涙を焼く

 寒くて寒くて夢だと分かった。寒気など火竜になってからは無縁だったから。

 それに手足には赤い鱗も大きな爪もなかったし、すぐ隣には震える手を抱きしめてくれるパパとママがいたから。優しく抱きしめてくれるから暖かくて、それだけで心がいっぱいにうれしかった。


 なのに急にパパとママの手が離れてしまった。呼びかけても辺りは真っ暗。傍にいるような感じもしない。もう一度大きな声を出してみたけど返事はない。


 一人ぼっち?こんな所で?


 思わず俯いたら、パパとママがそこにいた。一人ぼっちなんかじゃなかった。二人ともわたしの足元にうずくまっているだけだった。


 ここは寒いから抱きしめてほしい。


 そう思ってパパとママの身体を揺さぶると二人がコロンと転がった。

 見えた顔には、悲鳴が真っ黒焦げになって二人の顔に張り付いていた。


「ひっ」


 声を上げても何も変わらない。二人の顔は固まったまま、何も言わない。何も笑わない。死んでいるのだから当然だった。


「ち、ちがう……」


 何が違う?

 身を貫く寒さが?

 死んだパパとママ?

 わたしに向かって悲鳴を上げる二人?


 それとも、抱きしめてくれるパパもママもわたしが焼き殺してしまったこと?


「寒い、寒いよ……」


 いつしか爪も鱗も手足に生えていた。なのにこの寒さは消えない。

 せめてどっちかのはずだ。鱗か、寒さか。二つに一つのはずなのに。

 寒いのは、いい。温めてもらえばいいから。

 でも鱗はいらない、爪もいらない。これは、人を傷つけるから。


「いやだ、いやだ」


 爪を鱗の生えた肌に突き立てると鱗はボロボロと剝がれていく。でも剝がしても剥がしても剝がしても、その下から火の粉と共にまた生えてくる。


「寒いよ……」


 これだけ痛いのに、何度剥がしても鱗は生えてくる。

 ついに音を上げたのは私でも鱗でもなく、爪の方だった。鱗を何度も剥がす力に耐えきれず、根本からベリと剥がれた。

 けれでも、今度は爪が生えてきた。しかもさっきよりも大きくて、まだ剥がれていない爪と比べるとなんて不釣り合いで、醜いんだろう。

 よく見れば、搔きむしって生えなおした鱗も、最初より大きく、分厚い。


「いやだ!」


 どれだけ掻きむしっても鱗も爪も炎と共によみがえる。

 寒い。


「夢なら覚めて」


 絶えず生えて来て、広がっていく。


「夢なら覚めて……」




 †


「トゥルー!」


 雨に打たれながら、トゥルーの自傷をニアンは全く止められないでいた。雨避けのタープは防水性の石蝋が塗られているせいでよく燃える。うなされ始めた途端にトゥルーが吹いた炎でとっくに灰と散っていた。


 凄まじい力だった。ニアンの声は届かず、生人きじんでは火竜の膂力を止められない。なのにトゥルーは焦点の合わない目で意味のないうわ言を繰り返しながら一心不乱に両腕をガリガリと搔きむしるばかり。巌のように強靭な鱗が、木枯らしに吹かれた葉のように哀れに落ちていく。


 もはやトゥルーのうわ言は絶叫になっていた。

 鱗が剥がれ落ちた傷口からは炎が現れ再び鱗を象っていく。一見して破壊と再生に思える光景はその実、一方的な肉体の漏出だ。


「ごめん……!」


 鱗が剥がれてまた新しく生え直る前のそこに無遠慮に指を突き立ると、トゥルーが一際大きく叫び声を上げた。

 しかし今度はうわ言のそれとは違う。


「トゥルー! しっかりして、私じゃあなたを止められない!」


 顔を眼前に寄せたニアンに、ようやくトゥルーの目がピタリと合った。しかしその眼力は、病に伏せる老人のようにか細い。

 まさかと思ったのも束の間、トゥルーの脇腹を突き破って炎があふれ出した。傷口に手を当てれば、炎の結晶に守られたニアンの手は炎を水のように受け止めてトゥルーの体内へ戻そうとする。しかし零れているのはほんの一滴一滴ではなく、奔流なのだ。到底止めきれるものではない。


