第4話 カルコサの玉座

 脱出に失敗すること三度の後、安部蔵人あべくろうどは炬燵の誘惑を断ち切って立ち上がった。炬燵布団の裾の上で丸くなっていた巨大な雄猫、ホイエルが眠りを乱されて、くわぁっと大きなあくびをする。彼は猫目を半眼にして、わっしわっしと毛づくろいをはじめた。

「起こしちゃったかな、ごめん、ホイエル」

 蔵人はしゃがみこんで、メインクーンの血を引く同居人に触れた。色の淡いお腹の柔毛に指を沈めて揉みしだいてやると、明灰色の雄猫はあっさり機嫌を直しゴロゴロと喉を鳴らした。モフモフの尻尾をぱたぱたと振りながら、鼻先よりふぐりまで三フィートはあろうかという巨躯をいっぱいに伸ばして、炬燵布団にバリバリと爪を立てる。彼の主人の目前で行えば、不調法だと叱られること必至だが、猫族全般に甘い蔵人は鉤爪が炬燵布団を蹂躙するのにまかせた。蔵人はしばらく大猫のお腹を堪能したあと、なごりを惜しんで手を離し、テレビリモコンを操作して夕方のニュースに別れを告げた。

 意を決し、ふすまを開けて廊下に出る。

「うわ、寒ぅ……」

 薄暗い廊下は、凍えるような寒さだ。

 屋内というのに、吐息が白く凍る。築半世紀をけみした木造住宅は気密性というものに乏しく、暖房の効いていないところは野外とさして変わらない。隙間風が、今しもひゅるひゅると身も凍るような唸りをあげている。蔵人はカチカチと歯を鳴らしながら、足早に自室へと向かった。

 扉を開け、部屋の明かりを点ける。無人の部屋を暖房する必要もないので、当然、自室も廊下と大差ない寒さだ。蔵人はどてらを脱ぐと、クローゼットから、すでに着ているセーターの上に重ね着する衣服を引っ張り出した。セーターの下、腰の後ろにホッカイロを貼る。厚手の外套を着込んで、ここ数年愛用の辛子色のマフラーを首に巻く。そのうちに、ホッカイロがじわり、と熱を持ち始め、蔵人はようやく人心地を取り戻した。

 ニットの帽子を被ってから姿見に目をやると、着膨れした、二十歳すぎの男が、青ざめた顔で見返してきた。その目に浮かぶ悲壮の色に、蔵人は我がことながら苦笑を禁じ得ない。蔵人は人一倍の寒がりだった。夏生まれのせいか、はたまた前世の因縁か、低温というものを生理的に受け付けないのだ。

「よし、行くぞ」

 これから晩御飯の買い出しに行くのだ。

 今宵は十二月二十四日。

 クリスマス・イブだ。

 蔵人はクリスチャンではないし、それを言うなら同居人は教会から見れば全くの異教徒ということになる。しかし二人とも、世間一般が浮かれ騒ぐ時期にむっつりと過ごすような、使用前スクルージのような頑固者ではない。ケーキやプレゼントといった祝祭のあれやこれやを享受することに、これといってわだかまりもなかった。

 彼女に言わせれば、ユールタイドとも呼ばれるクリスマスの祝祭の正体は、十字架で死んだ神よりも、バビロンよりも、それどころか人類発生以前にさかのぼるものだということで、古き神の信者が参加してもバチが当たるようなことはないのだという。

 部屋から出ようとして、ふと、机の上に置いたプレゼント包みに目を留めた。

 あの子と共同生活を始めて最初のクリスマスだ。なにかしなくてはならないとわかっていても、年頃の女の子が送られて嬉しいものなど、皆目見当がつかない蔵人だった。雑誌やインターネットを当たってみて、服飾品やアクセサリーなども考えたのだが、お洒落世界の門外漢に過ぎない自分の選んだものでは、かえって迷惑というものだろう。悩んだ末に、彼女が好きだというモネのジグソー・パズルを丸善で購入し、包んでもらったのだが……はたして、気に入ってくれるだろうか。

 また風が吹き、窓枠がガタガタと鳴った。


 部屋を出た蔵人は、台所のガラス戸を開けて同居人に声をかけた。

「ソーニャ?」

 台所は春のようだった。

 片隅で燃える灯油ストーブの上では、アルミの薬缶がシュンシュンと湯気を吐き出している。オーブン機能付きの電子レンジが唸りをあげ、中ではケーキ型がメリーゴーラウンドのように回転している。テーブル上をところ狭しと占拠したステンレスのバットには、イチゴの赤、ブルーベリーの青、バナナのクリーム色、キウイの緑、マンゴーの橙といった目にも鮮やかなフルーツが盛られている。蔵人の鼻腔を、焦げる砂糖と溶けたバター、湯煎されたチョコレートと、甘やかなバニラエッセンスの匂いがくすぐった。そしてそれらの真ん中に、ソーニャ・H・プリンが立っている。

 当年十七歳。どこか猫を思わせる、橄欖石ペリドット色のやや釣り気味の目。肌理の整った肌は雪花石膏アラバスターのように透き通り、ふっくらとした頬は血の色を透かして桜色で、唇は桜桃のような艶やかさ。くっきりと形の良い眉が、意思の強さを感じさせ、尖り気味のおとがいとすらりと通った鼻筋と相まって、どこか貴族的な気高さを感じさせる。前髪とびんを残して頭の左右で括り、いわゆる天使の翼ツインテールのかたちで背中へと流した蜂蜜色の髪の毛が、白色電球のもとで後光ニンバスのように輝いて台所全体を明るくしている。タートルネックのセーターの上に付けたエプロンを、平均よりもかなり大きめな膨らみが押し上げ、胸当てにプリントされた猫の顔を間延びさせていた。

 戸口でぼんやりと立ち尽くす蔵人に、ソーニャは作業の手を止めて、小首を傾げた。

「クロード? なぁに?」

 銀の小札の触れ合うような、耳に心地の良い声に、蔵人は我に返った。

「……えっ? あっ、うんっ」

 蔵人とソーニャとは、いとこ同士の関係にある。かつては近所の溜池でブラックバスやザリガニを一緒に釣って遊んだ間柄だが、わけあって離れ離れになっていた。今年の夏、地球の裏側、アメリカはニューイングランド、ロードアイランド州プロヴィデンスからやってきたソーニャと思わぬ形での再会をはたし、妙な成り行きを経て彼女を居候として受け入れることになった。それから半年近く、彼女とその相棒の、灰色巨大猫ホイエルとの共同生活が始まってからそれだけの時間が経っている。にもかかわらず、いまだに年下の従妹の存在に順応しきれていない蔵人だった。

「えっと……その、すごくいい匂いだね。楽しみだな」

 蔵人はなんとか話の接ぎ穂を求めて、言った。

 とはいえ、半ば以上本心である。蔵人は大の甘党だった。

「うん、もうちょっと待ってね……」

 蔵人の内心の動揺に気づいたふうもなく、ソーニャはそう言って、作業を再開した。少女は袖をまくった腕に抱えるボウルの中身を、シリコーンベラでかき混ぜる。ボウルを半分ばかり占めているのは、淡い黄色の混沌だ。

 彼女は今、ボストン・クリームパイに挑んでいた。焼いたスポンジを二つに割って、その間にたっぷりのカスタードを挟む。その表面を溶かしたチョコレートでコーティングし、表面に果物で飾りを施す。元は有名ホテルのデザートメニューだったが、今ではクラムチャウダーよろしく、ニューイングランドを代表するケーキとして知られている。

 祝祭の夜にふさわしい、豪華なケーキだ。

 クリスマスにケーキを焼きたいとソーニャに言われたとき、蔵人は両手をあげて賛成した。

 蔵人自身、スポンジケーキなら心得がないわけでもない。しかし、ソーニャは自分一人で作りたいのだと言った。

「普段、ご飯つくってもらってるから。たまには私がご馳走するね」との由。

 そう言われると、嬉しいやら照れくさいやらの蔵人だったが、はて、夜の献立をどうするべきかと考えた。甘党の彼は、なんならボストン・クリームパイだけでもお腹をいっぱいにできる。しかし、同居人はそうもいかないだろう。

 台所はケーキ作りに占領されてしまうから、食事はよそで調達する必要がある。手早く作れる冷凍食品や、近場のスーパーで出来合いのお惣菜を買うというのもすこし味気ない。結局のところ、クリスマスの七面鳥ターキーの代用品を、ケンタッキー・フライドチキンに求めた蔵人だった。すでにおさおさ怠りなく、予約の電話を入れてある。

「あれ? クロード、お買い物いくの?」

 蔵人の厚着に気づき、ソーニャは言った。

「うん、ケンタッキーまで行ってくるね」

「大丈夫? 寒くない?」

「うんと厚着したから、大丈夫。早く行って、早く帰ってくるよ」

 そう言って蔵人は玄関に向かった。ソーニャがエプロンで手を拭きながら、ついてくる。

「気をつけてね」

「うん、行ってきます」

 蔵人は靴を履き、玄関のドアを開けた。

「わぁ……雪だぁ」

 思わず声が出た。凍てつく風が、無数の小さな白い粒を顔に吹き付ける。冬至からわずか二日。今は一年のうちで最も日の短い時期だ。外はすでにとっぷりと暮れて、夜の帳が岡山平野に降りている。群青の夜の底を白白と照らす街路灯の光の輪の中で百万の雪片が踊っていた。


「ちょっと待ってて」

 雪にたじろぐ蔵人を屋内へと引っ張り込んだソーニャは、そう言って自室へと駆けて行った。スキニージーンズに包まれたお尻の上でちょうちょに結んだエプロン紐がぴょんぴょんと跳ねるのを蔵人が見送ってほどなく、ソーニャは玄関に戻ってきた。その手にはリボンの付いた紙袋がある。

「これ、プレゼント。いま渡しちゃうほうが良さそうだから」

 クリスマスの贈り物にしては、不思議なタイミングだ。

 蔵人が受け取ってみると、文庫本ほどの大きさの紙袋には、何か軽くて平たいものが中に入っているようだ。

「あ、ありがとう……いま開けちゃったほうがいいかな?」

「うんっ」

 ソーニャの意図をはかりかねながらも、蔵人は手袋を外し、袋を開けた。

 中に入っていたのは、掌サイズの、小さな布袋だった。

 つやつやとした厚みのある瑠璃色の布地に、金糸銀糸で象形文字が刺繍してある。巾着状にすぼまった上部に、長い紐が結び付けてある。袋は柔らかく、何か硬いものが入っている様子はない。

 綺麗な袋だけど……これは?

