砲撃技術士官として好成績を収め、入学から約一年ほどで卒業した。


 卒業時の順位は下から二番目だったが本来は4年の課程を1年で卒業するのは異例な速度であった。


 1785年、学校を卒業。同年父、カルロ・マリア・ディ・ブオナパルテが病死した。


 海軍士官ナポレオン


 1785年にナポレオンは海軍の砲術少尉として任官し、2年が経過すると慣習に習い中尉相当の次級海尉に昇進し、更に2年で大尉相当の海尉まで昇進した。


 彼は地中海側の各地の海軍、駐屯地をまわったり、軍船へ乗り込んだりしていたが、度々の長期休暇をとってコルシカ島に帰って家族とともに過ごすことも多かったようだ。


 しかしながらこの間にすでにラザール・ニコラ・マルグリット・カルノーとの伝手も構築していたようである。


 カルノーは平民出身の将校で、後に革命フランス軍の軍制改革を主導し、「勝利の組織者」と称えられた人物でありフランス革命軍が勝利できたのはこの人物の存在にあるとも言われる。


 フランス革命


 1787年のブルボン朝の王権に対する貴族の反抗に始まった擾乱が、翌年の1789年にはフランスの全社会層を巻き込む本格的な革命の開始となりフランス革命が勃発した。


 1789年7月14日、バスティーユ牢獄を市民が襲撃した。


 1789年、フランス革命が勃発した。


ナポレオンは幼年学校時代にいじめなどを受けていたため、革命軍側について行動をした。


 ナポレオンは政治信条を語るボーケールの晩餐を著して、革命政府の有力者の一人ロベスピエールの弟オーギュスタンの知遇を得ていた。


 この頃、海軍士官の上級貴族は処刑されたり国外に亡命したりしてどんどん居なくなっていったこともあり、後に彼は急速に昇進し提督と呼ばれることとなる。


 ボナパルト一家のコルシカ島からの追放


 1792年から1793年にかけて、フランス革命の混乱に付け入って、イギリスに亡命していたパスカル・パオリがコルシカ島に帰還した。


 そしてパオリとその腹心ポッツォ・ディ・ボルゴらがイギリスの間接統治を主張するパオリ派を形成し、コルシカ独立戦争の英雄であるパオリ派の支配するコルシカ島から、フランスに寝返った裏切り者であり前のフランス総督とも仲の良いブエナパルト一族は追放された。


 コルシカに居場所をなくした一家は名前の読みをコルシカのよび方であるブエナパルトからフランス語読みのボナパルトと改め、一家は船でコルシカ島を離れフランス本土地中海沿岸ののマルセイユに移住した。


 マルセイユでは、ボナパルト家は裕福な商家であるクラリー家と親交を深め、ナポレオンの兄ジョゼフは、クラリー家の娘ジュリーと結婚し、ナポレオンもクラリー家の末娘デジレと恋仲となり、婚約する。しかしこの頃のナポレオンは貧乏な軍人であり、結婚は許されなかった。


 トゥーロンの英雄


 1793年ジロンド派議員の逮捕と粛清の後、フランスのリヨン、アヴィニョン、ニーム、マルセイユ各市が相次いで反乱を起こし、港湾都市トゥーロンでも、穏健派によるジャコバン派の追い出しが行われた後で多数の王党派によって占拠された。


 しかし、山岳派の派遣した革命軍によるリヨン及びマルセイユの奪還と、その後の山岳派によって行われた虐殺がトゥーロンのダンベール男爵に伝わると彼らはイギリス・スペイン連合艦隊に援助を求め、イギリスとスペインはイギリスやスペインを中心としたフランス包囲網の同盟国各軍からなる13,000人の軍隊を送り込み、ダンベール男爵はルイ17世のフランス王位継承を宣言して王党派の旗「フルール・ド・リス」を掲げ、トゥーロンの町をイギリス海軍に委ねた。


 この時ナポレオンはフランス革命軍の指揮官カルトー将軍の南方軍の麾下に加えられた。


 海軍であるナポレオンがくわえられたのは、単純に革命後のフランスにとっては士官が不足していたことと、この時地中海では運用可能な艦隊もないに等しい状況だったからである。


