第2話 秘宝館の恐怖

 どの国の言葉ともわからない詠唱が途切れることなく響いている。

 祭壇に据えられた香炉から立ち上るいがらっぽい煙が、作業室のカビ臭い空気に混じりながら、天井の暗闇へと立ち上ってゆく。

 そこここで揺れる蝋燭とランプの灯りが、部屋の四隅に雑然と置かれた剥製や彫像の不気味な輪郭を浮かび上がらせている。

 安部蔵人あべくろうどは身をよじって拘束から逃れようとしていた。

 硬く巻かれた革帯はびくともせず、青年の身体を即席の手術台に縛り付けている。袖をまくって剥き出しにされた右腕が横様に広げられ、前腕の途中にはサインペンで印が描かれている。口には猿轡さるぐつわを噛まされ、声をあげることもできない。もっとも助けを求めたところで、分厚い煉瓦れんがの壁に阻まれて、誰の耳にも届かないだろう。

 不意に詠唱が止んだ。

 蔵人は首を巡らせて、自分を拘束した凶人に目を向けた。壁際の工作台に据えられた祭壇に向かって跪拝きはいしていた男は立ち上がり、不穏な輪郭を見せる細長いものをうやうやしく取り上げた。

 それが何かを知っている蔵人は思わず背筋をこわばらせた。

 男は工具の置かれた棚へと歩み寄ると、空いた手で回転鋸バズソウを掴み上げた。

「今宵、大いなる神は生贄を受け入れられる」

 抑揚のない声が壁の間にこだました。男は蔵人の方へと一歩づつ近づいてくる。

「〈壁の向こうの神〉よ! あなた様のしもべは長きにわたる御恩を忘れておりません! 我が奉仕をお喜びください!」

 振り絞るように言って、男は蔵人の横に立った。

 しばしの間、男は手に持った品を見つめたあと、思い切ったように首を振り、それを蔵人の腕の傍に並べた。

 蔵人は、その物体から少しでも身を遠ざけようと努力したが、縛めは固く、不可能だった。

「主よ……今こそ〈器〉を捧げます!」

 男は回転鋸を持ち直すと、そのトリガーを引いた。

 ギャアアアアン!

 電気式のモーターが獣のように吠えた。

 蔵人はしばらくの間、迫りくる刃のきらめきを憑かれたように見つめていたが、ついにこらえきれなくなり、ぎゅっと目をつむった。

 ややあって、肉と骨を断つ音が煉瓦の壁の間に響き渡った。

 血しぶきが部屋の床をまだらに染めた。


 十二時間前。

 群青の空に目眩めくるめくような積乱雲がそびえ立つ。はるか彼方の水平線はあるかなきかの曲線を描き、沖合の波間には黒々とした岩礁がその姿を見せている。陽炎かげろうの踊る砂浜にはカラフルなビーチパラソルがまばらに開き、砂に濃い色の影を落としている。その後ろにはホテル『ギルマンハウス』の旧館が瀟洒しょうしゃな姿を見せている。そよぐ風は潮の匂いを運び、海水浴客たちの歓声とカモメたちの鳴き声が潮騒に混じりあう。絵に描けばいっそ陳腐に堕してしまいそうな、典型的なサマーリゾートの光景がそこにはあった。

 人混みからやや距離を置くように、ビーチの端にぽつりと一つ、パラソルが咲いている。

 日除け傘の作る陰の中、安部蔵人は砂に敷いたシートに正座していた。

 身にまとうのは薄手のパーカと、暗色のバミューダパンツ。眉にかかる、少し癖のある前髪。面長の顔は日本人にしてはやや彫りが深く、目元は涼やかで、どこか昔の映画俳優を思わせる。造作は整っているものの、全体として柔和な印象が勝るのは、草食動物のような大人しげな瞳のせいだろうか。

 蔵人の視線の先では、彼の同居人のソーニャ・H・プリンがビーチボールを膨らませていた。

 猫を思わせる橄欖石ペリドット色の瞳。すらりと通る鼻筋と、やや尖り気味なおとがい。意思の強さを感じさせるくっきりとした眉。肌は上気して薔薇色を帯び、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。頬を膨らませ、半透明のボールに息を吹き込むその表情は真剣だ。

 普段は天使の羽ツインテールに結ぶ長い黄金色の髪が、今は頭の左右でお団子にされている。身につけているのは、蔵人の物と色違いのパーカと白のショートパンツ。ビニールシートに横座りして、短い裾からすらりと伸びる太ももとはぎの描く脚線美を余すことなく見せつけている。華奢な爪先に、淡い色でペディキュアが施してあることに蔵人は気づいた。

「––ぷわーっ」

 ソーニャが吹き込み口から唇を離し、深く息をついた。少女の呼吸に合わせて、パーカの胸が大きく上下する。膨らみかけのビーチボールが、浜に打ち上げられた深海生物のようにぐんなりと彼女の身体にもたれかかった。少女は顔を上げると、隣に座る蔵人に向かい、言った。

「苦しくなってきちゃった。クロード、交代して?」

「えっ?」

 鈴の転がるような声で名前を呼ばれ、蔵人は我にかえる。

 ほうけたように彼女の顔や、ことにその脚を見つめていたことを卒然として意識し、青年は顔を赤らめた。

「どうしたのクロード? まだ気分悪い?」

 ソーニャは身を乗り出して、動揺する蔵人の顔を覗き込んでくる。その眼差しには、憂慮の色が浮かんでいた。真っ直ぐな瞳に、内心を見透かされてしまいそうな気がして、蔵人は落ち着かない気持ちになった。

「ううん、船酔いはもう大丈夫だよ」

「本当?」

「うん……。ビーチボール、あとは僕がやるね」

 やましい気持ちを誤魔化すように、蔵人は少女の手からビーチボールを受け取ると、その吹き込み口を咥えた。こもる呼気のためか、ボールには僅かにぬくもりが感じられた。

 蔵人にとって、ソーニャは従妹いとこにあたる。

 彼女が両親と日本で暮らしていた頃、蔵人が用水路でザリガニ《トーチカ》を釣ったり、畑のうねや側溝でワイルドミニ四駆を走らせたりする時には、ソーニャはほとんど必ずくっついて来きたものだ。一人っ子の蔵人にとって、ソーニャは妹のような存在だった。やまれぬ事情から、彼女がアメリカはニューイングランドに移ってからも、メールやビデオチャットアプリで連絡を取ってきた。二人は最近起きたオカルトがらみの事件をきっかけに再会し、その後の奇妙ななりゆきから今現在、蔵人の宅で共同生活を送っている。

 リゾートホテル『ギルマンハウス』への宿泊旅行を言い出したのは、ソーニャの方だった。なんでも彼女の家業の関係先から、ホテルの無料宿泊券を譲られたのだという。

 絶海の孤島に建つクラシックなホテルと聞かされれば、蔵人としても俄然がぜん乗り気にならざるを得ない。こんな機会でもなければ一生足を踏み入れることなどないであろう、一種の異世界である。大学もちょうど夏休みとあって、行かない理由はどこにもなかった。

 日本でのソーニャの保護者を自任する蔵人だったが、島に来る時に乗った連絡船ではいささか船酔いしてしまった。せっかくの旅行に水を差すような失態だったが、ソーニャは嫌な顔もせず、介抱さえしてくれた。これではどちらが保護者なのかわからない。名誉を回復しようにも、気がつけば保護者にはあるまじき視線を向けてしまう体たらくだ。蔵人はせめてボールを膨らませるくらいは、と衷心ちゅうしんから息を吹き込んだ。

「これでどうかな」

 ビーチボールの吹き口をしっかり閉めながら蔵人は言った。

「わ、ありがと、クロード」

 ぱんぱんに膨らんだビーチボールにソーニャは顔を輝かせた。

 その様子に、蔵人は思わず口元をほころばせた。そういえば、一緒に海に来るのなんて本当に久しぶりだ。

「じゃあ、泳ごっ」

 ソーニャはそう言って、白魚のような指をパーカのジッパーにかけた。ジーッと音を立てて、衣服が紅海のように割れる。

 ゆで卵の殻を剥いたように、目の覚めるようなデコルテが現れた。続いて、豊かな胸乳むなちの谷間が露わになる。

 血色を帯びたアラバスターの肌。双丘の間に橋のようにかけられたビキニのトップスが、目に染みるように白い。さらには鳩尾みぞおちから形の良いおへその窪みへと、絶妙な曲面で構成された柔肌が姿を見せる。まるで焦らすかのようにゆっくりとジッパーをおろし切り、ソーニャはパーカの前を開いた。

 蝶が蛹を脱ぐように身をよじる。

 服から肩を抜くために胸をそらした姿勢になり、もとより自己主張の強い、お椀を伏せた形の二つの膨らみが胸郭の上でぐっと上向きになる。

 ソーニャは着衣を背中側に落とすと、おもむろに立ち上がった。伸びやかな脚の長さが一層際立った。

 蔵人の目と鼻の先で、それ自体が水着くらいの大きさしかないショートパンツのボタンが外され、再びジッパーの紅海が割れる。柔らかな曲線を描くお腹の下部から鼠蹊部そけいぶを覆う小さなビキニのボトムスが姿を現した。ソーニャはショートパンツから足首を抜くと、蔵人に向き直った。

「ボールちょうだい」

「……えっ? あっ、うん」

 見上げる形の蔵人は、諾々とボールを少女に受け渡した。いつの間にか喉が乾き、舌がうまく回らなくなっていた。

 ソーニャは、受け取ったボールをぎゅっと胸に抱いた。半透明なビニールの向こうで、柔らかな二つの半球が押し上げられ、むにゅりと形を変える。

「クロードも脱いで、はやく」

「ちょ、ちょっと待って、今脱ぐから––」

 蔵人はさっと顔を伏せ、パーカのジッパーに手を掛けた。いつの間にか手のひらが汗ばんでいる。金具が指先で滑った。

「はやくはやく」

 のろのろと上着を脱いだ蔵人の手を取り、ソーニャはパラソルの外へと引っ張り出そうとする。燦々と降る夏の光を浴びて、少女の身体は内側から輝くようだった。

 腰を浮かせかけた蔵人だったが、ふと動きを止めると、おもむろにシートに座り込んだ。

「あー……ごめん、ちょっと」

「うん? どうしたの?」

 不思議そうにソーニャが小首をかしげた。黄金色のびんの毛が鎖骨の上で揺れる。蔵人は視線をあらぬ方向へと彷徨さまよわせた。

「ま、待って、ちょっと今、立てない」

 蔵人は脱いだパーカを膝の上につかねながら、言った。

「足。足が痺れちゃったから。ちょっと待って」

 蔵人の言葉に、ソーニャは一瞬、キョトンと目を丸くする。続けて、ぷっと吹き出した。

「もぉ、クロードってば。先に行っちゃうよ」

 言いながら、少女はボールを持って砂浜を駆け出してゆく。

 少女の背中と、きゅっと上がったお尻を包む小さな三角の布地を見送って、蔵人は大きく息をついた。

 立てるようになるには、もうしばらく時間がかかりそうだった。


 傾き始めた太陽の光が、レースのカーテン越しに部屋の中に差し込んでいる。壁紙は、深い緑の蔦模様。床に敷かれた絨毯は深いワインレッド色。アンティークな真鍮しんちゅうの天井ファンが、冷房された部屋の空気をかきまわしている。

 テーブルの上には、ウェッジウッド製の茶器が並べられ、茶菓子の包みと飲みかけのカップのかたわらには、鉄表紙の大冊が無造作に置かれている。エアコンの立てるカタカタという音と、バスルームから漏れ聞こえるかすかな水音。

 スイートルームの応接室。

 ソーニャはふかふかのソファに深く腰を下ろしていた。ビーチとは打って変わって、空色のワンピースに身を包み、お団子を解いた蜂蜜色の髪が、剥き出しの肩に掛かっている。少女の足元には、まだ膨らんだままのビーチボールが無造作に転がっていた。

 少女の傍には、大きな大きな灰色の猫が寝そべり、すぴーすぴーと呑気に寝息を立てている。時折、三角形の耳がピクリと動き、モップのような尻尾が、ぱたりぱたりとソーニャの膝を撫でた。メインクーン種の血を引く誇り高い毛むくじゃらは、ホテルに到着してからこの方、冷房の効いた部屋でぐうたらするという贅沢を満喫していた。

 ソーニャの手は半ば無意識の動きで大猫のお腹を這い、淡い色の和毛にこげを指ですいていた。橄欖石の瞳は、手の中の携帯電話の画面を覗き込んでいる。画面には、水着姿の自撮り写真が映っていた。インスタグラムで「いいね!」をしこたま得られそうな、あざといポーズを決めた一枚だ。今日のために選んだ白のビキニがあつらえたように似合っている。だが……。

「うーん、ちょっと大胆すぎたかなぁ……」

 わずかに眉根を寄せて、ソーニャは呟いた。

 鏡の前で選んだ時には、悪くないと思えたのだが。こうして写真として客観的に見てみると、バストもお尻も半分くらいしか覆えていない。これではなんというか、そう、見られたがり、みたいだ。

「ねぇホイエル、どう思う?」

 言いながら、ソーニャは大猫の顔の前に携帯電話を差し出した。

 名前を呼ばれた大猫は少女と同じ色をした猫目を薄く開け、困惑の体で携帯電話の画面に顔を向けた。ピンク色の鼻先を画面に触れさせ「ぅなやーん?」と呟くように鳴くと再び目を閉じた。

「もぉ、ちゃんと見てよ」

 少女は反応の薄い使い魔に唇を尖らせた。

 ソーニャ・H・プリンは魔女である。『妖蛆の秘密ようそのひみつ』の著者、ルートヴィヒ・プリンから数えて十三代、プリン家の魔女は皆、ホイエルのようなバステト神の眷属けんぞくを相棒にしてきた。この灰色猫はソーニャにとっては頼れる相談役で、一番の親友だ。彼はこう見えて、おむすび型の頭蓋骨の中に輝かしい叡智えいちを秘めた賢者でもある。その鉤爪と同じく、その頭脳は〈混沌〉の手先との戦いに不可欠な武器といえる。

 だがそうは言っても猫は猫で、その能力には自ずと限界がある。選んだ水着が正解だったかどうかなど、灰色猫の脳細胞の守備範囲にはないのだろう。

「うーん……」

 悩める若き魔女はバスルームに続く白い扉に目線を移した。扉の向こうでは、彼女の従兄が身体を流している。海水浴場のシャワーはびっくりするほど冷たい水しか出なかったので、二人して早々に部屋に戻って来たのだ。

 彼に抱く感情に恋と名づけたのは、七歳のときだ。

 木の枝に引っ掛けたルアーを取ろうとして、農業用の溜池に落ちた自分を、蔵人は飛び込んで助けてくれたのだ。

「わたしがおおきくなったら、クロードのことおむこさんにしてあげるね」

 運び込まれた病院のベッドでそう言ったときのことは、遼薬リャオを使わなくともはっきりと思い出せる。あのときは、確かに本気でそう思っていた。当の蔵人を含めた周囲はいとけない戯言として微笑ましく受け止め、真面目に取り合ってくれたのはママだけだったけれど。

 それから十年。心の奥でくすぶっていた熾火おきびは、思わぬ再会によって燃え上がった。とてつもないトラブルを抱えた自分を、蔵人はまたしても命懸けで助けてくれた。惚れ直さないなんて無理な相談だ。

 その後のあれやこれやの結果、彼の家に居候することになったのは、まさに僥倖ぎょうこうだと思えたのだが……。

 一つ屋根の下で過ごせば、自ずから破れ鍋に綴じ蓋でねんごろな感じになれるだろうという目論見は早々に瓦解した。これまでのところ、二人の間に、これと言う進展は存在していない。蔵人が女性に興味を持っていない、というわけではなさそうなのだが……どうやら彼は自分を妹のように考えている––もしくは、考えようとしている––ために、惚れた腫れたの対象として考えまいとしているらしいのだ。

 そんな状況を変えるべく、ソーニャは今回の宿泊旅行を画策したのだった。

 蔵人が遠慮を感じないよう、知り合いからチケットを貰ったのだと誤魔化して泊まりがけの旅行に彼を引っ張り出した。普段と違う環境で、ロマンチックな時間を過ごせば、二人の関係に変化をもたらすきっかけが得られるかもしれない。開放的な真夏のリゾート。普通に考えれば、なにも起こらぬわけがないではないか? いささか冒険的な水着姿で彼を悩殺するのも、狡知極まる作戦の一環だったのだが……。

 ソーニャは物思いに沈みながら、なかば無意識にバスルームから聞こえる水音に耳をすましていた。さっきまで自分がシャワーを浴びていた場所なのだから、中の様子をするのはそう難しくはない……。

 はっ、とソーニャは我にかえった。

 気づかぬうちに、顔が火照っていた。

 べ、別にヘンなこと考えてるわけじゃないんだからねっ!

