第3話 根来山妖怪大決戦!!

 ジャクトゥ・ジャクトゥは、顔を上げ、コンビニエンス・ストアの駐車場に乗り入れてきた白いミニバンの運転手を現地協力者だと確認し、店を出た。電子音と共に自動ドアが開き、冷たい空気が皮膚を撫でた。冷気が骨身にしみる。

 熱帯生まれのジャクトゥ・ジャクトゥにとって、日本の冬は寒すぎる。空気は乾燥していて、日差しは陰気。住民の言葉は奇妙に聞こえる。食べ物は口に合わない。もっとも、それはどこの国でも言えることだ。ジャクトゥの舌を満足させる料理など店頭に並ぶはずもない。

 ジャクトゥはマレーシア、ボルネオ島出身のトチョ=トチョ人だ。生まれてこのかた、四本足の動物は口にしたことはない。頬骨はきわだって高く、顎は尖り、目尻は釣りあがっている。顔には皺はひとつもなく、まるで大きすぎる頭蓋骨を押し込まれた皮膚が張りつめているように見える。頭髪も眉もない。一族の例にもれず、小柄な彼は自分用に仕立てた服を着用している。既製品では身体にあうものが無いからだ。

 空港から長距離バスと路線バスを乗り継ぎ、やってきたこの片田舎のコンビニエンス・ストア。そのイートイン・スペースで、ジャクトゥはこの三〇分間無為な時間をすごしていた。店員は間違いなく、この小柄な外国人のことを記憶に留めたにちがいない。

 店内に入りたくなかったが、このあたりには他に民家があるだけだ。寒い中、外をぶらついているのは不自然だ。ジャクトゥは見るから外国人だし、彼の容姿は目立ちすぎる。下手をすれば、警察に通報されかねない。そうなればクライアントはいい顔をしないだろう。

 ジャクトゥが日本に来たのはビジネスのためだ。今回の相手は日本の非合法組織で、気前良く前金で報酬の半額を出してくれた。さらにその性質上、国境を越えて持ち込むのが難しいジャクトゥの商売道具のために、現地協力者まで用意してくれた。

 遅刻には閉口したが。

 店を出たジャクトゥの姿を認識したらしく、運転手がクラクションを軽く鳴らして手を振ってくる。ジャクトゥは一瞬、ミニバンに駆け寄って運転手を引きずり出し、絞め殺してしまおうかと考えたが、相手は何も知らされていないのだと自分を抑える。

 そこが肝心な点だ。

 怒りを抑え、待ち受けるミニバンの助手席に乗り込む。暖められた空気がトチョ=トチョ人の暗殺者を出迎えた。

 ジャクトゥは空気に混じる運転手の体臭を嗅ぐ。ステレオから軽薄な歌謡曲が流れており、フロントガラスには吸盤でこの国のお守りがぶら下がっている。ジャクトゥは念を凝らしてその性質を探ってみたが、とくに聖別されたものではなかった。

 ただのまじない、危険はないと判断する。

 運転手の男が手を伸ばし挨拶らしき言葉を発した。

「どうも、ミスター、よろしく、どうも」

「……ドーモ」

 ジャクトゥは返事をし、その手を握る。体温は高い。顔色、白目の色、爪の状態などを確認し、健康状態を推し量る。診断書は事前に受け取っているが、最後に物を言うのは自分の五感だ。まずまず合格と言って良いだろう。

「ミスター、どうも。ご一緒できて光栄です」

「ハイ、イゴヨロシク。ドーモ」

 ジャクトゥは言いながら、何も知らされていない現地協力者にスマートフォンの画面を見せる。

「マズハココ、イイデスカ?」

「ホームセンターですか? はい、もちろんいいですよ」

「ドーモ……」

「ああ、シートベルト、してください。安全第一、ですから」

 促されたジャクトゥがシートベルトを締めると、運転手はハンドブレーキを解除して、ミニバンを発進させた。


 ソーニャは、アノラックのジッパーをひと息に下ろした。

 内にこもっていた湯気が冬の空気に触れて白くなる。身体を温めるちょっとした運動――松の梢を相手に見立てたシャドーボクシング――のために、心臓がことことと鳴っている。冷たい空気で肺を冷やそうと、大きく一度、二度と深呼吸すると、それにあわせてゆたかな胸が上下する。Tシャツには、スポーツブラの輪郭がうっすらと浮かんでいる。

 年の頃は十六、七。きめの細かい肌は色素が薄く、鼻筋が通り、長いまつ毛が縁取る釣り気味の瞳は大粒のペリドットを思わせる。ふっくらとした頬は上気して、その頬は桃色珊瑚のよう。くっきりとした眉が意思の強さを感じさせる。

 すらりと伸びやかな身体には、余分な筋肉も脂肪も付いていない。体操選手か、どこかネコ科動物を思わせるところがある。形の良い頭の左右で長い金髪をくくり、うなじからは後毛が一房、ぴょんと跳ねている。

 ソーニャ・葉月・プリンは魔女である。

 業界では知らぬもののない魔道書『妖蛆の秘密』の著者ルートヴィヒ・プリンの子孫であり、エジプトの猫神、バステト神の巫女でもある。とある事情から、住まいであるマサチューセッツ州アーカムを離れ、今は日本の従兄の元に居候をしているのだった。

 最も若いプリンの末裔は、タオルで汗を拭きながらあたりを見回した。周囲は冬の森だ。ニューイングランドの森とは違うが、すがすがしい空気は気に入った。今の季節葉を落とした木々の幹はくすんだような灰色ですこしばかり寒々しい。千メートル級のなだらかな山々が尾根を連ねるここ一帯は、古くから霊場、山岳信仰の場としても知られ、秋には紅葉の名所となる。しかし、冬のこの時期となると、特別な目的もなく訪れるものはいない。

 ソーニャにはもちろん、特別な目的があった。

 少女は確認のため、落ち葉を踏んで移動する。ここ数日、根来山の山中にテントを張り、野宿を行っていた理由。それは朽ちかけた椎の倒木の影あたり、落ち葉の間にうずくまるような姿を見せている。