 地中海方面の重要な戦略拠点であり近代的城郭を備えた港湾都市トゥーロンはフランス地中海艦隊の母港でもあるのだが、そのトゥーロンの攻囲戦に参加することになった。


 そして、カルトー軍の配下の砲兵隊長の負傷によりナポレオンはオーギュスタン・ロベスピエールとアントワーヌ・クリストフ・サリセティの推薦も有ってその後任となった。


 当時のフランス国内情勢は、「フランス革命政府」対「反革命側反乱軍」およびそれに介入する第一次対仏大同盟諸国の図式があり、トゥーロンは、イギリス・スペイン・ナポリ王国艦隊の支援を受けた反革命側が鉄壁の防御を築いていた。


 革命後の混乱で人材の乏しいフランス側は、元画家のカルトー将軍らの指揮で、要塞都市への無謀な突撃を繰り返して大損害をこうむっているような状況であった。


 ここでナポレオンは、まずは港を見下ろす二つの高地を奪取して、次にそこから大砲で敵艦隊を狙い撃ちにする、という作戦を進言する。これはカルトーには改悪され失敗。彼は解任され、次に前職は医者だったドッペが指揮官となったが、彼も攻撃に失敗し自らの無能に気づいて辞任した。


 その後任の司令官であったジャック・フランソワ・デュゴミエはたたき上げの職業軍人で、ナポレオンの作戦を受け入れ、豪雨をついて作戦を決行し成功。結果としてイギリスの指揮官チャールズ・オハラ将軍を捕虜とし、諸外国の艦隊をトゥーロンから追い払い反革命軍を降伏に追い込んだ。


 その後トゥーロンではポール・バラスとスタニスラ・フレロンによる捕虜の銃殺もしくは銃剣での刺殺が行われ、王党派に協力した市民は大部分が虐殺され、財産を没収されたと考えられている。


 ナポレオンは作戦中にイギリス軍の軍曹の銃剣で負傷した脚の治療を受けていたため、この大虐殺には立ち会っていないとされる。


 ナポレオンはこの戦闘の功績により海尉から一度陸軍中佐に相当するフリゲート艦艦長に二階級特進した後、少将に再度二階級特進し、提督と言われる立場となった。


 さらに地中海方面海軍司令となりトゥーロン軍港とフランスの地中海艦隊を預かる立場になった。


 彼はトゥーロン軍港の海軍提督府にて製鉄所や造兵廠、海軍施設ドックなどを作ったり、船や砲、銃器などの改良を進めこれが後にフランス海軍を大きく強化することになる。


 この際ナポレオンは度量衡の新しい単位系であるメートル法の利用を徹底させることで品質の均一化も図った。


 テルミドールのクーデターとヴァンデミエールの反乱鎮圧


 1794年、革命政府内でロベスピエールがテルミドールのクーデターで失脚して処刑されたことで、ナポレオンはロベスピエールの弟オーギュスタンと繋がりがあったことにより逮捕、収監された。


 ナポレオンはパリの監獄に入ったものの短期拘留で開放され、そしてすぐに地中海艦隊司令官に復職することになる。


 しかし1795年、パリにおいて王党派の蜂起ヴァンデミエールの反乱が起こった。


 この時に国民公会軍司令官となったポール・バラスは、トゥーロン攻囲戦のときの派遣議員であったため、その時に知り合ったナポレオンを副官として登用し、実際の鎮圧作戦を副官となったナポレオンにほぼ一任した。


