ナメクジ逃げたし私も逃げた・私はそれを追いかけた

筏九命

ナメクジ逃げたし私も逃げた・私はそれを追いかけた

 どうして。どうして探そうと思ったんですか。私なんか、放っておくべきじゃないですか。どこに行ったところで邪魔になるなんて、私が一番よくわかってます。


 なんで、帰ろうなんて言ってくれるんですか。親切にしてくれるんですか。


 ねぇ、間宮まみやさん。あなたの優しさは、本当に嬉しい。毎日いっしょに暮らしてて、この人は根っこからいい人なんだなって、いつも思います。目に沁みるくらい、部屋の中には優しさがあふれてる。


 泣きそうになるんです。こんなにしてもらってるのに、私は何も返せてないから。


 だって私、働いてないじゃないですか。やってることは家事と、絵を通販で売ってちょっと稼いだ二万円を家に入れるくらいで。間宮さん、もう働いてますよね。家賃と食費と光熱費は間宮さんが払ってますよね。人がして当然のことをしてるくらいで、私は何もしてないのと同じじゃないですか。


 親子でもない、姉妹でもない。たまたま同じゼミにいただけの関係ですよ。同い年ですよ。間宮さんが私の面倒を見る義理はどこにもない。どこにもないのに、あなたはこんなにも親切にしてくれる。


 間宮さんの優しさが、私には苦しいんです。世話をしてもらってる身で、苦しいなんて思ったらダメなのに。それが余計に、私の情けなさを膨らませるんです。情けない。本当に情けない。人と一言も喋れないくせに、こんなことで饒舌になるのも情けない。


 こんな夜遅く、人気のなくなった公園なんて危ないですよ。危ないから帰ろう? ああそっか、私も危ないのか。じゃなくて。私に帰る資格なんてあるんですか。いい大人のくせして、人に迷惑をかけて。間宮さん、スーツのままじゃないですか。髪だって汗でぐしゃぐしゃだし。それだけ心配させたのに、当の私にはなんで怒らないんですか。


 やっぱり不釣り合いですよ。私と間宮さんは。


 ねぇ、間宮さん。どうして家賃が払えなくなった私に、いっしょに住もうって言ってくれたんですか。


 私、こんな感じだから就職は全然上手くいかなくて。だけど親は心配させたくないから、大丈夫なんて調子のいい返事をして。いや、心配じゃなくて、一人でも生きられるって見栄を張りたかっただけなのかも。はは。


 そんな自業自得で困ってたところに、間宮さんが声をかけてくれた。いっしょに住まないかって。


 嬉しかったです。私に真摯になってくれたのは、ゼミの先生ぐらいだったので。けど、同時に怖さも覚えたんです。ああ、もちろん間宮さんにじゃないですよ。あなたといると心が落ち着く。そんなの、今まで一度もなかったんですから。


 怖さっていうのは、私の意味不明な感性が、ようやく生まれた私の居場所を壊してしまわないか。


 間宮さんも、顔を凍らせてましたよね?


 ナメクジの入った虫カゴを持って、私が引っ越してきたことに。


 いいんです。気持ち悪いって思う方が正しいんですから。実際、私も半分は気持ち悪いと思って飼ってました。そもそもなんでナメクジを飼ってるか、教えてませんでしたね。わざわざ外で捕まえたわけじゃないんです。


 まだ大学生だったころ、部屋の廊下を這っていたのがあのナメクジでした。認識した瞬間、跳び上がりました。その日は窓もドアも閉まっていたはずなので、どこから入り込んだのかはいまだにわかってません。すぐにチラシか何かで追い出そうとして、ナメクジを目で追いながら武器を探しました。


 けど、どうしてなんでしょうね。ずっとナメクジを見てるうちに、そのナメクジが普通じゃないように思えてきたんですよ。体の太さは指の先くらいしかないし、触角もあるのかないのかはっきりしないし。ナメクジとしても未熟な存在で、外に追い出したところで死んでしまうんじゃないかと。