 実際、それは鮮やかなオレンジ色をした手のひらほどの大きさのきのこだ。ちょうど、四つの突起を地面に接して、クラウチングスタートの姿勢をする人間のような姿をしている。猛毒のカエンタケによく似ているが、ソーニャのようにオカルトを修めた者であれば間違えはしない。

 ハシリタケは珍奇な魔術的資源だ。

 珍奇といっても、ハシリタケを発見することはそう難しくない。

 入手困難性はひとえにその機動力による。

 そう、ハシリタケは走るのだ。

 成熟の最終段階では自分を地面から切り離し、十五センチほどの、曖昧にヒト形をしたきのこのくせに、驚くような速さで走る。そして、厄介なことに走り始める前に収穫しても意味がない。少なくとも九〇メートルは走らせないと十分に成熟しないというのが業界の定説だ。果実が枝から自然に落ちるのを待つマンゴー農家のように獲物を待つ忍耐力、それと同時に、獲物に負けない足が必要とされる。ハードなターゲットだ。

 ソーニャは是非にもこのハシリタケを収穫(捕獲?)したかった。

 もともと足腰には自信がある。

 なにしろ、バステト神に仕えるにふさわしい身体を授かっているのだ。今まで幾多の駆けっこを勝ち抜いてきた実績が、強烈な自負としてソーニャの自我には刻み込まれている。俊足で知られる幾多の英雄が破れたきのこを相手に、走り、勝つ。

 そのことだけでも十分な理由になるのだが、もちろん、きのこの効能に興味もある。

 効能はシンプルに足が速くなる。正しく用いれば、短距離では瞬発力が、長距離では持久力が向上する秘薬になる。アミュレット、水薬、丸薬、軟膏。煎じてお茶にしても良い。産湯の中に沈めれば、その子はアキレウスのような俊足を賜るという。当然需要は大きいが、滅多なことではお目にかかれない。もちろん、相当の高価で取引される。ひょっとしたら、ちょっとしたバカンスに行けるかもしれない。

 捕獲すれば、狩人としてのプリン家の家名をさらに高めることにもなる。捕獲したきのこを、人狼、人虎、マンティコアの頭と並べて飾るのも一興だろう。

 そのような希望を打ち明けると、従兄は準備を手伝ってくれたのみならず、野宿にまで付き合ってくれた。

 使い魔と交代で寝ずの番をするつもりだったソーニャにはありがたい申し出だった。それに、人里離れた山奥でキャンプをするというのは、素敵に思えた。彼と一緒に冬の夜空を見上げるのはさぞロマンチックだろう。そう考えたソーニャだったが、あいにく連夜の曇り続きで思惑が外れた形だ。曇りがちな冬空を見上げながら、少女は今夜は晴れればいいのに、と期待していた。

 翻って問題のきのこを見ると、小一時間ほど前に確認したよりも少し大きくなっている。急速に成熟が進んでいるのだ。色もすこし濃く、ほのかにコルダイトのような匂いが漂っている。

「もうじき、かな」

 以前にもハシリタケが発見されたこのあたりを捜索して、きのこ探しのスペシャリストであるホイエルが未成熟の子実体を発見したのが一昨日だ。最初は小指の爪ほどの大きさだったものが、だんだんと成長して、ここ数時間で目をみはるほどに長足の発展を遂げていた。

「クロードたち、間に合うかな」

 小首を傾げて、つぶやいた言葉が、森の静寂に溶けていく。梢を渡る風の音に、不意にソーニャは自分の孤独を意識した。

 タイミングの読めない魔術的きのこを相手に長期戦を覚悟して、同居人でもある従兄に追加の飲料、食料、生活必需品を買い出しに行ってもらったのだ。そろそろ帰ってくるはずなのだが、きのこの発走に間に会うかは微妙なところだ。

 使い魔のホイエルを迎えにやらせた今、ソーニャはひとりぼっちだった。傍に彼らの存在が感じられないというのは、本当に久しぶりのことだと気づく。

「……はやく帰ってきてよね、ふたりとも」

 ソーニャはふもとの方角を眺めやった。


 バスの座席で、安部蔵人はこっくりこっくりと船を漕いでいた。

 歳の頃は二十歳過ぎ。どこか人の良さそうな中高な顔立ちに、疲労の気配が見える。ここ二日、よく眠れていなかった。

 カーブで車体が揺れたはずみに、蔵人はハッと目を覚ました。慌ててバス停の表示を確認し、乗り過ごしていないことに安堵する。

 ディーゼルエンジンの振動と、ぽかぽかと暖かい足元暖房の催眠作用から、知らぬうちに眠り込んでしまっていた。あくびをかみ殺し、眠気覚ましのフリスクを口に放り込む。昨夜も従妹のソーニャと、いつ走り出すかわからないきのこを見張って、交代で寝ずの番をしたのだ。かならずしも蔵人が付き合う必要はないと言われたが、魔女とはいえ、女の子を一人で山中に野宿させられない。自己満足だとはわかっていても、自らを彼女の保護者と任じている蔵人だった。

 やれやれ、と蔵人はひとりごちる。

 この自分が、走るきのこを捕まえるために、実は魔女だった従妹とキャンプをするようになるなんて。人生、なにがあるやら――。

 くぅ、と蔵人はまたひとつあくびをかみ殺した。

 ピーナッツ型寝袋の寝心地はそう悪くないのだが、やはり慣れない寝具では眠りが浅くなる。それに、風呂に入れないのはつらい。体を拭けても、長めの髪がやや脂じみてしまい、いささか気持ちがよくない。こんなことなら散髪をしておくのだった。そんなよしなしごとを考えているうちに、目的地の一つ前のバス停を過ぎる。電光掲示板に「根来山ハイキングコース入り口前」と文字が出た。

 座席に備え付けの降車ボタンを押すと、ぽん、と電子音と共に、運転席の背後の「つぎとまります」のランプが点灯した。

 バス停に近づくと、搭乗客のあいだに動揺が広がった。

「あれなに?」

「オオカミじゃない?」

 口々につぶやきながら、スマートフォンを取り出して、ぴろりんぴろりんと撮影を始める者もいる。興味半分、怖さ半分で見下ろす先には、錆びの浮いた丸と長方形を組み合わせたおなじみの標識がポツンと佇んでいる。もちろん、誰もそんなものを珍しがっているわけはない。その隣で行儀よくしているこんもりとした灰色の塊が問題の焦点だった。