 などと、照れ隠しの思考を虚空に放ってみたものの、ますます顔が熱くなるばかりだ。ちゃんと日焼け止めは塗ったのに……。

「うー……」

 やがて左手がのろのろとあがり、顔の前に携帯電話を運んできた。

 少女はすこし躊躇ためらったのち、画面をスワイプして従兄の写真を表示させた。

 急にカメラを向けられ、端正な顔にとまどいとはにかみを浮かべた上半身裸の彼の身体は、ダビデ像のよう、とまでは言えなくとも均整がとれていて、ちゃんと引き締まっている。この写真が撮れただけでも、宿泊代の元は採れたようなものだ。他にも、ビーチボールをトスする姿や、海に浸かった姿の写真もちゃんと納めてある。写真を数えてみて、自分で思う以上にたくさんの写真を撮っていたことにソーニャは気づいた。

 画像フォルダが充実しちゃうな。

 そう思いながら、次々に画面をスワイプさせていたソーニャはあるところで手を止めた。

 写っているのは、片腕を彼の腕にからめ、反対側でカメラを持つ手をいっぱいに伸ばして撮った一枚だ。

 このときは、画角に収まるようにという口実で、ちょっと強引にくっついた。蔵人はどぎまぎしたような表情を浮かべ、びっくりしたような瞳はカメラの方ではなく、押し付けられた少女の身体に向いている。

 これもちょっと、やりすぎだったかな?

 彼の肌に触れたときの感触を思い出しながら、ソーニャは携帯電話のガラス面を口元に当てた。ひやりとした硬質な感触が心地よかった。

 やがて白い扉の向こうから、蛇口を閉めるキュッという音が聞こえた。


 壁にかかった看板から蔵人は目を逸らした。

 見なかったふりをしてそのまま行き過ぎようとしたが、袖を引かれ、青年は足を止めた。

「ひ・ほう・かん?」

 ソーニャが壁にかかった案内板の文字を読み上げた。

 蔵人のこめかみを、一筋の汗がつぅ……と流れた。

 窓から見える空は藍の色を深め、山脈のように聳える積乱雲の頭頂はすでに夕暮れの朱鷺とき色を帯び始めている。天井の照明はまだ灯されておらず『ギルマンハウス』の廊下は薄暗い。海の底を思わせるヨーロピアンな壁紙にいかにも場違いな感じで据え付けられた飴色の看板には、鮮やかな墨跡で記された『秘宝館』の三文字と、誘うような朱の矢印があった。

「ねぇ、クロード、秘宝館ってなんだろうね」

「え、そ、そうだね。なんだろう」

 無邪気に小首を捻るソーニャに、蔵人は口を濁した。濁せるものならこのままお茶を濁して済ませたい。

 午後のこの時間、夕食までの時間を潰すべく、二人は老舗ホテルの中を彷徨––ソーニャに言わせれば探検––していた。部屋で本を読んだり、地元局のテレビ番組を見るのも旅の楽しみではあるが、せっかくのリゾートホテルを満喫しないのはいかにももったいない。このホテルは歴史が深いだけあって、建築物それ自体がちょっとした観光資源になりそうな代物だ。ビリヤード場や卓球場といった娯楽施設にも事欠かない。しかし秘宝館まであるというのは……。

「面白そうじゃない? 行ってみようよ」

 まずいことにソーニャは乗り気のようだ。

「うーん……」

 ソーニャの日本語はほとんど完璧と言って良い。八歳までの日本での暮らしで身につけた語彙は、蔵人とのネット通話もあって錆つかず今に至っている。しかあれど、当然、日常的でない単語など抜けているものもある。たとえば、秘宝館といったような。

「『死者の書』とか水晶髑髏とかあるかな?」

「う、うーん」

 彼女は読んで字のごとく、インディアナ・ジョーンズ博士やリック・オコンネルといった冒険活劇のヒーローが命懸けで求めるような秘宝を思い浮かべているに違いない。蔵人とて本物の秘宝館に入ったことはないが、その展示品のあらましなどは見当がつく。未成年立ち入り禁止なのは間違いない。最悪の場合でも、一緒に展示品を見て回るようなことにはならずに済むだろう。しかしソーニャは聡明な少女だ。入り口を一目見れば、秘宝館がどういった性格の施設なのかをたちどころに悟るだろう。その時に彼女が覚えるであろう気まずさ、気恥ずかしさを思えば、なんとしてもここで引き止めるのが正義というものだろう。

 だが、いったいなんと説明すればいいのか。

 思い悩む蔵人を引きずるようにしてソーニャは矢印の先へと進んだ。

 そこに秘宝が待っていると信じて。


 数分後、ソーニャは目を輝かせながら、秘宝館の通路を歩いていた。少女に腕を引かれながら、蔵人は面食らったように展示品の数々に目を向けていた。青年の予想を裏切って、秘宝館は成人指定ではなく––二十四時間・入館無料––展示品の傾向も蔵人の心配を裏切る––上回る––ものだった。

 入り口を固めるマクシミリアン様式の甲冑。壁にかけられたインドサイの頭。天井からぶら下がった鰐の剥製。彫刻の施されたイースター島の棍棒。ブルーからグリーンへグラデーションを描くように並べられた蝶の標本。紋章のある盾。数々の刀剣。真鍮のにぶく光る古式銃。マルケサス諸島のティキの彫像。歯形の付いた革製の漏斗ろうと。スミロドンの頭骨。キリスト磔刑の釘、これはさすがに本物ではないだろう。ホルマリン漬けのシーラカンス。こけし。エケコ人形。翼ある猟犬の翡翠の像。メガロドンの歯。チェジュ島の道祖神、トルハルバン。ガラス目玉のハシビロコウ。どうやって運び込んだのだろう、オルメカ文明の巨石人頭像がある。ダンクルオステウスの化石。三葉虫。アフリカのトライバルな仮面。鉄の処女。なんとプトレマイオス朝のミイラの棺があった。普通の頭では被りかねるような、歪んだ金のティアラ。銅の地球儀、天球儀。輝石で作られた星座盤。魚を思わせる顔立ちの肖像画。錬金術師の工房に似合いのふいご、フラスコ。本の形をした薬棚。吸血鬼退治セット。人魚のミイラ。いったいどんな仕掛けがあるのか、刻々と色を変えて光る水晶髑髏があった。亀の姿をしたメキシコの雨の神の像。たぬきの信楽焼。木の骨の、石の金属の、土の布の、自然の人工の品々が、洋の東西を問わず、時代の新旧を問わず、まるで隙間を憎むかのようにぎっしりと並べられ、一歩足を踏み出すごとにその姿を現し、誘うようにその角度を変える。窓から差し込む午後の光が、それら多様な展示品に魔法のような陰影を与えていた。

「ヴンダーカンマーなんて初めて見た」

 ソーニャの口ぶりには隠しきれない興奮がにじんでいる。博物学的興味のままに各国の珍品を蒐集しゅうしゅうし、雑多に並べ立てたそれは、かつて王侯が世界の全てを手中にせんと作り出した『驚異の部屋ヴンダーカンマー』そのものだ。

 なるほど、たしかに秘宝の館である。

「ね、やっぱり来て良かったね」

「あー……うん、そうだね。」

 少女の言葉に蔵人は頷きながら、内心、ほっと胸を撫で下ろしていた。いわゆる本当の秘宝館でなくて本当に良かった。展示品の数々は控えめに言っても心惹かれるものばかりだ。見ているだけでわくわくと、胸が浮き立つような興奮が湧き上がってくる。すっかり見て回るには、時間がいくらあっても足りないだろう。

「あっ、うそ、ピックマン? 本物?」

 ソーニャは蔵人の腕を解放し、壁に掛けられた絵画に駆け寄ってゆく。蔵人はその後を追おうとしたが、ふと視線の端にぎった品に足を止めた。

 特別にあつらえられたような、マホガニーの台座。ガラスの箱が水槽のように被せられ、中には赤いビロードが敷かれている。その上に、どこか不穏な輪郭を持ったものが置かれていた。目を射るガラスの反射から顔を背け、一歩踏み出してケースの中を覗き込んだ蔵人は、不快な驚きに打たれ、思わず息をのんだ。

 それは切断された人間の手首だった。前腕の途中で切断された右手で、その華奢な作りを見れば女性のものだとわかる。切断面は引き伸ばされた皮膚を羽二重のようにしてじられ、縫い合わされている。肌の色は淡く、やや飴色がかり、蝋のような透明感がある。指の形は先細りで、親指とそのほかの指が互いに向かって曲がり、ゆるいアーチを作っている。指先に長く伸びた爪は綺麗に整えられ、艶やかな星のある巴旦杏はたんきょうの色に塗られている。グロテスクな品でありながら、独特の美をも兼ね備えていた。

 見つめているうちに、よく出来た作り物だろうという認識が蔵人の心に浮かんできた。まさかこんなところに本物の手首が展示されているはずがない。蝋細工師の超絶技巧の作り出した、実物と見紛うばかりの悪趣味な芸術作品に違いない。最初の驚きから立ち直り、この手首にどんな由緒があるものかと思いながら、蔵人はガラスケースの中のキャプションに目をやった。

 そこには〈黄夫人の手うぉんふじんのて〉とあった。

 カードに記された細かな文字を読み進むうち、蔵人はまたしても不快な驚きを味わった。それは最初のものよりも衝撃の点では小さかったとはいえ、いとわしさでは勝るとも劣らないものだった。

『中国湖南省湘潭市。黄夫人の名で知られる女性の手首。黄夫人は数多の窃盗行為を行い、最後は殺人を犯して逮捕、処刑された。この手は死後、切断され防腐処理が施されたもの。一説に刑死した人物の手首は「栄光の手」という呪物を作るのに用いられ、これを用いて盗みに入れば失敗することはないとされる』

 すると、やはり、この手首は本物なのか。

 蔵人は改めて手首に目をやった。作り物ではないという知識を得たせいか、手首は以前よりも生気を帯び、硬直した屍にはあるまじきしなやかさが蘇ったかのようだ。死人の手というよりも、眠っている人の手のように見え、今にも動き出しそうにも思えた。

 出し抜けに二の腕を掴まれた。

「わっ」

「クロード、何見てるの?」

「……はー、びっくりした」

 不気味な展示品に見入っていた蔵人は、従妹の接近に全く気づいていなかった。

「うん? 栄光の手?」

 ソーニャは蔵人の見ていたケースを覗き込みながら、何気ない動作で腕を絡ませ、自分の胸に抱くように押し付けてきた。衣服越しの柔らかな感触が、蔵人の意識からグロテスクな展示品の存在を一瞬で消し去った。ビーチで写真を撮った時のことが自然と思い出される。触れ合った肌の感触が蘇り、蔵人は落ち着かない気持ちになった。驚きによって跳ね上がった心臓が、休む間もなく高鳴りはじめる。

「ふぅーん」

 小首を傾げたソーニャの頭が、蔵人の肩にもたれ掛かった。

 カビ臭い展示室の空気に慣れた鼻腔を、ふわり、とサンダルウッドに似た香りがくすぐった。旅先にまで持ってきた彼女お手製の石鹸のためだろうか? もしそうなら、自分からも同じ匂いがするはずだ。あるいは、何か香水をつけているのだろうか? そこまで考え、蔵人は自分の汗の匂いが気になりはじめた。腕に感じる体温が殊更に意識され、彼は目線を落とした。彼女のワンピースは襟ぐりが大きく開いたデザインで、見下ろす格好の蔵人の目には、少女の胸の膨らみのはじまりが自然と入ってくる。

「クロード、気になるの?」

 ソーニャがそう言って顔を上げた。蔵人は咄嗟とっさに目を逸らし、ガラスケースへと目を向けた。

「あー、いや、うん。栄光の手って本当にあるんだな、と思って……」

 言いながら蔵人は罪悪感を覚えていた。

 彼女は自分を兄のように思ってくれている。ソーニャの見せる無防備さは、その現れだと蔵人は考えていた。その気持ちにつけ込むように、不純な目で見て鼻の下を伸ばすなど、信頼を裏切る恥ずべき行いではないか?

 蔵人は時折、自分のいやしさを打ち明けてしまいたいという衝動を覚えることがあった。

「クロード、こういうの興味あるんだ。そうそう、知り合いにね、マンドレイクを持ってる子がいるんだけど––」

 ソーニャは蔵人の懊悩おうのうをよそにニューイングランドの楽園における魔術トークを始めた。蔵人は相槌を打ちながら、彼女の柔らかな身体の感触を意識せぬよう、目の前の「栄光の手」に意識を注いだ。

 不意に、日が陰った。

 雲が陽光を遮り、一時、部屋の中に薄闇が垂れ込める。

 ケースの中の手首の指が、ぴくり、と動いた。

 蔵人が驚きの声を上げかけた刹那––。

 生木を裂くような雷鳴が轟き、展示室の窓枠をびりびりと震わせた。ソーニャがぴょんと飛び上がり、きゃっと小さく声を上げる。ほとんど間髪を入れず、大粒の雨が振り出した。一時、ドロドロと太鼓を乱打するような雷鳴と、窓枠を打つ雨音のハーモニーだけが世界の音の全てとなった。

「すごい雨」

 ソーニャは窓際に近づき、鈍色の空に目を向けるた。雲の中で閃く稲妻が少女の瞳に炎を踊らせる。

 蔵人は恐る恐るケースの中に目を落とした。切断された手首は何事もなかったかのように鎮座している。どうやら目の錯覚だったようだ。

「ちょっと寒くなってきたね」

 少女はそう言って自分の二の腕を撫でた。

「うん……」

 蔵人も寒気を覚えていた。知らぬ間に、肌が粟立っていた。


 青いタイルで覆われた戸口のアーチを背景にして立つ少女の姿は、アルフォンス・ミュシャの作品を彷彿ほうふつとさせた。彼女が身につけているのは平凡なパーカとショートパンツだが、その上から異教の女神のような雰囲気を薄衣のように纏っているようだ。

 女性用更衣室の出口の前で、キョロキョロと首を巡らせる少女に、蔵人は椰子ヤシの植え込みのそばからそっと手を振った。途端にソーニャはパッと顔を明るくして小走りに駆け寄って来る。

 二人は今、『ギルマンハウス』の誇る大浴場に来ていた。

 男女混浴で、入浴には水着着用が必須。ようは温水プールだ。深い矩形くけいの浴室を中心に持つ吹き抜けの構造で、二階のテラスとプールサイドが周囲をぐるりと取り囲んでいる。テラスを支える列柱はパピルス模様に彩られ、松明を模したガス灯が柔らかな光を投げかけている。天井はガラス張りで、晴天であれば昼は青空が、夜は星が望めるのだろう。どこからか流れてくるスローテンポな曲が、気だるいような空気を醸し出している。そこここに白いプラスチックの椅子や鋳鉄製のテーブルが並べられ、キッチンカーを模した屋台で手に入れたカクテルやケバブを片手に寛ぐ利用客の姿が見える。観葉植物として置かれた椰子の木や棕櫚シュロ蘇轍ソテツやバナナの木が葉を茂らせ、むっとするような湯気と相まって、南国の風情を演出していた。全体に、エキゾチックなトルコ風呂の雰囲気があった。

「クロード、お待たせ」

「ううん。お湯には入らないの?」

 ソーニャの格好に、蔵人は意外な思いを抱いていた。てっきり彼女は水着に着替えてくるものだと考え、それなりの心構えをしていたのだが。蔵人の方はしっかり湯船に浸かるつもりで、バミューダパンツ一枚に着替えていた。生地はまだ生乾きで、すこしばかり気持ちが悪い。

「足だけ浸かればいいかなって」

 プールサイドには、より浅くて小さな足湯やジャクージが設置されており、子供連れや年配者の姿もちらほらと見える。服を着たまま、湯船に腰掛けて足をつけている大人も居ないではないが、普段ならなんでも遊び倒そうとする彼女にしてはすこし不思議だ。よほど訝しげな顔をしていたのか、ソーニャが先回りして言った。

「だって水着、あれしかないから」

「えっ?」

「あの格好、ひとに見られたら嫌でしょ?」

 両手の人差し指を付き合わせながら、ゴニョゴニョと呟く。同意を求めるような上目遣いの眼差しに、蔵人は曖昧に頷いた。

 プールは芋を洗うような、というほどの混み具合ではないが、それなりに盛況だ。夕立に降られてビーチから退散してきた客も多いのだろう。ソーニャの言うように、彼女の水着はかなり小さかった。スタイルの良さも相まって、視線を集めてしまうのは間違いない。親戚である自分は良いとしても、赤の他人に見られるのは抵抗があるのだろうと蔵人は思った。ビーチでは人混みから離れたあたりで泳いでいたが、狭いプールではそうもいかない。

「それより、ね、なんだかいい匂いしない?」

 ソーニャは促すようにそう言って蔵人の腕を取った。

「ケバブ屋さんかな? 見に行こうよ」

「えっ、夜、中華だよ?」

「見るだけだってば––」

 はたして数分後。

 赤黒く張り詰めた薄皮に、真珠を並べたような皓歯こうしがつぷりと食い込み、鈍く丸まった先端を親指の長さほど噛みちぎる。少女は口の中のものをもぐもぐと咀嚼そしゃくして飲み込むと、テーブルの向かいに座る従兄に向かって、言った。