 ナポレオンは騎兵を走らせて大砲を抑え、革命広場に集結した暴徒集団を散弾の雨を降らすことで蹴散らした。


 こうして暴動は一日で鎮圧された。


 これによりナポレオンは中将に昇進し、さらに国内軍司令官の役職を手に入れた。


 1795年のヴァンデミエールの反乱鎮圧の成功によりナポレオンは「ヴァンデミエールの将軍」と呼ばれるようになった。


 デジレとの結婚


 1795年にナポレオンは、デジレ・クラリーと正式に結婚。


 彼はこの後、生涯彼女だけ愛し、愛人のたぐいは作らなかったとされる。


 アイルランド遠征


 1796年の春、総裁政府は軍事目標として、フランスの自然国境を回復することを決めた。


 ナポレオンはアイルランド遠征軍の司令官に抜擢され、ユナイテッド・アイリッシュメンと呼ばれるイングランド王国の支配に抵抗するアイルランド人とともにアイルランドのイングランド軍を攻撃せよとの命令を受けた。


 ナポレオンは地中海の海戦においてイギリス海軍のネルソン艦隊を新型コルベットにて打ち破り、2万の兵のアイルランドへの上陸は無事に成功した。


 その結果アイルランドはイギリス王国からの離脱を宣言し、アイルランド共和国の建国を宣言した。


 ナポレオンはこの功績により海軍大将へ昇進した。


 地中海制圧


 1797年よりナポレオンは地中海艦隊を率いてコルシカ、マルタ、サルディーニャ、シチリア、ナポリなどを制圧した。


 ナポレオンはそれらの地域の政治改革を指導した。


 フランス本土と同等な人権宣言を宣言、人間は生まれながらにして自由であり、権利において平等であるとして、今までの全ての貴族的封建的な領主権などの特権や奴隷制度を廃止、民法と家族法を構築し地方自治体を作り出して行政区分を明確にし、行財政を作り公正な税制度を決めた。


 また裁判官を指名し公正な裁判を行うものとした。


 更にすべての島民が受けられる初等教育を行う小学校と中等教育中学校などの学校を新たに設立し、公教育を確立させた。


 またこの頃発明家であるロバート・フルトンやニコラ・アぺールをその麾下に加えているようである。


 その後ナポレオンはアレグザンダー・フッドの艦隊を破り、ジブラルタルを攻略。


 ジブラルタルはスペインに返還されフランスはアフリカ側のセウタをスペインより割譲される。


 1798年にナポレオンがトゥーロンに戻るとフランスの国民はナポレオンを熱狂的に出迎えた。


 エジプト遠征


 1798年ナポレオンは東方遠征軍司令官としてエジプトをフランスの勢力下に治めよとの辞令を受けた。


 この頃のナポレオンの高まる名声に対して総裁政府が警戒感を抱いたこと。


 またエジプトをフランスの植民地にする計画自体は以前からあったこと。


 そしてイギリスを追い詰めすぎないようにと言うタレーランの進言によるものであったといわれる。


 ナポレポンは1798年の6月、戦列艦10隻、フリゲート10隻、コルベット10隻を護衛艦隊とした250隻の大輸送船団を率いツーロン港を出帆した。


 ナポレオン軍はエジプトに上陸し、アレクサンドリアを制圧。


 さらにフリゲートやコルベットと言った小型の軍用艦と比較的小型の輸送船を用いてナイル川を遡りカイロへ侵攻、マルムークを蹴散らしカイロを制圧した。


 ナポレオンはカイロに於いて内政を充実させることでエジプトの発展を進めようとした。


 マルタなどの騎士や貴族などに対して行ったようにマムルークの封建制度と特権を解体し、西洋式の病院を建て、行政組織を確立して、税制を整備し、人口調査も行った。


 その上で法律についてはイスラムの法律を尊重した。


 農業振興のために水路を整備し、小学校と中学校を建設して教育改革も行った。


 この時にナポレオンはロゼッタストーンを発見しヒエログリフの解読に成功。


 それにより古代の運河を発見し、それを整備して紅海と地中海を水路でつなぐことに成功した。


 インド遠征


 エジプトの統治を行っているナポレオンの元へインドでマイソールの虎と呼ばれるマイソール朝の君主ティプー・スルターンが訪問し助力を要請した。


 ナポレオンはそれを受けてインドへと向かう。


 ナポレオンはイギリスのウィリアム・コーンウォリス東インド艦隊を殲滅してウィリアム・コーンウォリスを降伏させる。


 そしてジョージ・ハリスの率いるイギリス軍とイギリスの配下に甘んじているニザーム藩王国軍、ジェームズ・スチュアートのイギリス軍を壊滅させインドにおけるイギリスの支配権を消滅させた。