 蔵人は訝しみながら、巾着を封じる紐の結び目にそっと指を這わせた。

「あっ、あけちゃだめっ!」

 その瞬間、ソーニャが慌てた様子で手を伸ばし、蔵人の手を押さえた。

 ぎゅう、と手を握る少女の指にこもる力の強さと、言葉の調子に、蔵人は面食らった。

「ぜ、絶対に開けちゃ、ダメ!」

 必死な様子の従妹の様子に、すぐに蔵人は小袋の正体に思い至った。開けちゃだめ、ということは、この袋は閉じた状態で完成しているのだ。

「あぁ、ごめん……これは……お守りだね?」

 少女は蔵人の手を抑えたまま、こくこくと頷いた。神社仏閣でいただく交通安全や合格祈願のお守りも、中を開けて見てしまうと、そのご利益が失われるというのはよく聞く話だ。あやうくプレゼントを台無しにしてしまうところだったと、蔵人は自分のうかつさに内心で蹴りをいれてやりたくなる。

 ソーニャの方もよほど慌てたのだろう、とっくりのセーターから覗く首から額、さらに耳の先まで、南天の実にも負けないくらいに真っ赤になっている。

「本当に開けちゃダメなんだからね! 開けたら……その、いろんなあれが、あれなんだから」

 年下の従妹は、蔵人の手をぎゅっと抑えたまま、念を押してくる。

 絶対にあけません、と蔵人は浦島太郎のように固く誓った。

「これは、触媒なの」

 落ち着きを取り戻したソーニャは蔵人にそう説明した。

 他人に魔法をかけたり、かけた魔法の効き目を維持するには、直接相手に触れているのが一番よい。逆に離れた場所や、視界の外に居る相手に魔法をかけるのは、かなりの達人にも難しく、どうしても効果が弱まったり、不安定になったりする。良い魔法でも悪い魔法でもそれは同じなのだという。触媒は術者の身体の言わば延長部であり、距離による制限を緩和することができる、というのだが……。

 そんなものを貰ってしまっていいのだろうか?

 従妹が手ずから首に掛けてくれたお守りを見下ろしながら、蔵人は思った。

 ソーニャ・H・プリンは魔女である。彼女の母方はアメリカ、ニューイングランドはアーカムでも指折りの魔女の家系なのだそうだ。かつてはオカルトに懐疑的だった蔵人だが、幾たびも魔法というものの威力を見せつけられた今では、その実在を疑う気持ちは微塵もない。

「クロードがこれを持っていてくれれば、私のおまじないを強化できるの。離れていてもね」

「ありがとう……でも、どうして今……?」

 ソーニャはすこし得意げに口角を上げた。

「こうするからよ、えいっ」

 ぎゅむっ、と蔵人は真正面からソーニャに抱きしめられた。不意にハグされた蔵人はなす術もなく年下の従妹に身をまかせる。防寒のための厚着の上から、エプロンの胸当てごしにふにゅんとした感触が伝わってくる。

 蔵人の心臓が跳ね上がった。

 年下の従妹は、蔵人の狼狽に気づいたふうもなく、口の中でモニョモニョと何事か呪文をつぶやきはじめる。

 不意に蔵人は、えもいわれぬような、甘酸っぱいような匂いに気づいた。彼女の愛用の入浴剤と、我が家の柔軟剤の匂いと、お菓子作りの移り香に混じる、ほのかなサンダルウッドのような匂い。蔵人は背中を刷毛で撫でられたような感覚を覚えた。これは、魔法の効果なのだろうか? ややあって、ソーニャが身体を離した。

「わっ、すごい……」

 蔵人は感嘆の声を漏らした。

 体がポカポカと暖かい。

 心臓の前に吊るしたお守りから放射状に広がるぬくみが、凍てつくような玄関の冷気を駆逐している。

 寒くない! これなら、雪の中でも平気だ。

 興奮する蔵人に、ソーニャはにっこりと微笑んで言った。

「ユールタイド、おめでとっ!」


 ビニール傘の表に当たる雪がさらさらと音を立てる。

 雪の紗幕をかけられて、県民の自尊心の拠り所である『晴れの国、岡山』というキャッチフレーズも知らぬげに、街は夜の底に静かに沈んでいる。

 安部蔵人は家路についていた。

 傘を差す手の反対に、ケンタッキー・フライドチキンのテイクアウトをぶら下げている。蔵人の目は、湿気を吸って重たげにかかる前髪越しに祝祭の街を眺めていた。雪の散歩も悪くない。懐にしまったソーニャのお守りが寒さからの保護してくれるおかげで、普段であれば気づかなかった、雪の夜の美しさを楽しむ余裕が生まれていた。

 県道を行き交う自動車が、濡れたアスファルトを轢いていく。これから夜を過ごす家族づれか、帰宅する勤め人を乗せているのだろう。水を跳ねられないように、蔵人は道の端に寄って歩いた。すぐ足元には、用水路が勢いよく流れている。長年にわたり危険が指摘されながらも、柵やガードレールといった安全策がとられていないむき出しの流水。黒い水面に、降りかかる雪が次々と呑まれていく。

 道すがら、蔵人は従妹のことを考えていた。彼女はもう、ケーキを完成させただろうか? すごく暖かかったと、お守りのお礼をあらためて言わないと。ジグソーパズル、喜んでくれるかな。

 坂を下るように、自然と足早になった。

 家まであと半キロというところで、ふと、蔵人は足を緩めた。降りしきる雪の向こうに、何かが見えた気がした。

 目を凝らすと、たしかに何かがある。

 あそこで街灯の光を浴びているのは、うずくまる人の姿ではないだろうか。

 どうしたことだろう。もしや、岡山県民が不慣れな雪に滑って転倒し、動けなくなったのだろうか。

 蔵人は周囲を見回した。雪の夜とて、通りかかる人影などは見当たらない。

「あの……どうしました? 大丈夫ですか?」

 蔵人は声をかけながら人影に駆け寄った。

 その人物は、用水路のほとり、街灯の光の輪のふちのいた。真紅の外套には、すでに僅かながら雪が積もりはじめている。頭髪が白く見えるのは、白髪か、それとも雪のせいでそう見えるのか。

「大丈夫ですか? 救急車を呼びましょうか?」

 蔵人はうずくまる人影の側にかがみこむ。助け起こせるようにと、手に持った傘と荷物を脇に置いた。

 と、不意にその人物が不意に顔を上げた。派手な外套には似つかわしくないような、いかにも好々爺然とした顔だった。蔵人の目には九十歳か、百歳くらいに見える。蔵人はおじいさんだと思ったが、それほど確信はなかった。老人は身振りで大事ないことを示し、よろよろと立ち上がろうとする。

「あ、お手伝いしますね……」

 蔵人は老人の手を取って、助け起こした。

 その身体を支えようと、腕を回す。

 手袋の下の手は、力強く蔵人の手を握り返してきた。

 外套の下の感触は、がっしりとした骨格と筋肉を備えていて、とても老人のものとは思えない。

 蔵人は、違和感から、老人の顔をまじまじと見つめた。

 深い皺の刻まれた、鞣革のような褐色の顔は、温和な笑みを浮かべたまま、ぴくりとも動かない。ふさふさとした眉に、半ば隠された目の真っ黒な瞳孔は、小揺るぎもせずにまっすぐ前を見つめている。わずかな間にも、降りかかる小雪が、顔を縁取る髪や首元にしっかりと巻き付けた襟巻きのみならず、額の皺や頬、口元に積もってゆく。肌に触れればすぐに溶けてしまうはずの雪がそのように振る舞うなどというのは、いささか奇妙ではないか……。

 ふと、蔵人の脳裏に、この人物が実際には老人ではなく、なにかの目的のために、精巧な仮面を身につけているのではないかという考えがきざした。

 しかし、いったい何のために?

 蔵人が身を離そうとしたその時、握られた手から、痛みが走った。電気ショックのような衝撃が蔵人の体を貫く。

 不意に、身体から力が抜ける。周囲の闇が濃さを増し、入り乱れる白い粒子が視界を埋め尽くす。目の前の人物が、自らの顔に手を伸ばし、その凍りついたような笑みを浮かべる仮面を取り外す––。

 そこに現れるものを目にする前に、蔵人の意識は闇の中に飲み込まれた。


「ジングルベール、ジングルベール、ふんふふふ~ん」

 上機嫌でチョコレートのボウルをかき混ぜながら、ソーニャは先ほど渡したプレゼントのことを反芻していた。

 なんだか変なタイミングで渡してしまったけど、やっぱり、自分の判断は正しかったと思える。

 ポカポカになって嬉しそうな彼の顔が見られただけで、苦労して触媒を作り上げた甲斐があった。鼻歌の一つも出てしかるべきというものだ。

 しかし、彼が袋の紐に指をかけたときは焦ってしまった。

 あんな反応しちゃって、クロードは変に思われなかったかな?

 ううん、大丈夫。きっと。彼はそういう、魔法とかオカルトとか、そんなに詳しくない方だし。開けてみなきゃ、中身が何かなんて––。

「……うぅん……」

 少女はわずかに頬を染め、わっしわっしとチョコレートをかき混ぜる。

 開けないって約束してくれたけど……。いずれ好奇心に負けて、開けてしまうかもしれない。そうなったら、どうしよう。変な風に思われたら困る……でも……。ああ、やっぱり、ぜったい開けられないように、きつきつの固結びしておけばよかったかなぁ……。

 そんなことを思っているうちに、ボウルのチョコレートはとっくに滑らかになっていた。

 内心の懊悩はひとまず脇へ置き、ソーニャは重ねたスポンジに、チョコレートを塗る作業に入った。

 芳香を放つ褐色の流動体を、塗り付け、台を回しながらシリコーンベラで表面を伸ばす。慎重な作業の末、滑らかに仕上がった褐色の表面が、黒馬の背のように輝いた。この上にベリー類をこれでもか、と盛り付ければボストン・クリームパイは完成だ。

 うむ、我ながら、これは最高傑作になってしまうかも?

 ソーニャは惚れ惚れと自分の被造物を眺めながら悦に入った。

 アーカムでの修行の日々。〈サラセン人の儀式〉や〈光り輝く狩人〉について学ぶ合間に習い覚えたケーキ作りのノウハウがあやまたず役に立っている。

 師匠せんせいには感謝しないと。

「これなら、クロードもきっと……」

 彼のびっくりする顔が目に浮かぶ。

 相手の心臓を掴むには、まず胃袋を掴むべし、と家伝の魔導書『妖蛆の秘密』にもある。

 同居を始めた当初は、ソーニャも何度か台所に立ったのだが、自分の作るものより彼の作る料理のほうが美味しく思えてしまい、自然と台所から遠ざかってしまった。今ではすっかり、食事は蔵人の担当となっている。

 普段の食事ではかなわないとしても、ケーキ作りならこっちに分があるはずと見て、クリスマスという異教の祭事を利用して今まで掴み損ねてきた胃袋を掴んでやろうと目論むソーニャであった。

 そのとき、わしわしとひっかく鉤爪が引き戸をガタガタと揺らした。

 ずりずりと扉が開き、猫の頭ひとつ分開いた隙間から、灰色のもふもふがするり、と台所に入ってくる。

「うるまわーっ」

 巨大な灰色猫は、野太い声で主人の背中に呼ばわった。

「なーに? ホイエル?」

 ソーニャは自分の使い魔にわざわざ向き直ることもなく、返事する。

「まうるわう、ぷるるな」

「おやつが欲しいの? クロードが帰ってきたらお夕飯だから待ちなさい」

「なうわうわ、ならわま」

「えっ?」

 ソーニャは時計を見て、眼を丸くした。彼が出発して、すでに二時間近くが経過している。

 作業に夢中になっている間に、思った以上に時が経過してしまっていたようだ。

「もうこんな時間……」

 エプロンで手を拭いて、ポケットの携帯電話を取り出した。メールも電話の着信もない。これほど遅くなっているのに、何の連絡もないというのは、彼に限ってないことだ。ソーニャは蔵人の携帯電話をコールした。呼び出し音はやがて、留守番電話の受付音声に切り替わる。

「なわらー?」

 ホイエルが小首を傾げて尋ねた。

「だめ、出ない」

 ソーニャは唇を噛んだ。

 落ち着きをなくした瞳に、不安の色が浮かぶ。

 少女の胸中で、かつて覚えた恐怖が、また急速に形を結びはじめた。

「迎えに行こう」

 少女はエプロンを脱いで椅子の背もたれに掛けると、足早に自室に向かった。必要最低限の品を収めた、小ぶりなリュックを背負って戻ると、靴を履き、相棒を促して玄関から外へ出た。