「ん……ちゃんと美味しいよ。クロードも食べてみる?」

「僕はいいかな……晩御飯食べられなくなるから」

「そう? それじゃ食べちゃうんだからね」

 言いながらソーニャは右手に持った〈ピックマンシェフのビッグジューシーフランクフルト〉にさらなる攻撃を加えた。

 その姿に、昔から燃費の悪い子だったな、と蔵人は懐かしく思った。基礎代謝が高いせいか、いつもお腹を空かせていたような印象がある。おやつに焼いたホットケーキをペロリと平げ、ご相伴にあずかった蔵人の方が夕飯を食べきれないような時でも、お代わりを欠かさないのが常だった。

 プールサイドの出店はどれも〈ウェスト博士のリフレッシュ・エリクサ〉や〈カーステアズ・グリューワイン〉といった初めて聞く店名ばかりだ。『ギルマンハウス』の展開するプライベートブランドなのかもしれない。蔵人がそんなことを考えているうちに、彼の従妹はあっという間にフランクフルトをお腹に収めてしまうのだった。


 利用客が途切れたのを見計らって、二人は無数にある独立風呂の一つへとやって来た。

 円形の湯船は細かいタイル張りで、底は玉砂利を埋め込んであるらしい。タコともドラゴンともつかない姿のガーゴイルが、台座から湯船にお湯を吐き出している。

 蔵人がステンレスの手すりを掴むと、人感センサーが反応して湯船の底から空気が湧き上がってくる。一瞬、掛け湯をした方がいいのだろうかと蔵人は考え、銭湯ではないのだからと思い直した。階段を降りて足をお湯につける。温度はややぬるめだ。湯船の縁は高く、排水口が途中に設けられ、お湯があふれないようになっている。足裏のツボを刺激する玉砂利が、健康に良さそうな、そうでもなさそうな感触を伝えてくる。腰掛けるための段差に腰を下ろすと、極楽の心地よさが身体を包み込む。空気の泡のくすぐったいような感触と、お湯の肌触り。泉質は単純アルカリ泉。成分的にはほぼ海水で、リウマチや打身に効能があるという。かつて祖父に連れ回されて県南県北の温泉を巡った時のことが懐かしく思い出された。

「ふあー……」

 蔵人が我知らず漏らした声がよほどじじむさく聞こえたのか、ソーニャがくすくすと笑い声を上げた。少女は蔵人の斜向はすむかいに回って湯船の縁に腰を下ろし、その伸びやかな白い脛を湯の中に浸した。

「わー、あったかいね」

 足首がお湯の中に没し、また浮かんでくる。ペディキュアのピンク色が、薄暗い浴場の中で妙に浮き上がるようだ。

「泡風呂って血行にいいんだよね。むくみとかに効くのかな?」

 言いながらソーニャは形の良い脚を上げ下げした。蔵人の見たところでは、彼女の脚はむくみの類とは無縁のようだった。少女の膝小僧が蔵人の目の高さで上下する。引き締まった太腿が、ショートパンツの裾から伸びている。

 目のやり場に困り、彼は天井を見上げた。

 玻璃天井はりてんじょうの格子の向こうはすでに暗く、打ちつける雨の流れが縞模様の滝を成して流れている。耳を澄ませば、心地よい雨音が聞こえて来そうだ。

 さっと脛を撫でられたように思い、蔵人ははっとして顔を下ろした。一瞬、ソーニャのつま先が触れたのかと思ったが、届く距離ではない。泡の感触を間違えたのだろうと納得しかけたところ、足の甲に何かが触れた。

 何だろう?

 蔵人は湯船の中を覗き込もうとした。もちろん、湧き出すジャクージの泡が全てを覆い隠している。

 目を凝らすうちにも、蔵人の手に、掴まれたような感触があった。慌ててお湯から腕を上げると、感触はすぐに消えた。

 蔵人は思わず立ち上がった。頭の中で警報が響き渡っていた。

「どうしたの、クロード?」

「ソーニャ、すぐお湯から脚を上げて!」

「えっ?」

「何かが、お湯の中にいるみたいだ」

 言いながら蔵人は座っていた段差に上がった。お湯に浸かった面積に反比例するように、湯の中に触れるものは、その頻度を増している。ソーニャは蔵人のただならぬ様子に血相を変え、素早くお湯から上がると従兄に手を差し伸べた。

「クロード、つかまって!」

 蔵人は湯船を横切り、差し出された手を助けにして階段を駆け上がった。

「大丈夫、クロード?」 

 ソーニャは心配そうに顔を見上げてくる。

「う、うん……」

 お湯から出て、少し落ち着きを取り戻した蔵人は少女に頷きを返した。

「なにか、感じたの?」

「お湯の中に、何かが」

 蔵人は自分の受けた印象を説明しようとして、言葉を探した。

「何かに、手を掴まれたような気がして……ソーニャは?」

「ううん、なんにも……」

 やりとりの間に、湯船が空になったことを悟ったセンサーが、ジャクージの作動を停止させた。

 空気の放出が止まり、細かな泡が消えるまでの間、二人は息を詰めて湯船の中を覗き込んだ。最後の波が収まって底までを見通せるようになっても、そこに異常なものは何も見つからなかった。

 蔵人はほぅっと息を吐いた。咳払いをして、首を振る。

「……ごめん。多分、勘違いだ」

 蔵人は気まずく思いながら、少女に向き合って言った。

 すこし、どうかしていたようだ。動転したところを見られたことで、蔵人の中に羞恥が湧き上がっていた。

 だが、さっきは確かに、何かが触れたように思えたのだが……。

「クロード、どうしたの?」

「ううん、なんでもないんだ。多分、泡を間違えたんだと––」

「そうじゃなくて、これ……」

 言いながらソーニャは蔵人の胸に手を伸ばした。

 蔵人は目を落として、自分の胸を見た。少し日に焼けた肌の、鎖骨の近くから、鳩尾にかけて、一筋の傷が真っ直ぐに走っている。

 それはまるで、爪で引っ掻いた跡のようだった。


「や、大丈夫だから。自分で出来るって」

「いいから、脱いで。もう、怖がらないの」

 ソーニャは蔵人のシャツに手をかけると、そのボタンを手際良く外してゆく。

「べつに怖がってるわけじゃないけど……」

 口ではそう言いながら、蔵人はさして抵抗することもなく、従妹のなすがままにまかせた。

 部屋に戻った二人は、居間のソファに並んで座り、蔵人の治療を行っていた。安楽の場所を奪われたホイエルは、今時めずらしいブラウン管テレビの上に居場所を移し、じゃれあう二人を半眼で眺めている。ソーニャは蔵人のシャツの前をすっかり開けてしまうと、その胸板に手を伸ばし、引っ掻き傷にそっと指を這わせる。蔵人が小さく身じろぎした。

「あっ、痛かった?」

「ううん、平気」

「じゃあ、しちゃうね」

 少女はそう言うと用意した缶の蓋を取り、薬指でその中身を掬った。淡いクリーム色の軟膏が塗られるのを、蔵人は注射でも待つような気持ちで見ていた。ソーニャも魔女の端くれだ。魔導書で学ぶ以外に、薬の調合などもそれなりに修めている。この旅行にも、やけど、切り傷、擦り傷、湿疹、かぶれ、あかぎれ、その他に効くお手製の〈魔女の軟膏〉を持ってきていた。

「……それ、ガマの油とかコウモリの血とか入ってるんだよね?」

「コウモリなんか入ってないってば」

 言いながら、少女は蔵人のはだけた胸に薬を塗りつけた。もとより、傷口とも言えないほどの引っ掻き傷だ。痛みなどはなく、むしろ少しばかりくすぐったい。ソーニャの真剣な顔があまりに近くにあることで、蔵人は少しばかり落ち着かない気持ちになった。

「よし、と」

 薬を塗り終わったソーニャはそう言って缶の蓋を閉めた。

「どう? 傷口の感じは」

「うーん、元々そんなに痛くはなかったし」

「でも、どうしてこんな怪我しちゃったのかな?」

 傷口の上に絆創膏を貼り付けながら、ソーニャは不思議そうに言った。

「多分、自分で付けたんだよ。これくらい、放っておいても大丈夫なのに」

 蔵人はシャツのボタンを閉じながら言った。

「痕が残ったりしたら困るでしょ? もう……」

「うん、ありがとう」

 正体不明の軟膏は温感成分が含まれているのか、塗られた部分にじんわりとした温かみが感じられた。

「寝る前にも塗ってあげるね」

 軟膏の蓋を閉めながら、ソーニャは言った。

「いいよ、自分で出来るから」

「そう……?」

 少女は、なぜか少しだけ残念そうな顔をした。


「––––でございます」

 給仕係が口にした中国語の料理名は聞き取れなかったが、テーブルに置かれた湯気を立てる大皿を見れば、とにかく、それが美味であろうということはすぐにわかった。それに、おそらく、とんでもなく高価な逸品であろうことも。

「わー、美味しそう」

 歓声をあげながら、ソーニャは大皿に手を伸ばした。丸揚げにされ、あんをかけられた大魚の身に取り分け用のフォークが差し込まれる。しゃぐり、と音を立てて割れた皮の間から、ほろほろとした真っ白い身が顔を覗かせる。食欲をそそる香ばしい香りが部屋いっぱいに広がった。

 中華レストラン『螺煙城』。その個室で、ソーニャ・H・プリンと安部蔵人は回転台付きの円卓に着いていた。

 赤と金を基調にした華美な装飾にも関わらず、部屋にはどこか重厚かつシックな雰囲気が感じられる。飾り棚には一塊の翡翠から刻まれた神亀の彫刻が安置され、壁には柳を描いた見事な水墨画が掛けられている。天井のスピーカーからは音量を抑えた女子十二楽坊のアレンジが流れていた。

 空の皿を下げた給仕係が退室するのを待って、蔵人は言った。

「やっぱり、ここ、すごく高いんじゃない?」

 自然と囁くような声になっていた。

「もぉ、クロードってば。宿泊チケットに入ってるんだから。気にせずに楽しもうよ」

「そうだけど……譲ってくれた知り合いって、どういう人なの? お祖父さんの関係とか?」

「はい、クロードの分。冷める前に食べちゃおうね」

「あっ、ありがと」

 蔵人は取り皿を受け取った。

 箸を取り上げる。従妹が皿に箸を着けるのを待ち、蔵人は魚の身を口に運んだ。

「んーっ!」

「えっ、美味っ」

 さっくりと揚がった皮にしんなりと染みたあんの甘酸っぱさ。身にはぶりっとした歯応えがあり、噛めば滋味溢れる肉汁が口内に満ちた。

「これ。なんて魚だろう」

 そう言ってしまってから、蔵人は内心でしまったと口をつぐんだ。

「河魚っぽい気もするけど……」

 従妹の顔を覗きながら、フォローするように言葉を繋いだ。

「美味しいんだから、なんでもいいんじゃない?」

「そうか……そうかも」

 ソーニャが気にした様子もなく、ぱくりぱくりと白身魚を口にするのを見て、蔵人は目を細めた。

 すこし前までは、主に心理的要因から海産物がほとんど食べられなかったのに。もうすっかりトラウマを克服したようだ。

 彼女の心境の変化にも一役買った蔵人には、少しばかり感慨深いものがあった。

「どうしたの、クロード?」

「ううん。やっぱり、料理の名前をちゃんと聞いておけばよかったなって」

「あとで聞いてみよっか。クロード、おかわりは?」

「え、ちょ、ちょっと待って」

「ぐずぐずしてたら無くなっちゃうよ。あっ」

 ソーニャがさも失敗した、という顔をした。

「写真に撮るの忘れてた」

 二人はしばし顔を見合わせると、一緒になってくすくすと笑った。


「ごめん、ちょっとお手洗いに」

 蔵人は立ち上がり、膝に掛けていたナプキンを椅子に置いた。円卓の上には鱶鰭ふかひれグラタンや茹でた上海蟹、麻婆豆腐、焼き五目米線、蒸籠に収まった小籠包などが所狭しと並んでいる。『螺煙城』の美食攻勢は止まるところを知らないようだ。いずれも食べれば頬が落ちそうな絶品ぞろいだが、唐辛子や山椒の香辛料を効かせた皿も多く、蔵人は先ほどから烏龍茶のグラスを幾度も干していた。

「うん、いってらっしゃい」

 ソーニャは一瞬、顔を上げて従兄を見送ると、上海蟹の爪の身を金属棒でほじくる作業に戻った。その眼には、これまでの人生で食べ損ねてきた甲殻類を味わいつくさんという気迫がこもっていた。

 夕食どきとあって、レストランは盛況だ。ウェイター、ウェイトレスが廊下を忙しく行き来している。蔵人は案内板を頼りに目的の場所に向かった。

 化粧室に入ると、チリンとドアチャイムが音を立て、薄暗くなっていた照明が光量を増した。扉を閉めると外の音が遠ざかり、不意の静けさが訪れた。

 トイレはすべて洋式の個室だ。蔵人は深く考えることもなく、端の一つへと入った。

 便座に腰掛けると、スピーカーからせせらぎの音が流れ出した。

 ふぅ、とため息をついた。

 腹はすでに八分目に近い。メインディッシュまで入るだろうか。

 健啖ぶりを発揮していたソーニャのことが自然と思い浮かぶ。いったい、あの細い身体のどこに入ってゆくのだろう。

 そのとき、コン、とノックの音がした。

 音の感じからして、反対の端の個室だろうと蔵人は思った。

 しばらく間があって、また、コン、と音がした。先ほどよりも音が近い。

 ややあって、三たびめのノックが聞こえた。

 ノックの音が次第に近づいているのは、今や間違いなかった。

 蔵人は不審を覚えた。

 個室はすべて空いていたはずだ。それに、自分のあとで、化粧室のドアが空いた音はしなかった。

 ついに隣の個室のドアが叩かれた。謎の手が、自分の個室のドアを叩くのを待つのが急に不気味に思え、蔵人は立ってズボンを引き上げた。自動洗浄の水が流れ、スピーカーのせせらぎが止まった。

 ドアの鍵に手をかけ、蔵人は一瞬、躊躇った。

 いったい、自分は何を怖がっているのか。そう自問して、蔵人ははじめて恐怖を自覚した。

 理屈に合わないことだ。リゾートホテルの、清潔な手洗いで、いったい何が自分をおびやかすというのか。

 思い切って蔵人は鍵を開け、扉を大きく開いた。

 目に飛び込んでくる人影に、心臓が跳ね上がったが、すぐにそれは洗面台の鏡に映る自分の姿に過ぎないと悟った。

 周囲を見回し、蔵人は化粧室に自分一人しか居ないことを知った。


「大丈夫? 気持ち悪くなっちゃった?」

 部屋に戻った蔵人の顔を見るなり、ソーニャは心配顔になって、言った。

「ううん。でも、ちょっと食べ過ぎちゃったのかも」

 蔵人は平静を装い、言った。

「お薬のむ?」

「うーん、もしかしたら、あとでね」

 ソーニャは代々続く魔女の家系で、オカルト事象の専門家だ。共同生活を送りはじめてから、それまで形而上的な事柄には無縁だった蔵人も、幾度か怪異に出くわし、時には彼女がそういった事件を解決する場に居合わせてきた。しかし、蔵人には、彼女に化粧室の怪奇現象––そう言ってよければ––のことを伝えるのが妙にはばかられた。連絡船での船酔いに、浴場での失態と、せっかくの楽しい旅行に水を差してばかりなのに、このうえトイレの怪談まで持ち出して料理の味を損ねることはしたくない。蔵人は、なんでもないと自分に納得させた。きっと空調のダクトか何かが立てた音を、ノックの音だと誤認したのだろう。そう考えれば、説明がつく––。

 コンコン、と個室の扉がノックされ、蔵人ははっとして顔を上げた。

 給仕係が部屋に金属の盆を運び込んだ。仰々しく、銀色の覆いを被せられた一皿が円卓に置かれる。これが本日のメインディッシュということになるのだろうか。髪を撫でつけた給仕係の目の端に、わずかな笑みが浮かんでいるように蔵人には思えた。

 勿体ぶった様子で覆いに手をかけた給仕係は、朗々と料理の名を告げた。

「お待たせしました。こちら『黄夫人掌ウォンフーレンショウ』でございます」

 蔵人の耳には、そのように聞こえた。

 聞き返す間もあらばこそ、覆いがさっと取り除けられた。

 皿には野菜の飾り物に囲まれて、切断された女の手首が置かれている。

 蔵人の喉で悲鳴が詰まった。脊髄に氷柱を押し当てられたような恐怖が青年の胸を締め付けた。

「わぁ、すごい。美味しそうだね、クロード?」

「えっ……」

 はしゃいだ声を上げる従妹の顔を蔵人は見た。花のかんばせに浮かぶのは、何の屈託もない笑みだ。

 食卓に人の手首が上ったのを見て、こんな表情ができるものだろうか。

 蔵人は目を瞬かせ、皿の上に恐る恐る、視線を落とした。

 はたして、そこにあったのは赤黒いタレの絡んだ、ゼラチン質のごってりとした塊だった。生き物の前肢のようではあるが、人間の手首とは似ても似つかない。

「ええと、すみません、これは?」

 蔵人は給仕係に向かい、聞いた。

「はい、こちらは『紅焼熊掌ホンシャオユウショウ』、クマの手の醤油煮込みでございます」

「クマの手……ですか」

 自分の聞き間違い、見間違い、ということか。

 蔵人は手で自分の太ももをぎゅっと掴み、強いて呼吸を落ち着かせようとした。

「……どうしたの、クロード? クマ、嫌い?」

「ううん。料理になったのは、初めて見たから……じゃあ、いただこうか」

 顔を覗き込んでくる従妹に、蔵人は笑みを返そうと努力した。あまり上手く行かなかったのが、自分でもわかった。


 むっとするような空気に、冷房に慣れた肌がたちまち汗ばんでくる。

 四方をガラスに覆われた温室は、差し込む月光の青さを受けて、どこか水槽の底を思わせる。ガラス張りの天井の向こうには、濃紺の空に水晶くずを撒き散らしたかのように星々が瞬き、月光を浴びる千切れ雲がその輪郭を煌々と輝かせている。

