リ・ハモニアン・ベルスズク

 泣き腫らした顔で少女は眠っていた。

 無垢な幼さを見せる寝顔は先の大立ち回りとはまるで結びつけ難い。だが岩から削り出したような爪や丸太のような尾が、少女がどのような存在かを雄弁に語っていた。


 その少女の意識がゆっくりとうつつに戻りつつあった。少女ははじめに女の浅い息を聞き、次いで体が揺られているのに気がつき、少女は自分が背負われていると分かって目を覚ました。

 森の中だ。


「お目覚め?」


 身じろぎで気がついたのか、少女を背負う女が尋ねる。誰かと思ったが、その声と灰のような髪色に少女は眠る前の光景を思い出して女の顔を頭の中に描いた。背負われたままに頷くとそれで伝わったようだった。


「よかった、私はニアン。あなたは?」

「……トゥルー」

「いい名前ね、トゥルー。気分はどう?」


 その質問に少女は少し困り、眉を寄せた。

 なにせ気分は全く良くない。全身が怠く、特に手足の爪や鱗、それに尻尾が酷く重たかった。

 だがニアンはまるでそれごと見透かしたように言う。


「あなた、火竜の獣象が出たのは最近でしょう」


 その通りだった。そして何より、トゥルーの姿を獣象の一つとして知っている事に少女は驚いた。鱗の生えた少女を見て獣象と断ずる者は一人もいなかったし、名前があることさえ知らなかった。


「あれだけ炎を出したのは良くないね、熱がこもって体が重くて仕方ないでしょう。まずは冷やさなきゃ、立てる?」

「……うん」


 ニアンがトゥルーを下ろした目の前には森が開け、木々ではなく静かな湖面が広がっていた。まだ夏も来ていないこの時節ならば確かに冷たいだろう。だが、だからといって今の自分が冷やされなければいけないとはトゥルーにはどうも考えづらかった。


 しかしニアンの中ではもう決定事項のようで少女を背負う為に前にしていた背嚢を下ろしながら、ただ立つばかりで動かないトゥルーを後ろから見ていた。


「泳ぐのは初めて?」


 初めてではない。川遊びなら夏が来れば毎日のようにしていた。だがそれも火竜の獣象が出る前の事だ。こんな爪や尾が生えた身体になってから泳いだ事は、まだない。

 躊躇いを見せる少女の肩に優しく手が置かれた。手はすぐに離れたが、トゥルーが見上げればニアンが隣で服を脱ぎ始めていた。


「一緒に泳ごうか」

「へ、へいき」

「そう?」


 とニアンが言った時には既に上を脱ぎ終えていて、トゥルーも追いかけるように服を脱いだ。それでもトゥルーが着ていたのは服とも言えないボロ布だけだったのであっという間に脱ぎ終わり、そのまま逃げるように水辺に近づいた。

 

 だが水際でトゥルーは足を止めた。水はあの冷やかさでトゥルーを待っていた。静かな湖面はしぶきどころか波の一つさえ立てていなかったが、底の見えない暗闇が感じさせるのと同種の空恐ろしさが佇んでいた。


 そこで立ち止まっていたのはそう長い時間とは思えなかったが、ニアンが服を脱ぎ終えてトゥルーの隣に来るには十分な時間だった。


 やはりというべきか、一糸を纏わぬ姿を見せたニアンには服の下にも獣の爪や毛皮は無い。獣象の無いにんげんの大人の姿をトゥルーは初めて見た。

 ニアンの締まった体には逞しく思わせる筋肉が付いていながら、トゥルーがかつて見た全てのひとを見下すようにしなやかで、少女に息を呑ませるほど美しかった。

 けれど何よりニアンの身体を特別たらしめていたのは彼女の左胸、心臓の直上辺りで赤く輝く宝石だった。首から提げているのではない。彼女の一部に他ならないのか、太陽を閉じ込めたような輝きは肌との継ぎ目さえ無いようだった。


「行こう」


 トゥルーの手を引くニアンは水に入った時に冷たそうに少しだけ声を漏らしたがそれでも気にせず入っていく。トゥルーは手を引かれるままに進み、足先が水面に触れて小さく叫んだ。

 雪に素足を突っ込んだみたいだった。

 水から思わず飛びのいたトゥルーにニアンはクスクスと笑って「ゆっくりでいいよ」と少女の手を握っていた。


 押しも引きもしないニアンの手は容易く振り払えるだろうが、いざ振り払おうと思うと炎の中でニアンが告げた『あなたを助けにきた』という言葉が少女の中で繰り返された。

 

 トゥルーはまた悩んだが、ニアンの手を握り返して一歩、水へ進んだ。やはり叫びたくなるほどに冷たかったが、今度は心の準備が出来ていたから喉奥から小さな声が出る程度に我慢できた。


 そのままもう片方の足も入ったところでニアンはまたさらにトゥルーを湖へ誘う。尻尾が水に入った時には思わず声を上げたが、それでも戻ろうとする様子は見えなかった。


 身体は何度か震えたが寒くはなく、むしろくすぐったいような感覚のせいだった。特に手足と尻尾、獣象が現れている箇所からくすぐったさは来ていたが、その感覚がだんだんと消えていくのに伴って身体の怠さも水に溶けるように消えていく。

 ニアンの言っていた『冷やさなきゃ』という言葉を理解した時にはもうニアンは手を離していたが、トゥルーもさっさと陸に上がろうとは思えなかった。水は冷ややかさはそのままに、もう空恐ろしさは感じない。


「どう、良くなった?」

「……うん」


 獣象のある手足でも水を掻いたり蹴ったりはできそうでトゥルーは浅い湖底を蹴って泳ぎ始めた。

 だが泳いですぐに尻尾が邪魔になる事に気づいた。水を蹴る足は度々ぶつかるし、何かと揺れる尻尾が身体を大きく揺さぶってしまう。

 どうにも上手く泳げないと結論付けそうになった時、ニアンの呼ぶ声が聞こえた。


「手と足は休ませて、尻尾で泳いでみて!」


 こんな風に!とニアンは腕を水平に波打たせるように動かしていた。

 確かに尻尾で泳ぐのは試していなかったと、さっそく水の中で身体の力を抜いて尻尾を横に振ると力強く水を押す感覚があった。はじめはその場で振り子のように動いていたトゥルーだったが、ニアンの波打つ動きを思い出してそのようにするとグンと身体が前に進んだ。

 手と足を使うより断然速い。

 息継ぎの為に顔を出すとニアンが「上手!」と自分のようにはしゃいでいて、今度はニアンの方へ泳いで行った。

 

 水の中でもニアンの位置はすぐにわかった。ニアンの胸の宝石が水面にキラキラと輝いて、眩しいほどに綺麗だったから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る