 世界が揺れている。

 なにか、堅いものに背中を預けているのが、感触でわかった。

 きぃと、軋むような音が背後から聞こえてくる。

 蔵人は目を瞬かせた。

 妙に暗い。

 いや、夜だから暗いのは、当然だ。

 蔵人は運河を進むゴンドラの舟上に居た。

 舳先で洋燈ランプの光が揺れている。

 小舟が切り裂いた水面を波紋が渡ってゆく。小舟の進む運河の幅は狭く、古色を帯びた建物の間を縫うように蛇行している。家々の庇の間に渡された綱から下がる提灯ランタンが、熟れた果実のように輝き、その背景には、金銀の蒔絵のような夜空がのぞいている。天の川は見えなかったが、天高く浮かぶアルデバランが一つ目のように見下ろしてくる。夜空が明るすぎるように見えるのは、満月が二つ、重なり合うように浮かんでいるせいか。

 きぃ、と背後で櫂が鳴き、船が進む。

 水面に映る星空が、ゴンドラの立てる波の上で揺れる。

「お目覚めでございますか、陛下」

 不意に声をかけられ、蔵人は振り向き、初めて同行者の存在に気付いた。

 その声と、体つきから、男なのだろうと蔵人は思った。というのは、その顔は仮面によって隠されていたためだ。舳先の洋燈の光が、男の道化師の面、先が二股になった帽子、血のような緋色の衣服を照らしている。

「いったい……これは……」

 言いかけて、蔵人は首を振った。自分の置かれている状況が理解できない。

「ここは? 僕はなぜ……あなたは誰です? なぜ僕を陛下と呼ぶんですか?」

 男は少しの間、沈黙した。影のために、ほとんど見えないとはいえ、仮面の奥にある目がわずかに細められたかのように蔵人には思えた。

「ここはカルコサ。不思議の都邑まち。陛下はこの都邑の王。私めは取るに足らない道化にございます」

 慇懃に頭を下げる道化の言葉に、あるかなきかの嘲りを蔵人は感じたように思った。しかし、ただの思い違いなのかもしれない。

「でも……カルコサなど耳にしたこともありません。知りもしない土地の王になど、なった覚えも……」

「されど、陛下は王にあらせられる証拠に、王の印を帯びていらっしゃる」

「印……」

「そのお顔に召された〈蒼白の仮面〉でございます」

 蔵人は思わず自分の顔に手をやった。手袋ごしに伝わる硬質な感触。蔵人は初めて自分が仮面を着けていることに気付いた。

「いつの間に……」

 不意に歓声が湧き上がった。

「万歳! 王様万歳! カルコサ万歳!」

 いつの間にかゴンドラは、運河に掛かる石組みの太鼓橋のほど近くまで接近していた。橋の上では、人々が群集むれつどい、こちらに向かって手を振り、あるいは手にした楽器を鳴らしている。人々の手にした松明や洋燈の明かりが、まばゆいまでにあたりの壁を黄色く照らし出している。その顔は、犬や猫、豚や狐、熊や梟といった動物の顔。あるいは、繻子やビロード、紙や木で造られた仮面。そのどれもが、散りばめられた貴石やガラス玉でキラキラと輝いている。仮面をつけていない者は一人もいない。

 無数の顔、異形の顔が見下ろす、群衆ひしめく橋の下へと、ゴンドラがゆっくりと潜り込む。

 花籠から撒き散らされた色とりどりの花弁が舟の中に外に雨のように降り注ぐ。

「万歳! 王様万歳! カルコサ万歳!」

 群衆の声が花弁のように降り注ぐ。

 永劫の時をけみしたかのような太鼓橋の石組みの向こう、運河の果てに、玻璃天井の円蓋ドームを備えた城が、積み重なるシャボンの泡に似たシルエットを浮かび上がらせた。

 舟が、橋の下を抜けた。

 そうだ。

 彼は不意に思い出した。

 この都邑こそ、強壮なるカルコサ。

 黒きハリ湖のほとりなるカルコサこそ、偉大にして無窮の都。〈名付けられざりしもの〉のよみしたまう、不思議なるカルコサ。今宵、王の証たる〈蒼白の仮面〉を帯びたる我は、祝祭に湧く都邑の様子を楽しむべく、道化のキャスティーヌを伴って城下へと繰り出したのではなかったか。

 左様、今夜こそは大いなる祝祭の時、ユールタイド。

 彼は天を仰ぎ、王城の真上にて永劫の熾火のごとく燃えるアルデバランを見た。美しく並ぶプレアデスの乙女たちの姿を、そして静止する星々を背景にゆっくりと進むナグとイェブの双子月を見た。

 双子の月が互いに交わるその時を〈千なる玉座〉は今や遅しと待ちかねている。

 漕ぎ手は粛々とゴンドラを進ませる。運河の左右に並び立つ家々の、窓という窓から、仮面の男女が作り物の顔を覗かせて、甘やかな香り立つ花弁と王を称える言葉の雨を降らせた。

 やがて王城が近づいてくる。

 その一つ一つが、並の城に比すべきほどの千もの尖塔と、五百もの円蓋を備え、幾万もの窓という窓を灯火が飾り、あたかも真珠と金剛石を連ねたかのような城壁の中央には、玉座の間を葺く玻璃の円蓋が鎮座する。その内側より漏れる輝きは、城全体を世界最大の黄玉トパーズを取り巻く台座のようになさしめている。

 その威容が空の半分を覆わんばかりになるほどに近づいたとき、小舟は王城の周囲を取り巻く幅広の堀へと滑り込んだ。目の前に広がる王城の、そのいと高き城壁には、並の弩では届かぬ高さに並ぶ無数の矢間が、この城の価値が美のみにあるものではないと暗に物語っている。

 このあたりまでくると、普段は城下の破風を持つ建物に隠されて目につかない、幅広の堀が繋がる黒い湖まで目路が通る。星々と月たちが明るくする夜空を背景に、湖に潜むものが黒い水平線を乱してその輪郭を露わにすることを恐れ、王は湖から眼を背けた。

 細く、長い橋を横目に、ゴンドラは城の基部、大理石の岩塊に穿たれた横穴へと進んでゆく。

 まもなく王の小舟は城の真下に入り込んだ。

 鑿跡の残る岩窟を進み、天井から下がる落とし格子を潜って、やがて広大な洞穴へと行き着いた。櫂の漕ぎ手は赤々と松明によって照らされる水面を、船着場へと巧みに船を運んでゆく。

 待機していた従者が船を抑えると、道化は慣れた仕草で船を降りる。

 道化が差し出す手をとった瞬間、王の胸中に奇妙な感覚が湧き上がった。前にもこの手を握ったように思える。

 しかし、この城で過ごしていれば、そのようなことは数えきれぬほどあったにちがいない……。

 王の靴が船着場を踏み、城は王を迎えた。


 降りしきる雪の中を、灰色の塊が駆けていく。

 ソーニャとホイエルは、周囲に意識を配りながらケンタッキー・フライドチキンの店舗への最短コースを走っていた。厳冬のニューイングランドの山野が培った種族の末裔は、炬燵の側で見せる怠惰な様子を脱ぎ捨て、今は怜悧なる狩人として主人の期待に応えている。

 ソーニャは駆け足で相棒を追いながら、先ほどから幾たびも繰り返している作業を行った。

 自分の内に燃える炎に意識を傾ける。内なる視界に、糸のようなつながりのイメージが浮かび上がり、少女はわずかに安堵する。大丈夫、まだ魔術は維持されてる。

 蔵人にかけた保護の魔法がいまだに機能しているということは、彼がまだ生きているということだ。しかし、もちろん、生きていればすなわち無事だということにはなるわけではない。

 もしや事故にでも遭ったのでは。あるいは、さらわれたり、犯罪に巻き込まれたり。彼の帰宅が遅いこと、連絡が付かないことに、なにか一つでも穏当な理由を思いつけたらいいのに。

 残酷な運命、あるいは、悪意に満ちた宇宙が、人生をいかに容易く変えてしまうものかを、若き魔女は知っていた。

 ソーニャがまた、内なる炎へと意識を向けようとしたとき、ホイエルが足取りを緩めながら、ひと鳴きした。

「ふなわーっ」

 少女は相棒の示す方向に目を向けた。用水路のほとり、街灯の明かりの中。開いたままの傘が路上に落ちている。透明なビニールの上にうっすらと雪が積もっている。その影には、ビニール袋に入った、ケンタッキー・フライドチキンの箱が置かれていた。

 ソーニャは傘に駆け寄って、その取手を見た。マスキングテープをくるりと巻いた目印が、蔵人が持っていたものに相違ないことを物語っている。ソーニャは周囲を見回した。あたりには、人っ子一人見えない。

「クロード! どこ?」

 呼ばわった声は、自分でも驚くほどかすれていた。

 もしや転落したのではと、用水路を覗き込む。黒く泡立つ水が暗渠あんきょへと流れ込んでいる。

「クロード……」

 声が詰まる。街灯がぼやけ、滲んだ。

「うまーわるっ」

 灰色猫の鳴き声に、ソーニャは顔を上げた。

 相棒は濡れたアスファルトの表面をしきりに嗅ぎまわり、もふもふの尻尾を普段の倍の太さに膨らませ、しきりに左右に振っている。不意に顔を上げてどこか遠くを睨むと、カカカッと声を出した。その眼差しには緊張が漲っている。

「ホイエル……?」

「わうまーうまる、うなわ」

「外宇宙の気配……? 本当に?」

 ソーニャは目を丸くした。

 猫族の持つ鋭敏な感覚は、人間が嗅ぎ取れないような微妙な気配を感じとることができる。その中でも、外宇宙に潜む〈蕃神ばんしん〉が外套のように纏う気配は、わずかであっても耐えられないほどの不快感を覚える。ホイエルが外宇宙の気配を嗅ぎ取ったというのなら、この場にそういったものどもと交渉を持つ人間が居た、ということだ。

 偶然だろうか?

 ソーニャは自問してみた。

 ありえない。

 邪悪に仕える人間が蔵人を連れ去ったに違いない。

 やつら。

 少女の目の中で、瞋恚しんいの炎が燃えあがった。

 また、私の大切な人を奪おうとする。幼い自分から両親を奪ったように、今の自分から彼までを奪おうというの?