 その後ナポレオンはインドの統治は友好国であるマイソール朝に任せエジプトへ帰国する。


 オスマントルコとの決戦


 1799年なると海上戦力を大きく失い窮地に陥ったイギリスはロシアやオスマントルコを巻き込んで第2次対仏同盟を成立させた。


 オスマントルコはフランスのエジプトとインド進出によりフランスと敵対する方針を明確とした。


 その他ロシア、イギリス、オーストリアがこの同盟には参加したが、オランダ、スペインはフランスと手を組んでおりスイスはフランスの占領下に有った、プロイセンは今回は中立をたもった。


 実質的にイギリスは地中海の制海権を失っていたがプロイセン、オーストリア経由でエジプトを奪ったフランスにたいしてオスマントルコを焚き付けることに成功した。


 6月にナポレオンはアレクサンドリアに到着したが、すでにオスマントルコもムスタファ=パシャが2万人の兵をロードス島を経由して運びエジプトの沖合いに姿を現していた。


 しかし、旧式化したオスマントルコの艦艇はフランスの海軍の敵ではなくオスマントルコの護衛艦隊はほぼ壊滅し2万の兵は大半が海の藻屑になる。


 ナポレオンはロードス島、プロス島とクレタ島を制圧し東地中海の制海権も手に入れた。


 しかし本国の窮地にナポレオンはフランスへ戻る。


 ブリュメールのクーデターと革命の終焉


 フランスの民衆はナポレオンの到着を、歓喜をもって迎えた。11月、ナポレオンはブルジョワジーの意向をうけたエマニュエル=ジョゼフ・シエイエスらとブリュメールのクーデターを起こし、統領政府を樹立し自ら第一執政となり、実質的に独裁権を握った。


 ナポレオンは軍事と内政の改革につとめ軍団制度を導入しようとしたがこれはモローの反対で一部しか実現しなかった。


 またナポレオンは今までマルタ島などのと地中海の島々などで行ってきたようにフランス民法典を制定し、民法と家族法を構築し、各地に残っていた種々の慣習法、封建法を廃止して、「フランス国民の万人の法の前の平等」を確立し、行政区分を明確にし、行財政を明確にして全国的な公正な税制度を決めた。


 また裁判官を指名し公正な裁判を行うものとした。


 更に公共教育法を制定しすべてのフランス市民が受けられる初等教育を行う小学校と中等教育中学校などの学校を新たに設立し、公教育を確立させた。


 その中には陸軍士官学校や幼年学校、海軍士官学校や幼年学校も当然含まれる。


 また戦場医学を教える軍医及び衛生兵の育成機関も創立した。


 また、度重なる虐殺などで壊滅的な打撃をうけた地方の産業全般の復興と振興にも力をそそいだ。


 フランス国内に世界に先駆けて鉄道網の整備や道路網の整備を行い腕木通信などの通信網の整備も行っている。


 そして、軍事での功績があれば出自に関係なく軍隊での階級は上がり、政治などでも王党派・ジャコバン派などの前歴を問わず人材を登用することで政治や行政に於いても左派右派の融和をはかった。


 フーシェに警察長官を任せ国内の治安の向上に勤め、タレーランには諸国との外交を任せた。


 また、この時にナポレオンはフランスの海外拠点となる場所であるアフリカ最南端のケープタウンや西インド諸島、北米大陸のフランス領ルイジアナ、オーストラリア大陸とニュージーランド、イギリスとの海峡にあるサン・マルクフ諸島を抑えている。


 またフランスの政教分離を徹底しプロテスタントの優遇を行うことで国外へ逃散したユグノーをフランスに呼び戻し証券取引所と会計検査院の設立を行い、公立の高等学校と大学の設立も進め、工業博覧会の実施を行い、陸海軍の軍隊を始めとする職業に制服の導入を行っている。