 実際、それは遠近感を狂わせるほどに巨大な猫だ。がっちりとした体格の良さと、それを倍化させて見せるかさの多い長毛のせいで、中型犬くらいのサイズに見える。

 深山の只中である。乗客らが、すわニホンオオカミの生き残りか、はたまた子熊かと目を疑ったのも無理もない。バスが停車すると、乗客の多くが腰を浮かせてこの毛玉を注視した。荷物を持って席を立った蔵人に、親切そうな老婆が声をかけた。

「ちょっとあなた、大丈夫? 何か大きな動物がいるわよ」

「大丈夫です……その、知り合いですから」

 言うなり、車中の興味を集めてしまい、蔵人は顔から火が出るような思いをした。

 平静を装いながら運転席のかたわらまで歩き、乗車時に取った切符と一緒に運賃箱に小銭を入れてステップから降り立った。

 外の寒さに身震いし、マフラーをしっかりとまきなおす。ぶろろろろ、と音を立て、排気ガスを吐き出しながらバスが発車する。

 興味津々の顔の並ぶリアウィンドウから顔を背けながら、蔵人は猫に声をかけた。

「ホイエル、迎えに来てくれたんだね」

「うままうま」

 と巨大な灰色の猫は応えた。

 ホイエルはソーニャの使い魔だ。成熟したメインクーンの雄である彼は、冬毛のこの時期、普段にも増して大きく見える。

 首の後ろをわしゃわしゃとしてやると、ホイエルはパタタッと首を振ってから立ち上がり、とたとたと登山道の方へと歩きはじめた。

 蔵人はぎっしりと資源の入ったズックを担ぐと、ふわふわのお尻を追った。

 林を切り開き、ところどころの陥没を砂利で埋めた山道は、軽自動車なら通れそうな幅があり、実際、粘土質の土には自動車の轍が残っている。前をゆく大猫のふぐりが、一歩ごとにたふたふと提灯めかして揺れるのを目印に蔵人は進んだ。

 勾配はきついが、未舗装のシンプルな道路でも、山の斜面を行くよりも格段に歩きやすい。そこそこの量の荷物を担いでいる蔵人にとってはありがたいことだ。しばらく進めば、やがてこの道を外れて山中を進まざるを得なくなる。

 閉鎖されたキャンプ場への行き道を記した看板のそばで蔵人は足を止めた。下りの時にはバスの時間を気にしていたために、じっくり見ることもなかったものだ。

 マンガ的な猫だか熊だかのキャラクターが描かれている。風雨に晒されてペンキが剥がれ、錆が流れた跡がすじを作り、なかなかに無残な様子だが、独特の風情があるとも言える。下の方に、ねご郎、と名前らしきものがなんとか判読できる。

 みうらじゅん氏がゆるキャラという概念を発見するよりも前のものだと思しいが、なかなかにゆるく、可愛く見えないこともない。根来山にはかつて巨大な山猫が出て人を喰っていたのが、弘法大師だか旅の豪傑だかに退治されたという伝説があった。ねこごろし、が語源だという説を、民俗学の大家であるかの百日紅博士が何かに書いていた気がする。『神道以前・ルルイエ文書を基にした後期縄文人の神話のかたち』だったろうか。そうすると、ホイエルにとっては不吉な地名ということになる。蔵人はバス停での一幕を思い出した。このあたりの人々の深層心理には、人喰いの山猫への恐怖がいまだ深く刻まれているのだろうか。

 そういえば、このイラストは、どことなくホイエルに似ていなくもない。

「ホイエル、君のご先祖さまかもしれないよ」

 蔵人が冗談めかしてそう言うと、ホイエルはなにやら怪訝そうに首をかしげた。


 根来山中腹。

 公道から分かれた砂利敷きの山道をしばらく進み、閉鎖されたキャンプ場へのみちのりを記した看板から奥に半キロほど行ったあたりで、ジャクトゥ・ジャクトゥは人間を切り刻んでいた。

 トチョ=トチョ人の褐色の手に握られた包丁が巧みな手さばきに操られ、現地協力者だった男の首を一周する。切断された血管から、ゴムのエプロンに血が跳ねかかる。カーステレオは切られ、車内に響く物音は、刃が肉を切る音と、ごぼごぼという水音だけだ。ジャクトゥはライトバンの後部ドアを開き、男をうつ伏せにして、ちょうどギロチンに首を突っ込むように荷台から頭を突き出させていた。そのおかげで荷台を汚すことなく、血液の大半は地面に置かれた洗面器に流れ込んでいる。

 青いプラスチックの洗面器の中で血が泡立ち、ピンク色に見える。

 男の手首には結束バンドが食い込み、破れた皮膚が血を流していたが、頸動脈から流れる奔流にくらべればささやかな小川といったところだ。今や頭蓋骨は頸部からほとんど切り離された。髪の毛をつかんで、死体の顔を覗き込む。

 あるとき披露した手練から、切り裂きジャクトゥの異名を献上された彼だったが、自分からその名前で売り込んだことはない。

 彼にとって切り裂く技術を褒められたところで、困惑するだけだ。もちろん、そのあだ名がいくつかの仕事を運んできてくれたのは間違いないところだが。

 ジャクトゥの本業は、高度に特殊化した死霊術。

 いわば死人専門の整形外科医だ。空飛ぶ生首、ペナンガランの製造は手慣れたものだが、かといって簡単ではない。集中力を必要とするハードワークだ。それだけに、やりがいもある。