 我知らず噛み締めた歯が、きりり、と鳴る。

 だめ、そんなの、ぜったいにゆるさない。

 吐いた息が、危険なほどの熱を帯び、彼女の顔に触れようとした雪片を蒸発させた。

「ホイエル」

「ま」

「追って」

 ホイエルは応えるよりも早く肉球を返し、薄墨の夜の中へと駆け抜けてゆく。ソーニャは身体の内側で膨れ上がる炎を抑えながら、相棒の後を追った。

 ホイエルの鼻が導く先。

 その屋敷はあった。

 城の石垣のような断崖から、今にも雪崩れ落ちそうな様子で建っている。

 断崖の下の登り坂を、一人と一匹は進んだ。敷地を囲うコンクリートの塀が、崖の高さを倍加させているようだ。ソーニャは上からのしかかるような屋敷の庇を見上げた。いかにも邪悪が匂ってくるようだ。

 魔女と使い魔は傾斜の急なコンクリートの坂を上り切った。

 門扉は真新しい錠で閉ざされている。

 塀には忍び返しが据え付けられているが、ソーニャとホイエルには差し当たり問題にならない。

 ホイエルは、四インチばかり開いた門扉の下を潜り抜け、内部へと入り込む。しばらくして、安全を知らせる鳴き声が聞こえてきた。

 ソーニャは門扉を乗り越え、庭に入った。少女は門扉の側に蹲り、周囲に目を配った。道路の拡張工事によって削り取られたせいで歪な形になってはいても、かなり広い庭があった。冬枯れの草木には白く、うっすらと雪が積もっている。

 降る雪以外に動くものはない。

 敷地内には、母屋と離れがあった。断崖に庇を投げかけている母屋は、雨戸を閉めて死んだように沈黙している。築年数は蔵人の家とどっこいくらいだろうか。人が生活しているようには見えない。

 プレハブ建築の離れは真新しく、こちらの方が有望そうだ。

 ソーニャは目をすがめて、雪化粧を検める。

 かすかだが、乱れがある。少なくとも、ごく最近、誰かが庭を歩いたのは間違いない。痕跡はやはり、離れへと向かっているようだ。ソーニャのサインに、ホイエルは最高度の忍足で離れへと向かう。

 少女は背負っていたリュックサックを下ろし、すぐに使えるように武器を取り出した。

 長さ一腕尺キュビト。先端に七枚の張り出しフリンジを持つ、やや小ぶりな矛槌メイスだ。この得物、敵の頭蓋骨を兜ごと叩きつぶすようにデザインされた合理性の鉄の塊であると同時に、触媒として機能する魔術師の杖マジックワンドでもあった。

 ソーニャはいつでも飛び出せる構えで、相棒の様子を見守った。

 やがて、離れのそばで耳をすましていたホイエルが、特別なやりかたで尻尾を振った。

 一分後、ソーニャは窓ガラスを割り、クレセント錠を外して中に入った。

 離れの中には誰も居ない。そのことはホイエルの報告でわかっていたが、ソーニャは武器を構え、素早く左右に目を向けた。敏感な鼻が、テレビン油の匂いを嗅ぎつける。

 視線を感じ、武器を向けた先、壁に無数の顔が並んでいた。

 仮面だ。

 色とりどりの仮面が、一面の壁を覆っている。

 不気味に思いながらも、ソーニャは壁から目を離し、離れの中を調べた。

 壁際には、片付けられたイーゼルや、布をかけられたカンバスらしきものが立てかけられている。どうやらここは––。

「アトリエ……」

「うなっ」

 ホイエルが短く鳴いてソーニャの注意を促した。見ると、コンクリート打ちの床に足跡が残っている。

 ソーニャは屈み込に、靴のパターンを検めた。

 彼の履いていた靴はこんな模様だったかな。ううん、思い出せない。もっとしっかり見ておけばよかった。

 少女は苦々しい思いを振り切って目の前の足跡に集中した。足跡は、イーゼルの上に架けられた一枚のカンバスの前にまで続き、そこで途切れていた。不審に思い、ソーニャは埃除けの布を引き下ろした。

 そこに夜の街があった。

 最初はベネチアを描いたものかと思えた。

 次にキングスポートの古い家屋のひしめく一角を思い浮かべた。

 破風や、煙出しを持ったスレート屋根の間を、黒々とした運河とそれに交差する明るい道路が縦横に走っている。庇の間には色とりどりの提灯が浮かび、ゴンドラのひしめく水路と、人々でいっぱいの道路を照らしだしている。カーニバルなのだろう、屋根の間には山車だしが見え隠れし、道や運河にかかる太鼓橋を埋め尽くす群衆は、色とりどりの衣装を身につけている。祝祭の街を描いた前景の背後に、尖塔と丸屋根を持つ王宮らしき巨大な建物が聳え立っている。コンスタンティノープルのアヤソフィアを思わせる一方、円蓋に円蓋を重ねた建物は、いくらかシドニー・シームの描く〈絶無の都〉の姿にも似ているようだ。奇妙にも明るく描かれた夜空には、ヒアデス星団とアルデバランが正確に描かれている一方、月らしき天体が二つ浮かんでもいる。明るい夜空と対照的に、城らしき建物の側には黒々とした海か湖が横たわるように描かれ、黒雲のようなものが水平線の一部を乱している。恐ろしく緻密に描かれているが、どこか偏執的な筆致だ。画家にこれを描かせたのは、よほどの天才か狂気だろう。

 ソーニャが魅入られたように描かれた街を見ていると、ホイエルが後ろ脚で立ち上がり、猫飼いであれば見間違いようもない渋面を作った。

「ふなーっ」

 ホイエルは尻尾を膨らませて絵画を威嚇すると、くるりと肉球を返し、不吉なものに出会した彼ら共通の、かっかっと砂を掻くしぐさをした。猫族の神経を逆撫でする、外宇宙の匂いがことさらに強く匂うらしい。

 ソーニャはふと思い立ち、イーゼルから夜の街を取り外すと、裏返した。

 半ば恐れ、半ば予期していたものを見出しソーニャは思わず嘆息した。

「ああ、クロード……」

 そこには、何か赤黒いもので、もつれた蔦のようなねじくれた文様が描かれていた。

黄の印イエローサイン〉の名で知られる、古い、古いシンボルだ。

「彼を攫ったのは〈名付けられざりしもの〉の手先ね……」

 ソーニャの手の中で、カンバスの木枠がみしり、と音を立てた。

〈蕃神〉の教団はどれも吐き気を催させるような儀式で知られるが、とくに〈名付けられざりしもの〉のカルトは殊にその忌まわしさで知られている。一刻も早く彼を助けなきゃ。

 若き魔女ははやる心を押さえながら、アトリエの中を見回した。何かヒントになるようなものは……?

 ある。明白だ。

 ソーニャは壁を埋める仮面の列に目を向けた。仮面の並びに、不自然な空白がある。ちょうど誰かが気まぐれに仮面を取って身につけ、そのままどこかへ行ってしまったかのように。

 少女は壁に近寄り、掛かる仮面の一つに手を伸ばして手に取って、裏返して見た。

 予期した通り、こちらにもカンバスと同じ印があった。

 魔女は仮面から顔を上げて絵画に目をやりまた仮面に目を落とした。

「なわ」

「わかってる」

 警告する使い魔に頷きを返し、ソーニャは仮面を顔の前へと持ってくると、目の穴を通して描かれた街を見た。

 夜景の光が目に飛び込んでくる。

 ソーニャは目を瞬かせた。絵が写真と変じたように思った。

 いや、違う。写真は光らない。それに、動いたりしない。

 運河をゆくゴンドラの乗り手が櫂を動かし、太鼓橋の上の群衆は押し合いへし合いしながら行進する。

 巨大な作り物を載せた山車が曲がり角を曲がって現れる。星々が瞬き、大きさのまちまちな月たちが、目で追えるほどの速さで空を渡る。少女の耳に祝祭の夜のさんざめく声が届いてきた。


 王は、居心地悪げに身動ぎした。

 玉座は木の根のようにも、巨大な一つの骨から刻まれたようにも、溶けて流れる黄金が冷え固まったもののようにも思える。その表面は滑らかでありながら、奇妙に凹凸が多く、あたかも痩せ馬の背のようだ。座っていて、あまり心地のよい物ではない。ふと見上げれば、はるかに高い玻璃天井の中央で常の如くアルデバランが赤々と燃えている。充血した獣の目に見つめられているようで、落ち着かない。

 四方の壁には、美しくもグロテスクな綴織つづれおりが掛けられ、鏡によって数を増した銀の燭台が、玉座の間の隈々を、昼と欺くまでに煌々と照らしている。どこか目につかない場所では、楽団がゆったりとしたテンポの室内楽を奏でている。大テーブルの左右、綺羅星のごとく居並ぶ貴顕、淑女は、天板を埋め尽くす奢侈を極めた料理の数々に舌鼓をうちながら、上品に囁きを交わしている。給仕が優美な仕草で空いた皿を取り上げ、ゴブレットに酒を注いで回る。壁龕へきがんには、剣を履いた衛兵が、自らも広間を飾る彫像と化したかのように待機して、玉座の間の安全を確保している。

 皆、一人残らず仮面を付けている。

 皆が皆、この場での自分の役割を心得て、その役割を見事にこなしているようだ。

 ただ一人、王だけを例外として。

「陛下、いかがなされました。先ほどより、すこしも召し上がられておられませぬご様子」

 側で道化が囁いた。

「ああ……うむ」

 王は曖昧に頷いた。

 ゴブレットの中でベスムーラの黄金の酒が、パチパチと音を立てて泡を弾けさせる。イーティルの鶴の丸焼きに給仕がナイフを差し込むと、パリパリと皮の割れる音とともに、香草の匂いが周囲にたちこめる。

 カルコサの力の及ぶ世界全てより取り寄せた山海の珍味を前にして、王は物思いに沈んでいた。

 なぜ自分はここに居るのか。

 という疑問が、胸中に泉水のように湧いてくるのだ。

 むろん、王の役割として、祝祭の夜の晩餐会に臨まぬというのは考えられぬ。しかし、場違いなところへと引出されてしまったという思いが拭えない。いったい、この目の前の大量の食物はなんだ。なぜ自分はこういった代物に、すこしも食欲をおぼえないのだ。目の前に広がる広間の光景や、居並ぶ廷臣といった一切が、自分には関わりのないもののように思えるのはなぜなのか?

 今宵は、ここに居ない誰かと、ここでない場所で、この卓には並ばぬものを食そうと考えていたのではなかったか。

 そんな擬似記憶めいた思いが、王の胸中に浮かんでくる。ふと、胸元に暖かさを覚え、王は懐に手を伸ばしかけた。

 何かが––。

「おお、今宵の大皿がまいりますぞ」

 道化の言葉に王は顔を上げた。見れば覆いをかけられた大皿が、六人がかりでテーブルの上に運び込まれたところだった。覆いが取られ、雲のような湯気が立ち上ると、ざわめきが広間に広がった。

 毎年、宴の最高潮を飾る、ダシャバシェムの蒸し焼きこそ、黒きハリ湖の恵の象徴にして、ハリ湖の賜物たるカルコサを象徴する逸品である。そう知ってはいても、王はその魚の有様が気に入らなかった。その鰭がどこか人の手に似すぎているのも、飛び出し気味の目が多すぎるのも、いかにも食欲をそそらない。許されるのであれば、遠慮したいところだ。