 湿った土と、植物の匂い。

 暗がりの中、アダンは枝に小ぶりな果実を実らせ、ハイビスカスが花を咲かせている。

 コロコロ、チリチリとすだく虫の声には、はやくも秋の色が混じっているようだ。

「思ったより、人いるね」

 側を歩くソーニャが言った。

「えっ、そう?」

 言われて蔵人はあたりを見回した。蔵人の目には繁茂する熱帯の草花の黒々としたシルエットが映るばかりだ。

「うん。穴場だって聞いたんだけど」

 ソーニャは少し残念そうに言った。

 二人は『ギルマンハウス』の誇る植物園の遊歩道を歩いていた。

 胃袋に詰め込んだ夕食の腹ごなしの他に、もう一つ目当てのイベントが控えている。ホテルが宿泊客のために打ち上げる、花火のショーだ。打ち上げはロビーやレストランからでも見られるが、ソーニャの聞いた話では温室は人が少なく、狙い目なのだという。

「もうちょっと奥の方に行ってみようか」

「うん」

 蔵人は従妹を促して先へと進んだ。南国の植物の間を縫う小径には、足元を照らすライトが数珠じゅずのように連なり、ニューイングランドの魔女並みの夜間視力を持たない人間の歩行を助けている。歩くうち、蔵人の目にも他の人影が映るようになってきた。その多くがカップルらしい。薄暗がりをいいことに、みな喋喋喃喃ちょうちょうなんなんの様子だ。

「––ばっかりだね」

「えっ?」

 人様のいちゃつきをあまり見ないようにと気をつけていた蔵人は、ソーニャの発した言葉を聞き損ねた。

 少女は蔵人の腕を取ると、爪先立ちになって、耳元で囁くように言った。

「カップルばっかりだね、って言ったの」

「あー……うん。そうだね」

「……ね、私たちも、そんなふうに思われてたり、するのかな?」

「えっ?」

「だから……なんていうか……カップルみたいに思われたり、とか」

「どうだろう。みんな自分たちのことしか見えてないんじゃないかな?」

「それは、そうかも」

 少女の口調に、わずかに拗ねたような色が混じっていたように蔵人には思えた。しかし、その理由となると皆目見当がつかない。なにか変なことを言ってしまっただろうか。

「あっ、あそこベンチあいてる!」

 出し抜けにそう言って、ソーニャが駆け出した。蔵人は引きずられるようにして、後に続いた。

 ソーニャが確保したベンチのそばには、バナナの木が葉を繁らせ、並んで上を向いた果実の房からは、草いきれのような青臭い匂いが漂っていた。少女はハンドバッグからハンカチを取り出すと、額と首とをそっと拭った。

「さっきの料理、辛かったね。汗かいちゃった。ここ暑いし……」

 月の光に浮かび上がる横顔は、まるで瑪瑙めのうを刻んだかのようだ。側に座る蔵人には、少女の首筋に円を描くように張り付いた後毛おくれげが見てとれた。

「だから穴場なのかな。クロードは平気?」

「暑いの好きだから」

 夏生まれのせいか、蔵人は暑さがあまり苦にならない。逆に寒さとなると大の苦手だった。

「そんなこと言って、クロードも汗かいてるよ。拭いてあげよっか?」

「えっ、いいよ。大丈夫だから」

 ともすれば顔にハンカチを当てにかかってくる従妹を押し留めるように、蔵人は言った。

「じゃあ、これは? じゃーん、ミニ扇風機」

 ソーニャはバッグから宣言した通りの携帯型扇風機を取り出した。軟質素材のプロペラを蔵人の顔に向け、スイッチをカチリと入れる。ブーンという低いモーター音と共に、そよ風程の空気の流れが生まれた。仕込まれたライトの仕掛けが、回転するプロペラに『I AM PROVIDENCE』の文字を浮かび上がらせた。

「どう? 清涼感ある?」

「ぼくはいいから、自分であたりなよ」

「そう? うーん……」

 黄金色の前髪が、マブチFA一三〇モーターと軟質プラスチックの生み出す人工風に揺れる。

「あ、こうしたら一緒にあたれるんじゃない?」

 さも閃いたという様子で、ソーニャは蔵人の側にぎゅっと距離を詰めると、右腕に持ったミニ扇風機の風が、二人に均等に当たるようにと調節する。ぬるい微風に混じるサンダルウッドの匂いと、触れ合う太ももから伝わる温度のために、かえって蔵人の体温は上昇しそうだった。

 扇風機のモーター音と、虫の声を聴きながら、ふと、蔵人は思った。

 話すなら、今ではないか。

 ドアをノックする音が聞こえたように思えたこと。クマの手が、一瞬人間の手に見えたこと。どちらも口にするのが妙に憚られ、ソーニャには黙ったままだ。プールでのひと騒ぎの時のように、彼女を巻き込みたくなかったのだ。だが、今こうして二人でベンチに並んでいると、先ほど感じた恐怖はすっかりと影を潜め、ちょっとした錯覚に過ぎないのだと蔵人には思えた。口に出してしまえば、ちょっと間抜けな勘違いだと二人して笑って、旅の思い出の一ページに変えてしまえるだろう。

「ねぇ、さっき……」

 光が瞬いた。

 ガラス張りの夜空に、白、赤、緑の炎が生まれた。巨大な輪は際限なく広がり、夜空を覆い尽くさんばかりだ。遅ればせに届いた破裂音が温室をビリビリと震わせ、パチパチと油の弾けるような音が続く。最初の花火が消えやる前に、後続が次々と花を咲かせた。まるで炎と硝煙を束ねた花束のようだ。

「クロード、なあに?」

 花火に遮られた言葉を、ソーニャが聞き返してくる。

「ううん。本格的だね!」

「うん! 旭川あさひがわの花火大会みたい!」

 花火に負けじと、二人とも大声になる。一尺玉とか、二尺玉とか言われる大玉があげられているようだ。

「たーまやー」

 ソーニャの掛け声が、ドンドンパラパラと鳴り響く花火の音に色を添える。

「ほら、クロードも」

「た、たーまやー」

 促され、蔵人も声をあげてみた。ちょっと気恥ずかしいが、花火で声がかき消されるので、他人に聞かれることもないだろう。大声を出すことの、単純な快感がそこにはあった。二人はひとしきり声をあげたが、やがてどちらともなく黙り込み、夜空を彩るスペクタクルに見入った。

 不意に、膝に置いた手が、ぎゅ、と握られたのを蔵人は感じた。

 心臓が跳ね上がった。

 ひんやりとした、小作りな指が手の甲に触れている。

 その感触に、ガラスケースに入っていた例の手首のことが、いやがおうにも思い起こされた。

 忘れかけていた恐怖が、一時に蘇ってきた。網膜に映る花火や、鼓膜を揺さぶる轟音が遠く退き、右手に感じるすべらかで華奢な指の触覚が、触知できるすべてとなった。ゴルゴンに睨まれたように身体を凍てつかせた蔵人はそれでも、遅々とした動きで掴まれた手に眼球を向けた。

 ほっそりとした指を持つ白い手が、自分の手に重ねられている。

 その手はきちんと腕につながっていた。蔵人は二の腕から肩へと目を上げた。

 薄闇に浮かぶ少女の横顔を、炎色が赤く染めている。夜空にまっすぐと向いた瞳の中では、とりどりの色が万華鏡のようにきらめいている。

 青年は胸を撫で下ろした。安堵感から、我知らぬうちに、少女の指をそっと握り返していた。世界が再び確固たる形を取り戻したかのようだった。

 ややあって、ソーニャがそっと肩に頭を預けてきた。

『ギルマンハウス』の花火ショーはいつまでも終わらないようだった。


 こっくり、こっくり、と黄金色の頭が揺れる。

「くわーぁ……」

 大きく口を開けて、ソーニャはあくびをした。

「もうだいぶ遅いし、そろそろ寝ようか」

 蔵人はいかにも眠たげな従妹に向かい言った。

 花火のあと、卓球やメダル落としやワニワニパニックといった温泉宿にありがちな娯楽で夏の夜を過ごした二人は、部屋に戻り、時折見慣れないCMの挟まる地方局の番組を見るともなく見ていた。いつの間にか、時計の針はすでに真夜中近くを指している。良い子も悪い子も眠る時間だ。

「えー……でも、まだ、眠くない」

 そう言いながらも、少女は橄欖石の瞳をしょぼしょぼさせる。

 もともと夜型の蔵人に比べて、早寝早起き昼間は元気のソーニャである。それに、どうやら昨日はよく眠れていないようだった。そういえば昔から、遠足やイベントの前は神経が昂って寝付けないタイプだったと述懐しながら、蔵人はリモコンでテレビを消した。

「それに、クロードの薬、塗らないと……」

 言いながらソーニャはテーブルに手を伸ばした。そこには夜食にした木村屋のバナナクリームロールの袋や、空になったドクターペッパーのペットボトルに並んで『妖蛆の秘密』と〈魔女の軟膏〉の入った缶が無造作に置かれている。

「だって眠いんでしょ。ほら、ベッドに行って」

「だめぇ、ちゃんとしないと……」

「自分でするから」

「ほんとに……?」

 言いながらも、少女の身体はソファの座面にずるずると沈み込み、やがて筋を違えそうな姿勢で動かなくなる。

「あっ、こら、だめだよ。ちゃんとベッドで寝ないと」

 蔵人は言いながら少女の肩をそっと揺さぶるが、返事の代わりにむにゃむにゃと不明瞭な言葉が返るだけだ。

 しょうがない。

 蔵人は少女の身体に手を回し、横抱きにして持ち上げた。

 そう重くはないが、かといって軽くもない。落とさないようにと持ち方を調整していると、ソーニャが首筋に腕を回してくる。身につけているのは寝巻きがわりのTシャツとショートパンツだ。眠たいせいか、体温が妙に高い。蔵人は苦労して主寝室への戸口を通り、二つ並んだベッドの片方に、少女を可能な限り静かに横たえた。もう一つのベッドの上では、うたた寝から目覚めた灰色の毛むくじゃらがごろりんと身体をよじり、シーツに猫の毛を広げる活動に余念がない。

「おうろうわ?」

「しーっ」

 蔵人は唇に指を当ててホイエルに沈黙を促した。大猫は鼻をふん、と鳴らして毛繕いを始める。ベッドのソーニャはうーん、と声を上げ、シーツの上で寝返りをうった。応接室から届く矩形の光の中で、少女の太腿が妙に白白と浮かび上がった。

「おやすみソーニャ、ホイエルも」

 蔵人はそっと少女の身体に布団を掛け、主寝室を後にした。

 歯を磨き、言いつけ通りに薬を塗り直した後、蔵人はソファに横たわり、目を閉じてなんとか眠ろうとしていた。頭をあずけるクッションにはホイエルの毛が付着している。朝までには何本か口に入っているだろう。ソファは少し長さが足りず、足首がはみ出してしまう。明日になれば、きっとどこかが痛むに違いない。蔵人は従妹の眠る寝室のことをちらと思い浮かべた。寝心地はベッドの方がいいに決まっている。だが、さすがに、そういうわけにはいかないだろう。未成年の女の子と、同室で寝るのは正直、憚られる。普段から一つ屋根の下で暮らしているものの、同居と同室では意味が違う。

 もっとも、ソーニャの方では特に意識はしていないようだったが。もちろん、いとこ同士なのだから、別に同室だろうと何か不都合があるわけでもないし、部屋を分ける方が、逆に意識しているように受け取られかねないという問題はある。

 いや、これは、意識しているとかしていないとかではなくて。倫理。常識としてのやつだから……。

 倫理、常識と内心で呟きながらすこしでも寝やすい姿勢を取ろうと身体を動かし、蔵人はなんとか眠れそうな姿勢を見つけ出した。

 今日は大変な一日だった。

 海で泳いだのだから、身体は疲れているはずだ。すぐにでも眠りが訪れてくれると期待しながら、ともすればまぶたの裏に浮かんできそうになる水着姿や、素足の白さを振り払おうと、青年は脳裏に無限数の羊を思い浮かべた……。

 スプリングの軋みに、蔵人ははっとして目を開いた。

 いつのまにか、眠りに落ちていたらしい。

 部屋はまだ暗い、夜明けは遠そうだ。眠っていたのはそう長いあいだではないだろう。

 何が自分を目覚めさせたのだろうか。

 そう考えた矢先、蔵人は何者かに身体をまさぐられているのに気づいた。何かが、肌の上を、そっと愛撫するように這い回っている。その感触には、どこかしら淫靡いんびなものを感じられた。

「……ソーニャかい?」

 蔵人は考えることもなく、従妹の名を口にした。

 この客室に居るのはホイエルを除けば彼女だけだ。論理的に考えれば、これは彼女の手でしかありえない。

 だが、ソーニャが自分の寝床に忍んで来るような理由が……。

 はっと蔵人は息を呑んだ。

 いやいやいや。でも。いや、やっぱりありえない。

 頭の中でまさかともしやの羊がぐるぐると駆け回る。

 蔵人が身を固くしているうちに、指先はその大胆さを増し、彼の胸板から腹部を、そっと爪弾くように探り始める。

 困る。どうしよう。困る。

 華奢な手はそっと蔵人のシャツの中に潜り込み、軽く爪を立ててくる。その動きは執拗だ。やがてその矛先は鼠蹊部へと及び、蔵人はパニックに襲われた。

「わっ、ちょ、ちょっと待って」

 蔵人は慌ててソファから身を起こした。常夜灯の灯りで周囲を見回し、蔵人は自分が一人きりであることを知った。当惑を覚えながらも、身体を這い回る感触がまだ消えていないことに気づき、青年は布団代わりのバスタオルを身体から引き剥がした。

 シャツに取り付き、その内側へと潜り込もうとしているもの。

 それは切断された女の手首だった。

「––!」

 蔵人は声にならない悲鳴を上げて跳ね起きた。

 慌てて周囲を見回し、部屋の灯りを付けた。しらじらとしたライトが、部屋を照らし出す。蔵人は自分の身体をはたき、そこに蜘蛛のように呪わしい手首が取り付いていないことを確かめないではいられなかった。

「いま、のは、夢? なのか?」

 自分を落ち着かせるように言いながらも、蔵人の目は部屋の暗がりに異形の影を探していた。わざわざクッションを持ち上げて、そこに怪異が潜んでいないことを確かめずにはいられなかった。やっとの思いで、悪夢を見たのだと自分を納得させた。

 しかし、なんという夢だろう。

 蔵人はソファに腰を下ろし、しばしの間、掌で顔を覆った。

 やがて意を決すると、服を着替えるために立ち上がった。


 点々と続く常夜灯に誘われるように、蔵人は歩を進めていた。

 深更の『ギルマンハウス』。宿泊客の多くが眠りについているであろうこの時間、ホテルはどこか伽藍堂がらんどうの廃墟のようでもあり、それでいて、なにか触知できないものに満ちているようでもある。

 昼間、ソーニャと歩いた廊下は暗く沈み、すっかり様変わりして見える。太陽の光の下で息を潜めていたものどもが目を覚まし、壁紙に閉じ込められた深海の生き物たちの放つエーテルが空気中に滲出してきたかのようだ。蔵人は首を振って心に浮かんでくるグロテスクなイメージを振り払おうとした。怯えた心が、目に映るもの全てに恐怖のフィルターを掛けているだけだ。

 そうは思っていても、壁にかかった看板を見つけた瞬間、蔵人ははっと息を呑んだ。

 秘宝館へと案内する木製の看板は、昼間、日の光の下で見た時と同じようにそこにかかっている。

 蔵人は不意に不安に駆られ、左右に目を走らせた。目路の限り、他に人影はない。拳をぎゅっと握り、看板の前を通り過ぎた。自然と早足になっていた。今にも、どこからかあの手首が姿を表すのではないか。恐怖に、彼の神経は弓の弦のように張り詰めていた。

 蔵人は歩きながら自分の行動の馬鹿馬鹿しさを考えていた。

 いったい、こんな時間に、僕は何をしようとしているんだ?

 本気で、腕がケースに鎮座しているのを見に行くつもりなのか?

 それで何が証明されるというんだ?