 パリの大規模な都市計画整備を行い、街の番地の整理、上下水道の整備や、噴水や広場なども整備していき、革命で荒廃したパリを復興させてもいた。


 甜菜糖を工業的に大量生産できるようにしたり、野戦病院における清潔さを保つことで病死者を減らす戦場医療などの改善も行われている。


 サン・ニケーズ通りの陰謀


 1800年の12月24日。


 今年は王党派によって爆薬によるナポレオンの暗殺未遂事件が起こる。


 しかし、被害は未然に防がれ爆弾テロ未遂事件の関係者はすべて逮捕された。


 そしてそれにはカドゥーダルに金銭的援助を行っていたイギリスの工作員も含まれていた。


 フランスの第一執政を爆弾テロで殺そうとした王党派とイギリスに対してフランスでは強い批判が起きた。


 1800年イタリア方面軍のオッシュ将軍とドイツ方面軍のモロー将軍の率いるフランス軍がオーストリア軍に大勝し、翌年2月にオーストリアはリュネヴィルの和約を結ぶ。


 そして、イングランドで四面楚歌のピットは、責任をとるかたちで辞任した。


 その後継者で対仏柔軟派のヘンリー=アディントンは首相に就任早々、フランスと和平交渉をはじめ、1802年3月にはアミアンの和約で講和が成立した。


 ナポレオンのフランスは国内の鉄道網の整備とスエズ運河の建設開始など海外航路の構築に力を注いでいた。


 軍政改革のため統合作戦本部を創設しアントワーヌ=アンリ・ジョミニを統合作戦本部の部長とした。


 第三次対仏大同盟


 1803年オーストリアがフランスに宣戦布告、それに続いてイギリスもヘンリー・アディントンが退陣し、ピットが復帰した上で、アミアンの和約を破棄してフランスへ宣戦布告し、同時にロシアとスウェーデンも宣戦布告。


 これが第三次対仏大同盟の成立で、これに参加した国家はイングランドおよびウェールズ連合王国、オーストリア、ロシア帝国、スウェーデン王国。


 フランスの同盟国はフランス、スペイン、ポルトガル、デンマーク=ノルウェー、オスマントルコ、アイルランド、スコットランド、エジプト。


 そしてフランスの占領下にあるオランダ、ベルギー、ナポリ、シチリア、サルディニア、マルタ、スイスなど、アメリカ、プロイセンは中立。


 しかし海ではシチリア沖海戦、陸ではアウステルリッツの会戦でフランス軍はオーストリア軍を破り、ウィーンを占領、オーストリアのフランツ1世の軍は北に逃れ、その救援に来たロシアのアレクサンドル1世の軍と合流。フランス軍はアウステルリッツの戦いでロシア軍を打ち破る。


 これによりフランスとオーストリアの間でプレスブルク条約が結ばれ、第三次対仏大同盟は崩壊し、これにより神聖ローマ皇帝フランツ2世は、神聖ローマ帝国の解体を宣言し、もはやほぼ名ばかりであった神聖ローマ帝国はここに滅亡し、オーストリアに統治されていた元ポーランド王国領はポーランド王国の首都であったクラクフを首都としてクラクフ共和国として名目上独立した。


 ブリテン島制圧


 1804年表向きはプロイセンが中心となって第四次対仏大同盟を結成した。


 この裏ではイングランドが動いていた。


 ナポレオンはイングランドの制圧を決定し、フランス軍はイングランドの海峡艦隊を打ち破りフランスによるグレートブリテン島への上陸作戦が開始された。


 アイルランドの義勇兵やスコットランド兵もスコットランド方面から行軍を開始し、フランス軍はまず、ドーヴァーへ上陸した。


 マクドナルド将軍率いるブリテン島制圧軍はイギリス陸軍を一蹴しその後ロンドンを制圧した。


 最もイングランドの王族貴族や亡命していたオランダ総督ウィレム5世、フランスのアルトア伯爵らブルボン家の一族などはすでにブリテン島からロシアに逃げ出していた。


 イングランド議会は解散され、内閣は自由主義的でアメリカ独立やフランス革命を支持し続けたチャールズ・ジェームズ・フォックスの息子であるチャールズ・グレイを首相とするホイッグ党を与党とした親仏政権に移行され、イングランドの立憲君主としてはジョージ3世は精神疾患により退位することになり、プリンス・オブ・ウェールズでありチャールズ・ジェームズ・フォックスとも親しいジョージ4世が即位した。


