夏は涼しくなる予定

『近年の急激な温度上昇への対処として、夏季には温度管理部署の人数を減らします』

 壁に貼られた別部署向けのお硬い文章を見て、「今年は涼しくなるのかな」と私はつぶやいた。算出したデータを見なくても、近ごろの夏の暑さは肌でわかっている。

 満タンまで給水した仕事道具を担ぎなおす。細長いノズルつきのタンクは、掃除機によく似ていた。他部署からつけられたこの部署のあだ名は『掃除屋』だ。仕事は床の掃除屋ではない。この重たくてかさばる道具は、仕事の当日に指定された場所へと雨を降らせるためのものだ。

 仕事場は雲の上だから、自分たちは地上で働く人たちよりも高所で働いている。高所のほうが涼しいというけれど、体感できる差はほんの少しだ。仕事の途中で偶然すれ違った送風部の友人に、「北風ひとつちょうだい!」とお願いして、内緒で風を吹かせてもらっても、真夏はやっぱり汗が止まらない。

 うだるような暑さをどうにかしてくれと、地上の人たちから訴えられるのは当然だろう。

「確かに暑いですもんね」

 隣を歩く後輩は、「どうなるんでしょうねぇ」と間延びした声を出した。雨を降らす部署には似合わない、おひさま色の髪を片手で掻いている。いつもの彼らしくない、真面目な顔で返事を考えていた。

「予想するに、今年も暑いと思いますよ。それも、ひっどいくらい。去年の倍ですかね」

「へえ。自信が大あり、って顔してる」

 少し見上げて彼の顔を見ると、優しそうな垂れ目を細めて、後輩は楽しそうに自分の目元を指さした。

「先輩だけに言うんですけど、ぼくは未来が見えるんです。この前も見事に当てたじゃないですか。先輩が仕事で怒られて、その結果ぼくに愚痴を言うまでを」

「それは知っててくれないと困るよ。そのミスの大元は、仕事の途中で私に話しかけてきたあなただったんだから」

「その時は、気を散らせて申し訳ありませんでした。でもわかってるんですよ。そうやって言いながら、先輩は結局許してくれるんですよ」

「それも見えた未来?」

 どこまで考えて、どこまで私をわかっているのだろう。どうなの、と問いかけると、後輩はわざとらしく首を傾げる。

 二人で並んで廊下を歩き続ける途中で、彼はちらりとこちらの足元を見た。

「先輩、もう一つ言ってもいいですか」

「うん?」

「転びますよ」

 それはもったいぶらずに、もっと手前で言ってほしかった。剥がれた床のマットにつまずいた私の手を掴んで、後輩は引き上げる。いたずらっぽく笑った後輩は、私の手を引いたまま歩き進めた。

「未来が見えるって本当に便利ですよね。どこでそうなるかはわかりませんけど、ぼくには先輩がもう一回転ぶ未来が見えたんですよね。残念なことに」

 いい感じに話を続けられて、なんとなく手を離す機会を失ってしまった。私は廊下を歩ききったあと、やっぱり今年の夏は涼しくなるんじゃないかと思った。廊下のマットは一度転んで以降きれいに敷き詰められていたし、もう一回転ぶ未来なんてきっとなかった。

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不思議なはなしたち 一軸 透色 @tsk1chi

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