「もちろん、腕はあそこにあるに決まってる」

 蔵人は小声で呟いた。当たり前のことだ。

 午後いっぱい、自分の神経を悩ましてきたイメージがどこから来たものか、蔵人にはわかっていた。

 あの腕。切断された、女性の手首。〈黄夫人の手〉こそが、その元凶に違いない。思えば、おかしな幻覚はあの手を見た後から始まったのだ。プールでの事。トイレと、レストランでの事。そして夢。ヴンダーカンマーで見た手首の印象が、自分の想像力に妙な悪影響を与えたに違いない。そのせいで、ジャクージの泡や、空調の音や、クマの手首に恐ろしい幻想の彩が加えられたのだろう。昔から、想像力が豊かすぎると言われていた方だ。これは言ってみれば、小さい頃患っていた夜驚症のぶり返しのようなものに違いない。ヴンダーカンマーを再訪し、展示ケースの中にある〈黄夫人の手〉を見れば、手首に付き纏われているという妄想を振り払うことができるだろう。なにせ、手首はケースの中からは出られないのだから。そう自分に納得させれば、もしかしたら夜明けまでに一眠りすることもできるかもしれない。

 そう思いながらも、蔵人は一抹の不安を感じてもいた。

 もし万が一、そこに手首がなかったら?

 その時は……どうすればいいのだろう?

 蔵人は不意に浮かんだ考えを慌てて打ち消した。

 そんな風に考えてしまうのは、狂気の兆しではないか?

 手首は勝手に動いたりしないと、そう強く自分に言い聞かせながら、蔵人は秘宝館に向かって足を早めた。


 マクシミリアン式甲冑が、覗き窓から虚ろな眼差しを向けてくる。蔵人は恐る恐る、掲げられた斧槍の刃の下を潜った。

 昼間は知的好奇心をそそった種々の珍品が、真夜中の今ではみな恐ろしげに見える。日の光の下では生命を失い、無害な顔をしていた展示品の数々が、闇の中でその本性を露わにしていた。この剥製は、視線を外した瞬間に牙を剥いて襲いかかって来るのではないか? あの仮面は今にも目を開き、呪いを投げかけてくるのでは? 文明が征服した世界の不思議が息を吹き返したかのようだった。全てのものが記憶よりも大きく、脅威に満ちている。人類の祖先が立ち向かってきた未知なる混沌に、ただ一人、生身で対峙することを強いられているかのように蔵人には思えた。

 萎えそうな心を奮起させ、蔵人は通路の間を突き進んだ。

 一刻も早く、この夜の恐怖をもたらす源泉に辿り着きたい。展示された手首がただの物質に過ぎないことを確かめたい。そして、その後は全てを忘れ、従妹と猫の待つ部屋に戻りたかった。

 気持ちが逸り、息が詰まりそうだ。だが同時に、あれと相対することを、無期限に延期したいという相反する感情も同時にあった。

 やがて蔵人は目当てのケースの前に立った。あえて視線を逸らし、覚悟を決めるために、何度か大きく息をつく。

 思い切って視線を下ろした。

「あっ……」

 蔵人はあえいだ。恐怖の手に心臓を握られたようだった。

 思わずケースの蓋を掴み、ガラスに屈みこんだ。目を皿のようにして隈なく視線を走らせ、そこにあってしかるべきものを探した。展示箱の中には赤いビロードのクッションが置かれている。その表面には、わずかな窪みがあるばかりだった。

 あり得ないことに、黄夫人の手は消えていた。

「どうしたかね?」

 突然声をかけられ、蔵人は弾かれたように顔を上げた。

 ヴンダーカンマーの暗がりに、小柄な人影が生じていた。

 影が進み出る。月光がスーツ姿の男を照らし出した。うねるような髪が広い額を縁取り、落ち窪んだ目の周りを暗色の隈が取り囲んでいる。目はビー玉のように小さく、それでいて強い光を放っている。

「何かお目当ての展示品でも?」

 絶句する蔵人に、男は重ねて言った。

「あの……ええと、あなたは?」

 蔵人は躊躇いがちに口を開いた。突然現れた男の存在に面くらっていた。

 夜のこの時間に、こんな場所に居るこの人物は一体何者なのか。

 とまどいが恐怖に一時のかすみをかけていた。

「ああ。私はこのささやかな収蔵品たちの世話係だ」

 それで自己紹介は済んだとでも言うかのように、男は頭を傾け、蔵人が前にした展示ケースに目を向けた。

「おや。お探しのものは〈黄夫人の手〉かな」

 蔵人はぎくりと身をこわばらせた。囁くように発せられた声には、どこか面白がるような調子が僅かに混じっている。

「おやどうしたことだ。〈黄夫人〉が消えてしまうとは!」

 男の声に含まれる、どこか芝居がかった響きに、蔵人はほとんど気づかなかった。

「えっ、そんな、それじゃ、本当に」

 恐怖が喉を締め上げてくるようだ。青年はほとんど取り乱しかけた。

 突然、男が笑い出した。

「ハハハハ! いや冗談、冗談だとも。〈黄夫人の手〉はちょうどメンテナンスをしているんだ。ちゃあんと準備室に置いてある」

「メンテナンス? ああ、そう……ですか」

 蔵人はほう、とため息をついた。手首の消失に、あまりにも即物的な解釈を与えられたことで、にわかに人心地が蘇ってくる。それと同時に、男の悪趣味な冗談に対する反感が蔵人の胸にわずかにきざしてきた。

「なにぶん年代物の逸品でね、定期的な手当てが必要なのさ。どうぞこちらへ。お目にかけよう」

 男はそう言って踵を返した。蔵人の返事も待たず、ヴンダーカンマーの奥へといざなった。奥の壁に据えられたキャビネットの一つに近づくと、男は探るようにその裏側に指を這わせた。カチリ、とくぐもった音が響く。男は力をこめて棚を引っ張った。隠されたレールの上を飾り棚が滑り、背後に隠された扉を露わにした。ドアはくすんだ緑色で、ランマの部分は放射状に骨の入ったガラス張りのアーチになっている。そこからオレンジ色の光が漏れ出ていた。

「さあ、入りなさい」

 男は扉を開け、言った。

 奇妙な成り行きになってしまったと、蔵人は思った。

 真夜中のヴンダーカンマー。奇矯な案内人。隠し扉。

 これではまるで、ゴシックホラー小説の主人公になったようだ。 

「でも、あの……そこまでしていただかなくとも」

 蔵人は急に尻込みして言った。出会ったばかりの自分を舞台裏へと導くこの男の魂胆がどうにも読めない。

 ただの見せたがりなのか、それとも、何か隠された意図があるのか。

 ふと、自分がここに居ることを誰も知らないのだ、という考えが浮かんでくる。

「さあ、何を躊躇う。早く入りなさい」

 男に強く促され、蔵人は渋々と部屋の中へ入り込んだ。

 部屋はヴンダーカンマーよりも小さく、質素で、カビ臭さの中に、なにか香のような匂いが混じっていた。煉瓦積みの壁沿いに作業台が設置され、壁面のボードには鋸やハンマーといった工具類が下がっている。部屋の四隅には、布を掛けられた動物の剥製やマネキンの類が曖昧な輪郭を見せている。あきらかに展示品の修繕を行うための作業部屋だった。暗く、テーブルに置かれたランプの炎と、広い窓から差し込む月光だけが光源のようだ。背後でドアが閉まり、鍵が回される音がした。蔵人が振り向くと、懐に鍵を仕舞った男が部屋を横切り、作業台に向かうところだった。

「なぜ鍵を?」

 蔵人の中で、むらむらと警戒心が首をもたげてきた。

 ほとんど無意識のうちに、蔵人は自分と相手の体重差を測っていた。

「なぜって、用心だよ。いいから〈黄夫人〉とご対面だ。そのために君は来たんだろう」

 言いながら、男が作業台から退いた。

 蔵人ははっと息を呑んだ。その一瞬に、男に対する警戒を全てを忘れた。

 作業台に安置された品に目が釘付けにされていた。

 そこにあるのは、間違いなく昼間見た〈黄夫人の手〉だ。

 料理の皿や、夢の中に見えた手首の幻そのものの姿がそこにあった。しかし、いつからそこにあったのだろう。男がどこかから取り出した様子はなく、あたかも、ひとりでに現れたかのように蔵人には思えた。自分の目と精神とがますます頼りないものに思えてくる。

「さあさ、もっと近寄って。じかに見られるのは滅多にないことだよ」

 男は言いながら、馴れ馴れしく蔵人の背中に手を置いて、切断された人間の手首の方へと押しやった。

 昼間はガラスという遮蔽物越しに見たそれが、今では同じ空気の分子に触れていることを卒然として意識し、蔵人は思わず息を浅くした。

「どうかな。美しい手首だろう」

 そう言われても、蔵人はその手を素直に美しいと評することができなかった。端正な形体とは裏腹に、なぜかしら禍々しい雰囲気を纏っているかのように思える。この手の由来を知れば、そう感じても当然ではないだろうか。

「この手は幾度も持ち主を変えてきた。多くの男がこの手を求め、我が物にせんと争った。その過程で起きた諸々の事件を書けば、それだけでちょっとした物語になるだろう。時には兄弟で殺し合いになったことすらあったのだよ。なぜなら、この手は持ち主に富と権力をもたらす幸運の手なのだから!」

 男の声がヒステリックな調子を帯び始めた。

「どうだ。君もこれを自分のものにしてみたいだろう」

「え? いや、僕は別に……」

 断定調の言葉に、蔵人は反感を覚えた。

 この人は何を言っているのだろう。まさか、僕がこの手を盗みに来たとでも思っているのだろうか?

「いいんだ。誰も責めやしない。正直になりたまえ」

 男の声が一転して、諭すような響きを帯び始めた。

「美しいものを手に入れたい、独り占めしたいという気持ちは万人が持っている。それを否定してはいけない。欲望は人を行動に駆り立てる力を持っている。人間が猿よりも優れているのは、我々が彼らよりも欲深いからではないかな? 欲こそが世界を動かし、人類をより神に近い存在へと押し上げるのだ––」

 蔵人は違和感を覚えた。

 何かがおかしい。そういえば、この男の声はどこか奇妙だ。なにか、催眠的な力があるのではないか……。

「いったい君、これよりも美しい手を見たことがあるかね?」

 何? 美しい手だって? それなら……。

 蔵人の脳裏に、花火の音と、サンダルウッドの香りに結びつく、滑らかな感触が蘇った。

 あの手なら、自分のものにしてみたいかもしれない––。

 月光が陰った。部屋が不意に暗くなった。

 闇が濃さを増し、空気が重苦しいまでに粘度を増したかのようだ。

 部屋の光を吸い取ったかのように、作業台の上に安置された手首が僅かに輝きを帯び始めた。

 その食指が、ピクリ、と動いた。

 蔵人は息を呑んだ。悲鳴を上げる暇もあらばこそ、手首は五指を使って立ち上がり、足高蜘蛛の素早さで飛び上がると、青年の喉笛に掴みかかった。今や物理的な実体として直面することになった恐怖の焦点は、万力のように首を締め付けてくる。たちまちに息が詰まった。視界が暗く沈む。

 やがて、すべてが暗黒に飲み込まれた。


 妙な胸苦しさを感じて、ソーニャは目を覚ました。

「おうおわー」

「––なぁに、どうしたの?」

 目を開けると、胸に乗った毛むくじゃらが、じっと見返してくる。

「……お腹すいたの? もうそんな時間?」

「うるるわーま、おう」

 ホイエルは頭を振り、イライラと肉球でシーツを踏み荒らした。只事ならぬ使い魔の様子に、ソーニャは身体を起こした。見慣れぬ部屋の様子に一瞬、戸惑いを覚えるが、すぐにホテルに投宿していたことを思い出した。隣のベッドが無人なことを見てとり、ソーニャはすこし残念に思った。

 せっかくの旅行なのに、彼はソファで寝ることを選んだのだろうか。

「ホイエル、クロードは?」

「おうおうわ。うなわら」

「えっ?」

 飛び起きたソーニャはそのままの勢いで応接室に飛び込んだ。

 ソファにはくしゃくしゃのバスタオルがつくねられているばかりだ。

「クロード? どこ?」

 言いながらソーニャは部屋の明かりを付けた。しらじらとした光が部屋を照らし出した。ホイエルが眩しそうに目をすがめてついて来る。少女は念の為にバスルームを覗き込んだが、そこにも従兄の姿はなかった。

「クロード……?」

 ソーニャは急に心細さを感じた。

 どうしたんだろう。こんな夜中に、一人でどこかへ行ってしまうなんて。

 ホテルの娯楽施設には、終夜利用可能なところもある。寝付けなくて、どこかに遊びに行ったのだろうか。

 その可能性はある。しかし、彼らしくない気がする。

「そうだ、携帯電話……」

 ソーニャはテーブルに置いた携帯電話を取り上げた。メッセージアプリか、メールで伝言でも残してはいないだろうかと期待したが、空振りに終わった。少女は従兄の携帯電話をコールしながら、使い魔に話しかけた。

「彼が出て行ったの、気づかなかった?」

「なうわうわ」

「それで、さっき言ってた変な感じって?」

 灰色猫の緑の目がそっと細まった。大猫はおにぎり型の頭を巡らせ、三角の大きな耳をパタパタさせる。オレンジ色の鼻先がヒクヒクと匂いを嗅ぎ、普段からモップめく尻尾が綿菓子のように膨らんで、左右にゆらゆらと揺れた。

「ぅーるぅるる」

 めずらしく言葉を濁すホイエルに、ソーニャは相棒の緊張を感じ取った。ホイエルの種族は、人間とは異なる感覚器官を持っている。うまく言語化できなくとも、彼の潜在意識は確かに何かを感じ取っているのだろう。

 もちろん、なんでもないのかもしれない。

 彼は不意に思い立ってお風呂に入りにいったのかも。喉が渇いて、バーにジンジャーエールでも飲みに行っただけかも。

 ホイエルの感じている奇妙な雰囲気というのも、どこかの壁の中で鼠が騒いでいるだけの事かもしれない。

 だけど、もし彼が困った状況にあるのなら、助けられるのは自分だけだ。

 コール音が留守番電話に切り替わった。ソーニャは通話を切ると手早く従兄に向けての安否を問うメッセージを送る。

「探しに行こう」

「うわらわ?」

「とにかく、片っ端から……」

 言いかけてソーニャは唇を噛んだ。

 『ギルマンハウス』は広大だ。闇雲に探しても、埒があかないだろう。悠長にはしていられない。でも、気持ちだけでは、だめなのだ。ちゃんと考えないと。

 おろおろするのはやめて、魔女のように振る舞わなきゃ。

 ソーニャは拳を握り、ともすれば駆け出しそうになる身体を懸命に抑える。

 何か、彼の居場所を知る方法があればいいのに。

 探索の魔法は苦手だ。今のように千々に乱れた心で、彼の居場所を探し出せるだろうか。

 ふと、うなじの毛が逆立つ感じを覚えた。潜在意識の中から浮かび上がるものがある。少女はがらんとした部屋に視線を走らせる。瞳が丸いシルエットを捉えた。昼間、ビーチで使ったビニールのボールだ。

「そうか」

 少女の頭に、閃くものがあった。


 蝋燭の炎が揺らぎ、香炉は糸のような煙を吐き続ける。

 作業室の壁に向かい〈壁の向こうの神〉の司祭は『グラーキの黙示録』にある式文を唱えていた。彼の眼は煉瓦の模様をたどり、心には貪欲な神の棲まう迷宮みやを描いている。式文の記されたページを捲る一瞬、司祭の眼が煉瓦の壁から離れ、祭壇の〈黄夫人の手〉に落ちた。その肌は瑞々しく、艶やかな爪は蝋燭の灯を星のようにうつしている。

 この腕を自分のものにしたいと思わないか。

 先程口にした自分の言葉がリフレインする。今宵の儀式が首尾よく終われは、この腕を永遠に失うことになる。そう思うと、まるで我が身を裂かれるようだ。だが、これは定められたこと。〈壁の向こうの神〉の僕である彼には、如何ともし難い。

 半ばトランス状態で詠唱する男の脳裏に、これまでの記憶が去来する。

 はじめて〈黄夫人の手〉に出会った時、彼はホテル『ギルマンハウス』の宿泊客として、このヴンダーカンマーを訪れていた。

 一目見た瞬間、心臓を掴まれた。

 自分はこのために生まれたのだという確信が彼の脊椎を電流のように貫いた。

 生涯の伴侶を見つけたと思った。その後の宿泊期間、彼はヴンダーカンマーに入り浸り、手と共に過ごした。チェックアウトの日、彼は〈黄夫人の手〉を盗み出そうとした。だが、客の異様な振る舞いに目を付けていたであろう当時の管理人に気取られ、その場を押さえられた。

 彼は無我夢中で抵抗した。

 犯罪者として捕らえられれば、この美しい腕と離れ離れになってしまう。その一心が思考の全てを支配していた。気がつけば相手の首を締め上げていた。床にくずおれた死体を見下ろす内に、一時の熱狂が醒め、理性と共に罪の意識が胸内に湧き上がってきた。死体が見つかれば、すぐさま捜査が始まるだろう。こうなっては〈黄夫人の手〉を島の外へ持ち出す事など考えられない。呆然として立ちすくむ彼の耳に〈壁の向こうの神〉の声が届いたのだ。

 

 彼は〈壁の向こうの神〉に縋った。〈神〉の御手に死体を委ね、島を後にした。

 二度目の来訪は、行方知れずとなった管理人の後任としてだった。

 爾来、このヴンダーカンマーは〈黄夫人の手〉との愛の巣となった。好きなだけ愛する〈手〉を見つめ、時には触れることもできる。それ以上に望むことがあるだろうか?