 今回の依頼人が用意してくれた素材は及第点だった。

 彼らにも死んでもらわねばならない相手がいる。道具の出来栄えは殺しの成否を左右するのだから、当然といえば当然だ。

 出血がゆるやかになると、ジャクトゥは必要な措置の完了した男の耳を掴み、首を引っ張った。ずるずると牽引された内臓が冬の空気に触れて湯気を立てる。慎重を期して生首と繋いだままに取り出した内臓に、ジャクトゥは呪文をつぶやきながら手を触れた。ジャクトゥの掌に施されたタトゥーに喚起された比類なき死霊術的な力が指先に流れ込み、熱を持ち始める。赤黒い肝臓に指を埋めると、ジュウ、と肉の焦げる音がして煙が立ち上がる。ルルイエ語のアルファベットが五つ、死体の肝に銘じられた。これでジャクトゥと首の間には霊的にして不可分の絆が結ばれたことになる。

 よし、と頷いて、ジャクトゥはバケツをどかして、大きなガラスの広口瓶を据えた。どろどろと流れ落ちる内臓が、瓶の中になだれ込む。灰色がかったピンク色の内臓の瓶詰め。さながら人間の臓物で作った塩辛だ。

 矮躯に見合わぬ膂力を発揮して、臓物と頭部の入った広口瓶を荷台へと持ち上げると、ジャクトゥは瓶がいっぱいになるまでポリタンクから霊液を混ぜた特性の酢を注いだ。液体に浮かぶ生首が、ぐらぐらと揺れる。ジャクトゥは親指の腹を噛み切って、その血を生首と酢のスープの中に滴らせた。タオルで血を拭い、シリコンのパッキンが付いた蓋を閉めると、生首の顔が自分の方を向くように瓶を回し、無表情でその出来栄えを自賛した。瓶の中で生首が、ごぶり、と気泡を吐きカッと目を見開いた。

 ジャクトゥ・ジャクトゥの方をじっと見つめる。

 その目には瞳がない。


 たふたふと揺れるふぐりが停止した。

「どうしたんだい、ホイエル?」

 蔵人が視線を上げると、道を塞ぐように停車している白のミニバンが目に入った。山を下った時にはなかったものだ。蔵人が下山している間に登ってきたのだろう。そういえば、道にタイヤの跡があった。

 この季節にこんな山奥で何をしているのだろうか。ハンターだろうか? それならばありうる、と蔵人は思った。冬は狩猟の季節だ。この根来山には鹿や猪、狸や狐が生息している。まさか、自分たちのように、ハシリタケを狩りに来たわけはないだろうが。

 蔵人は足を進めた。

 ホイエルが何かを感じたのか、そっと身を屈め、くんくんと鼻をひくつかせる。モップのように膨らませた尻尾をいらいらと左右に振り、まうまうと低い声で蔵人に注意を呼びかけた。

 ミニバンの周囲に人影は見えず、見る限り、運転席も助手席も無人のようだ。不意に、銅のような匂いが鼻をついた。

 血臭だと蔵人は気付いた。ホイエルを興奮させているのはこの匂いだろうかと考えた。見れば、ミニバンのタイヤの間の地面が黒っぽく濡れている。

 やはり、ハンターなのだろうか。仕留めた動物の解体処理をしているのだろうか。そう考えながら車の後部に回り込むと、開かれた後部ドアから荷台が見えた。

 蔵人が目にしたのは、次のような光景だった。

 ミニバンの荷台いっぱいに、内側から弾けたように広がった肋骨が肉と骨の花のように咲き、その規則正しいパターンがピアノの鍵盤を連想させた。なかば裏返しにされた大きな動物の身体だ。タヌキやムジナやアナグマやハクビシンではない。猪か鹿か。いや、それにしては体毛が少ないように思える。衣服の切れ端のように見えるものが束ねられている。結束バンドの食い込んだ手首が目に入る。揃えられた靴の中には切断された足首が納まっている。損壊された人体の傍らには、生首の瓶詰めが鎮座している。

 吐き気を催すような凄惨な光景に衝撃を受けた蔵人だったが、次の瞬間、小柄な人物が荷台のほぼ中央に蹲っているのに気付いた。

 あまりに小柄なために、最初人間だと判らなかったのだ。

 その人物は、無毛の後頭部と、黒っぽい衣服の背中をこちらに向けて佇んでいる。その手の先には、汚れたキャンバス地が広げられ、その上に並べられたクロームの鋭利な金属が鈍く硬質の輝きを放っている。間違いなく、これを行ったのはこの人物だろう。

 蔵人は脱兎のように逃げ出した。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ」

 荒い息をつきながら、蔵人は必死で走っていた。

 いくばくかも行かぬうちに、もう脇腹が痛みはじめていた。

 午後の日はすでに低く、梢のあわいから差し込む陽は夕暮れの朱色を帯びている。松林はすでに薄暗く、踏み出す足元もおぼつかない。だが脚を止めれば、この夕焼けがこの世の見納めになるにちがいない、という確信が蔵人にはあった。

 ちらり、としか見えなかったあの凄惨な現場は、もしや鹿や猪の見間違いだったのではなかったかというのは淡い期待だった。

 恐ろしい死体損壊と、おそらくはその前段階としての殺人。決定的な場面を目撃してしまったのは間違いない。そうでなければ、背後から、武器を持った男が追いかけてくるはずがない。

 追っ手はほとんど音を立てない。

 始終無言で、息も乱さない。そのことがいっそう恐怖を煽る。

 危険なことだが、首を回して背後を振り向きたいという誘惑には抗しがたいものがある。振り返れば、危険なほど近くに相手が居た。

 次の瞬間、意識を背後にやりすぎていた蔵人は、濡れた松葉を踏み、滑った。

「わっ」と悲鳴を上げて転んだところ、一秒前までに頭のあった場所を、風切り音をたてて物体が通過した。

 ゴッ!

 ガツッ!

