パナセア

黒周ダイスケ

人間として。

 待ちに待った“特効薬”ができたらしい。


 でもそれは、意外なほどに広まらなかった。


―――


「『ゾンビから人間に戻せる薬』……っつってもな。あんま意味ないのよ。アンタもそのへんを分かってて来たものだと思ってたけど」


 男は椅子に座ったままグルグルと回り、ふざけたように笑う。

「だからこのケンキュウはとっとと見切りをつけられた。ここに残ってるのはサンプルだけだ。使い切ったら終わり」


 ワケを説明してほしい、というと、男は薄ら笑いを浮かべながら話しはじめた。本来は機密事項も混じっているらしいが、そのあたりはもうどうでもいいのだという。


「まず“なりたての奴”には効果がない。つまり噛まれた後にすぐ服用してもダメってこったな。完全にゾンビ化してからじゃないと」

「完全に?」

「そう。で、ここでネックになるのは完全なゾンビ化の定義だ。これが難しい。意思が残ったままのゾンビもいるし、ふつうの見た目に見えても理性を失ってるゾンビもいる。おまけにその進行度は人によって違う。三ヶ月くらい自我を保ち続けた例もあるかな」


―――


 ……あの人とはどうだろう。あの人は、もう自我を失って完全なゾンビになってしまったんだろうか。


 遡ること二週間前。


 自分が見ている前で、あの人はゾンビになってしまった。

 それを見た時はショックだった。ショックで、しばらく他に何も希望を見いだせないでいた。


 だからここに来た。ゾンビから人間に戻せる薬。少しでも望みがあるなら、何にでも縋りたいと思っていたから。


―――


「もうその時点でみんな気付いたのよ。一度なってしまったものは、元には戻らないって。なんだってそうだろ」

「なんで?」

「いやだからさ。わかるだろ。……手足やら内臓やらズタズタになってる奴に使っても、もう手遅れなわけ」


 男はぬるくなったコーヒーに口をつけ、言葉を繋げる。かつては真面目な学者だったのかもしれない。瞳の奥に沈んだ希望の残滓が、ほんの少しだけそこに見えた。


「五体満足ならどうなの」

「いやあ、意外とダメだ。筋肉やら神経やらがズタズタになってて、前に打った被験者は元に戻った瞬間に激痛にのたうち回って、そんで“また”死んだ」

「ボロボロになってなくても?」

 男はおもむろに拳を前に突き出す。

「人間ってのはホレ、身体が壊れそうな時には痛みで力をセーブするだろ。単にパンチするだけでもちゃんと力加減をわかって殴る。ゾンビはそれをしない。骨が砕けてても動きまわるし襲ってくる」

「……」

「ついでに内臓も不全状態でボロボロ。そんな身体を人間に戻したらどうなる?」


「……それは」


「ま、そういうこった。“人間として死ねる”。せいぜいそんなものでしかなかったってワケだ」


―――


 一度なってしまったものは、元には戻らない。

 時間が巻き戻らないのと同じように。


 でも。それでも。


―――


「意識は?」


「あるよ。それも元に戻る。脳さえブッ壊れてなきゃ。意外と残ってるものらしい。とはいえ投与の直後は重度の譫妄状態にあるし、だいたいはっきり取り戻す前に死んじまうから、これもまたあんまり意味がないけどな」


「……元に戻った時、目の前にいる人が、生前に強く思っていた人、だったら?」

「オイオイ、“愛があれば奇跡も起こせます”ってか?」


 男はまた笑った。でも、こちらは笑われようと構わない。


「まあ」


「うん」


「そんなに症例が多いわけじゃねえからな。俺にもわかんねえよ」


―――


「……それで。わざわざここに来たってことは、打ちてえ奴がいるんだろ」

「外に」

「もう連れてきてるのかよ」


 もし元に戻っても問題ないように、なるべく大事に扱った。暴れさせないよう縛り付け、この日まで、丁寧に。だから大丈夫だ。

 元に戻っても――ほんの少しの間だけは、こちらが分かるはず。


「繰り返すけど、今までマトモに戻れた例はないぜ。今回もそうなるはずだ。どうせのたうち回って苦しんで、人間として死ねるだけ。それでもいいんだよな」

「はい」


「で。いちおう聞いておくけど。そいつ、お前の何なんだ?」


「元カレ」


―――


「……あーあ。こりゃ完全にゾンビになってるな。臭いもスゲえ。まあ、こいつなら効き目はあるだろ」


 車椅子に縛り付けた“彼”を部屋に持ち込む。彼は今日も白目を剥いて、うーうーと唸るだけ。もう私のことなんて覚えていない。でも大丈夫。薬を打って元に戻れば、きっと私のことを思い出す。


「打った後はだいたい十分くらいで元に戻る。二次被害に遭うのもゴメンだから、俺は外に出る。何が起こってもいいように覚悟はしておけよ」


 男は注射器を取り出し、彼の首筋に打ち込む。そして部屋を後にする。


 好都合だった。少なくとも、最後のひとときを彼と過ごせるから。


 私は持ってきたバッグから刃渡りの長いナイフを取り出す。


 間もなく彼は人間に戻る。

 そうしたらやることは一つだ。






 ――私は、彼を殺す。人間に戻ったこいつを殺す。




 こいつは私との関係を何も精算しないまま、勝手にゾンビになった。私のことなんて無視してゾンビになりやがった。


 だから殺す。人間として殺す。


 間もなく彼は人間として目が覚めるだろう。臓器不全で激痛に見舞われようが知ったことじゃない。そうやって無様に足掻いて苦しむ様を見ながら、私はこいつを殺す。そのために私はわざわざここに来た。それこそが、私がずっと望んでいたもの。



 青紫の肌に、やがてほんのりと血が通っていく。


 一秒。また一秒。


 私はその瞬間を、いつまでも待つ。

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