 満悦を咎めるように〈壁の向こうの神〉が言った。

 

 そして彼は禁断の魔導書『グラーキの黙示録』に目を通し〈手〉の本当の使い道を知った。

 正しい儀式と式文によって〈手〉が蘇り、まるで生けるもののように動いた時、彼は有頂天になった。大理石の恋人が生身と変じた時にピュグマリオンが抱いたであろう喜びを感じた。そして「栄光の手」は彼に財を齎した。それは彼にとっては二義的な利益だったが〈手〉が自分のために働いてくれているのだと思えば、喜びを感じないわけではなかった。〈手〉は超自然的な力であらゆる場所に入り込む。個室、ロッカー、金庫の中にまでも、この〈手〉は届くのだ。

 宿泊客はほとんどの場合、盗みがあったことにも気づかない。仮に騒ぎ立てたとしても、その罪はたいていは手癖の悪いメードやプロの盗人に帰せられ、保険金が支払われて終わりになる。もっとも〈黄夫人の手〉がさる由来のある宝石を盗んできた時には騒ぎが持ち上がった。彼と〈黄夫人の手〉の犯罪が露見するとは考えられなかったが、以後はより慎重になった。彼はこの暮らしが永遠に続くことを願っていた。

 だが〈黄夫人の手〉は〈壁の向こうの神〉の司祭だった人間の肉体の一部だ。もとより、神に属するもの。奉仕の引き換えに、わずかの間だけ貸与された聖遺物だ。

 ある時〈壁の向こうの神〉が彼に宣った。

 

 ふさわしい〈器〉の腕を切断し〈黄夫人の手〉を繋ぐことで〈器〉の中に〈壁の向こうの神〉を顕現させる。

 儀式のあらましを告げられ、彼は打ちひしがれた。いつまでも続くはずだった蜜月に突然、期限が切られたのだ。神が地上に現れるその時、彼は〈手〉を永久に失うことになる。

 苦悩しながらも、彼は神に忠実に仕えた。『グラーキの黙示録』の十二巻を通読した今、神の意思に従うより他に道はなかった。

 人々が入れ替わり立ち替わり訪れるホテルは、候補者を探すにはもってこいの場所だ。神がこの『ギルマンハウス』のヴンダーカンマーを聖所として選んだ理由の一端は、そこにあるのかも知れない。それでも、ふさわしい男が現れるまでには長い年月が必要だった。

 〈器〉には、秘めた欲望を抱く男が望ましい。若々しく、力に満ちた肉体の内に抑圧されたリビドーが〈壁の向こうの神〉の力をいや増すのだ。

 最初のうち、島に船が着くたびに彼は不安に駆られた。今にも、彼から〈手〉を奪う者が現れるのではないか。執行を待つ死刑囚のように、彼は恐々として待った。それが一週間になり、一月になり、一年が過ぎた。三年、五年、十年と時が流れた。このまま、いつまでも〈器〉は現れないのではないか。やがて彼はそう期待するまでになった。しかし、その時はやってきてしまった。

 今日の午後、ついに〈黄夫人の手〉が〈器〉となるべき男を選び出した。長きの年月に〈腕〉と霊的な絆を結ぶまでになった彼には、そのことが瞬時にわかった。

 神の意思を遂行するため、彼は〈黄夫人の手〉を生贄となるべき青年の元へと差し向けた。半ば意思を持つ手首の働きに加え、彼が送り込んだ幻覚によって若者を挑発し、目論見通りヴンダーカンマーへと再度引き寄せた。彼と彼女との最後の共同作業だ。

 いま、この腕の中には、式文と儀式によって喚起された神の力が満ち満ちている。爆発寸前のボイラーのように危険な状態だ。適切に扱わなければ、致命的な結果をも引き起こしかねない。

 司祭は肩越しに背後を見た。テーブルには、新たなる〈器〉を拘束してある。

 彼の身体に〈黄夫人の手〉が繋がった時、神のエネルギーが流れ込み、その肉体を飲み尽くすだろう。そうして〈壁の向こうの神〉は新たな〈器〉を鋳型として受肉され、人々に混じって歩くことになる。そして御自ら次々と贄を選び、望むままにらい、その力を無限に増してゆくだろう。褒美に彼は〈壁の向こうの神〉の大司祭として永劫に聖別されるのだ。頭ではそう理解していながら、心の芯では嫉妬が暗い焔をあげている。自分から最愛の存在を奪う男の腕を自らの手で切断できることに、意地の悪い喜びを覚えていた。司祭は目を煉瓦の壁に戻し、神を讃える詠唱を続けた。

 式文の残りは、あとわずかとなっていた。


 薄暗い『ギルマンハウス』の廊下を、ころころとビーチボールが転がってゆく。その後ろを、長毛種の大猫と、金属製の矛槌メイスを持った金髪の娘が小走りに追いかけていた。

「ほら、ちゃんと動いてる」

「ぅーまうま?」

「彼を見つけるまで持てばいいよ」

 ソーニャは廊下を進むビーチボール・ゴーレムを見ながら、言った。

 ゴーレムは本来、土から作り出される魂を持たない生き人形のことだ。多くの場合、戦いや雑用のために作られる。ゴーレムは生まれつきその創造者と強い結びつきを持ち、人間が持たない霊的な知覚力でそれを感じるという。ユダヤの伝承では、神は土塊に息を吹き込んでヒトを作ったという。蔵人が息を吹き込んだボールをゴーレムにすれば、必ず、彼の居場所を感じとるに違いないとソーニャは考えた。そして今のところ、上手く行っている。このあいだ『妖蛆の秘密』の人造生命を扱う章のおさらいをしておいてよかった、とソーニャは内心思った。

 ボールは渡り廊下を通り、階段を降って、一階へとすすんでゆく。ソーニャの脳裏に閃くものがあった。

「もしかして、ヴンダーカンマー?」

 彼はあの秘宝館に行ったのだろうか。たしかに、あの展示室は一日やそこらでは見きれない。骨董や民俗学にひとかたならぬ興味を持つ彼が、もう一度見にいこうと考えても不思議ではない。

 でも、電話が繋がらないのはどうして?

 考えるうちに、ソーニャはマクシミリアン式甲冑が固める秘宝館の入り口に立っていた。展示室は明かりが落とされ、入り口を塞ぐように渡された緋色のロープから『臨時休館』の札が下がっている。ビーチボール・ゴーレムがロープを潜って中へ入ってゆくのを見て、ソーニャは、愛用の矛槌の柄をぎゅっと握った。荷物になるにも関わらず、万が一を考えて持ってきたのは正解だった。行く手に何が待ち受けていたとしても、文字通り叩き潰すつもりだ。

「行こう、ホイエル」

「わう」

 魔女と使い魔は、闇に沈む展示室に入り込んだ。コロコロと転がるビーチボールは、時折収蔵品にぶつかりながらも、奥へ奥へと突き進んでゆく。一人と一匹は、今にも脅威と出くわすのではないかと左右に注意を配りながら続いた。やがて球体のゴーレムは展示室の最奥のキャビネットに突き当たり、止まった。

「行き止まり? 嘘」

 ホイエルが飾り棚の側に寄り、ふんふんと匂いを嗅いだ。

「ぉーろぅろ、うるぅーるぅ」

「香の匂いがするって?」

「んゃなわ」

 言ってホイエルは耳をピクピクと動かした。

「おうーる」

 ソーニャは大きなキャビネットを観察した。

 ガラスの向こうから、詰め物をされた鼻行類が悲しげに見つめてくる。

 どこか、妙なところがある。違和感の正体に、不意に気づいた。この棚の横だけ、物が置かれてない。ともすれば、足の踏み場もないほどに物がひしめく部屋のなかで、ここだけ床がクリーンなのだ。

 ボールの振る舞いを見ても、隠し通路があるのは濃厚だ。

 ソーニャはキャビネットに手を置き、横にずらそうと力を込めた。動かない。

「ふぅ……」

 逸る気持ちを抑えながら、棚の様子を観察する。仕掛けがあるのは間違いない。一度、埃が拭われたような跡が目に入ると、どこを見ればいいのかがわかった。棚の横板に、擦られて艶が出ている部分がある。少女は手を伸ばし、棚の後ろを探った。

 指に触れる突起を押すと、カチリ、とボルトの外れるような音が響いた。少女は力をこめて、飾り棚を横に滑らせる。背後から、くすんだ緑の扉が現れた。この先なのは間違いない。

 ソーニャはノブを握った。鍵が掛けられている。ランマから中の様子を覗けるだろうか? そう考えた刹那、ドアの向こうから声が漏れ聞こえてきた。

「主よ! 今こそ〈器〉を捧げます!」

 ソーニャははっと息を呑んだ。

 狂的な声に続き、ドアの向こうで、甲高い機械音が響いた。

 もはや一刻の猶予もない。

 少女は右手の矛槌を振りかぶった。ほとんど無意識に左手で〈力の印〉を結んでいた。次の瞬間、常人をはるかに超える膂力りょりょくで振り下ろされた矛槌が、ドアノブを叩き壊し、その残骸を床に叩きつけた。

 長い脚がドアを蹴破ると同時に、灰色の稲妻ホイエルが作業室へと飛び込んだ。

 怒れるモフモフは唸り声を上げて突進した。燃える目には、耳障りな音を立てる道具を持った男が映っている。躊躇せず、床を蹴立てて跳躍を行い、メインクーンの血を引く巨体で猛烈な体当たりを見舞った。

 予告なく現れた脅威に、相手は何一つ防御姿勢を取ることができなかった。時速六〇キロで衝突した筋肉と和毛の塊に押しやられ、男はたたらを踏んで後退った。ホイエルはさらに鉤爪と牙で襲いかかる。それはまるで猫の形をしたハリケーンだった。

 獰猛な獣の攻撃に、男の足元への注意が疎かになった。

 そこにビーチボールが転がってきた。

 革靴を履いた足が、ビニールのボールを踏んだ。

 バスン、と音を立ててボールが破れ、男は回転鋸を抱くようにして転倒した。

 ギャアアアアン!

 モーターの叫びに肉と骨を切り裂く音が混じった。血しぶきが作業室の床を斑に染める。錆の匂いが淀んだ空気に混じった。

 ひらり、と床に着地した灰色猫がわおーっと勝鬨かちどきを上げた。

 その間に、ソーニャは拘束された蔵人の元へと駆けつけていた。橄欖石の瞳は、ボールや、妖術師や、テーブルの下へとしめやかに逃れてゆく小さな影を映していたが、少女の意識にのぼったのは、テーブルに縛り付けられた従兄の姿だけだった。

「クロード!」

 ソーニャは彼の上に覆い被さると、たまらずにすがりついた。少女は従兄の胸板に顔を埋め、彼の体臭と〈魔女の軟膏〉のツンとする匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。顔を上げると、潤んだ瞳が、蔵人の腕に描かれた、材木を切るときに付ける目印のような線を捉えた。男が何をしようとしていたのかは明白だ。少女は、自分たちが間一髪で間に合ったのだと知った。

「いま助けてあげる、クロード––」

 言いかけたソーニャは、従兄が眼差しでしきりに何かを訴えようとしていることに気づいた。

 振り向いた瞬間、恐怖が宙を飛んで襲いかかってきた。五指を揃えた手刀の突きを、ソーニャはのけぞって避ける。部屋着の胸元が裂け、数本の前髪が宙を舞った。

 ソーニャは身体を起こし、恐ろしい物体に向き直った。

「なに……栄光の、手?」

 支える腕もなく、空中に浮かぶ、切断された女の手首。それは昼間ヴンダーカンマーを訪れたとき、蔵人が興味を示していたあの「栄光の手」に間違いない。彼が狙われたのはそのためか? 若き魔女が考えている間に、手首がぐるりと反転し、再度の攻撃を仕掛けてきた。魔女は得物で手首を打ち据えようと振りかぶる。打撃の瞬間、この奇妙な呪物は器用にも矛槌の柄を掴んでいた。

「こいつ……」

 肉体を持たない手首のくせに、意外なほどの力で押し込んでくる。少女は左手でメイスの頭を掴み、渾身の力で押し返した。と、出し抜けに相手の力が消え、ソーニャはバランスを崩して前のめりになった。魔女は半ば本能的に左手で〈盾の印〉を切った。

 直後、拳が叩きつけられる。骨に響くような衝撃が脇腹から突き抜け、一瞬息が止まる。若き魔女の視線の先で、魔術的な障壁に跳ね返された手首がくるりと一回転した。

 ソーニャは床を転がって次の一撃を避けた。

 速い。

 休む間もなく、次の拳が飛んできた。

 致し方なく柄で受ける。骨が痺れるような重い打撃だ。

「このぉっ」

 少女は左手で手首に掴みかかった。指先が触れた瞬間、ソーニャの背筋に怖気が走った。

 その感触には、ただ死体の手であるという以上に悍ましいなにかがあった。触れただけで、こちらの魂までが汚されるような、芯からの邪悪が、この手首の中に凝結しているかのようだ。これはこの世にあってはならないものだという理解がソーニャの内奥から湧き上がった。

 炎の女神バステトに仕える巫女は手の中に内なる炎を呼びおこした。

 ぼ、と燃え上がった炎が一瞬、煉瓦の壁の間から闇を駆逐した。

 ソーニャは手中の炎をぎゅっと握った。おぞましい手首はすでにそこにはない。空振りだ。

 神出鬼没の〈黄夫人の手〉は自在に姿を消し、また現れる。

 機会を伺い、忍び寄っていたホイエルが宙に跳んだ。鉤爪で手首を捉えようとするが、あと一歩のところでかわされる。床に着地したホイエルは、恨めしげにカカカッと声を上げた。手首は天井近くまで舞い上がると、大猫を嘲弄するように波打つように指をくねらせた。

 じつに、捉え所のない相手だ。

 どうすればいい?

 若き魔女は自問した。

 打撃を与えるのは至難の技だ。

 せめて動きを止めないと。

 ミイラの粉か、せめてナトロンを持って来ればよかった。ミイラならヴンダーカンマーにあったけど、そのままじゃ使えない。それ以前に、彼をここに残したままになんて、できるわけがない。

 考えながら、少女は壁際の祭壇に目を向けた。しわくちゃの紙幣や硬貨、アクセサリーやクレジットカードといった金品が積み上げられた前に、奇妙な形に組み上げられたレゴブロックと、燭台や香炉、ステープラー留めの紙束が並べられている。いったい、どんな神に捧げられたものだろう。どうせロクでもない邪神なのは間違いない。次に血溜まりに沈む男に目を向けた。傷口を押さえ、うずくまって呻吟しんぎんしている。何かの魔術を行なっているようには見えず、つまりあの手首は自律的に動いていると思しい。少し離れた床に回転鋸で切断された男の腕が転がっているのを、ソーニャは冷ややかな目で見た。

 自業自得だ。

 間に合わなければ、ここに流れていたのは蔵人の血だったのだ。

 血。

 傷。

 そうか。

 試してみる価値はあるかも。

「ホイエル、釘を探して!」

 言いながらソーニャは床に拘束された蔵人の元へと駆け寄った。

「おうわーわ!」

 元気の良い返事が返る。

 ホイエルはあたりを見回し、壁際に並ぶラックの一つに目をつけた。軽々とした身のこなしで棚に飛び乗ると、おむすび形の頭蓋骨で有象無象を押しやった。ガチャガチャと音を立てて落下したボール箱の中から、スチールの輝きを放つ太釘がまろび出たのを見るや、ホイエルは床に飛び降り、口でその一本を拾い上げると魔女の元へ馳せ参じた。

「十秒稼いで!」

 灰色猫は肉球を返すと、宙を舞う手首に向かって「おわわわー!」と鬨の声を作って走り出した。

「クロード、もうちょっと待って」

 ソーニャは蔵人のシャツの胸元をはだけさせ、彼の胸板を露わにした。目を白黒させる蔵人の胸から絆創膏を引き剥がし、引っ掻き傷に塗られた軟膏を指で掬って、鉄釘の表面に塗りつけた。

 その間、ホイエルは尻尾を膨らませて、手首に向かってうわーうわーとありったけの雑言を浴びせかけた。挑発に乗ったものか、手首が高度を下げる動きを見せるや、今にも飛びかからんとする姿勢を見せて牽制する。自由自在に飛び回る手首は、時折姿を消してはまた現れ、ホイエルを翻弄するように複雑な動きを見せていた。