 男が投擲した金属の凶器が松の幹へとぶち当たり、その突起がコルク質の樹皮を貫いて深々と突き立った。

 冬の夕暮れ時。山中の空気は秋水のように澄み切り、呼吸する肺が痛くなるほどだ。その空気にバルサム樹脂めいた爽やかな松材の匂いが混じる。松の幹に食い込んだ手斧が、天然のフレグランスを大気に飛散させたのだ。その破壊力たるや大変なものだ。

 蔵人はしばしの間――あるいは長すぎる間――呆然と、手斧の柄を見ていた。

 気がつくと、傍に追跡者が居た。蔵人は慌てて立ち上がろうとした。

 だが、立てない。

 どうやら腰が抜けたらしい。

 追跡者は手斧の柄にとびつき、引き抜いた。蔵人を振り返り、武器を振り上げた。大上段に構えた白刃が夕日の名残を受けてぎらりと光る。覚悟などできるはずもない。反射的に腕で頭をかばう。もちろん、それくらいで刃を防げるはずもないがしかし――

「ぎゃわわわう!」

 攻撃的な唸り声とともに、ざざざざっ、と下生えをかき分けて、灰色の獣が飛び出した。

「ホイエル!」

 蔵人は思わず獣の名を呼んでいた。

 いつのまにか姿を隠していた蔵人の同居人――メインクーン種の巨大猫――は毛むくじゃらの稲妻のように猛然と男に飛びかかる。

 計ったようなタイミングだ。

 もしかしたら、ほんとうに機会をうかがっていたのかもしれない。

 鋭い爪と牙をその背中に食い込ませ、前肢でしっかりと組みついたまま、後ろ足の鉤爪を何度も突っ張って引っ掻く。

 男は苦痛の声をあげた。

 体重十数キロものホイエルに取り付かれ、体を掻き毟られながらも、手にした斧を振り回す。ぴゃう、ぴゃうと凶器が風を切り、掠めた刃がホイエルの毛の先端を風に舞わせた。男は身体に取り付いた四足獣を引き剥がそうとその身体を掴む。しがみ付いた巨大な猫は離れず、逆に手に噛み付いた。男は猫を切り捨てようと白刃を振り下ろす。

「あ!」

 蔵人は思わず叫んでいた。

 がっ、というぞっとするような音が響きわたった。

 肉を切られ、骨が断たれた。

 とさっ、と軽快な足音を立てて地面に降り立ったのはホイエルだ。その顎は切断された手首を咥えている。

「グゥッ……」

 凶人は武器を放り投げて、切り株のようになった左腕の傷口を押さえてのたうちまわる。指の間からは、拍動に合わせて目にも鮮やかな動脈血が間欠泉めいて吹き出している。地面に転がった白刃は、今や夕日の色ではない紅に染まっていた。

 斬撃の間際、ホイエルは飛び退いて刃の軌道から逃れ、かわりに、がっしりとした雄猫の顎に捉えられた手首が刃の下へと引き出されたのだ。

「うわっ……」

 酸鼻な光景に思わず蔵人は口を押さえた。

「ふむぐぅーっ!」

 野太い雄猫の、篭った声が響き渡る。

 ホイエルは片腕を咥えたまま、尻尾を膨らませ、全力で威嚇を行っている。やる気満々、臨戦態勢といった顔で、今にも手負いの凶人に飛びかかりそうな勢いだ。

 負傷に動転していた男はもがくのをやめて、頭を巡らせ蔵人、さらにはホイエルへと憎悪の眼差しを向けた。怒気、殺気、報復心。視線で生き物を殺せるのであれば、もう少し小さな猫なら死んでいるのではないか。

 蔵人は弾かれたように立ち上がり、駆け出した。いつの間にか、さっきまですくんでいた足が治っていた。途中で振り返り、凶人に飛びかかるタイミングをはかっているホイエルに声をかける。

「ホイエル、逃げよう!」

「むーぅお?」

 不満顔のホイエルを待たずに、蔵人は走り去る。

 巨大猫は少し考えるような顔をしたが、踵を返して主人がご執心の二本足を追いかけた。


 ジャクトゥはミニバンにたどり着くと、荷台に転がるように身を投げた。

 衝撃が傷口に走り、おもわず怒気の混じりの悲鳴が漏れた。傷口を押さえていた手を離すと、一瞬、骨が白い断面を見せる。すぐにあふれた血がそれを覆い隠し、こぼれてフロアマットに滴る。ジャクトゥは結束バンドで傷口の上を縛り、血止めを塗りつける。激痛に、獣のような叫びをあげた。苦痛を燃料として、怒りを燃え立たせる。

 あの若い男を、悪い時に悪い場所へとやってきたただの人間、不運な闖入者だと考えたのは失敗だった。

 あの獣は強力なパワーを備えた使い魔だ。まず同業者に違いない。だが、どのような意図を持っているのかはわからない。あるいは敵対組織のヒットマンか。もしそうなら、無防備に近づいてきた理由がわからない。

 とまれ、倒すべき相手であるのは間違いがない。ジャクトゥは自分の手駒に目をやり、強力な呪文を呟きはじめた。

 造りたての使い魔が、瓶の中で身をよじる。口と鼻から、ほのかに光る流動体が流出し、瓶の中の水面に達するとそこでわだかまった。

 死者のエクトプラズムが、ぐるぐると狭い空間で渦巻き始めた。ジャクトゥは広口瓶の蓋をとった。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

 もう走れない。すくなくとも、しばらく休まないと。

 蔵人は幹に背中を預け、大きく息をついた。心臓がばくばくと暴れ肺は燃えるよう。ここまでくれば大丈夫だと、そう願いたい。日はすでにとっぷりと暮れ、あたりはすっかり夜の闇が支配している。キーホルダーに小さな懐中電灯を付けてはいたが、それを用いるのは危険すぎる。