 自分に似てるって思っちゃうほど、卑屈じゃないですよ。


 それでも、追い出す気になれなかったのは本当です。


 レタスのプラカップで一旦捕獲して、次の日にちゃんとした虫カゴを買いにいきました。もう飼って一年ぐらいだったかな。私と間宮さんより半年だけ長いですね。


 私、ナメクジに安心するんですよ。脚がないから走らないし、羽がないから飛んでいかない。虫カゴのフタを押し開ける力もないから、ずっと中にいてくれる。


 将来どうすべきか不安になると、ナメクジを見にいくんです。ここにいるぞ。すぐに何かが悪くなることはないぞ。変化のなさにね、安心するんです。


 わからないですよね。気持ち悪いですよね。それでいいんです。間宮さんがナメクジを嫌ってくれて、安心しました。


 私の変なところを、変なところとして受け入れる人なんだ、って思えたので。


 そこから先は、私の努力が必要だったんです。


 私が引っ越してきた初日に、いくつか約束しましたよね。間宮さんは自分のベッドで寝て、私はロフトで寝る。自分のコップは自分で洗う。その程度の簡単な約束。


 ナメクジの管理は私がして、逃がさないようにする。


 間宮さん、本当に嫌ってましたもんね。もし脱走されたら、ナメクジが部屋のどこかを這い回ってることになる。それだけはどうしても嫌だ。その通りです。ナメクジがどこにいるかわからないって状況は、それを延々と気にして過ごすってことになりますもんね。毎日ナメクジについて考えなくちゃいけなくなる。私も嫌ですよ。


 だからね、間宮さん。ナメクジのカゴが空になってるのを見たとき、この暮らしも終わるんだなって思ったんですよ。


 今日のお昼でした。原因はよくわかってないんです。晩ごはんの買い出しから戻ってきて、部屋に入ったときでした。ベランダと部屋の境にある大きい窓。そのカーテンの陰にある台から、虫カゴが落っこちてたんですよ。


 間宮さんが前から部屋に置いてた、白くて小さな花の鉢植え。間宮さんが可愛いって言ってた、花の隣。そこを借りてたはずの虫カゴが、フローリングに転がってて。


 あれっ。おかしいな。なんでだろう。いくら考えても、思考がばらばらに砕けていくんですよ。


 前から風が、私の髪を撫でました。大きな窓、網戸のまま開けっぱなしにして出かけちゃったみたいで。今日は風が強かったなって、ぼんやりした思考が遅れて到着しました。ナメクジの虫カゴって、少ししか土入れないじゃないですか。餌とかも入れるけど、それでも軽いから。


 餌で入れてたキャベツの芯と、ちょっとの土と、飾りで入れてた葉っぱが、床にぶちまけられてました。水滴もぽつぽつ飛び散ってました。あとで拭かなきゃなってしゃがんで、虫カゴに中身を放り込んでいったんです。


 ナメクジがいなくなってるのに気づいたのは、そのときでした。


 なにより先に、間宮さんの顔を思い浮かべたんです。


 どうしよう。このままじゃいけない。部屋の隅から隅まで、ナメクジを探しました。何回か埃も吸い込みました。けど、どこにもいない。この部屋のどこかに消えた。まるで溶けたみたいに。いじわるですよ、そんなの。


 壊した。せっかく生まれた私の居場所を、私が壊してしまった。


 間宮さんが私を嫌いになる。あの凍りついた表情が、より外側に近づいてくる。


 わかってます。ああいや、わかってないです。わかったつもりになってごめんなさい。でも、間宮さんはそのことを知っても嫌な顔をしないって、それだけはわかってます。直感です。だって、間宮さんは親切ですから。


 その親切さに、もう頼りたくないんです。


 裏切りたくなかった。あなたが嫌う部分まで、あなたに背負わせたくなかった。あなたの嫌いをちゃんと尊重して、情けない自分を押しつけたくなかった。


 そうだ。じゃあナメクジなんてさっさと捨てればよかったんだ。あんな気持ちの悪い生き物。間宮さんが嫌うなら、甘えずに自分が変わればよかったんだ。


 意味不明な感性を守って、支えてくれる人をおざなりにする。


 それが私っていう、情けなくて気持ち悪い生き物なんです。


 ねぇ、間宮さん。もう私を嫌いになりましたか。私の思ってること、一つもわからないですよね。気持ち悪いですよね。それでいいんです。


 間宮さんは優しい人です。優しさを、頑張ってる他の人に使ってあげてください。他の人たちと幸せになってください。もったいないですよ、私には。


 さっさと私を追い出して、ナメクジの代わりに花を飾ってください。



 私もね、言ってなかったことがたくさんあるんだ。どうしてって、あなたは何度も聞いたよね。これがその返答になるかわからないけど、言ってみようと思う。


 驚かないで聞いてほしい。受け入れるかはそのあとで。身勝手なお願いだけどね。


 ねぇ、瀬良せらさん。私は、あなたが好きなんだ。


 うん。いきなりだから、びっくりするよね。ごめんね。けど、私も黙ったままじゃいられなくなった。しばらく話させてくれないかな。聞き流してもいいからさ。


 大学二年の学園祭だったかな。瀬良さんさ、教室借りて個展やってたでしょ。寄ったのは偶然だったと思う。友達が学祭運営の仕事に行っちゃってさ、一人で暇だったんだよね。そう、暇潰しだった。最初はね。