 されど、願いむなしく、湯気を立てる魚の身が、玉座の前まで運んでこられた。

「さあ、陛下。こちらは祝祭の一番の大皿でござりますれば、まず一番に召し上がっていただきませんと」

 へりくだった様子の道化の言葉には、有無を言わせぬような調子がある。ふと、王は玉座の間に集う仮面たちの、目の穴という穴が、自分を向いていることに気づいた。

 黒きハリ湖の恵みを、この場で最初に口にする。それが、王である自分に期待される役目なのだ。

 気の進まぬまま、王は肉刺しを手にとって、湯気の立つ白身に突き立てた。

 こんな奇怪な見てくれの魚であっても、食い意地の張った灰色衣のあやつなら、喜んで口にするのだろうが……。

 王の脳裏を、ふとそんな思いがよぎる。

 だが、あやつとは誰なのだろう……。

 その時、壁に掛けられた綴織がふわりと揺れた。

 綴織の背後の隠し扉より現れたのは、暗色の仮面と衣装に身を包んだ影のような人物だった。

 誰もが一時に息を呑んだかのような一瞬。あえて口をつぐんだものはおらず、楽士もその手を止めたりはしなかったが、それでも広間を奇妙な静けさが覆ったかのようだった。

 不吉を纏わせる影の姿に、列席する者たちはそれとなく顔をそむけ、あるいは、目の前の皿に俄然興味をそそられでもしたかのように俯いた。

 影は滑るように進み、道化師の側まで来ると、そっと耳打ちした。

「侵入者だと……」

 言いながら道化師は、玉座にいささか鋭利に過ぎる一瞥をくれた。

 仮面の奥で、当惑と怒りがないまぜの炎となって燃え上がったかに見えた。


 屋根の庇ぎりぎりを、巨大な触腕が通り過ぎた。張り子の頭足類を載せた山車を曳く群衆の掛け声が、鐘や太鼓の音に混じり、屋根の上まで届いてくる。

 唸りをあげて飛んできた金属の輪を躱し、ソーニャはスレート葺きの屋根の上に転がった。

 円盤が屋根で跳ね返り、甲高い音を立てた。

 振り返ると、たったいま武器を投擲した黒装束の男が、こちらの屋根へと飛び移ってきたところだ。素早くメイスを抜いたソーニャに、相手は後ろ手から、投擲したのと同じ武器を繰り出してきた。

 昔のレコードほどの大きさの輪の、鋭利に研ぎ澄まされたエッジが月光にぎらりと光る。

 大振りから、突き出すような一撃。内側の縁に指に引っ掛けて、くるりと回し、平たい側面を使って打ちかかる。男の手の中で、金属の輪が踊るように回転し、危険な刃が幻惑的に閃く。だが猫の目を持つソーニャは円盤の動きを正確に見切っていた。

 メイスのフリンジが一閃し、男の手から金属の武器を撃ち落とした。鋭利な刃が男の足指を切断し、屋根に深々と突き刺さる。バランスを崩した男は屋根を滑り落ち、庇を超えて下のカーニヴァルの行列へと落ちていく。

 その姿を見送る余裕もあればこそ、接近していた新手が、その手に握る金属の輪を振り回す。

 迫る刃をソーニャは深く腰をかがめてかわし、モーメントを載せた足払いで男を転倒させると、仰向けに倒れた相手の仮面に踵落としを見舞った。ぱきり、と乾いた音がして、男の顔が陥没する。割れた仮面の間から、鬼火が吹き上がった。

 男の体はみるみるうちに萎んでゆき、消えた。

 ソーニャはふぅ、と息をついた。

 足をどかして砕けた仮面を見下ろす。

「……やっぱり、仮面、外さない方がよかったんじゃない?」

 ソーニャはやや離れた煙出しの上でピンと耳を立てる相棒に言った。

 ホイエルはただ、つい、と鼻先を背けた。

 しばらく前のこと。ソーニャとホイエルは、この世界に入るために仮面を身につけた。案の定〈黄の印〉の描かれた仮面は〈門〉に対する〈鍵〉として作用し、一人と一匹は描かれた都邑の客人まろうどとなることが出来た。今や魔女も猫も、仮面を脱ぎ、月が二つ輝く異邦の地の夜風に素顔を晒している。

 先に脱いだのはホイエルだ。

〈名付けられざりしもの〉の印など、およそ健全な猫が身に帯びるべき代物ではないと、頭によくフィットしていた仮面をわしわしと剥ぎ取ってしまった。

 勝手も何もわからない、何者かの呪圏スペルバウンドの中でそのような振る舞いをするのはどうかと思う、とソーニャは言ったのだが、もふもふの相棒は、邪悪な代物をいつまでも身につけていたら心まで邪悪に染まって、きっとこの街から出られなくなる、と断固として主張するのだった。

 普段より頼みとする相棒の、家猫の勘に基づく強い意見に、結局ソーニャも折れたのだったが、時を置かず、黒装束の仮面たちが現れた。

 彼らは、うまく隠れていた一人と一匹を見つけ出した。これは隠密潜入を司る猫神の巫女とその使い魔としては屈辱的なことだ。

 相手は呼びかけても反応なく、死というものを知らないかのように闘い、たおれると仮面を残して消える。特徴からして、魔術的に仮構された人造精霊の一種に違いない。人造ならば製作者が居るはず。その者はまずまちがいなく、蔵人を拉致した人物だ。だが、短い接触でソーニャが得た感触では、仮面たちは何者かに操られているという感じはせず、奇妙な意思の無さが感じられた。ちょうど、人体に侵入した異物を攻撃して排除しようとする免疫システムに意思がないのと同じように。

 この黒子たちは、都邑を護るために機械的に異物を排除するようプログラムされた存在なのではないか? ホイエルが率先して脱ぎ捨てた例の仮面は、都市の免疫機構の攻撃を逸らすカモフラージュ・ツールとして用意されていたものなのでは? そうであれば、みすみす、安全に街に溶け込めるアイテムを無駄にしてしまったことになる。ソーニャはそう疑っていた。

 彼女の使い魔は、過ぎたことはしょうがない、とばかりに後脚で耳の後ろをけしけしっと掻いていたが、不意に顔をあげると、星々の輝く空に、パラボラアンテナのような大きな耳を向けた。

「うなわー」

 やがてソーニャの耳にも、旗のはためくような音が届いた。

 奇妙に明るい空を見上げると、星々の散りばめられた空を背景に、黒々とした何物かが不吉な輪郭を描いている。ホイエルは肉球でスレート屋根で踏ん張って、威嚇的に尻尾を膨らませた。

 月が二つ浮かぶ空を、翼あるものはみるみるうちに近づいてくる。それは、蝙蝠の翼と深海魚の頭、鳥の脚、蜥蜴とかげの尻尾を持った巨大な生き物だった。その背に乗せた人物の対比からして、化鳥の大きさは軽飛行機ほどはありそうだ。

「バイアキー?」

 ソーニャは怪物の名を呟いた。〈名付けられざりしもの〉の手先が好んで利用する星間生物だ。どうやら一人と一匹の存在が、この世界の支配者の注意を引いたようだ。

 化鳥は磨りガラスを釘で引っ掻くような不快な音声を発し、屋上の少女と猫に向かって急降下してきた。少女は屋根のスレートに突き刺さった円盤を引き抜いて、急降下爆撃機スツーカのような化鳥に向き直った。

 鞍上に向けて円盤を投げつけながら、ソーニャは横に飛び退った。

 テニスコートサイズの翼を持った化鳥が、半ば体当たりするような勢いで衝突してくる。

 通過しながらその強靭な鉤爪が、小さな家の屋根を梁から引き剥がして持ってゆく。無数のスレートが空中にぶち撒けられ、石礫のように祝祭の街に降り注ぐ。隣の屋根へと退避したソーニャが見ると、すでに怪物は半マイルも向こうに去っている。化鳥の脚が屋根の残骸を無造作に放り投げた。ソーニャの目は、その背の鞍が空いていることを見て取った。

「まるるわっ」

 ホイエルの緊張した声にソーニャは弾かれたように振り返った。

 道を挟んだ、向かいの屋根。その破風の上に、道化の仮面を身につけた男が立っていた。その手の中で、円盤状の刃がぎらぎらと輝いている。

「いやはや驚いた」

 道化の仮面はそう言って首を振った。

「侵入者と聞いたが、ほんの小娘ではないか」

 こいつ、喋った。

 人間だ。

 ソーニャはメイスの柄を強く握った。

 うなじの毛が逆立つこの感じ。

 ホイエルが目配せしてくる。

 外宇宙の気配だ。

「客を招いた覚えはない。この街より即刻立ち去るが––」

「人を探してる」

 男の話を遮って、ソーニャは言った。メイスのフリンジが溶鉄のごとき光を帯び始める。

「髪は黒。ダークブラウンの目。アジア系男性。年齢二十二歳。身長五フィート一〇インチ。ネイビーのコートと黒のズボンに、マスタード色のマフラーをしてる」

 ソーニャは言いながら、目の前の相手こそが彼を拉致した張本人にちがいないと確信していた。

 ペリドットの目の中で、ちらちらと炎が燃えはじめる。

 慈悲深き大いなるバステト神のもう一つの側面、戦と報復の雌獅子、セクメト神の力が、少女の満腔に湧き上がる。

「彼を見つけたら出ていく」

 メイスの頭から、黄金色の炎がごうと燃え上がって、少女の顔を浮かび上がらせた。

 威嚇的な魔女の様子に、道化師は手を開いて金属の輪を投げ捨てると、腰帯からしゃくを引き抜いた。

 刃を備えた円盤がスレートの屋根を転がって、下の路地へと落下していった。


 男が手を振り、印を結ぶ。道化の頭上の空間に、背景を歪ませる渦巻が五つ、六つと生まれ、次第に大きさを増す。

 ソーニャは、路地を飛び越えようとして逡巡しゅんじゅんした。空中では敵の攻撃を避けられない。左右に目線をやり、経路を探す。有望そうな足場を見つけた。破風や煙出しを間に挟めば回り込めそうだ。

 少女はスレート屋根を駆け出した。

 仮面の男が笏を一振りすると、空中の渦巻の一つが、ため息のように旋風を吐き出した。

 直径一ヤードばかりの旋風は進むにつれて絞り込まれながら速さを増し、錐のように鋭い烈風となって屋根に突き刺さりスレートを叩き割った。攻撃を受けた家屋の二階の窓ガラスが突如高まった室内の気圧に耐えかねて砕け、路地に降り注ぐ。

 道化は空中の渦巻から、次々に烈風を呼び出して、若い魔女の進路に向けて解き放った。

 魔術の風がそこかしこで暴れ回る。

 風よりも速く、魔女と灰色の使い魔は屋根を駆ける。その動きは滑らかで、ためらいが無い。巨大な爬虫類の鱗を思わせるスレートが、踏まれるたびに軋みをあげる。道化師が呼び出した最後の渦巻がソーニャの後毛おくれげを掠めていった。

 灰色のもふもふが、空中に見事なアーチを描いて跳躍した。

 使い魔を追って、少女が宙を飛んだ。

 脚を曲げて着地の勢いを殺すと、ソーニャは魔術師に向かって矢のように跳んだ。炎をあげるメイスを風車のように振り回し、道化の仮面に打ち掛かる。

 道化は素早く、笏でスレートを打った。音を立てて褐色の煙が吹き上がる。勢い余ってソーニャは煙幕の中に突っ込んだ。

 煙は濃く、いがらっぽい匂いがするだけではなく、妙にねばねばとしていて、顔や髪に絡みついてくる。振ったメイスの先端に、水を打ったような抵抗感がある。気づけば、煙が真綿のように身体を締め付けている。

 道化は動きを止めたソーニャから距離を取り、空中に向かって大きく腕を振り回した。頭上に星空を歪ませる不可視の円盤が生まれ、ゆっくりと回転を始める。その直径は、軽く一〇〇フィートはありそうだ。

「ぎゃわわわう!」

 その時、ホイエルが叫びながら魔術師に飛びかかり、その腕に長い牙を埋め込んだ。仮面の男の集中が乱れ、渦が雲散霧消する。ソーニャは内心で相棒に喝采を送りながら、印を切ることもなく、自身の中から火を呼び出した。少女の身体から吹き上がった炎が魔術の煙をズタズタに引き裂き、焼き尽くす。夜の闇に、火の粉が百万の蛍のように乱舞した。