 その場にへたりこみ、しばしの間休息をとっていると、脛にサッと触れるものがあり、蔵人はギョッとして目を凝らした。暗がりに浮かび上がる灰色のもふもふ。

「なんだ、ホイエルか、脅かさな――うわっ」

「むぁー」

 とくぐもった声で応えた灰色猫は、褐色の手首を咥えていた。

「そんなの捨てなさい」

「むぁうわうわ」

 ホイエルははっきりと拒否の意思を見せた。

 自分の戦利品だと考えているのだろう。モグラやネズミならまだしも手首とは。

「とにかく、はやくソーニャと合流しなきゃ」

 血に飢えた殺人鬼が徘徊していることを伝えて、一緒に逃げなくては。それから、下山して警察に連絡……。

 蔵人は、ホイエルが警戒していることに気づいた。尻尾を膨らませ、あらぬ方角をじっと見つめている。蔵人には、黒い木々のシルエットごしに、濃さを増す空が見えるだけだ。

 いや、何かが――。

 ぼぉっ、と光るものがある。

 青白く、病んだような光が梢の間をふらふらと浮かんでいる。

 月ではない。蛍の季節は夏だ。

 滲みのようそれは、もつれたロープのようなシルエットをしている。蔵人は目を凝らし、思わずあげかけた悲鳴を飲み込んだ。

 内臓をぶら下げた生首が、青白く発光しながら梢の間を飛行しているのだ。異形の深海魚が海溝の底でたゆたうにも似て不気味、いや、それ以上におぞましさを感じさせる。

 それはペナンガランと呼ばれるマレーの妖怪、あるいは、吸血鬼である。なんにせよ、とにかく、魔術的な存在に違いない。ソーニャがこっちに来てからというもの、そういった類のものには、嫌っていうほど出くわしてきた。

 さっきの殺人鬼となにか関係があるのだろうか? あるに決まっている。

 怪物はあちらの梢からこちらの梢へ、すい、すい、と音もなく飛翔する。しきりに首を廻らせて、サーチライトのように光る目玉を左右に振り向けている。

「なにか探してるみたいだ……」

「んまー」

 やはり、当たり前だが、おそらく。

 それは僕たちだろうな、と蔵人は思った。次の瞬間、怪物がこちらを向く。蔵人は、怪物と目が合った気がした。

 ペナンガランは、降下しながらスピードを上げ、凄まじい速度で向かってきた。

 ホイエルと蔵人は走り出した。

 だが、蔵人のスタミナはもう切れかかっていた。

 百歩と行かないうちに、息があがり、足は重く、太ももが攣りそうになる。

 ギャーッ、と凄まじい絶叫を上げながら襲いかかる飛頭蛮! ホイエルが蔵人に体当たりした。

「うわっ」

 蔵人は転んだが、おかげで一撃を避けられた。攻撃を空振った怪物は、速度を高度に変換し、再度の攻撃を企図する。

 次を避けるのは難しそうだ――。蔵人の心はいまにも折れそうだった。その時、ホイエルが何かを見つけた。

「まわわ」

 と鳴いて、走り出す。その先には、冬にも葉を落とさない、柊の低木が生えていた。

 月光に照らされ、赤い実を付けているのが見て取れる。ホイエルはその周りを一周し、蔵人の方を向いた。まだ咥えている手首をペっ、と落とすと、大きな声で「うまーっ」と蔵人を呼ばった。

 クリスマス飾りには絶好だが、そんなもの、どうしようというのか。

 困惑する蔵人がぐずぐずしていると見たのか、ホイエルは怒ったようにその場で足踏みをした。

「うままーっ」

 よろよろと立ち上がり、蔵人は渾身の活力を集めてホイエルの――柊の――ところまでを駆ける。そこでついに力尽き、地面に膝と両手をついた。無防備な背中にむけて、空から異形の怪物が、落下するような速度で襲いかかってくる。だが、柊への衝突コースだと見て取るや、ひらり、と向きを変えて再び空へと舞い上がった。

 蔵人は何事が起きたのか理解出来ぬまま、柊の枝の下へと這い進む。

 葉がちくちくと痛い。マフラーが引っかかり、ほつれを作る。だが、怪物は柊の上空でぐるぐると円を描き、一定の距離からは近寄ろうとしない。蔵人はおぼろげに事態を理解しはじめた。

 古来柊は聖樹とされ、その尖った葉は邪を祓うとされている。節分の飾りと違って、鰯の頭は付いていないが。

 柊がこの怪物を遠ざけているのか。ホイエルは、そのことを知った上で蔵人を誘導したのだろう、おそらく。

「さすがホイエル――」

 蔵人は思わず感嘆を漏らしたが、巨大猫はいつの間にかどこかへと失せていた。


 いらいらと腕を組み、ソーニャは動物園の熊のように、そこらを行ったり来たりしていた。蔵人とホイエルの帰還を今か今かと待っていた。日はもう暮れて、山道は暗い。猫でも魔女でもない蔵人にとっては危険な場所になりうる。

 そのためにホイエルを迎えにやらせたのだから、心配する必要はないはずなのだが。なぜだか、妙に気持ちが落ち着かない。胸の奥がうずうずとして、じっとしていられないのだ。

 彼が事故にあっていたらどうしよう。熊や猪に襲われたりはしていないだろうか。そんな不安が湧き上がり、考えたくもないようなことを考えてしまう。目の前で、ぶすぶすと煙を上げ始めたハシリタケのことも、ほとんど意識から追いやってしまっていた。

 今すぐ迎えに行こうか。

 そんな考えが頭をよぎる。

 だが、ここでこの場を離れれば、これまでの頑張りが水の泡だ……。

 彼女の使い魔が駆け込んできたのは、そんな時だった。ソーニャはぱっと顔を輝かせたが、すぐに異常に気づく。

「ホイエル、クロードは――」

 皆まで言わせず、灰色猫は一言「うまーがう!」と応えた。

「大変――ッ!」

 魔女は血相を変えて飛び出した。


 ジャクトゥ・ジャクトゥは、ミニバンの荷台にあぐらを組んでいた。

 半眼で身体を揺らし、呪文をつぶやくその姿は、邪宗の僧を思わせる。ジャクトゥは左手の激痛をこらえ、無事な方の手でせわしなく印を切り、抜け首を操作していた。ジャクトゥの目は抜け首の見るものを見、耳は聞くものを聞いている。空を飛ぶペナンガランは、強力な呪物である。

 ペナンガランの歴史はトチョ=トチョ人の歴史だ。かれらが敵対部族に差し向けたこのアンデッドの記憶が、アジア各地に伝わる飛頭蛮伝説の元となった。ジャクトゥは伝統の継承者だった。