 圧倒、されちゃってさ。不思議な模様が刻まれた、大きなキャンバスに。灰色の背景に黒い筆で丸を積み重ねていって、一本の流れを作ってた。繊細なんだけどね、描かれてる丸は荒々しいの。知ってるよね、描いたのは瀬良さんだし。


 思ったんだよね。これを描いた人は、自分の気持ちに向き合い続ける人なんだろうな、って。一瞬ごとの機微みたいなものを、絵に反映できる人。私もアートとかは好きだけど、暗い画風ってそれまで好きじゃなかったんだよね。でも、瀬良さんの絵は違った。弱くない。貫くような強さがあった。


 ずっと絵を描いてほしいな、って思ったんだよ。


 覚えてる? 覚えてないか。私さ、びっくりして軽く跳び上がったんだよ。気配なんて一つも感じなかったのに、振り返ったら教室の隅に人がいたんだもん。


 黙々と、スケッチブックに何かを描いててさ。怖かったよ。あはは、ごめん。怖かったけど、見入っちゃった。人間が絵に何かを注ごうとすると、あんな真剣な表情になるんだね。私、知らなかったからさ。学園祭が終わってからも、しばらく記憶から抜け落ちなかったよ。


 考え続けるうちに、思い始めたことがあってね。


 瀬良さんをもっと近くから見続けるには、どうすればいいか。


 さっきさ、瀬良さんもナメクジの話をしてたよね。それと似てるかも。普通じゃないものを認識して、それを頭に置き続ける。そうすると、手放すのが惜しくなる。ああ、普通じゃないっていうのはね、異質ってこと。瀬良さんは私の世界に突然やってきた侵入者なんだよ。それも違うか。えっと、あー、ダメかも。上手く言えない。


 まぁ、最初から下心だったんだよ。そういう意味では。あなたと仲良くなったのは、あなたと仲良くなって私が満たされたかったから。


 ゼミが同じになって、チャンスだと思った。何を考えて普段生きているのか、その目で何を見ているのか。できるだけたくさん、瀬良さんを知りたかったんだ。


 この気持ちが何なのかは、私もよくわかってない。私が瀬良さんのファンなのか、瀬良さんが描く絵のファンなのか。一人の人間として、瀬良さんを愛しているのか。どう分類されるとしても、気持ちは本物だよ。それは自信を持っていえる。


 だからね、思うんだ。卑怯だなって。


 瀬良さんを私の家に招き入れたこと。何も言わずに、ただ親切な人のふりをして。


 ねぇ、瀬良さん。今聞いた話を知ってたらさ、瀬良さんは私の家に来たかな。


 答えられないよね。いいよ、答えなくて。引いてるよね、今。当たり前だよ。もし男と女だったら絶対にありえないよね。本性を隠して好きな人を家に住まわせるなんてさ。それと同じことだよ。


 どこかに行ってしまわないよう、私の家に住まわせて。虫カゴに入れるみたいに、遠回しの優しさであなたが逃げないようにして。正面切って気持ちを伝えればいいのに、それだけは伝えないようにして。


 瀬良さん。気持ち悪いのは、私なんだよ。


 大学生のころ、打ち明けた瞬間を何回も想像したんだ。何回も、私を拒絶する瀬良さんが現れた。そのたびに怖くなったし、きっとこれが現実なんだよねって思った。仲良くなったのに、これで終わりなんだ。二度と告白する前の関係には戻れないんだ。そう思ったら、告白する勇気が粉々になった。


 瀬良さんが住む場所に困ってるって話を聞いて、喜んでる自分がいた。最低だよね。瀬良さんには明日がどうなるかって問題なのに。でもね、たぶんそれが私の本心なんだよ。


 卒業してもいっしょにいられる。瀬良さんと同じ部屋で生活できる。瀬良さんが描く絵をこれからも見られる。描いてるときのあの表情を、もっと近くで見られる。


 気持ち悪い妄想が、現実に変わっていった。


 言わなきゃいけないってわかってたのに、私は黙ってあなたを誘導してたんだよ。


 これが、私が瀬良さんを探した理由。追いかけた理由。私は、あなたにいなくなってほしくない。それだけ。私の親切は汚れてて、私の優しさは曲がってる。この暮らしがこれで終わってしまうなら、言わなきゃいけないと思ってさ。私はあなたが思ってるより打算的だよ。


