涙を焼く
沖 一
炎の愛し子
馬車の幌の外から男たちの怒声が聞こえて、鎖に繋がれていた少女は目を覚ました。
悪態ばかりを吐いていた男たちの声が一段と苛立って響いていたが、一人、また一人と声は消えていく。もう二度と聞く事は無いのだろう。
同情も憐憫もなかった。村から少女を買い、また何処ぞの誰かに売ろうとしていた連中だ。あろうはずがない。
ただ、人攫い気取りの不潔な男たちは自分を買う人間と一緒に焼き殺してやろうと心に決め、燃える気骨を隠そうともせず目をギラギラとさせていた少女からすれば、自分の知らない所で男たちが最期を迎えるのは甚だ腹立たしかった。
渦巻く怒りが滲むように彼女の周囲の温度が上がってゆく。もしそばに誰かがいようものなら堪らず逃げ出していたに違いない。少女の裸足が触れる木の荷台は黒く焦げ、素肌に触れる金属製の手枷は融け始めて粘土のようになっていた。
その時、男の一人が馬車の幌を開いて顔を見せた。猫の顔をした男が、お前も戦え、といったような事を言おうとして牙を見せたが、男が言い切る前に響いた鈍い音が少女の返事だった。
すなわち融解した手枷がゴトリと荷台に落ちた音であった。高温に熱された金属枷が荷台を更に焦がすのも気に留めず、少女は男に向けて口を大きく開く。その喉奥に灯った焔が男が最期に見た景色となった。
「ガアアアアッ!」
それは獣が吠えたか嵐が吹いたか、恐ろしげに低く響いた音声はしかして少女の喉から発せられた物だった。
喉から生じた炎は男の胸から上に直撃し、ちっぽけな石ころのように男は吹っ飛ばされて毛と肉の焼ける臭いを辺りに撒き散らした。首から上は消し飛んだのか、もうなかった。
炎が開けた通り道から馬車を出れば森の馬車道で、男たちが寄って
囲んでいる男たちの獣象は犬の顔をした者、熊の体格に毛皮を持つ者、鹿の角を生やした者……どれも少女をどこかへ運んでいた男たちとして見覚えがあるが、それにしては数が少ない。
よく見ると男たちは何者かを囲んでいる一方でそれ以上の数が周りには倒れていた。だがその数に反して一目で死んでいると分かる者はいない。
なんだ、と思ったのも束の間、馬車から出た少女を目にした男たちは泡を食ったようにバラバラと少女を囲いはじめた。
各々に構える武器や爪は少女が反抗的な素ぶりを見せる度にちらつかせられたり、あるいは実際に使われもした。
しかし今度は彼らの顔に汚い優越感はなく、原始的な本能に引き出された恐怖があった。
もう見慣れたものだった。人の怯えも、怯えが人に何をさせるかも。
なにより、どうせ既に人を殺してしまった。
少女を留めるものは何もなかった。
昂る感情に呼応して体温が尋常の領域を超えて更に上がっていくのを感じる。
身体の中をドロドロの炎が這い回る。
赤錆色の髪が熱気にあてられ風を孕む。
大木が軋むような音をたてながら手足の爪が獣のように太く尖る。
ボロ布から顕になった赫々とした尾が逞しく地を薙ぐ。
それでも収まらぬ熱は四肢に生えた鱗から火の粉として漏れ出て、舞った。
火竜。あらゆる獣象の中でも、元素を象る最も稀少な種の一つである。
熱気に当てられ続けた荷台がとうとう発火し、軋みながら燃え崩れていく様を前に男たちは尻尾を巻いて逃げ出した。
しかし煮え沸く溶岩よりも苛烈な少女の前に華奢な影が一つ、逃げる男たちとは対照的に歩んで来ては、そのまま進み出た。
瞬間、炎が吹き出た。鍋を返したような大雨でさえこれほど酷くはないだろう。人影をそのまま飲み込んだ轟音の輝きは吐き出した自らをも焼きかねない程の業火だった。
——もっと、もっと!
少女はそれでも飽き足らず、周囲へ更にぶち撒けようかと首を動かそうとしたが、しかし、炎の向こうに未だ人影はあった。
それは女だった。爪も牙も角も尾も持たない、まっさらのにんげん。
炎の雫を肌ではじき、そよ風の中を歩んでいた。
どれだけ炎を吐こうとも、髪の毛はおろか服の繊維一本さえも燻っていなかった。
炎が尽きぬまま女はやがて少女のそばまで着いて、手を伸ばして髪を撫でた。女の声は炎の嵐の中でも不思議と耳に届いた。
「もう大丈夫。私は、あなたを助けに来た」
そう言って女が指を少女の唇にあてると、炎は陽炎となって消えた。
何もかもを憎んでいた熱はもう無く、代わりに少女を抱きしめる温もりがあった。
少女は自分が少女である事を思い出したように女の腕の中で大きな声を出し、泣いた。
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