 トランス状態の中で、ジャクトゥは幾たびもあの若者――自分に使い魔を差し向けて手傷を負わせた男――に飛頭蛮食らいつかせようとしたが、視界に柊の葉が飛び込むたびに、克服不可能な恐怖が湧き上がり、意思が挫ける。アカンサスや柊といった棘を持つ植物には飛頭蛮の力を弱め、致命的な打撃を与える力がある。あの男は当然、それを知っているはずだ。安全地帯から動くことはないだろう。

 このままでは憎き相手を屠れないとジャクトゥは悟ると、意図的にトランス状態から目覚め、飛頭蛮への精神的支配を弱めた。このアンデッドは支配されなければ、そのやむことない餓えに突き動かされ、生けるものには手当たり次第に襲いかかるだろう。

 あの男が安全な梢の下から移動すればすぐさまペナンガランの餌食となる。動かなくても同じことだ。柊は生きているジャクトゥには何の脅威にもならない。小柄なトチョ=トチョ人の暗殺者は、手斧を握り、夜の森へと駆け出した。


 ソーニャは風のように山道を駆け下りる。

 暗闇に目を凝らし、幹を避け、枝をくぐり、倒木を飛び越える。影のように、虎のように、夜の森を駆け下りる。引き締まった筋肉と強靭な骨。しなやかな靭帯と、それらを制御する神経。それらを自在にあやつる脳の運動野。人間離れした身体能力は、彼女の祖霊でもある猫神バステトによる恩寵だ。

 だがこの瞬間、ソーニャはバステト様がもっともっと速く走れるようにしてくだされば良かったのに、と思っていた。 

 疾風のように走りながら、心がもっとと拍車をかける。心臓が焦燥に焼き尽くされそうだ。焦る魔法少女に、寄り添うように走るのは、女神からのもう一つの贈り物、ホイエルである。

 たっ、たっ、たっ、と強靭な四肢が落ち葉を蹴り、土に鉤爪と肉球のスタンプを押しながらぴったりと横についている。ホイエルがちらり、とソーニャの目を見た。たてがみをなびかせて尾を幌のように引くその姿は、獅子の如く堂々として、迷いがない。

 ソーニャは一瞬、自分の弱気を恥じた。彼が、私のクロードが死ぬはずがない。

 そんなこと許さない。


 エクトプラズムの蛍光を放ちながら宙を浮遊する抜け首を、柊の葉の陰から蔵人は見ていた。臓物のグロテスクさもさりながら、生者への嫉妬と飢餓に歪み、歯を剥く顔は凄まじい。ぼたぼたと、燐光を発する滴が時折滴って地面や梢にはねる。

 怪物への恐怖と、しんしんと身を苛む寒さに縮こまった蔵人の目が、地表に動きを認めた。黒っぽい、小さな人影が森の中を進んでくる。その目には炎が、その手には手斧がある。蔵人は心臓を掴まれたような思いをした。

 逃げ出そうにも、一歩でも木陰から出れば、グロテスクな怪鳥が襲い掛かってくるのは間違いない。

 前門の虎、後門の狼。絶体絶命の危機だ。

 蔵人はすこし考え、柊の枝の一つを掴む。棘のある葉が抗議するように蔵人の手を刺す。力を込めて枝を降り、樹皮の繊維を千切って即席の武器にする。休息のおかげで、多少は体力が戻っているはずだ。座して死を待つのは嫌だ。蔵人は柊の枝を握りしめ、殺人者に背を向けて駆け出した。その背中を、流星のように尾をひいてペナンガランが追いかける。

 やはり無理だった。

 走り始めてすぐに蔵人は思い知る。

 酷使された足腰はとっくに限界を超えている。百メートルを走るどころか、一〇メートルだっておぼつかない。

 蔵人は、笑い出しそうになる膝をこらえて振り返る。視界の中で滲みのような光が急速に広がり、その中央でグロテスクな怪物が牙を剥いている。瞳のない眼が蔵人を見つめ、大きく伸びた犬歯を誇示するように、顎が外れんばかりに大口を開けて襲い掛かる。

 蔵人はせめてもの抵抗にと枝を振り上げ――。

 まばゆいものが目を灼き、熱さが頬をうつ。


 全力で走るソーニャの眼に蔵人の姿が映った。

 安堵に腰が砕けそうになる。だがその半秒後に、彼が直面する怪物を目にする。その刹那、ソーニャは弾かれたように反応した。猫神の巫女の心臓で、聖なる炎が燃え上がる。

 寸毫の躊躇もなく、手の中に力を喚起して、魔術武器を織りあげる。炎が溶けたガラスのようにソーニャの手中の不可視の鋳型を満たし、七のフリンジを持つ必殺の武器の姿へと凝る。金剛の硬さと刃金の靭さを具えた浄火の矛槌が、闇と寒さを切り裂いて空中に光の弧を描く。

「――ぃあああああっ!」

 獅子吼して飛び込んだソーニャは、燃える車輪のように強力無慈悲の一撃を不浄な怪物へと見舞う。劫火を纏う矛槌のエッジが、不自然な魔術によって生み出されたアンデッドの臓物を捉えて引き摺り落とし地面へと叩きつける。

 ドォン、と衝撃波が響き渡り、その中心から衝撃波が広がって、小枝、落ち葉を巻き上げる。それらは輻射熱に当てられて、パッと燃え上がるとすぐに灰となって白く崩れた。地面に大穴が開き、巻き上げられた土砂がザラザラと音を立てて降り注ぐ。

 地面に空いた大穴の底で、怪物は無残にも粉砕され、その大部分は蒸発するか、クレーターの底で溶けた砂と混じりあい見分けることもできなくなっていた。

 とたっとたっとたっ、と遅ればせながらソーニャの足元に駆け寄ったホイエルが、少女の脛に身体を擦り付けながら穴の底を覗き込む。ふんっ、と鼻を鳴らし、くるりと身体をまわすと、かっかっかっ、と砂をかけるジェスチャーをした。