 ねぇ、瀬良さん。もう私を嫌いになったかな。嫌だよね、こんな欲にまみれた人間。気持ち悪いよね。いいよ、それで。


 その代わりに、もう一つだけ言わせて。


 ナメクジだけは本当に無理。瀬良さんは好きだけど、共感できない。


 あはは。何言ってんだろ私。わかんなくなってきた。でも、言わないと。正直な私の気持ちを全部吐き出さないと。瀬良さんがこれで終わりにするつもりなら、一生伝えられなくなる。


 お察しの通り、私はナメクジが大嫌い。見るのも嫌。虫カゴが視界に入るのすら嫌いだった。そこに存在しているって意識するだけでもダメなんだ。


 信じられなかったよ。ナメクジを連れて引っ越してくるなんて。瀬良さんの持ち物によくわからないものが入ってても驚かないつもりだったけど、予想外だった。話が違うって、瀬良さんが想像してる以上に拒絶してたかな。


 約束させたけど、好きになろうとはしたんだ。どのみちいっしょに生活しなきゃいけないし。安心するって瀬良さんが言うなら、それなりのよさってものがあるんだろうなって。無理だった。うねうねした動きとかまだら模様とかがさ、どうしても受け入れられなくて。安心しないし、見てるとぞわぞわした。


 ナメクジの持ち込み自体はまだよくてさ、問題は置き場所。私が育ててる花の隣にナメクジ置いたとき、ショックを受けたよ。この人、本当にわからない人なんだって。言ったじゃん、可愛い花ってさ。全部無視して、ここが一番見やすいからって虫カゴを置いたの、忘れてないよ。


 ナメクジを脱走させたこと、私は普通に怒ってるからね。


 窓の閉め忘れはさ、仕方ないよ。私がやらないとは限らないし。だけどこう、なんだろう。理屈じゃないところで、私は怒ってる。ナメクジが私の部屋を這い回るようになったのは事実だから。瀬良さんがナメクジを持ち込まなかったら、私の部屋はナメクジルームにはならなかったし。さっき想像したらね、本当に嫌だったんだ。しばらく熟睡できないかも。


 そのうえで言うよ。私は、あなたにいなくなってほしくない。


 共感できない部分だって瀬良さんの一部だよ。私の目を眩ませるくらい瀬良さんは魅力的だって、私は知ってるからさ。


 瀬良さんが描く絵には、ナメクジが必要なんでしょ。誰からも理解されないような、あなただけの視点が。捨てなくていいよ。っていうか、捨てないで。捨てたら今よりもっと怒る。ナメクジが部屋に潜伏されるより最悪だよ。私のせいで、あなたがあなたじゃなくなる。それだけは嫌だ。絶対に嫌だ。


 わからない。気持ち悪い。そんなあなたの感性と、その感性に向き合おうとするあなたが、私は好きなんだ。全部は理解できないけど、それでもあなたを放したくない。ナメクジは大嫌いでも、一瞬抱いた感覚を大切にする瀬良さんが大好きなんだ。


 ねぇ、瀬良さん。瀬良さんはさ、どうしたい?


 吐き出した通り、私だって気持ち悪いよ。親切の裏には下心があるよ。こうやって必死に食い下がってるのも、私が瀬良さんを失いたくないからで、きっとあなたを思ってじゃない。瀬良さんがどこかへ逃げ出しても、私はあなたの居場所であり続ける。簡単には壊れてあげないし、壊れるつもりもない。


 ねぇ、瀬良さん。私から逃げないで。私の後ろにある正しさみたいな何かに怯えないで。それは私じゃない。私だって相応に、汚れてるし曲がってるんだ。あなただけが間違ってるなんてこと、絶対にありえないんだよ。


 あなたが考えてるくらいの失望は、とっくのとうに受け取ってるから。


 私たちは純粋じゃないんだよ。純粋じゃないから、惹かれるんだよ。




 うん、うん。そうだね。面倒くさいねー、私たち。本当にうんざりする。なんでドラマみたいに綺麗じゃないんだろう。でも綺麗さだけだったら、私たちってもう死んでるよ。生きてるって言えないよ。たぶんだけどね。


 うん、わかった。ごめんね、いろいろ驚かせちゃって。やっぱりさ、今までみたいな距離感じゃいられないよね。わかってる。でも、嬉しいよ。


 ゆっくりでいいからさ。思うことがあったら逃げないで、私に相談して。私も、今までより素で話すから。


 ああ、そういえば。


 虫カゴ、もっといいやつにしなよ。今度は逃げ出さない、フタが頑丈なやつ。明日は休日だしさ、せっかくだから買いにいこう。


 逃げたナメクジを探し出せたら、大急ぎで出発しよっか。

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ナメクジ逃げたし私も逃げた・私はそれを追いかけた 筏九命 @ikadakyumei

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