「放して」


 少女から出たとは思えない、洞のように空虚な響きだった。


「ダメ、こんなに、零れて……ダメなの、トゥルー、お願い、止めて……」

「いいの。こんなの……さっきよりどんどん身体が軽くなってる」

「違う! それはあなたを留めるために大事なものなの。お願い、このままだと、あなたがいなくなってしまう」

「うるさい」


——さっきからずっと、どんどん楽になっているのに。火竜でもないニアンに何が分かるんだろう。


 黙らせるにはこれしかないとトゥルーが息を吸い込んだ。

 喉奥で莫大な熱量が生まれつつあった。

 これは今までのどんな炎とも比にならない自信がある。

 だって、焼べるモノが違うんだから。


 生物としての肉体と魂を燃料にすることで生じたエネルギーは一個の存在が扱うには大きすぎ、解き放たれれば周囲を火の海に沈めて死と灰のみを残す。

 だが炎がトゥルーから炸裂する瞬間、ニアンはトゥルーに口づけていた。顔を逸らさないように両手で掴み、二人の唇が一分の隙間も作らぬように固く寄せた。


 全てはトゥルーの炎を一滴たりとも逃がさない為に。


 そして煉獄が余すことなくニアンの中に吹き荒れて炎の結晶の護りに食らいついた。


 ——熱い


 ニアンが炎の結晶を得てから一度も感じた事のない、ひどく久しい感覚だった。だが炎の結晶はニアンを守るべく、また一際強く輝きを増した。激しくまたたく輝きはまるで命そのものだ。


 輝きを増すごとに炎の味が分かる気がした。それは怒りではなく、悲しみだった。

 少女がこらえ切れずに吐き出した苦しみであり、切り裂かれた心が流す涙だった。


 もう熱くはなかった。体内に飛び込んできた炎の中で、トゥルーを作るモノがどれだったかさえ分かる。 

 燃え盛る炎と熱から切り分けると、肉体と魂だったモノが二人の口づけを介してトゥルーへ戻っていく。

 それは焼失した絵画の破片を灰の山から選り分けて元の一枚に戻すに等しい。

 だが一つ一つ、ニアンから送られるものを飲み込む度にトゥルーは自分だったモノが温もりと共に戻ってくるのを感じた。


 そしてトゥルーが吐き出した全てが戻ってきて、ニアンは唇を放した。

 奇跡を起こしたばかりのひとはただ、トゥルーを抱きしめ、涙を流していた。


「ごめんね……寂しいよね……悲しいよね……」


 火竜でもないニアンになにがわかるんだろう、と言った先の自分の言葉をトゥルーは思い返していた。

 きっと生人ニアンには火竜の事は分からない。

 そんな『生人あなたには分からない』という言葉をいったい何度ニアンは繰り返されて来たんだろう。


 助けに来たと言った優しさも、寂しいよねと流す涙も。その下に眠るのは氷に閉ざされた大陸よりも壮絶な孤独だ。


 ニアンの抱擁が今までよりもっと深い自分の奥底を抱きしめている感覚があった。トゥルーが抱きしめ返すと、もう熱くはなかった。

 本当に暖かくて、こんなにうれしいのに、涙を流して背中を震わすニアンの姿に悲しみが止まらなかった。


 他人の寂しさにこれほどまでに寄り添える人は、一体どれほどの寂しさを抱えているというのだろう?


 ただトゥルーに分かるのは、かつて彼女の前から火竜が消えたように、自分もニアンと共に歩んでいける生命いのちでは無いということだった。


 この心も体も、炎に吐き捨ててしまった方がきっと楽だったのに、どうしようもなく温もりを求めて、応えられない想いに苦しみながら身を寄せ合っていた。

 降り続ける雨を蒸気に変えながらただ涙だけは止まることがなかった。

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涙を焼く 沖 一 @okimiyage

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