猫神の召喚者~ソーニャ・H・プリンの事件簿~
ねこたろう a.k.a.神部羊児
第1話 猫神の召喚者
「おねがい! ね、危なくないから!」
そう言ってソーニャ・葉月・プリンは手を合わせた。
「でも、急にそんな、バステト神のお祭りなんて……」
安部蔵人は戸惑いながら手にしたカップを机に置き、年下の従妹を見返した。畳の上の座布団に正座して両手を合わせる金髪碧眼の女の子、という図は少しだけシュールだ。肌はミルクのように白く、ホットパンツから伸びる腿が眩しい。長い黄金色の髪は頭の左右に分けられ、二本の尻尾のように背中を流れている。明るい緑の瞳は猫のようにツリ気味で、今は上目遣いにおねがいのニュアンスを醸し出している。すらりとしたモデルめいた身体つきにもかかわらず、そのバストは実際豊満である。
まさに絵に描いたような美少女だった。
さして魅力的でもない容貌と自認している蔵人としては、多少なりとも同じ血が流れているのが時折不思議になる。
「怖いことなんてなんにもないんだよ? 家庭を守る慈悲深い神様なんだから……」
「べつに、怖がってるわけじゃないけど……」
「ホイエル、あなたからも蔵人にお願いして」
ソーニャはそう言ってテーブルの下に寝転がっている大きな長毛種の猫に声をかけた。灰色まだらの大猫はしぶしぶといった様子を隠しもせず、畳に爪を引っかけながらずるずるとテーブルの下から這い出すと、大きく伸びをしてから蔵人の膝の上に前脚を乗せてにゃおうと鳴いた。
「ね、ホイエルもこう言ってることだし」
「いや……僕は猫の言葉はわからないんだけど」
ホイエルは蔵人の膝を足がかりに、テーブルの上に大きく乗り出すとガラスの小鉢の中で溶けつつあるバニラアイスの方へと鼻先を伸ばした。
「こら、駄目だよホイエル。まだ僕が食べてるんだから」
そう言いながら蔵人はアイスを持ち上げて巨大猫の脅威を逃れる。
「ソーニャ、ちょっと、君の使い魔を何とかしてくれないかい」
「ホイエルは猫だから。猫は自由なものだよ」
「だめ、だーめ!」
「にゃおう、にゃーおう」
「ね、聞いてクロード。こんなこと頼めるのはあなただけなの」
ソーニャは猫と格闘する蔵人の方に大きく身を乗り出し、彼の腕に手を置いて真剣な様子で言った。
蔵人は思わず動きを止めて、ソーニャの顔を見た。
その目は必死に訴えるような色をたたえている。前傾姿勢になった拍子に、Tシャツの襟元が開いて、豊かな胸の谷間が露になった。蔵人は慌ててアイスの小鉢を放り出して腕を組み、天井を仰ぎながらソーニャのお願いを熟考しているふりをした。もちろん小鉢の中身は獰猛なる食肉類のざらつく舌によって奪い去られたのは言うまでもない。
「あー、うん、そうだねえ……」
ソーニャはときおり、とても無防備だ。うっかり肌を見てしまった時など蔵人は罪の意識を感じずには居られない。そして今回、その罪悪感が蔵人をしてソーニャのお願いを一考させた一因ともなった。
ソーニャ・葉月・プリンはバステト神に仕える巫女であり、魔女である。
日米ハーフの金髪娘と古代エジプトの猫神様との間にいったいいかなる関連があるのかについての逸話は、断片的ながらも蔵人も知っていた。
むかし、ソーニャの母方の祖先にオランダだかベルギーだかの貴族で、十字軍騎士としてエジプトへ行き、古代の猫神の神殿を訪れた人物が居た。
その名前をルートヴィヒ・プリンという。
彼は十字軍時代までひっそりと続いていたバステト信仰の継承者である巫女と運命的な出会いをした、らしい。少なくともソーニャは祖母の口からそう聞いているそうだ。その後、二人は恋に落ちた、子をもうけたという。その子孫の一人が新世界に移住し、そのまた子孫であるソーニャの母親が当時留学中だった蔵人の叔父と巡り会ったのだ。
かくして彼女、ソーニャ・H・プリンが誕生したのだった。これらソーニャの家系に関する事実は最近、さる事情から彼女が来日し、蔵人の家に居候するようになってから聞かされたことだ。それまでオカルトめいたことなどとは無縁な生活を送って来た蔵人だったが、実際に彼女が魔術を行なう所をすでに幾度も見せられている以上、今ではそのことに疑いはなかった。
