第4話 人材発掘

 人材、それはこの世で最も大事な存在である。ナポレオンがあれほどの戦争を起こしても経済、軍隊が崩壊せず、皇帝を退位するまで反乱がおきなかったのも各分野の人材が豊富であったから成せた技なのだ。人材の数、質においてもプロイセンは負けてはいない。しかし、彼らが国家に見出されるのが遅かっただけである。


 私は、この後活躍する各分野の人材を知っている。このアドバンテージを生かさない手はない。そして私は早速侍従にとある人物を宮殿に呼ぶように命じた。彼がフランスに行くのは夏なのでまだ彼はプロイセンにいるはずである。


 数日後、私の前には一人の男がいた。名前をフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベンと名のった。


 フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン 通称シュウトイペン男爵

 彼は将来アメリカ建国の父の一人となる人物である。彼の功績を一言言い表すなら

 大陸軍の構築である。


 まず、アメリカ大陸軍について説明する。アメリカ独立戦争当初13植民地には軍隊が無かった。正確に言うなら、民兵はいたが相手国であるイギリスのような常備軍が無かったのである。かし、大陸会議はこれではいけないと考え、4月23日マサチューセッツ湾植民地議会が植民地軍の結成を承認した。これを皮切りに。ニューハンプシャーやコネチカットなどでマサチューセッツに続き植民地軍が結成された。そして、第2次大陸会議で正式にマサチューセッツのボストン郊外ケンブリッジに在った軍隊(22,000名)とニューヨークにあった軍隊(5,000名)を大陸軍を承認した。 これが、大まかな植民地軍の成り立ちである。


 そして、話をシュトイペン男爵の功績に話を戻すと、彼は民兵隊を元に植民地軍を構築した。そして、参謀を育成し、火器の比率を改善し、戦術のマニュアルを作成した。最も特筆すべきなのは、マスケット銃の装填から発砲までの動作を12の動きに纏めたことである。これは、動作が多いように見えて、他の国の軍隊と比べて簡単かつ、動作の数が少ないのである。これ等の改革によって英国の常備軍と互角に戦える軍隊を構築したのである。


 もう分る通り、彼には将来我がプロセン軍の訓練方法の改革を任せたいと思っている。彼を私が登用することで、アメリカ独立戦争では植民地側が不利になるだろうが、旧大陸に位置する我々にはあまり関係がないと思う。なぜなら、あちらにはワシントンが居るからだ。多少戦争の期間が延びるだけで最終的には植民地側が勝つだろう。


 そうとなれば、彼には所帯を持たせてこの国に縛り付けなければならない。なぜかというと、この男はかつて思い付きで軍隊をやめてしまうということをやっているのだ。そして、ホーエンツォレルン・ヘッチンゲンの王宮で執事となった。この時に男爵位をおくられている。


 そして、早速軍隊に再び入隊させたいが彼は、現国王フリードリヒに厚遇されながらも、なんと無しに辞めてしまった男である。当然睨まれていて入隊させることはできない。なので執事として雇いたいと思う。もちろん、バカ真面目に執事業務をさせる訳がない。将来、父が国王になった時に軍事改革をするために色々と考えてもらう。


 彼との面談で将来、軍の高官の座を用意するとし、現状では、執事として雇うということで合意できた。


 私はさらにとある人物を呼び寄せることにした。彼は攻撃的な性格から前進元帥と称された男だ。こちらも中々破天荒な人物である。


 数日後、私が呼び寄せた男が来た。名前をゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル。スウェーデン王国生まれである。彼は先にも述べた通り、スウェーデン王国生まれである。彼は、プロイセン王国との戦いで捕虜となり、そのままプロイセン王国軍に入隊し、軽騎兵隊の下士官となった。勇敢な戦いで多くの戦功を立て出世していった。しかし、その性格故にある司祭への模擬処刑がポーランド反乱を支援したとみられ、少佐への出世が見送りとなった。彼はこのことに激怒し、無礼な辞職の手紙を送り軍隊を辞めてしまった。どれだけ無礼だったかというと、フリードリヒ大王が「フォン・ブリュッヘル騎兵大尉は破滅すればよい」と言うぐらいであった。そして、軍を飛び出して15年間田園で暮らし、フリードリヒ大王死後、軍隊に復帰し、とんとん拍子に出世していった。イエナ・アウエルシュタットの戦いの時には中将として師団を率いていた。そして、イエナ・アウエルシュタットの戦いの敗北後、リューベック近郊のラトカウで降伏した。理由は「弾薬の欠乏」である。(実際には名誉ある降伏するためである)そして、捕虜交換後フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が逃亡しているケーニヒスベルクに向かいそこで抵抗を継続した。、ティルジットの和約後反ナポレオンの急先鋒として愛国派のリーダーとしてみなされるようになった。1807年、ポンメルン軍司令官に任じられ、1809年、大将に昇進した。1812年、ナポレオンがロシア戦役の準備を進める中、プロイセンではロシアとフランスのどちらと同盟すべきかで国論が二分された。ブリュッヘルはロシアとの同盟を主張したが、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はフランスとの同盟を決定した。このためブリュッヘルは、ポンメルン軍司令官の職を解任された。ロシア戦役が失敗に終わると再び司令官に復帰した。そのあとは、プロイセン軍の司令官としてナポレオン戦争を戦い抜き、老齢を理由に退役し、シレジアに戻った。1819年9月12日、クリーブロヴィッツ(英語版)にて77歳で死去した。


 ブリュッヘルは粗野で無鉄砲で無教養だったが、親分肌な人物で度量の広さと人望を備えていた。勇敢さという点では並ぶものがいなかった。ただし、そのために戦場で冷静な判断を忘れ、猪突することもしばしばだった。突進が敗北に結びつくことも多々あり、軍事指揮官として最優秀とは言いがたい。特にナポレオンには正面対決でまったく勝利できなかった。しかし、彼は諦めということを知らない不屈の男であり、熱烈な愛国心の持ち主でもあった。敗北に打ちひしがれていたプロイセン将兵を叱咤し、鼓舞し、ついにナポレオンの打倒まで率いたのはブリュッヘルである。前進元帥という称号は、良くも悪くも彼の特質を良く表しているといえるだろう。


 そんな彼は将来、ナポレオンと戦うときに重要な将軍の一人となる。そんな彼を15年間遊ばせておくのはもったいない。彼は私の侍従武官として採用したいと思っている。シュウトイペン男爵に戦術のイロハを教えてもらおう。


 中々ブリュッヘルには渋られたが彼を侍従武官として採用することができた。このまま文武問わず将来有望な人材を採用していきたい。

 


 

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