 少女はテーブルから離れると、釘を握りしめ、仁王立ちになって言った。

「来い〈黄夫人〉!」

 はたして言葉を解したか。手首は一旦空中で静止したかと思うと、瞬き一つの間で距離を詰め、喉を狙って掴みかかってきた。

 少女は矛槌を離し、逆に相手を掴み返すと、電光石火で木の床に叩きつける。手首が姿を消すより早く、握りこんだ釘をその掌に突き立てた。ずぶり、と肉に金属が埋まると同時に、煉瓦の壁の間に常人の耳には聞こえない悲鳴が響き渡った。釘で手首を押さえ付けたまま、ソーニャは傍に落とした矛槌を拾い上げ、その頭で釘の尻を叩いた。手首を貫通した釘が床板にしっかりと埋め込まれるまで、さらに二度、三度と少女は矛槌を振るう。

 ソーニャは立ち上がり、床に縫い留められた呪物を見おろした。〈黄夫人の手〉は仰向けにされた蟹のように指を蠢かせるが、釘から逃れることは出来ないようだ。

 使い魔が傍にやってきて、そのモフモフの身体を少女の膝に擦り付けた。

「うろうわうわ?」

 少女はほう、とため息をつくと、手の甲で額をぬぐった。

「やっぱり我が家の〈魔女の軟膏〉は万能だね」

「うなやわら、わおまーる?」

山査子サンザシエキスが効いたかのかも。クロード、お待たせ、いま助けるから」

 ソーニャは相棒の背中を軽く叩き、拘束された従兄の元に向かった。

 灰色猫はやれやれと鼻を鳴らすと、釘付けにされた手首に砂をかけるジェスチャーをした。


 血溜まりの中に倒れ伏した男は、掌を貫く痛みによって、朦朧とした状態から引き戻された。痛みは、すでに身体と繋がっていない右の手から伝わってくる。幻肢痛の由来は、愛する〈黄夫人〉なのだと直感的に理解していた。男は霞む目で部屋を見渡した。〈器〉の上に、見知らぬ娘が覆い被さって、拘束を解こうとしている。その側には、先ほど彼に襲いかかってきた獰猛なけだものが侍っている。いったい何者なのか。なぜ邪魔をする。いや、そんなことよりも、これからどうする。右腕の傷口は血を流し続けている。このままでは早晩失血死に至るだろうという理解が脳裏に浮かんだ。しかし、今は自分の肉体の痛みよりも、右手を貫く痛みの方が気に掛かった。それは霊的な痛みだ。

 男は首を巡らせた。この痛みの原因は、彼の〈手〉の受けた打撃によるものに違いない。儀式によって結ばれた絆が、この痛みを伝達していのだ。

 彼の目に、床板に打ち付けられた〈黄夫人の手〉の姿が飛び込んできた。

 まるで虫ピンで留められた昆虫標本ででもあるかのように、釘づけにされた〈手〉。

 男の目から涙が溢れた。

 なんと痛ましいことか。あの美しい手にこのような仕打ちをするとは。

 臓腑に恨みの念が湧き起こる。

 同時に、大きな疑問が頭の中に浮かんだ。

 なぜ。なぜ。なぜ。

 男は思った。何を間違ったのか。

 すべて〈壁の向こうの神〉の采配に従ったというのに。彼は四方の壁に目を向けた。

 かの神は、煉瓦の塀のすぐ向こうで待ち受けている。生贄の身体を受け取り、それを新たな〈器〉として、定命の者に混じって歩くために。

 いまや、かの神の不興がありありと感じられた。約束の品を受け取り損ね、そればかりか、かの神の力の焦点である〈黄夫人の手〉を失おうとしているのだ。その怒りの波動に、男は恐怖を抱いた。『グラーキの黙示録』を読んでからこの方、ヴェールのように彼の人生を包んできた恐怖が、今や彼の魂をしっかりと握っていた。たとえ死ぬとしても〈壁の向こうの神〉の怒りを買ったままでは死にたくはない。それは、あまりにも恐ろしい。〈壁の向こうの神〉の司祭は己のなすべきことを理解した。

 身体が動いた。そんな力が残っていたとは、自分でも知らなかった力だ。

 男は無事な左手と、両足をつかって、床を這った。手首のもとへと自分の身体を引きずった。傷つけられ、侮辱を受け、悲しみに暮れているいとしい人の元へと這い進んだ。接合のための処置の結果〈黄夫人の手〉は羽二重の皮膚を解き、断面の乾いた骨と筋肉とが剥き出しになっている。

 自分が〈器〉ではないのはわかっている。儀式も式文も不完全だ。それでも、わずかな時間でも〈壁の向こうの神〉が顕現すれば、怒れる神が自分の代わりに〈黄夫人〉の被った仕打ちの仕返しをしてくれるにちがいない。

 司祭はほとんど躊躇うことなく、自分の腕の傷口を、ミイラ化した手首の切断面に押し当てた。

 結ばれた瞬間、恍惚が彼の身体を貫いた。脳のシナプスを焼き尽くさんばかりの爆発的な快感と共に神の栄光が流れ込み、全身が痙攣したようにおののいた。手首が彼の血と命を吸い、その代価として神のパワーを送り込んできている。法悦の中、彼は壁の向こうで巨体が身を起こすのを知った。


 ソーニャは震える手で蔵人の口から猿轡を取り外した。彼は少し咳き込んだあと、従妹の顔を見上げ、言った。

「また、君に助けてもらっちゃったね」

「おたがいさま。でしょ?」

 そう言って、ソーニャは微笑んだ。従兄の顔には憔悴しょうすいの色があったが、目には普段と変わらない光がある。安堵に、少女の身体から力が抜けた。

「わおわーわ!」

 弛緩しかけた空気をホイエルの声が緊張へと引き戻した。

「なに?」

 ソーニャは床に刷毛でえがいたような血糊の跡があるのに気づいた。男が、床に打ち付けられた手首の元まで這いずったようだ。

「お前、何をしている!」

「は、はは、はぁーっ!」

 少女の問いに、妖術師は哄笑を上げて返事の代わりとした。男は自分の切断された腕の傷口を、床に釘付けにされた手首に押し当てているらしい。ソーニャの背筋を冷たい物が走った。男の行動が理解できない。切断された自分の腕を繋げようとするのなら、まだわかる。しかし……。

 ソーニャははたと気づいた。

 この男は、最愛の従兄を生贄にしようとしていた。こういったカルティストのやり方はどれも同じ。心臓や脳や、血といった霊的に重要な部分を取り出して、信仰する神性に捧げようとする。今の今まで、妖術師は蔵人の右腕を捧げ物とするつもりなのだと思っていた。だが、そうではないのかもしれない。奇しくもホイエルの活躍で、自分が腕を切り落とされることになった男が、生贄の代役を自ら務めることで儀式を完遂させようとしているのなら––。

 さっき、なんと言っていた? そう〈器〉だ。

 ホイエルが毛を逆立てて唸り声をあげた。歯を剥き出しに、勇ましく尻尾を膨らませている。付き合いの長いソーニャには、彼がすこし怯えているのがわかった。勇猛果敢で鳴らした彼は、滅多なことで動揺したりしない。

「おうわーわ! うるわまわお、おるわまー!」

 ソーニャは息を呑んだ。

 打ち付けられた手首が男の腕に繋がった。接合面がぶくぶくと泡立つように膨らみ、瘤のようになった。男は繋がった腕を、床に縫いとめる釘から強引に引き剥がした。バリバリと、肉の千切れる音が聞こえる。男が立ち上がり、接続された〈黄夫人の手〉をソーニャに向けて持ち上げた。その掌の中央に大きな裂傷が口を開いている。そこからは血液ではなく、漿液しょうえきのような透明な液体がだらだらと流れ出し、滴って床を汚した。男の右腕全体が急速に膨れ上がりはじめた。着衣が音を立てて裂け、肩が異常なほど盛り上がった。

 どこか、地下深くから忍びやかな足音が響いてきた。

 あっけにとられたソーニャが見ている間にも、変異は急速に進行する。男の肌は色を失い、水死体のような青白い色に変わっている。右半身は不釣り合いなほど大きく膨れ上がり、殊にその腕は異形のそれとなり果てて、太さも長さも、通常の人間の範疇をはるかに超えている。鉤爪のある指先は、垂らせば床に届くだろう。膨張するぶよぶよとした肉は、すでに男の頭部を半ばまでを飲み込んだ。眼球は白く裏返り、その目が何も映していないのは明らかだ。

 怪物––もはや男とは呼べない––はよろめくように一歩進むと、不恰好な右手を振りかざした。掌を横切るギザギザの傷口は、そのふちが盛り上がって、唇そっくりの形になっていた。ぐぱっ、と音を立てて手の口が開いた。驚くべきことに、その内側には歯と舌が生じている。

 

 声がした。肉に埋もれた男の口から発せられたものではない。それは煉瓦の迷宮の奥から、無限の反響を超えてきたこだまのような声だった。怪物の手の口が開閉する。軋るような声には、邪悪と堕落の響きがあった。

 少女はテーブルの上に目を戻した。革のベルトは未だ蔵人の身体を縛ている。

「ソーニャ、僕はいい、君は逃げろ!」

「クロード、またそんなこと言ったら怒るよ」

 若き魔女は従兄の顔に、険しい視線を向けて、言った。

「私たち、ずぅっと一緒に生きていくんだからね」

 言うとソーニャは立ち上がり、得物の矛槌を一振りした。ぱっと炎が燃え上がり、黄金の火の粉が舞い上がる。

「ホイエル、クロードをお願い」

 心得顔の灰色猫がテーブルに飛び乗ったのを横目で見てから、魔女は怪物へと向き直った。

 橄欖石ペリドットの瞳で炎が燃え上がった。


 ソーニャは〈力の印〉を切って打ちかかった。

 放射状に広がる矛槌のフリンジが水死体のように弛んだ怪物の肌に食い込んだ。その手応えに––というよりも手応えの無さに––ソーニャは肩透かしを食らった。ぶよぶよとした肉はゼリーのように柔らかく、均質で、まるで筋肉や骨格といったあるべき人体の構造を欠いているかのようだ。本来、甲冑を着込んだ相手を叩きのめすべくデザインされた暴力の道具である矛槌も、この相手には部が悪い。

 怪物はソーニャの戸惑いに乗じるように、丸太のように膨れ上がった腕を叩きつけてきた。少女は床に転がって闇雲な一撃を避ける。強かに打たれた床板が音をたてて割れた。まだ人間の形を留めた脚をねらって、ソーニャは矛槌を叩きつけた。今度は少しばかり効いたのか、怪物がよろけて、膝を突く。返す矛槌で、半ば肉に埋まった男の顔を殴りつけんとした少女だったが、わずかな逡巡がその打撃を鈍らせた。まだいくばくか残る人間らしい形が、少女にその一撃をためらわせたのだ。中途半端な攻撃は怪物の肩に当たって跳ね返される。怪物の腕が伸び、少女の頭を掴みにかかった。オニヒトデのように膨れ上がった掌の中央では、人間そっくりな口がまさに牙を剥いている。豹のしなやかさで掌の口をかわしたソーニャは、相手の背後にまわりこんだ。三たび矛槌を振り下ろす前に、身内の炎を呼び起こした。矛槌は物理的な武器であるのみならず、四大のうちの火に対応する魔術武器、ワンドでもある。ソーニャの身体を流れる血に宿る火の女神の力が、形ある火焔となって矛槌の頭から吹き出した。

「邪なるもの、燃え尽きよ!」

 炎をあげる矛槌が、膨れ上がった異形の背に叩きつけられた。炎が液体のように流れ出し、床に手をついた怪物の身体を覆い尽くしてゆく。火焔が渦を巻き、煉瓦の壁に囲まれた作業室を昼間のように照らし出した。キャンプファイヤーのように燃え盛る炎から、勝利を確信してソーニャは後退った。左手の甲で額に浮かんだ汗を拭う。喚起した力を元の世界へと還すときの、ぞくっとするような震えを感じながら、息を整える。

 そうだ、早く彼を助けてあげなくちゃ。

 ソーニャは踵を返し、テーブルへと向かった。

 そのとき、矛槌の柄を握る拳を、ぬめる長いものが、鞭のように打った。

「––!」

 少女は息を呑み、自分の腕を絡めとった物体を驚愕の目で見た。青黒く、粘液に濡れ、炎を照り返してぬらぬらと光っている。ぬるりとした感触に、ソーニャの全身が総毛立った。吐き気を覚えるほどにいやらしい、ナメクジのような冷たく粘着質な感触。反射的に腕を振り払おうとして、それができないことにソーニャは愕然とした。

 それは、炎の中にうずくまる影から伸びてきていた。

 

 煉瓦の壁の間に声がこだました。聞くものの魂を萎えさせ、意気を挫くような、邪悪と堕落を体現したかのような声だ。

 炎の中で黒々としたシルエットがのそり、と身を起こした。

 燃える衣服を脱皮するように脱ぎ捨てながら、歪な影が一歩、また一歩と近づいて来る。

 炎から抜け出た怪物の姿は様変わりしていた。

 恐怖と嫌悪に吐き気を催しながら、ソーニャは怪物の姿を見上げた。

 頭部を持たないにもかかわらず、その上背は優に二一〇センチを超えている。アシンメトリーな体型を是正するかのように、その全身が膨張しているが、それでも、まだわずかに右半身の方が大きいようだ。微かに人間らしさを留めていた頭部は盛り上がった肉に飲み込まれ、肉の襞の間からわずかに頭髪が覗いているばかりになっている。衣服が燃え尽きた今、その肌は死人のような灰色から打って変わって白熱の輝きを帯びている。歩くたびに、垂れ下がる乳房と、張り出した腹、内腿にカーテンのように垂れさがった皮膚がゼリーのように震える。膨れ上がったその姿は、まるで、本来なら人間の身体には収まりきらない何かを無理に押し込まれたかのようだった。

 少女の腕に絡み付く悍ましい帯は、怪物の右の掌から伸びている。

 舌なのだ。

 

 怪物が左手を上げた。そこには、今や右手と相似の口が開いていた。

 

 化け物は舌を巻き取りながら、ゆったりと歩を進める。

 それはまるで、奇妙な綱引きだ。

 少女は舌を解こうと躍起になった。自由な左手で舌を掴み、爪を立て、縛を解こうと奮戦するが、肉の帯はびくともしない。

 

 渾身の力を振り絞る少女に、怪物は着実に近づいてくる。

 やがて、右手の口が、少女の持つ矛槌の頭をごぶりと飲み込んだ。カメレオンが舌を巻き取るように、喉の奥へ、奥へと引き込んでゆく。矛槌の柄が、牙を備えた口内に呑まれてゆく。少女の手のすぐ先で、掌の唇が愉悦の笑みを浮かべた。

 

 ギャアアアアン!

 怪物の言葉を遮って、耳を聾する音声が響き渡った。思わず首をすくめたソーニャは、視界の端に銀色の円盤を認めた。

 次の瞬間、高速で回転する電気鋸が、膨れ上がった怪物の腕にスチールの牙を立てた。

 ギォオオオンン!

 ぶよぶよとした皮膚を、丸鋸が安易と切り開き、ゼラチン質の肉を断ち割って、そこらじゅうに腐汁とも脂ともつかないものを撒き散らす。

 ともすれば暴れがちな電気鋸の持ち手を握りしめ、刃を怪物の腕に押し当てている従兄の姿を、ソーニャは驚きの眼差しで見た。床からは相棒の灰色毛玉がこっちを見上げ、なにかを言ったようだが、機械の轟音に紛れて聞き取れない。

 ギォオオオアン!

