炎の結晶
全ての人が獣象を発現させる。
部位や何の動物かは人様々だが、成人を迎える頃には現れるそうだ。
だが
どれもトゥルーがいつかに聞いた事だった。『トゥルーが成人になった時に祝福をくださる街の司祭様はみな
その事を聞いた時はいつか街に行けると胸を躍らせていたトゥルーも、今は『獣象がない身体』という言葉だけが頭の中で繰り返されていた。
「ニアンは、
「そうだよ」
あまりに呆気なく得られた答えにトゥルーは何と言えばいいのか分からなかった。
目の前のニアンを見ても司祭様という言葉が持つ厳格さや、長い時に擦り切れた老獪さなどから遠く離れた若い女の顔があるだけだ。
ニアンは大事ではない風に鍋をかき混ぜながら時折タープの外を見ている。陽が沈む頃から降り始めた雨はまだ強く、タープが弾く雨粒の音が沈黙に響いていた。
「炎が平気なのも……
「それは別」
ニアンはほんの一瞬だけ動きを止めたように見えたが、それでも隠すわけでもなく自身の胸元をトントンと叩いた。
彼女の裸体が
「昔にあなたと同じ火竜の友達がいたの。彼女が最期にこれを私に遺していった。……それ以来、炎も熱も私を脅かした事はない」
「……ともだち」
「うん、本当に……いい友達だった。もう、70年も前になる……ほら、食べよう」
ニアンが差し出した粥の入った椀をトゥルーはゆっくりと受け取り、食べ始めた。
しかし少女の顔は気のせいでなく確かに暗く、揺れる焚き火を見つめてただ雨音の沈黙を聞いていた。
匙が動いているので食欲がない訳では無さそうだったが、それでもただ事と済ませそうなものではなくニアンは「どうしたの」と声をかけた。
「わたしニアンが火竜なんだと思ってた」
手を止めたトゥルーの瞳には炎にきらめく涙が溜まりつつあった。立ち止まれば零れてしまう事を知っているようにトゥルーは一息で話しだす。
「炎が平気なのも、しっぽの泳ぎ方を知ってるのも、ニアンが昔は火竜で今は獣象が消えたんだと思ってた」
「……獣象は進む事はあっても消えたりは」
「うん、わかってる。でもニアンが炎を裂いて『助けに来た』って言った時、わたし、やっと、終わるんだって……」
椀を置き、顔を両手で覆ったトゥルーの肩をニアンは抱き寄せた。嗚咽を漏らして肩を震わす少女に今、彼女ができる事はあまりに少なかった。
だが下手な慰めに意味が無い事ははっきりとしていた。少女は火竜の獣象に一生向き合う必要があるのだから。
「あなたの獣象も消えることは無いと思う。これ以上進行しないことも無いと思う。だけどあなたに起こる変化と、変化が及ぼす影響から逃げることは出来ない。私たちは一生をかけてそういうものと付き合う必要があるの」
「……
「私もある意味では変化から逃げられない」
その言葉を聞いたきり、トゥルーは何も言わなかった。ニアンがトゥルーの肩を叩いて「もう寝たほうがいい」と言った時も少女はすぐには反応をみせなかったが、やがて敷いてあった毛布の中へ入った。ニアンには背を向けたままだった。
ニアンはそれから、しばし一人で炎を見つめていた。見つめられた炎だけは彼女の瞳に宿る悲しみに気づいたかもしれない。しかし炎は何も言わず何も応えない事をニアンは知っていたので、ニアンはやはりただ黙って炎を見つめていた。
やがてニアンも眠ろうかと立ち上がった時、「ニアン」とトゥルーが呼んだ。もしかしたら聞き逃していたかもしれない小さな声だった。
「眠れないの?」
「いっしょに寝よう」
トゥルーは毛布の片隅に身を寄せてちょうどニアンが入れそうな隙間を作っていた。ニアンを見上げる少女には誘った側にも関わらず幼さが持つ怯えと迷いがあった。
トゥルーの隣に行くのに首肯さえ必要なかった。ニアンがそこに身を横たえると、まだ夏の来ていない肌寒い雨夜の中に火竜の体温が作り出す独特の暖気がふわりと抜けた。
ニアンの腕の中で火竜の体温を放つトゥルーは「眠れないの」と小さく呟いた。まだ弱まりそうにない雨音の中、ひっそりとした声だった。
「わたし、ニアンといきたい。わたしを連れてって」
ニアンに抱き着くトゥルーの腕は硬く、強張っていた。少し、震えてさえいる。
まだ幼さの残る少女の身体に宿る悲しみを見てなお断ることなど到底できはしなかった。
「いいよ、行こう」
そう言って抱き寄せるとトゥルーもまた一層強くニアンを抱きしめていた。悲しみに耐えているのだろうか、ニアンの腕の中でトゥルーの体温が上がっていくのを感じた。
トゥルーの獣象の進行速度は尋常ではない。共に行こうと言ったニアンではあったが、彼女の残酷な理性は到底
どうかこの子を待つ運命が少しでも過酷ではないようにと願い、トゥルーの孤独な体温を感じながらニアンも目を閉じた。
トゥルーの体が跳ねた。トラバサミに掛かった獣のように、ニアンから逃げようともがく。悪夢にうなされるには早すぎてニアンが戸惑っている内にトゥルーは何度も叫ぶ。
「熱いっ」
とうとうトゥルーはニアンから飛び退った。少女は痛みに耐えるように自らの体を抱き、そんなトゥルーにニアンは近寄れずにいた。
熱さなど火竜には無縁のはずだった。ましてや炎どころか、トゥルーの傍にはニアンしかいなかったというのに。ニアンもトゥルーも、二人をして全くの未知だった。
だがトゥルーがゆっくりとニアンの胸元を指せば、彼女も自身の服の下、左胸の辺りから光が漏れている事に気が付いた。
ニアンが襟元を引っ張って下げると、あの宝石が輝いていた。
しかし湖の時に見せた輝きとはまるで違う。光は、剣が血を浴びて現す本性のように暴力的だった。
もはや宝石とは呼べない、火竜の忘れ形見。
炎の結晶と名付けられたそれはニアンに降り掛かるあらゆる熱を防ぐ盾であると同時に、炎を切り裂く剣であった。
ニアン自身、それが炎を傷つけているなどと考えた事は一度もなかった。
けれど今、確かに火竜の少女は傷つき、震えていた。
「どうして」
「違う、私じゃない!」
ニアンの叫びは真実であり、トゥルーも真実だと分かった。だがその真実はどうしようもなく、トゥルーへの裏切りを含んでいた。
だからトゥルーはそれ以上、何も言わなかった。けれど決して目を合わせることもなかった。少女はそのままニアンに近付くことはなく、寝床から離れてただ雨が当たらないというだけの地面にうずくまり、そのまま眠った。
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