 激怒した魔術師は、笏に雷電をまとわせて腕にしがみつく獣に打ち掛かった。ホイエルは顎を開くと、さっと身を捻って攻撃を躱し、あっという間に敵の攻撃の射程から飛び去った。

 ソーニャはその隙に距離を詰めた。

 炎を纏わせたメイスで雷電を纏う笏をいなし、固めた拳を男の鳩尾に埋めた。

 げふっ、と声を上げて、仮面の魔術師がくずおれた。

 手から離れた笏を、少女の靴が蹴り飛ばした。

 魔術師の武器はスレート屋根を滑り、庇から路地へと落ちていった。

「わたしの探している人はどこ。正直に言えば命だけは取らないであげる」

 身体を丸め、激しく咳き込む魔術師にメイスを向けたまま、ソーニャは言った。男は仮面の下でぜいぜいと息を吐きながら、わずかに顔を上げ、また下げる。手をゆっくりと上げ、震える人差し指で王宮の方を指した。

「あの中? 彼は無事なの?」

 ソーニャは巨大な建物に目を向けた。

 無数の窓が光り輝くなか、ひときわ大きな硝子のドームが目を引く。

「わまーっ!」

 従兄の手がかりに気を取られた若き魔女に、使い魔が警告の声をあげた。

 刹那、魔術師は屋根を転がってソーニャから離れた。

 追撃しようとしたソーニャは、足が動かないことに気づいた。見ると、屋根が霜が降りたよう白く変わり、少女の足裏をスレート屋根に凍てつかせている。魔術師にはかられたのだとソーニャは気付いた。

「ぶるぐとむ・ぶるとらぐるん・ぶるぐとむ いあ! いあ! はすとぅーる!」

 魔術師は今や両手を屋根に押し当て、笏を失った不理を埋めるべく、大声で呪文を唱えている。空気がみるみるうちに冷え、足裏に生じた氷は厚みを増してゆく。ソーニャはメイスを逆手に持つと、足元の屋根に突き込み、念を凝らした。炎と蒸気が吹き上がる。氷が湯となって流れる端から、すぐに凍りついてゆく。

「わまらーっ」

 広がる氷に、魔術師を攻めあぐねていたホイエルが警戒の声をあげた。ソーニャは魔術師の詠唱の背後に、風をはらんだ帆がはためくような音を聞いた。

 次の瞬間、漆黒の翼が少女の視界いっぱいに広がった。


 凍てつく風が少女の髪をなぶり、その身体から熱を奪う。提灯と角灯で照らされる祝祭の街はすでにはるか後方に去り、眼下には墨のように黒い湖が広がっている。頭上の星を隠す翼が打ち下ろされるたび、猛烈な羽ばたきの音が、冷たくなった耳朶を打つ。冷たく、ごつごつとした感触。生き物の不快な臭気。高度三千フィートの上空で、ソーニャは、巨大な鉤爪にその身を縛められていた。

 その気になれば彼女を握り潰すことなど造作もないであろう化鳥は、そうはせず、黒い湖の中央を目指して飛翔していた。

「侵入者は湖の主の餌食だ!」

 魔術師の罠にかかり、動きの取れない若い魔女を前に、仮面の男はそう言って化鳥をけしかけた。その声に浮かぶ嗜虐的な愉悦には、湖の主なる存在が少女にもたらすであろう運命について暗示させるものがあった。

 ソーニャを捕らえた皮膜ある翼は瞬く間に高度を取り、矢のような速さで湖の上へと連れ去った。相対速度がもたらす暴風の影響を緩和すべく、ソーニャはまず保護のまじないを唱えてながら、今後の方策について考えた。化鳥を殺す方法ならば、両手に余る手段を識っているソーニャだったが、それでは湖に真っ逆さまだ。よしや水面との激突を生き延びても、すでに岸から何マイルも離れている。たとえ湖の主なる存在に襲われなくとも、生きて岸にたどり着くのは困難だ。

 もっと巧妙な作戦が必要だ。

 幸いというべきか、メイスはまだ手元にある。しかし、この頼れる得物を活躍させる方法はすぐに見つかりそうもない。

 そういえば、ホイエルはどうしたろう。よもや、あの魔術師に捕らわれたりはしてないだろうか。きっと大丈夫。ひとたび都邑の暗がりに逃げ込めば、だれもあの猫を追えはしない。

 相棒のことを考えていたソーニャは、ふと鉤爪の隙間から後ろを見た。

 なんと、化鳥の長い尻尾に、灰色の獣がかじりついている。

「ホイエル!」

「ふむぐーっ」

 思わず呼びかけた魔女に、使い魔がくぐもった鳴き声で応えた。長い毛がわさわさと煽られ、今にも吹き飛ばされそうに見える。ホイエルはのたくるような化鳥の尾っぽの、鱗と皺のある皮膚に、鋭い鉤爪とたくましい顎でがっしりとしがみついていのだ。

 どうしてそんなところに?

 主人が空中に連れ去られた際、この忠実な使い魔は化鳥の尾にしがみついたのだろう。

 運命の半ばきわまった魔女に最後の瞬間まで付き従おうという心算なのか? それとも、何か勝算があってのことなのだろうか?

 見ているうちに、ホイエルがじりっじりっと前に進みはじめた。爪と顎を巧みに使い、化鳥の身体に足掛かりを見つけながら、着々と猫は近づいてくる。

 どうする積もりなのだろう?

「わまーらーっ」

 やがてホイエルは、羽ばたく飛膜の縁までくると、自信満々と言った顔でひと鳴きして、ソーニャから死角になる化鳥の背中へ登って行った。

 何か考えがあるらしい。

 ああ見えて相棒は、頑丈なおむすび型の頭蓋骨の中に、侮れない英知を宿している。ソーニャはホイエルの計画が上手くいくように祈りながら、洋洋と広がる暗黒の湖を見下ろした。

「わまーっ」

 鳴き声がした。今度は前方からだ。ソーニャが振り向くと、長くのたうつものが前方から降ってきた。

 少女は手を伸ばし、それを掴んだ。硬く、平たい革の帯だった。

「これ……手綱ね!」

 バイアキーの轡に取り付けられた手綱だ。騎手が手放してから風にたなびくままになっていたものを、化鳥の背中を縦断したホイエルが捕らえ、化鳥の翼の前縁から腹側に持ってきてくれたのだ。

「さすがね!」

 ソーニャは手綱を取って自分の手首に巻きつけた。この巨大な獣をコントロールするためのものだ。一二〇ポンドやそこらの重さがかかっても、たやすく切れはしないだろう。

 半分願望混じりでそう思いながら、ソーニャは愛用のメイスに念を込めた。七枚のフリンジが熾火のように赤熱し、蛍のような火の粉をちらちらと吐き出しはじめる。

「しっかりしがみついてて!」

 ソーニャは相棒に言いながら、自らを縛めるバイアキーの脚に得物を押し当てた。ジュウ、と音が立ち、鱗の焼ける匂いが漂う。

 化鳥が吠えた。

 ソーニャはさらに力を込めて、焼鏝と化したメイスで不気味な化鳥の鉤爪をあぶりつづける。

 ついに苦痛に屈し、化鳥がその鉤爪を開いた。

 少女はだしぬけに虚空に投げ出された。

 手綱が少女の落下を止めた。

 くつわを真下に引っ張られ、化鳥が石のように垂直に落下した。

 それまでとは比較にならないほどの烈風が少女の身体を襲う。保護のまじないがなければ瞬時に致命的な低体温状態に陥るところだ。ソーニャは手綱を手繰り、少しづつ化鳥の胴体の下側から抜け出ようと自身を引っ張った。

 あとどれくらいで湖面だろうかという疑問を努めて考えないようにする。漆黒の水面までの距離は目測では測り難い。湖面まであと千フィートあるのか、それとも一〇〇フィートしかないのか。

 必死の努力の甲斐あって、少女の身体はついに飛膜の前縁を越え、化鳥の背中側に這い出した。

 ソーニャは手綱をぐっと引き、化鳥の頭を上向かせた。翼が風をはらみ、ばん、と大きな音を立てる。

 化鳥は頭をもたげ、その機動を垂直降下から水平飛行へと変化させる。化鳥の翼と尾の先が黒き湖面に触れて飛沫を上げ、ソーニャは危険なまでに高度を下げていたことを知った。

 少女は化鳥の背面を這って、据付けられた鞍にたどり着いた。座席の横にしがみついていた灰色猫を抱き寄せ、わしゃわしゃとその頭を撫でる。

「ホイエルえらい!」

 言いながらソーニャは、危機を脱すると共に、この飛膜持つ騎馬を手に入れたことで都邑への帰還の方法、ひいては蔵人の救出の手段を手に入れたのだと思った。

 だがしかし、まだ危機は去っていないようだった。

 黒い湖の上。

 高度およそ一〇〇フィートほどを、バイアキーはゆっくりと飛翔していた。ソーニャが手綱を手繰って、この扱いにくい化鳥を御すコツを掴もうと奮闘していたとき、彼女の相棒が不安そうに小さく唸った。

 少女と大猫を乗せた飛翔生物の前方で、にわかに黒い湖が沸騰したかのように泡立ち始めた。ソーニャが泡立つ水面から化鳥の進路を逸らそうと手綱を引くが早いか、バイアキーは耳障りな叫び声を上げ、しゃにむに翼をはためかせはじめた。必死に高度を上げようとする化鳥は明らかに恐慌をきたしているようだ。

 泡立つ水面を割って、天を貫く巨大な柱が飛び出した。

 少女とその使い魔は騎乗する怪物に負けないほどに目を大きく見開いた。大きい。まるでエンパイアステートビルが突如生えたかのようだ。

 巨大な柱は、三〇〇フィートもの高さにそびえ立つと、その先端をくにゃりと曲げて、一人と一匹を乗せたバイアキーを狙い、巻き込むような動きで襲いかかってきた。

 実際、それは巨大な触腕だった。

 ソーニャはバイアキーを急かそうとしたが、この化鳥をどうやって急かしたらよいのかまるで分からず、途方に暮れた。しかし、実際にはその必要はなかった。翼あるものは今や、自分自身の生存のため、躍起になってその巨大な翼を羽ばたかせ、突如湖面より出現した恐怖を避けて飛んでいた。

 空気抵抗の大きな長毛種の大猫が風にさらわれないよう、ソーニャは相棒の身体を自分の身体でもって鞍に押し付けるようにしながら、自らも懸命にしがみ付いた。

 巨大な触腕は湖水を雨のように滴らせながら、飛ぶものを絡めとろうと空中をまさぐる。その表面に、小さな円盤状の斑紋がまばらに付いているのをソーニャは見た。

 化鳥の翼が空気を打つ。すでに俊速の怪物は湖の主を引き離しつつある。水の匂いと、巨大な生物の匂いが周囲の空気に満ちている。

「ふわまーっ」

 魔女の身体の下で使い魔が鋭く鳴いた。

 前方の湖面が、また沸騰したかのように泡立っていた。

 その規模は、先ほどの比ではない。セコイアの苗木が成長する千年を十秒に縮めたかのように、目の前に触腕の森が立ち上がった。十か、それ以上の巨大な触腕の群れだ。

 高度を上げることができれば、触腕の届く範囲から離れられるだろう。しかし、そのために速さを犠牲にすれば致命的な結果が待っている。バイアキーはそのことを本能的に知っているのだろう。うねる巨大な触腕の森を、化鳥は可能な限りの速さで飛び、襲いくる死を紙一重で躱していく。だが、狩の輪はしだいと狭まっているようだ。