 少女が一瞬、気を逸らした間に、回転する刃が怪物の腕を切断してしまった。

 矛槌を飲み込んだ腕が、みるみるうちに萎縮して〈黄夫人の手〉の姿を取り戻した。

 怪物は無事な方の手で切り株となった腕を押さえながら、よたよたと後退した。膨れ上がった指の間から、膿汁のように肉体の構成物が滴りおちる。あきらかに、怪物の身体は縮みはじめていた。かろうじて身体を支えていた脚から力が抜け、膿疱のうほうのような肉塊がばったりと倒れた。その瞬間、濡れたモップを床に叩きつけるような湿った音と共に怪物の皮膚が破れ、胸が悪くなるような内容物が特大のロールシャッハテストを床に描いた。裂けた皮膚の間から、半ば溶け崩れた骨格が覗き、沼からの瘴気しょうきのような湯気を上げている。

 丸鋸の作動音の反響が消えやった。

 終わったのだ。

 少女の手から、力が抜けた。

 矛槌が床に落ちて、ごとり、と音を立てた。その瞬間、金属の武器に貫かれた〈黄夫人の手〉が砕け、微塵の粉となって崩れ果てた。

「ソーニャ、大丈夫かい?」

 言いながら蔵人は安全装置を操作して電気鋸のトリガーをロックした。その顔や、髪や、服には切り刻まれた邪悪な存在の滴りが転々と付着して、まるでドブさらいの後のような有様だ。自分こそ大変な目にあったというのに、その顔にはまぎれもない気遣いの色が浮かんでいる。

 次の瞬間、ソーニャは衝動的に従兄に抱きついていた。

「わっ、あぶない、あぶないから」

 言いながら蔵人は電動工具を身体から遠ざけ、床に放った。

 少女は胸元に、顔を強く押し付けた。

「……クロード、ほんとに、無事で、よかった」

 ソーニャ背中に回した腕に力を込めた。そうしていないと、彼がまたどこかへ行ってしまいそうな気がした。

 少女の肩に、そっと手が載せられた。

「君のおかげだよ。それと、ホイエルの」 

「おうーる」

 名前を呼ばれた灰色猫が胸を張ってひと鳴きした。

 回転鋸の加勢が可能になったのは、ホイエルが強靭な顎と器用な前肢を駆使して蔵人の縛を解いた結果だった。ソーニャはわずかに顔を上げ、相棒に微笑んで見せた。安堵の涙が、少女の睫毛に玉を結んでいた。


 夏の日差しを浴びて、積乱雲が目に痛いほどに輝いている。鴎たちが鳴き交わしながら、群青の空で複雑なダンスを踊っている。紺碧の海原から寄せる潮風が、船着場に隣接して建つ休憩処の軒先にかかる「氷」と染め抜かれた旗を揺らした。田舎の停車場を思わせるような、素朴な作りの建物には『ギルマンハウス』で夜を過ごした宿泊客たちが迎えの船を待ち構えている。

 今、消波ブロックが積み重なる堤防の向こうに、連絡船が姿を現した。

 気の早い客たちが休憩処の長椅子から立ち上がった。各々、スーツケースやボストンバッグを担ぐと、コンクリートを焼く日差しの中へ歩み出ていく。

 まるで、一刻も早く『ギルマンハウス』の建つこの島から立ち去りたいかのようだ。

 蔵人は長椅子に座ったまま、海と、船と、宿泊客とを眺めていた。傍には、旅行カバンとリュックタイプのペットケージがある。その中では、灰色毛皮の大将が保冷剤を抱いて眠っている。

 あの人たちはどんな夜を過ごしたのだろう。

 込み上げるあくびを噛み殺しながら、蔵人は思った。

 まさか、僕たちみたいな目にあった人は居ないだろうけど。

 昨日は船酔いに始まり、午後の間じゅう手首の幻想に付き纏われ、挙句は腕を斬り落とされかけた。あやういところで助かったものの、もう少しで邪な神の生贄になるところだった。そして、あの男の身も凍るような変身と、おぞましい怪物との戦い。脳裏にあの膨れ上がった姿が蘇り、盛夏の空気の中で蔵人はぶるっと背筋を震わせた。

 ソーニャの考えでは、あの男を変えた存在モノは、本当は蔵人に憑こうとしていたのだという。儀式が滞りなく行われていれば、あのような化け物めいた姿ではなく、もっと人間らしい姿でこの世界に顕現していたに違いない。人間の姿になりかわることで場所に制限されず、警戒されず、さらに多くの生贄を手に入れる。そうして世界に邪悪と腐敗を疫病のように広めるのがあれの存在意義なのだ。

 自分の姿をした怪物が、ソーニャをはじめとして多くの人々の命を奪っていたかもしれない。そう思うと、蔵人は改めて戦慄を覚えた。〈黄夫人の手〉のことを気の迷いだなどと片付けず、すぐに相談すれば良かったのに。彼女が気づいてくれて、本当に良かった。

 ふわり、とサンダルウッドの香りがして、長椅子の隣にソーニャが座った。

「レモンと迷ったけど、いちご練乳にしたよ」

 少女の手にあるのは、ハンギョドン柄のプラスチック容器に盛られたかき氷だ。白い氷を毒々しいまでに染めるシロップの赤に、黄みを帯びたコンデンスミルクがたっぷりと掛かっている。休憩処には堤防釣りの客や船待ちの客をあてこんだらしい売店が営業中で、彼女もまんまとその術中にはまっていた。ソーニャが先端の広がったストライプ柄のストローでザクザクとみぞれ状の氷をかき混ぜると、化学的に合成されたいちごの匂いが漂ってきた。

「んー、ちべたい」

 氷とシロップと練乳の混合物を口に含み、ソーニャは満足げに呟いた。その様子を微笑ましく見ていた蔵人に、少女は言った。

「やっぱりクロードも食べたい?」

「えっ?」

「待って、シロップがいっぱいかかったところを……」

「いや、僕は」

「はい、あーん」

 少女の勢いに負け、青年はおずおずと口を開いた。

 唇の隙間に、冷たい氷が差し込まれる。舌がプラスチックストローのつるりとした感触に続いて、練乳とシロップの冷たい甘味を伝えてくる。

「やっぱり、いちご練乳だよね」

「う……うん」

 蔵人は妙につかえながら口の中のものを飲み下した。

 ソーニャはかき氷の頭頂部を少しばかりすくい、ストローを咥えると、ちゅっと口の中に吸い込む。

 しばらくの間、しゃく、しゃくと少女がかき氷を食べる音が続いた。

「……あのねクロード、ごめんなさい」

「どうしたの、急に?」

 唐突な謝罪の言葉に、蔵人は虚を突かれた。

「私が、旅行に誘ったせいで、あなたをあんな目に合わせて」

 ソーニャはかき氷の器を覗き込むように俯いている。

「そんなこと……ソーニャが助けてくれたんじゃないか」

「でも、私が、旅行に誘わなければ、クロードがあんな怖い思いしなくて済んだのに……」

 少女の声はわずかに震えていることに、青年は気づいた。

 この子が責任を感じる必要などないのに。

「君のせいじゃないよ」

「でも––」

「それに、僕らがここに来なかったら、別の誰かが犠牲になってたはずだよ。そうなったら、あの怪物はその人に成り代わって、さらに犠牲者を増やしていたはずだ。それを、僕たちで阻止したんだよ」

「クロード……」

 ソーニャが顔を上げた。いつもは凛々しい眉が今は困ったような尻下がりで、瞳は普段よりわずかに潤みを増していた。

「でも……そう、かなぁ?」

「そうだよ、もちろん。誰でも、ニューイングランド最高の魔女と一緒なわけじゃないからね」

 その言葉に、まだわずかに強張っていた少女の口元が緩んだ。

「そっか。そうだね。だって、それができるのは、クロードだけだもん」

「おわらー」

 椅子に置いたケージの中から、ホイエルの声が聞こえた。起きていたらしい。

 ぎゃりぎゃりと頭でジッパーを無理に押しあけて、橙色の鼻先が覗いた。

「おう、うわん?」

 なぜか不満顔の大猫が、二人の顔をじろりと睨め付ける。

「拗ねないで、ホイエル。クロードはニューイングランド最高の魔女と猫、って言いたかったの。ね?」

 取りなすようなソーニャの言葉に、蔵人はせきこんで頷いた。

「うん、そう。そうだよ。今回も大活躍だったね。さすがホイエル。感謝してるよ」

「……ふなわー」

 ホイエルは猫目をすがめると、保冷剤付きのペットケージの中に頭を引っ込める。

 その様子に、二人は目を見合わせ、小さく笑い声を漏らした。昨夜の恐怖が、今はもう、夢だったかのように蔵人には思えた。

「うーん、でも、せっかくの旅行だったのになぁ……」

 しゃくしゃくとかき氷を崩しながら、ソーニャが言った。

「楽しい思い出にしたかったのに」

 口ぶりには明るさが戻ったが、その顔には無念の色が滲んでいた。

「家に帰るまでが旅行だよ」

 蔵人は務めて明るく言った。

「せっかくだから、帰りがけに熱海でちょっと観光しないかい?」

「……そう! そうだよね!」

 ソーニャの顔がぱっと明るくなった。まるで夏休みが延長されたのを聞いた小学生のようだ。

「私も、本当はそうしたかったの」

 言ってソーニャは懐からスマートフォンを取り出した。

「実はちょっと調べて、メモしてたんだ。この古民家風のカフェ、評判いいんだって。それに、MOA美術館でしょ、温泉にも入りたいし。ロープウェイも乗りたいし、熱海城は絶対だよね。キングコングとゴジラが壊した所だもん」

「え、でも、そんなに回れるかな?」

 待ってましたとばかりのソーニャに、蔵人はたじたじとなった。駅ナカで海鮮丼でも……と思っていたのだが。

「それじゃ、熱海でもう一泊しちゃおっか?」

「ええっ、それは流石に」

「ホイエルも泊まれるとこ、もう探してあるんだ。クロード、べつにスイートじゃなくても良いよね?」

「ちょ、ちょっと待ちなさい」

「そうそう、さっきネットで調べたんだけど、熱海城の近くに秘宝館もあるんだって」

「いや、その秘宝館は、本当の秘宝館だから……」

「せっかくの旅行だもん、思いっきり楽しまないと、だよね!」

 ソーニャの満面の笑みを見ながら、蔵人は思った。

 やれやれ、秘宝館はもう懲り懲りだよ……。


 ばしゃり。

 濡れたモップが床板を叩いた。洗剤の泡が床に広がる腐汁と混じり合う。

「うぇー、この匂い、サイアク」

 アセナス・マーシュはそう言って口元を覆う布巾を引き上げた。匂いは多少はマシになったが、汚泥から立ち上る瘴気は変わることなく眼にしみる。

「こんなのホテルメードの仕事じゃないよぉ」

「そこ、口より手を動かす」

 思わず漏らした愚痴に、先輩メードから叱責が飛んできた。

「はぁーい」

 アセナスは投げやりな返事をしてから、傍のメード仲間にめくばせした。

 怒られちゃった、てへへ。

 ドンマ~イ。

 白黒のお仕着せと長柄の得物で武装したメードたちは、秘宝館の準備室に広がるヘドロのような汚物に戦いを挑んでいた。夜の間に何かしらのトラブルがあったらしいとの噂だが、それを言うならこのホテルでトラブルの起きない日があっただろうか? しかし、ただでさえ多忙なホテル業務に追加でドブさらいの真似までさせられるとは。特別手当でも出なきゃ、とてもじゃないがやってられない。愚痴の一つも出ようというものだ。渋々とモップで床を擦り始めたアセナスは、すぐに木目に入り込む汚穢を拭い去るのは簡単ではないことに気づかされた。

 いっそのこと、デッキブラシを使った方がいいのでは? いったい、何をどうしたらこんなに汚せるのだろうか。そもそもこのヘドロは何? どこから来たの? だいたい、秘宝館は専任の管理人が掃除するはずでしょ。あいつは何してんの?

 そこまで考えて、彼女は今朝から一度も管理人の姿を見かけていないことに気づいた。

 もしかして、クビになったのかな?

 メードたちの間では、あいつは手フェチの変態だと噂されていた。アセナス自身、あの男の陰気な視線を感じたことがある。もっとも、その眼差しにはどこか軽蔑の色が感じられたものだが。

 アセナスはふと手を止めた。じっと掌を見る。肌が荒れている。水掻きの色も、心なしか色褪せて見える。

 メードはため息をついた。

 やっぱりこんなとこ来るんじゃなかった。何が南のリゾートで楽して稼ごうだ。そりゃたしかにお金は貯まりましたよ。だって使えるところがないんだもん。いっそ宝くじでも買ってみるか?

 もちろんあのまま故郷に居たところで、働き口がなかったのは確かだ。地元の産業は精錬工場くらいで、もう百年くらい新規採用をしていない。それに、出会いもない。街の住人全員が親戚だ。

 『ギルマンハウス』はセレブやアーティストが御用達の高級ホテルだと聞いた。お金持ちに見初められてワンチャン永久就職で安楽な暮らしを手に入れられるかもと期待したのだが、お声がかかったためしはない。地元じゃなかなかの美人で通っていたというのにおかしな話だ。かといって、職場恋愛をする気にもなれない。ボーイはメードと同じくらい薄給だし、厨房はイカモノ料理人しか居ないし、支配人はまるっきり人間ぽくないし、秘宝館は変態の巣窟だし––。

「マーシュ、これ、焼却炉」

 アセナスの物思いを先輩メードの声が遮った。顔をあげると、瞬きしない目がじっとこっちを睨んでいる。先輩メードの足元には「可燃」とマジックで書かれたボール箱が無造作に置かれていた。裏山の焼却炉に持っていけということなのだろう。

「えー、あたしですかー?」

 とぼけた顔で自分を指さすアセナスに、海洋深層水より冷たい声が返ってくる。 

「他に誰がいんの?」

「……はぁーい」

 ムカツク~。

 ドンマ~イ。

 同僚とアイコンタクトをとりつつ、アセナスはモップをバケツに放り込むと、先輩メードが顎で示した箱に近寄った。半端に開いた口から、ステープラー留めのルーズリーフの紙束や燭台、線香、レゴブロックといったガラクタが覗いている。メードはその中に、人間の腕が入っているのに気づいた。

「うーわ、グロ……キモ……」

 前腕の中程で切断された男の腕は生々しい切断面を見せている。まるでマダム・タッソーのグロテスクな展示品のようだが、血の匂いから察するに、どうやら本物らしい。

 不意にアセナスは管理人が姿を見せない理由を悟った。

「くれぐれもお客様の目に晒すんじゃないよ」

「はぁーい」

 アセナスはボール箱の口を閉じ、グロテスクな可燃ゴミを持ち上げた。

 新館の裏口から出て、えっちらおっちらと坂道をのぼる。

 照りつける真夏の太陽が、メードの肌をジリジリと焼いた。

 紫外線はお肌の大敵だっつーの。早く冷暗所に戻りたい。

 背後の海から吹き付ける潮風が、アセナスのヘッドドレスを揺らした。振り返って沖合の岩礁を見たい気持ちをこらえながら、メードは木立に半ば隠された焼却炉までやって来た。空き地の真ん中には煉瓦造りの焼却炉が備えられ、ブリキの煙突から青い煙を吐き出している。炉には簡単なトタン屋根が掛けられ、周りには剪定された枝や厨房からの生ゴミを詰めたビニール袋が雑然と並び、煙の分子となるまでの僅かな余生を過ごしていた。

「おっちゃん、ゴミー!」

「おっちゃんはゴミじゃねえぞ」

 アセナスの言葉に、応えが返った。

「はいはい」

 メードはやれやれと肩をすくめた。このやりとり、もう何度目かもわからない。

 焼却炉の鉄扉の前に立つ中年男性が、首にかけた手ぬぐいで額を拭いながら振り向いた。汗で乳首の透けた白のランニングシャツ。軍手。カーキ色の半パン。素足に便所サンダルという出立ちは、お客様の目に晒してはいけないという点で切断された腕とどっこいだろうとメードは思った。

「おーう、適当に置いといてくれ」

 おっちゃんこと『ギルマンハウス』の用務員的存在、ジョセフ・サージャントはそう言って焼却炉の前から離れ、地面に直置きしたドライアイ用の目薬を拾い上げ、左右の目に差した。

「おいしょっ」

 アセナスは焼却炉の扉の前にボール箱を置き、掌をパンパンとはたいた。トタン屋根のおかげで直射日光は避けられるが、今度は焼却炉の輻射熱が襲ってくる。立ち上がって振り向くと、木立の間から『ギルマンハウス』の屋根越しに、紺碧の海原が望めた。

「そいや、この焼却炉って骨まで燃やせんの?」

「焼却炉マスターを舐めんなよ、と。今日のはなにかあるかしらん」

 サージャントはしゃがみ込んでボール箱の口を開いた。無表情に切断された腕を取り出して脇にやり、ガサゴソと中身を漁りはじめた。

「おー、なんだ? エロ本か?」

 言って、ステープラー留めの紙束を取り出した。血の染みのついたページをパラパラと捲ると「なんだ字ぃばっかりじゃねえか」と呟いてまた脇にやる。アセナスはなんの気無しにサージャントの横にしゃがみ、血に触らないようルーズリーフの端っこを指先でつまんで中を覗き込んだ。ボールペンや鉛筆で細かい文字がびっしりと書かれたそれには、アウトサイダー・アートめいた熱量が感じられる。あの秘宝館の管理人の変態的な妄想が綴られてでもいるのだろうか。メードの出歯亀根性が首をもたげてきた。

「––たとえクトゥルー……いあ! の眷属、でさえも、あえて、いぐ、いご……なに、なんて読むのこれ。いごる……いごろ?」

 気がつくと、アセナスの目は読みにくい手書き文字を夢中で追っていた。

 これは、ひょっとして……。

 メードはごくり、と生唾を飲み込んだ。

 ひょっとして、ひょっとするかも。

「ゴミばっかだな。レゴブロックだけもらっとこう」

 サージャントは奇妙な形に組み上げられたレゴブロックを取り出すと、残りの品をボール箱に戻し始めた。

「こんど曽孫が遊びに来るんだ。マインクラフトもいいけどよぉ、たまにはリアルな遊びで情操を育てねぇとな。あとは全部焼いちまうぞ」

 サージャントは焼却炉の鉄扉を開いた。火の粉が舞い、貪婪な炎が舌なめずりをした。

「ちょっと待って」

 紙束をつかみ上げようとした手を、アセナスは制した。

「これ、あたしがもらう」

「あ? そりゃいいけどよ。なんだ。やっぱりエロ本か?」

 サージャントは訝しげに瞬きしない目でアセナスを見つめた。

「その腕も、あたしにちょうだい」

 ルーズリーフの紙束から顔を上げたアセナスの目は、炎の色を映して奇妙な輝きを放っていた。

 その時、かすかに、地下深くから柔らかな足音が響いてきた。

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