 これに乗じてスコットランドとウェールズはそれぞれ独立して独自の議会を持つことになった。


 第四次対仏大同盟


 1804年ナポレオンはオッシュ元帥をプロイセンへ送り出し、フランス軍は10月のテューリンゲンの戦いでプロイセン軍に大勝してベルリンを占領した。


 プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は東プロイセンへと逃亡する。


 1805年スウェーデンの国王グスタフ4世と側近のフェルセンが国外へ追放されスウェーデンがフランスの同盟国になった。


 フランスの海軍はデンマークの協力の元でバルト海へ突入し、ロシアのバルチック艦隊を一掃する。


 そしてフランス軍が東プロイセンに進軍するとポーランド人はフランス軍をロシアからの祖国の解放者として熱狂的に迎え入れ、ポーランド人の義勇兵も合流、そしてケーニッヒスベルグ手前のフリートラントの戦いにおいてオッシュ率いるフランス軍はロシア・プロイセン連合軍に完勝しケーニヒスベルクを陥落させプロイセン軍を壊滅させた。


 フランス陸軍と海軍、そしてスウェーデン軍は共同してロシアの首都サンクトペテルブルクを攻撃しそれを陥落させ、ロシア軍は壊滅した。


 ロシアの国境ティルジットにてプロイセン及びロシアとはティルジット和約が結ばれた。


 プロイセン及びロシアはポーランドより撤退してポーランドを独立させること、スウェーデンに対しては北方大戦争以前の領土をスウェーデンに返還する事が定められた。


 ナポレオンの勢力はロシアをのぞいたヨーロッパ全土を制圧した。


 パリ会議


 ナポレオンの提案、タレーランの主催によって1805年から1806年にかけて行われたパリ会議にはヨーロッパのすべての国や組織が参加したと言って過言ではなかった。


 これによりナポレオン戦争は終結し各国の国境線もほぼ決定された。


 詳しくはパリ会議を参照。


 その後のナポレオンはフランスの工業、芸術の発展に尽力しベートーヴェン、ショパンなどの高名な音楽家を輩出した。


 政界、軍部からの引退


 1809年にナポレオンは第一執政の10年の任期を終えフランスの政界からも軍隊からも身を引いた。


 彼は家族とともにコルシカ島に戻りその後はのんびり余生を過ごしたという。


 東アジアに対して


 ナポレオンは中国大陸にはあまり興味を示さず、フランスの占領下に有ったオランダと通商関係が有った日本に興味を示していたといわれる。


 しかし、日本側がフランスとの国交を拒んだためフランスは樺太を占領するにとどまった。


 評価と影響


 ナポレオンはフランス革命の時流に乗って軍権力を独占した独裁者ではあるが、その内政手腕によりフランスが世界一の大国に上り詰めた。


 彼は民法、税制、警察、教育などの改革者でもあり、彼の登場によりパリの衛生が劇的に改善された。


 また人命を尊重しフランスの総人口は劇的に減ることはなく、ヨーロッパ随一の国力をその後も維持し続けた。


 全ヨーロッパを制圧したナポレオンはフランス国民にとって絶対的な「英雄」とされ、祖国を解放されたポーランド人なども同じようにナポレオンを英雄とした。


 功績


 ナポレオンが地中海の島々で試し、第一執政に就任した後フランス本国でも広めた民法・行政・政治・軍事といった革新的な制度はその後のヨーロッパにおいても共通のものとなった。


 かつて古代ローマの法・政治・軍事が各国に伝播していったこと以上の影響を世界に与えたと見ることもできる。

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フランス海軍の栄光 海軍提督ナポレオンは世界を制する 水源 @minamoto1616

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