 ソーニャは鞍にしがみつき、月光を浴びてうねる、巨大な生物の器官が目の前を通り過ぎるのを半ば呆然としながら見た。そして卒前と気付いた。触腕の表面にある小さな斑紋、そのそれぞれが全て、凝視する目玉なのだ。

 なるほど、最初の一本は斥候か。

 少女は胸中に希望が湧いてくるのを感じ、その時初めて、自分がいくらか死を覚悟していたことに気付いた。魔女は使い魔の背中の毛をわしゃわしゃとかき回し、一掴みぶんの抜け毛を手に入れると、愛用のメイスのフリンジに開いた穴に猫毛を詰め込みながら〈太陽の左目バステト〉を称える詠唱を口の端に上らせた。

 古の神殿の、列柱を思わせる触腕の群れが、罠を閉じるように化鳥に襲い掛かかる。バイアキーの口から、動物離れした悲鳴がほとばしる。その時、怪物の騎手は手にした鉾槌にして杖を高く掲げ、力ある言葉を解き放った。

 刹那、稲妻の閃光が世界を焼き尽くした。

 夜を昼と変える輝きが触腕の作る環状列石の中心で爆発し、黒曜石を思わせる水面を鏡のように眩く照らした。眩惑された触腕が、苦痛を感じているかのように身悶えし、精妙な狩の輪は崩壊した。

 ソーニャは閃光に驚き、暴れるバイアキーの手綱を懸命に引っ張り、どうにか触腕の危険域から抜ける方向へと化鳥の頭を向けさせた。

 水平線の彼方に、宝石のように輝く玻璃天井が見えた。


 ひそやかに歩き回る侍従たちが灯火を一つ、また一つと消してゆく。

 やがて玉座の間は一時、暗闇に沈む。

 ふいに、天井より麗しき月光が注ぎ込まれ、ものみなすべての上で小魚のように跳ね回った。見上げれば、広間を覆う玻璃天井の枠が切り取った夜空の中に、双子の月のナグとイェブが姿を現している。

 祝祭、ユールタイドの夜がその絶頂を迎えようとしている。アルデバランの御前にて、双子の月がその輪郭を重ねる時こそ〈千なる玉座〉の待ち兼ねる、奉納の時だ。

 月たちは、ゆるゆると、目で追えるほどの速さで天頂、玉座の真上へと昇りつめてゆく。

 不意に、玉座の間を染める銀の月光に影が過ぎる。

 はためくような音に続き、凄まじい破壊音が鳴り響いた。割れ、砕ける音を追いかけて、微塵に砕けた玻璃天井の薄氷のような破片を纏い、真っ黒な塊が広間の大テーブルの上に音を立てて墜落した。降り注ぐ硝子の雨がそこかしこで鋭利な飛沫をあげた。 

 玉座の間に列する誰もが皆、突然の闖入者によってもたらされた大破壊に茫然としていた。

 テーブルで横たわるのは、深海魚を思わせる、瞼のないぎょろり目玉の化鳥だった。衝突によって砕けた口吻から紫の長い舌を突き出して絶命している。硝子の雨と、天幕ほどもある翼に押しひしがれ、列席する貴族たちが呻き声をあげる中、玉座の人物は弾かれたように立ち上がった。

 黒々とした化鳥の首根っこには、一人の娘がしがみついていた。月光のせいか、黄金色の髪は常よりも淡く見える。娘は死んだ化鳥の側でみじろぎ一つしない。

 彼はテーブルの上に飛び乗ると晩餐の名残りを蹴倒して、娘の元へ駆け寄った。

「きみ! 大丈夫か……きみ!」

 彼は化鳥の流した血だまりに膝をつき、少女を抱き起こしながら呼びかけた。

 真上から降り注ぐ月光を浴びて、少女の顔は青白く、かつ場違いなほどに穏やかだった。

 どうしてこの子がここに?

 無事なのか?

 目を開けてくれ!

 彼の胸元では、アミュレットが何かを伝えようとするかのように熱を持っていた。

「どうしたことだこれは……何が起きた?」

 なじるような声が、広間に響いた。

 隠し扉より戻った道化が、テーブルの上に横たわるもの目にした途端、怒り心頭で声高に言った。

「おのれ、小娘っ! 我が王宮の玻璃天井を……衛兵! 曲者を捕らえよ!」

 道化の命令に、壁龕に控えていた衛兵が広間の中央へと進み出る。彼らが剣の柄に手を伸ばしたのを見て、王が一喝した。

「やめろ!」

〈蒼白の仮面〉は苛々と首を振り、言った。

「この娘に近づくんじゃない! 下がれ!」

「何……なんだと」

 王の命令によって、テーブルから引き下がる衛兵たちを、道化師は信じられないという目で見た。

 道化は肩をおこりにかかったかのように振るわせ、怒りを爆発させた。

「ふざけるな! 偽王モック・キングのくせに! 俺の城を盗みやがって!」

 道化は笏を抜き、玉座の主に向けて振りかざす。笏の先に鬼火が灯った。

 その瞬間、控えていた衛兵たちが、王を護るべく道化師に殺到した。

「何をするか、やめろっ! 俺こそが王だぞ、無礼な、下がれ!」

 道化の言葉をまともに取り合う者など誰も居ない。鬼火の笏が振られ、衛兵のいくたりかが炎の柱となって燃え上がる。が、そこまでだった。死を恐れぬ衛兵の残りが道化を組み伏せ、その顔から仮面を引き剥がし、踵で踏み割った。

 捕物の間じゅう〈蒼白の仮面〉は、外野を意識から締め出して、ただ腕の中の少女のことを案じていた。

「きみ……ねぇ、きみ……」

 玉座の主は震える指で少女の髪から硝子の破片を取り除きながら懸命に声をかけ続けた。

 名前を呼ぼうとして、卒前と恐怖に心臓を掴まれた。

 この子の名前が思い出せない。どうしてだ?

 こんなに大切な人の名前を思い出せないなどということがあるのか?

 もどかしさに、気が狂いそうになる。

「うがーわま」

 奇妙な声が響き渡った。

 山猫に似た灰色の獣が、翼竜の飛膜の下から、ずりっずりっと身体を引き出し、ぶるぶると身体を震わせて毛皮からガラスの破片を跳ね散らかした。

「わーまがら、なわらー」

 獣はそう鳴いて、くしくしと顔を洗う真似をする。一旦前足を止め、おまえもこのようにせよ、とでもいうかのように短く鳴くと、またくしっくしっと顔を洗った。はたと思い当たり、王は自分の顔に手をやった。そして、一思いに仮面をむしり取って投げ捨てた。


「……ニャ、ソーニャ……」

 どこかで、自分の名が呼ばれている。

「ソーニャ!」

 少女は、はっとして目を開いき、黄金の睫毛で縁取られた目蓋を瞬かせた。

 肩を抱く腕の感触。

 円く切り取られた夜空を背景に、こちらの顔を覗き込んでいるのは、彼女がこの世で一番大切に思う相手だった。

「クロード……!」

 少女はがば、と身を起こして従兄の身体を抱きしめた。少しでも多く彼を感じたい。腕の感触だけでは足らず、ソーニャは蔵人の首根っこに鼻先を押し当て、胸いっぱいに息を吸い込んだ。彼が自分の手に届くところに居る。ただそれだけのことなのに、嬉しくて涙が出そうになる。

「よかった、クロード、無事よね? ひどいことされてない?」

 ソーニャは鼻をすすりながら尋ねた。

「うん、僕は大丈夫……君こそ、怪我は? どこか痛かったりしない?」

「えっ……うん、大丈夫だけど……」

 若い魔女はそう応えながら、今初めて、自分の腕に戻った従兄以外のものに目を向けた。

 首の折れた化鳥の死体。硝子の破片を浴びた大テーブルの上の晩餐の名残。顔を上げると、大穴の開いた玻璃天井で二つの月が輝いている。

「そっか、バイアキーがぶつかって––」

 そこまで口にしてから、ソーニャはテーブルの席を埋める、豪奢な衣装に身を包んだ仮面の人物たちや衛兵たちに気付いた。周囲に視線を走らせメイスを探しながら、空手で力ある印を結びかけたところで、仮面の人物たちが、みじろぎ一つしないことに気づいた。動力を止められた機械人形のように、みな動作の途中で凍りついたように静止している。

「これは……?」

「ええと……ケンタッキーで買い物して……その帰り道で……」

 物問い顔のソーニャに、蔵人は知る限りのことを説明しようとしたが、途中で言葉に詰まり、当惑の表情を浮かべた。

「赤い服のおじいさんに話かけたんだけど……」

 ソーニャの視界の隅で、何かが動いた。少女が顔を向けた先、紅の衣服を身につけた男が静止した兵士たちの間から這い出した。ソーニャがこの世界で目にした、二人目の素顔の人間だった。

 やせぎすの、中年の男だ。あまり印象に残らないタイプだ。

 男は、広間の床の上で砕けた仮面に悔しげな一瞥をくれると、テーブルの上の二人に気づき、ハッと息を呑んだ。

 少女の中で、この男と屋根の上で邂逅した仮面の魔術師とを結びつけるのが一瞬遅れた。

 男は、床に投げ捨てられた、禍々しい飾りの施された白い仮面を見つけ、奇声をあげながらそれに飛びついた。

「王だ! 我こそがこの都邑の王だぞ! 皆のもの、目覚めよ! 我に従え!」

 散乱する硝子の中を転がるようにして仮面を拾い上げた男は、高笑いを上げながらそれを自らの顔に当て、宣言した。

 その瞬間、今まで凍りついたように動きを止めていた広間じゅうの廷臣が、衛兵が、息を吹き返した。


 鋭い剣のひと突きを横にそれて躱し、ソーニャは衛兵の仮面に掌底をくらわした。砕かれた仮面から鬼火が吹き上がり、兵士はたじたじと後退し、くずおれる。背後から斬りかかってきた新手の剣をしゃがんで避けると、剣を持つ手首を取って相手を床に投げ飛ばした。少女の背後では、彼女の従兄が重い燭台を振り回し、また、テーブルから皿やフォークを投げて敵を牽制している。

 魔女が兵士の一人の仮面の真ん中に、肉切り包丁を突き立てたとき、使い魔が彼女のメイスを見つけてきた。主人に杖を届けた灰色猫は、敵の一人に向かって突進するとその顔に飛びつき、鉤爪と体重を使って仮面を引き剥がした。

 ソーニャは矛槌兼魔法の杖を手の中でくるりと回すと、炎を呼び出して床に向けて一振りした。打ち水のように撒かれた炎が、燃え盛る壁となって敵の接近を阻む。

「ええい、さっさと小娘を殺せ! 男は必要だ、傷つけるなよ!」

 炎の向こうから〈蒼白の仮面〉を身につけた魔術師の号令が聞こえてくる。

 ソーニャはその言葉に、安堵と怒りという相反する感情を抱いた。

 やはり、敵は何か、名状しがたい目的に蔵人を利用しようとしているのだ。

 いいだろう。できるものならやってみろ。私が生きているうちは、彼に指一本触れさせない。ソーニャは燃える矛槌で新たな相手に打ち掛かかって行った。

 広間の誰もが、目の前の闘いに気を取られている間も、天体は着々とその軌道を進んでいた。

 ––そしてついに、その時はやってきた。

 玉座の間に、明るい闇が落ちた。

 砕けた玻璃天井から降り注ぐ月光が、名状しがたい色と変わっていた。

 有害な滲出物を思わせる、脈動する極光オーロラのような毒々しい輝きが狂おしく乱舞するその有様たるや、およそ尋常の宇宙に属するものとは思えない。思わず空を見上げたソーニャは、中天で二つの月がその輪郭を重ね合わせているのを見た。

