不思議なはなしたち
一軸 透色
いたずらな雨
「ぼくは昨日、怒られてしまったんです」
隣で背中を丸めてうなだれて、心底話を聞いてほしそうに呟いたから、わたしはつい彼の顔を見てしまった。
わたしたちが座るふわふわの白いクッションは、一人で座るにはもったいない広さだった。だからこうして、毎日かわりばんこに誰かと座ることが多いのだけれど、どんな人が隣にくるのかは、その日その時になるまでわからない。
自分から話しかけるのも、人の話を聞くのも不得意なわたしは、静かにやってきて静かに去っていく人が好みだった。お互い集中して作業をして、言葉はないけれど「よくやった」という気持ちでお互い称え合えながら帰る。繋がりがあったのかなかったのかもわからない、そんな関係性が好みだった。
「まあ、自業自得でして、致し方ないんですが」
声を聞きながら、なんとなく自分の口が動いていないことを確かめた。うん、動いてない。話を続けてほしい、なんて促していない。
聞いてもいないのに、彼は話を続けていく。今日選んだこの席はハズレかもしれないな、と心の中でがっくりとした。
「何があったんですか」
興味はないけれど、早く話を終わらせるために仕方なく聞いた。早く話を聞き終えて、彼がここから離れるのが先か。あるいは、自分が今運んできた容器の水を、指定された場所に流し終えて仕事を終わるのが先だろうか。とにかく持ってきた仕事が終わったら、すぐに帰ろう。
「この時期って、ノルマが増えるでしょう? ぼく、どうしても早く帰りたくてですね」
自分の作業をこなしながら彼は、「わかるでしょう?」と言いたげにわたしの顔を見た。彼が掴む業務用の容器は、わたしのものと全く同じなのに、空なんじゃないかと思うくらい軽そうに見える。日焼けした手指で、バケツ型の容器の持ち手をしっかりと握り、たやすく傾けている。
「それで昨日、容器半分を午前と夕方に二回、なんて仕事があったんです。ぼくは規定量の二倍の量の水をすくって、指定された位置につきました。一日に同じ量があれば、ノルマ達成にしてくれるんじゃないかと思って」
それは違うだろう。弱火の四分は強火の二分とは加減が違うし、朝昼の分を夜に一気に食べるのも効果が違う。決められた量を時間を開けて分けたのは、それに意味があるからだ。
「……もしかして、レンジで三分だったら、ワット数を上げて時短したりしませんか」
「え? なんでわかるんですか」
というかなんで急に、と問い返してきた彼には答えなかった。いいから続けて、と無言の時間を作り出して促す。
わたしは自分の手元と、彼の手元をぼうっと見ていた。支給された専用容器たちから、絶えず水が注がれている。一定の量で、細かな粒子になって落ちていく。彼の注ぐそれは、わたしの注ぐ水の量よりも若干多い気がする。せっかちなのかもしれない。それか、他のやりたいことで、頭がいっぱいなんだろう。
「それで、昨日の話を続けるんですけどね。倍量を一気に注いだ結果、流入地点で相当な騒ぎになってしまったらしくて。夕方のニュースで取り上げられていたぞ! とかって、ぼくのところのリーダーが動画を送ってきちゃったんですよ」
「ずいぶんと情報が早いんですね。わたしのグループに地上の情報が届くのは、どれほど頑張っても夜か次の日の朝なのに」
「ぼくのリーダー、情報伝達部署も兼ねてる偉い人なんですよ。どうしてぼくがこのグループに入れたのかってくらい、すごい人で」
仕事のできる人を、指導役としてあなたにつけたかったんじゃないかな、とわたしは思う。いや、でも、それだけじゃないんだろう、と手元を見ながら考えなおす。多少手つきは雑だけれど、支給された専用容器の流量調節は一定でうまいのだ。
「見込まれてるんじゃないですか、きっと」
「いやあ、そうだと、うれしいんですけど」
「きっと、そういう怒られ方をしなくなるころには、料理もうまくなってるんじゃないかなと思いますよ」
「え? なんで料理が下手なのもわかるんですか」
「なんとなく、勘がするどい方なんです」
彼はよくしゃべった。話が終わるだけじゃなくて、仕事を終えるのも彼の方が早かった。まだいるのか、と目線を上げると、ここでの仕事が今日の最終業務だったらしく、「もうちょっと話してもいいですか」と脚を曲げて楽な姿勢になる。
話は予想外に楽しかった。彼の所属しているグループに変わった人が多いのか、それとも彼が話し上手で楽しそうに話しているせいなのかわからないけれど、わたしはもう、帰れとは思っていなかった。「そろそろ帰れ」と言いたげなのは、わたしたちの下で薄くなってきた白いクッションだ。
しばらくして、姿勢を変えようと立ち上がろうとした彼の足が、膜のような薄さになったそれを突き抜ける。「あっ」と声を出した彼が、「これってセーフかな、アウトかな、それともセウト」と笑う。そして、
「ところでなんですが、もうとっくにこの場所の業務時間が終わっていると思うんですよね」
彼は片足がはまったままの体勢で、あっち、と言いにくそうにわたしの後ろを指さした。振り向くと、大きな虹が出ている。どうしてこんなにきれいな虹が出ているんだろう。まって、そうか、わたしの持ってきた水が指定時間に終わらなかったからだ。
「どうしよう! 天気雨なんてすごく怒られちゃいますよ!」
話を聞きながら、注ぐ量が無意識に減っていたらしい。慌てて容器を引き上げると、彼はへへへ、と人なつっこそうな顔で笑っている。
「今度は、ぼくがあなたの話を聞く番ですね」
わたしは次に会えるときのことを考える。「昨日、怒られてしまったんです。あなたのせいで」と絶対に言ってやろう。それから次は、彼が天気雨を降らせてしまうような、とても楽しい話をしよう。
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