最終話:ナポレオンは世界を制する

 さて、パリ会議とそれに従った国家間の条約の締結によりヨーロッパには平和が訪れた。


 以降はおそらくアフリカの植民地化についてヨーロッパ諸国では争われることになるだろう。


 もっとも補給基地としてアフリカの重要な部分をすでに抑えているフランスはこれ以上アフリカに深入りするつもりはない。


 実際に交易の補給基地として必要な場所以外を植民地としたところでほとんど得るものはないのはわかっているしな。


 オランダやベルギー、イングランド、プロイセン、スペイン、ポルトガルなどがアフリカの内陸に手を伸ばすならそれを我々は横目で見ていればいい。


 大航海時代にヨーロッパ諸国はアフリカの沿岸部に植民地を獲得した。


 これは主にインドまでの航路上の拠点として港を確保する必要があったからだ。


 そしてスペインが南北アメリカ大陸新大陸のネイティブを虐殺して征服し、そこの金銀等の鉱山や綿花やサトウキビ農場を開くと労働力としてアフリカ人奴隷の需要が高まる。


 ネイティブはほとんど虐殺してしまったし、彼らには農業や炭鉱夫としてはあまり適性がなかったらしい。


 そこでスペインやポルトガルを中心としたヨーロッパ諸国はガラス製品、鉄のインゴット、酒、武器火薬などをアフリカに運び、それと交換に現地の有力者から奴隷を買い付けた。


 あくまでも沿岸の交易の拠点だけを植民地として支配していただけだったが、奴隷としてアフリカの人的資源が急激に枯渇し、それにより奴隷の買い付け価格が上がり、西インド諸島や南北アメリカの農業の生産量が増大することで砂糖や綿などの価格が低下して、奴隷貿易は利益が出なくなる。


 ならば現地の部族を通さず直接アフリカを支配すれば儲かると勘違いした結果、アフリカ内部に手を出した諸国は利益が上がらない植民地の維持に苦労することになるのだ。


 もっともアフリカへの進出は大衆への政治不満をそらす目的で行われていた側面も強いのだが、少なくとも市場としての魅力はないのは間違いない。


 私は国境線沿いの軍備はそれなりに固めつつも、フランスの治安維持を最優先に進めていた。


 特にラインラントやアルザス=ロレーヌの新たなフランスの住民達にはフランス人として一体化をなさねばならなかったからな。


 そんなことをしているとベートーヴェンが新たに「歓喜に寄せて」を私に献呈してきた。


(おお友よ、このような旋律ではない!)

 O Freunde, nicht diese Töne!


(もっと心地よいものを歌おうではないか)

 Sondern laßt uns angenehmere


(もっと喜びに満ち溢れるものを)

 anstimmen und freudenvollere.


 この曲は元々革命の時にフランスの革命歌であるラ・マルセイエーズのメロディーでドイツの学生に歌われていたものだ。


 しかしこの曲は難曲としても有名である。


 私は彼に言う。


「君の曲を演奏するためには音楽家や合唱隊の公的養成機関も必要かな」


 ベートーヴェンは頷く。


「そうですな。

 銃ではなく楽器を手に持ちそれを広める学校が必要な時代になったのです」


「そうだな、もはや銃の時代ではない。

 平和に必要なのは十分な食料と娯楽だ。

 そして芸術は心を癒やすためのものであるな」


「そうですとも。

 やはり執政閣下は素晴らしい方だ」


 私自身は芸術にはそこまで明るいわけではないが、彼がその後の音楽家に多大な影響を残したことは知っている。


 ならば彼の音楽活動を支援するのも悪くはないだろう。


 オーストリアではなくフランスが音楽などの芸術の中心となれるのであらばなお良い。


 フランス革命による国民に対しての徴兵制の実施とそれによる総力戦は国家の財政に大きな負担になることがわかった以上、少なくともヨーロッパでは当面は大きな戦争は起きないであろう。


 そしてフランスは世界の制海権と主要な拠点となる港を握り、世界を制した。


 暫くの間フランスの権益を脅かす国も出現はしないであろう。


 後はあの悲惨な革命を忘れずにいられれば、世界はしばらく平和になるのではなかろうか。


「まあ、アフリカやアメリカ、東アジアはそうは行かぬかもしれないが」


 一方ロシアはフランス、イングランド、スウェーデンなどの王族の亡命先として反動的な政治が行われ、民衆や軍部の不満はかなりのものになっているようだ。


 スウェーデン、ポーランド、オスマントルコの復活はロシアにヨーロッパやバルカン方面への介入の成功の可能性を限りなく低くした。


 そして、フランスのブルボン王家やイングランドの元王党派などを支持するものはもはやヨーロッパにはほとんどいなかった。


 彼らはフランスやイングランドに居たときと同じ待遇をロシアに求めたが、それが大衆などの怒りをかったのは言うまでもない。


 プロイセンは王家の力がそこまで削がれなかったこととフランスによって多額の賠償金が請求されたりしなかったことでオーストリアと同じく様々な改革が進まずに居た。


 そしてフランスとロシアに挟まれた地理の関係で軍備を再度すすめることになるのだが、そこでの革命もやはり進まなかった。


 そしてアルマダの海戦以降のスペインと同様イングランドに過去の栄光は戻らなかったのである。


 1809年に私は第一執政の10年の任期を終えフランスの政界からも軍隊からも身を引いた。


 すでに軍組織に関しては参謀本部制度は整い、私を絶対的に必要としなくなっていたし、政治家が長く同じ地位につき続けた場合必ず堕落するものだ。


 それが独裁的なものであればなおさら。


 新しい執政は普通選挙によって私の弟のリュシヤンがその地位についた。


 ボナパルトの血筋を期待されているとすれば彼はこれから大変ではあろうが、軍事はともかく政治手腕はそれなりのものを持っているであろうから期待するとしよう。


 無論何かあるごとに私と比較されるというのは大変なことであるがね。


 政界を引退した私はコルシカ島へ戻りのんびりと暮らすことにした。


 もちろん妻デジレや息子ナポレオン二世は一緒にコルシカへゆくし、従僕や召使、それに母マリア=レティツア・ラモリーノとも一緒に住むことになった。


 引退したとは言えフランスの重要人物ということで護衛もぞろぞろついてくるのはどうかとは思うがね。


「母上いままで色々苦労をかけましたから、これからはゆっくりしてください」


「ええ、そうさせてもらうよ。

 あなたには宮殿よりこちらのほうが心が安らぐでしょう」


「全くそのとおりです」


 1792年、私が23歳の時に一家揃ってコルシカを追い出された後、コルシカを占領した時に短い期間立ち寄ったことは有ったがゆっくり滞在するのはもう何年ぶりであろうか。


 私がやれるべきことはやりフランスは世界航路を制しヨーロッパ随一の大国となった。


 このあたりで休んでもバチは当たらないであろう。

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