 恐怖が細波となって押し寄せ、玉座の間を洗った。衛兵も、廷臣も、みな慄いたように武器を取り落とし、後退りした。仮面の顔に畏れの色が浮かんでいるようにすら思えた。

 玉座から、恐怖が姿を現した。

 耳をつんざくような絶叫、あるいは咆哮が玉座の間に殷殷いんいんと轟きわたり、破れた玻璃天井より、重なり合う二つの月へと昇ってゆく。

 魂消たまげるような叫びの、物凄いような残響の中。

 ソーニャは見た。

 玉座の背面の凹凸のグロテスクな紋様が奇妙に蠢き、生けるもののように蠢くのを。

 否、それはたしかに生きている。

 不規則に並ぶ拳大の凸面が目蓋を開き、爬虫類の目を思わせる割れた瞳孔を顕にした。鉢ほどの大きさの凹面が深く沈み込み、縁に不揃いな牙を生やす、八目鰻を思わせる口腔へと変化した。そこからは、長い、黒々とした舌あるいは触腕が幾本も飛び出し、悶えるように床を、テーブルを、周囲のあらゆるものを舐め回した。

 カルコサの都邑の力の源たる玉座が、その本性を顕したのだ。

「クロード……!」

 ソーニャは唖然としている年上の従兄の腕を取り、彼が魅入られたように見つめているものに気付いた。

 蔵人の視線の先にあるのは、玉座に生じた口腔から伸びる無数の触腕、あるいは舌によって背後から身体を絡めとられた〈蒼白の仮面〉の姿だった。

「やめろ、やめてくれ! 俺は王じゃない! 生贄になどなるものか!」

 男は情けなく喚きながら、腕を振り回し、指先でさまざまな印を結ぼうとするが、その魔術はすべて不完全に終わった。〈名付けられざるもの〉への懇願も虚しく〈蒼白の仮面〉はなす術もなく玉座に開いた貪婪どんらんな口へと引きずられてゆく。その距離が三ヤードになり、二ヤードになった。

 ソーニャの脳裏には、これから起こることがありありと思い浮かんだ。あいつが蔵人を拉致した理由に、あらためて嫌悪と恐怖が湧き上がる。

 玉座のもたらす、この世界の王としての特権は、年に一度、ユールタイドの夜、玉座に着く者の血肉によってあがなわれるのだ。玉座のあぎとによる無残な死を逃れるため、彼奴は拉致した人間を仮面の魔力を用いて偽の王に仕立て、身代わりの生贄として捧げてきたのだろう。一体これまでに何人の人間が犠牲になったのだろうか? 古のバビロンの、祝祭の偽王モック・キングの起源がソーニャには判るように思えた。

〈蒼白の仮面〉と玉座までの距離は、いまや一ヤード、ついに一フィートまで縮まってゆく。

「ああああ、どうかお慈悲を、いあ、はすとぅーる……」

 自業自得だと思いながら、ソーニャは玉座から視線を逸らした。

 瞥見するだけで、長く悪夢に取り憑かれるような光景で魂を汚したくない。

「クロード、見ちゃだめ。目を閉じて、耳も塞いで……」

 柔軟な魂は、耳に聞こえるものだけでも十分に傷ついてしまう。少女は言いながら、懐から魔法少女七つ道具の一つ、耳栓を取り出した。耳に詰め物をして顔を上げたとき、ソーニャは彼女の従兄が、じっと玉座を見つめていることに気付いた。

 無防備に立ちすくみ、その顔は恐怖で強張りながら、その目は、強いられているかのように一心に玉座とその生贄に釘付けにされていた。つい最前まで、あの、咆哮して触手を振り回す玉座に腰掛けていたという事実が、彼の心を強く縛り付けているのだ。

 彼の心を玉座から引き離さないと。

 ソーニャは蔵人のもとに駆け寄った。

 憑かれたように玉座を見つめる蔵人の耳を、しなやかな掌が包み込んだ。

 咆哮と悲鳴が、温かなホワイトノイズの向こうに遠ざかる。見ると、目の前に従妹が立っている。何か言っているようだが、彼女自身の手で耳をふさがれているせいでよくわからない。

 少女は目線で何かを伝えようとしている。橄欖石色の瞳の奥で、炎が燃えているかのようだ。しかし、蔵人はその意味をはかりかねた。視線が彼女の肩越しに、玉座へと泳ぎかける。

 蔵人の目の動きを捉えたソーニャは、意を決したようにきゅっと唇を引き結び、素早く顔を近づけた……。


 そしてついに〈千なる玉座〉は生贄を手に入れた。

 人間の喉が発することのできる限界の絶叫が響き渡る。それに、玉座への着座を余儀なくされた男の肉体と魂を、幾重にも重なった牙を持つ顎門がすり潰し、噛み砕き、吸い込み、すすり上げる音が重なった。

 玉座に座るものは、座面に触れている部分から順にその肉体の量を減らしてゆく。咀嚼そしゃくされる者の発する絶叫は途切れることなく、哀訴から、聞くに耐えない呪詛へと変わりながら長々と続き、途絶えた。

 玉座の間に、静寂が降った。

 やがて、破れた玻璃天井から注ぐ月光の色合いが、入り乱れるような妖光から、淡く白い、尋常のものへと戻ってゆく。重ね合わせの双子月は互いに身を離し、それぞれの軌道を進んでゆく。

 カルコサの祝祭は終わった。

 仮面の廷臣と衛兵は王を失い、また再び、活人画のように静止している。

 この場でただ一匹、生贄の運命を見届けたホイエルはしなやかな動きでテーブルに跳び乗った。

 灰色の獣はそのもふもふの毛並みで、散乱するテーブル上の陶器銀器の表面を撫でながらとたとたと天板を闊歩する。テーブルの中央にデンと据えられた、妙に大きな、グロテスクな魚が彼の注意を引いた。胃袋の要請に従ってホイエルは皿を検め、ちょっと残念そうに唸った。降り注いだ硝子の破片がその表面を覆っている。この魚は食用に適さない。

 好奇心の赴くままテーブルを冒険した灰色猫は、その端で、静まり返った玉座を覗き込んだ。

 座面には一枚の仮面が残されていた。

 そのおもてに残る一滴の血痕だけが、カルコサの王を名乗った男の、ただ一つの名残だった。

「わおわおわ」

 主人に仮面の存在を伝えようと発した猫声が、がらんとした広間に響き渡る。

 返事がないことを不審に思ったホイエルが振り返ってみると、いまだ主人と同居人は、くっつきあったまま、二人して棒のように突っ立っている。

「わぁあ––」

 使い魔はさらに大きな声で呼びかけようとして、二人とも耳を塞いでいるために聞こえないのだと合点した。ホイエルは二人の元へ駆け寄って、生贄の儀式の絶頂がすでに去ったことを伝えてやろうと思ったが、ふと気を取り直して肉球を返し、広間全体の探索にとりかかった。


 描かれた都邑の表面に、火がゆっくりと広がってゆく。キャンバスを舐める炎はやがて大きく燃え上がり、雪の積もる庭と、少女の顔と、灰色のもふもふを照らし出した。

「これで、この街が少しは住みよくなるわね」

 ソーニャは炎を見つめながら、言った。

「うわまわわ、うなーわる」

 ホイエルが唸る。

 今夜の冒険の結果として、外宇宙と結託した邪悪な妖術師とその魔術の焦点を滅ぼすこととなった。この後〈千なる玉座〉は生贄を求め叫びを上げることはなく、作り物の顔と紅の外套に身を包んだ妖術師が犠牲者を捉えるべく聖夜を徘徊することもないだろう。すくなくとも、ここ岡山では。

 せっかくの祝祭の夜を台無しにされてしまったにしては、ソーニャの気持ちは沈んでいなかった。彼を救い出すことができたのだ。これからも彼と一緒の人生を歩むことができる、そのことだけで、十分だ。

 それに、緊急避難とはいえ……。

 少女はそっと唇に指で触れた。顔が火照るのは邪悪な焚火の輻射熱のせいだろうか?

 それにしても……。

「……ホイエル、もうちょっと早く声をかけてくれてもよかったんじゃない?」

 ソーニャは炎の照り返しに染まるもふもふに向かって言った。使い魔がもたもたしていたせいで、ずいぶん長い間、彼と、ああして、じっとしていなくてはならなかった。

「うろわら? ふわまーわーらまわ」

 ホイエルは心外だ、とでも言わんばかりに顔を上げて鳴いた。

「なっ、別にそんな、いや、そんなわけないじゃない!」

「なうわうわ。わーまうま」

「ちがっ、嬉しくなんか……取り消しなさい!」

「なうわうわ!」

 生意気な口をきく使い魔をとっちめてやろうと、ソーニャは大猫の胴体を掴むと、雪の上に押し倒した。柔らかな和毛に指を入れ、もしゃもしゃとかき回してやると、ホイエルは肉球で少女の腕をぺしぺしと叩いた。

「……よいしょっと」

「みょっ!」

 背後からの声にソーニャがぴょこんと振り向くと、彼女の従兄が両手で抱えた仮面を火の中に投じたところだった。火の粉がパッと舞い上がり、ちらつく雪に混ざって夜の中で踊る。絵具に含まれた鉱物のせいか、それとも別の霊的な何かのためか、仮面を喰む炎は青や緑、赤や橙の色合いを帯びている。その由来や用途を考えなければ、なかなか綺麗だとも言えなくなかった。

「これで、全部かな」

 蔵人が火を見つめながら言った。

「うん……アトリエの他の絵は、燃やさなくてもいいと思う」 

 ソーニャも視線を落とし、しだいに崩れてゆく仮面がさも興味深いものであるかのように見つめた。

「今日は……その、助けてくれてありがとう。また面倒かけちゃったね」

「面倒だなんて、そんなことない……クロードが無事でよかった」

「あ……うん、ありがとう」

 お互い、先ほどから目を合わせられていなかった。会話はどうしてもぎこちないものになってしまう。双方、顔が赤いのは、炎のためばかりとはいえないようだ。

 灰色猫は主人と同居人の顔を交互に見遣り、やれやれと肩をすくめた。

「ぷるるわっ、おうおうおーっ」

 雄猫の鳴き声が、どこか気づまりな雰囲気をぶち壊した。

「ホイエル?」

「うん? どうしたんだい?」

「お腹すいて死にそうだって……」

 魔女とその同居人は顔を見合わせる。

 次の瞬間には、二人とも笑い出していた。

「たしかに……僕もお腹ぺこぺこだよ」

「わたしも。はやく帰ってご飯にしましょ……」

 言いかけ、ソーニャと蔵人は目を見合わせた。

 二人同時に、今夜のディナーになるはずだった揚げ物のことを思い出した。

「あっ、ケンタッキー!」

「忘れてた! まだあそこにあるかな……?」

 ほとんど燃えるものを燃やし尽くし、火勢を失いはじめた焚火に二人は雪をかけて始末にかかった。

 自らの役割を万事心得ている灰色毛皮の大猫は、目には舞い散る粉雪を見、肉球には冷たい積雪を感じながら、その心はすでに宅へと飛び、暖かな炬燵や、ちゅーるのことを考えていた。

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猫神の召喚者~ソーニャ・H・プリンの事件簿~ ねこたろう a.k.a.神部羊児 @nekotaro9106

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