「ソーニャ……」

 蔵人が半ば呆然としたまま、少女の名前を呼ぶ。未だ熾火のような光を放つ矛槌を握ったまま、ソーニャはくるり、と蔵人の方を振り向いた。

「クロードぉ!」

「わわっ」

 次の瞬間、灰と土埃にまみれた蔵人はソーニャに飛びつかれ、ぎゅー、と力をこめたハグをされた。みぞおちのあたりに、少女の柔らかな身体の感触と高い体温が押し当てられる。

「絶対、間に合うってわかってたけど、でも、わたし、よかった――」

 年上の従兄の胸に顔を埋め、ソーニャはかすかに震える声で言った。彼女の背中や襟からは汗が湯気になって立ちのぼり、ぱちぱちっと火花が肩のあたりで踊った。魔法少女が異なる次元から汲み出したエネルギーの残滓だ。周囲には、蔵人でも嗅ぎ取れるほどの濃密な魔術の気配が漂っている。蔵人は焦げたゴムの匂いに気づいた。彼女の履いているスニーカーの靴底が地面との摩擦で溶けたのだ。

 しがみつくソーニャの背中に、蔵人は腕を回した。

「怪我してない?」

「大丈夫だよ」

 言いながら蔵人は少女のつむじと、地面に空いた大穴を交互に見る。

 この娘のやることは人間離れしていて、毎度、驚かされてばかりだ。そしてまた、助けられてしまった。

 蔵人はソーニャの背中を、ぽん、ぽんとねぎらうように叩いた。少女の身体からふっと緊張が溶け、そっと体重を預けてくる。その重みに、思わず胸が高鳴る。ここ三十分ほどに経験した人生最悪の時間のことを、蔵人はほとんど忘れかけていた。

 バタバタバタッ、と音がして、蔵人はハッと顔を上げた。二人のそばでホイエルが身体に積もった灰と土埃を振りはらっていた。

 飛散した粒がパラパラと飛んでくる。再会の場面に水を差された形の二人の顔を、巨大な猫が物言いたげな顔で見上げてくる。

「……そうだ、忘れてた」

 あの殺人鬼はまだ未解決の問題だ。

 ほっこりしている場合ではなかった。

 ホイエルが呆れ顔に似た表情を作った。人間ならきっと肩をすくめている。


 ジャクトゥ・ジャクトゥは山道を駆け下りていた。傷ついた腕からは血が滲み、無事なほうの手にはしっかりと手斧を握りしめていた。だがもちろん、闘志はもはや残っていなかった。

 使い魔を破壊された瞬間、ジャクトゥの魂の一部もまた、永遠に失われていた。

 トチョ=トチョ人の暗殺者の心は今、普段の彼なら決して感じることのない感情、恐怖に占められていた。自分が敵にまわしている相手が、本物の魔法使い――古き神の後ろ盾を得た達人――であると今やしっかりと認識していた。

 あの男のほかに、もう一人いたのだ。

 ジャクトゥは爆発の瞬間を遠巻きに見ていた。近づきすぎれば、手綱を放したペナンガランに攻撃されるおそれがあったためだ。

 柊の枝を手に抜け首と相対する破れかぶれの行動をとった若者を護るように割って入った、燃えるようなあの姿。

 霊的な感覚には、それが天地を貫く巨大な炎の柱としてとらえられた。普段は時と空間の背後に横たわり、まどろんでいる、恐ろしく巨大な存在を確かに感じた。その小さな一部が、刹那の間、次元を隔てる紗幕を割いて、この世界にわずかに漏れ出したのだ。今回は制御された極小の爆発を起こすにとどまったが――それでも抜け首を吹き飛ばすには十分だった――核兵器の爆発や、隕石の衝突、あるいは太陽フレアの爆発に匹敵するほどの膨大なエネルギーの奔流となって一帯を焼き尽くしていてもおかしくなかったのだ。ジャクトゥはツングースカにまつわる噂を思い出していた。

 ジャクトゥ・ジャクトゥは開いたままの後部ドアからミニバンの車内へと飛び込んだ。冷え切った首なし死体を踏み越え、抜け首を漬けていた広口瓶を蹴飛ばしてひっくり返す。

 仔細構わずに運転席に座ると、差さったままのキーを回して、エンジンをかけた。座高が足りないせいで、前方視界は非常に悪い。ヘッドライトを点けると、左右から木々の迫る山路が、まるでトンネルのように浮かび上がる。蹴飛ばすように、乱暴にアクセルを踏んだ

 ただ少しでも早く現場から走り去りたい一心で車を飛ばす。カーブで荷台から死体が転がり落ちたが、スピードは落とさなかった。悪路の揺れが、トチョ=トチョ人の傷に響く。ジャクトゥは傷口を縛る結束バンドをさらに締めようと、口元に左腕を持っていく。

 突如、暗闇に怪物の顔が浮かびあがった。

 あの灰色の猛獣の顔が視界いっぱいに広がり、ジャクトゥの喉笛をめがけて襲いかかってくるかに見えた。

 トチョ=トチョ人は悲鳴をあげてハンドルを切った。

 ミニバンはバランスを崩して横転し、炉外へと飛び出した。砕けた窓ガラスを振りまきながら二回転、三回転と骰子のように斜面を転がり、櫟の幹にぶち当たって止まった。シートベルトをしていなかったジャクトゥは狭い運転席を跳ねまわり、全身の骨を砕かれた。力なく横たわるジャクトゥの頭のそばに、成田山のお守りが落ちた。


 排気ガスの匂いを追っていた灰色猫のホイエルは、とたっ、と立ち止まると路肩から下を覗き込んだ。

 斜面のかなり下のほうに、鬼火のように光るテールライトが見える。鋭敏な肉食獣の嗅覚が、ふんふんとガソリンの匂いを嗅ぎとった。

 爆発や、嫌な煙といった記憶に結びつく匂いに、はたして近づいたものかと思案した。とりあえず、主人とそのお気に入りの二本足を待つことにする。

 雲間から、さっと月光が射した。

 ホイエルは背後を振り返った。

 そこにはトチョ=トチョ人を驚かせた怪物、ゆるキャラのねご郎が看板の中で佇んでいる。ホイエルは二次元世界の同類に何か一声かけようと口を開きかけたが、結局気が変わり、自分の身体の毛づくろいを始めた。

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