普段から早起きとは言えないソーニャだったが、今朝は特に遅かった。心配した蔵人が彼女の部屋の扉をノックすると青い顔をした彼女が顔を覗かせた。曰く、バステト神が夢枕に立ち、ブバスティスの祭りを行なうように、と託宣したのだという。
巫女であるソーニャは祭祀において、バステト神が地上を訪れるための器となり神懸かり状態になる。その状態の巫女を相手どって儀式を行い、神霊を慰め、贄を捧げて神意をうかがう役を蔵人にやってもらいたいのだという。なんでも、この祭事は非常に重要なもので、これを執り行うのは猫神の巫女として絶対に避けて通れぬことらしい。
「それで、もし、僕がその助手をしなかったら、どうなるんだい?」
蔵人がそう聞くと、ソーニャは見る見るうちに青ざめ、しおれたようにうなだれてしまった。
「……別の人に、頼むしかないけど……」
アメリカから来たばかりのソーニャにとって、そんなことを頼める人間は蔵人しか居ないだろう。蔵人は慌てて言った。
「あ、いや、引き受けないと言ってるわけじゃないよ、ソーニャ……」
「ありがと!」
そう言うとソーニャは顔を輝かせながら蔵人の手を両手で握りしめた。
その顔を見ると、まだ引き受けるとも言ったわけではないのだけども……とは言えなくなる蔵人であった。
「あー、それで、そのお祭りはいつなんだい?」
「今夜よ」
「急だね!」
「さっそく準備するね!」
そう言うとソーニャは立ち上がり、蔵人の側に来ると、頬に軽く口づけして言った。
「ありがとう、よかった。本当にありがとう、クロード大好き!」
風に舞う羽毛のようにるんるんと、ソーニャは踊るようにして廊下を駆けていく。蔵人は熱い頬を抑えながら、四つ足の獣が綺麗に平らげたアイスの小鉢をいつまでも眺めていた。
ソーニャが父の国、日本に戻ってきて特に気に入ったものの一つが深いバスタブのお風呂である。
湯は乳白色に濁り、手ですくうとねっとりと絡み付いてくる。中には先祖代々の魔女達が伝え、改良を重ねてきた特製の入浴剤が入っている。百合と薔薇のエッセンシャルオイルに桃色岩塩。遼丹を一粒に黄金の蜂蜜酒を三適。スパイスに砂糖にその他ありとあらゆる高価で素敵な品々を混ぜ合わせたバスボブには乙女の柔肌を美しく磨く効果がある。しかしソーニャが入浴している理由は美容のためばかりではない。沐浴で全身を清めるのも儀式の重要な準備なのだ。
「ふにゅうー」
香りのよい湯気を吸い込みながらその午後何度目かの溜め息をついてソーニャは大きくのびをした。湯船のなかで白く長い伸びやかな四肢をぐうっと突っ張る。いったん込めた力を抜いて、全身を弛緩させると湯の中で、いつも、いつのまにか固く凝っている肩を揉む。固く張った筋肉がほぐれて、凝りが湯中に溶け出してゆく。肩といわず、全身の筋という筋がほどけて、スライムめいた不定形の何かになってしまいそうだ。
ソーニャはそのままずぶずぶと鼻まで湯の中に沈みこむ。ぶくぶくとしばらくあぶくを吐いたあと、ざばりと身体を起こした。
のぼせてしまいそうだ。
ソーニャは立ち上がり、浴槽のふちに腰掛けた。普段なら乳色をしている肌は上気して、桜色を帯びていた。ぷるん、と弾力あるすべすべの肌の上を水滴が転がる。お湯の浮力を失った二つの胸のふくらみが万有引力を思い出す。しばしの間、ぼんやりとしたまま火照った身体から立ちのぼる湯気を見送った。
ふと、壁の曇った鏡の中の朧げな姿に目をとめる。
てのひらで表面を拭うと、冷たく固いガラスの向こうから茹であがった少女が見つめ返してくる。
鎖骨の下。胸元から急勾配で立ち上がる柔らかな半球の頂点は、重力に抗ってツンと上を向いている。ふくらみの下に手をまわすと鏡の中の少女もそれにならった。そっと持ち上げるとずっしりと重い。ふだんからこの重みを支えているのだから肩が凝るのもむべなるかな。
平均よりもかなり大きめなのだろうなぁと自分でも思う。
日常生活をおくる上では、もう少し控えめの方が邪魔にならないのに。
だがこれもママやお婆ちゃんや、先祖の魔女達から受け継いだものなのだ。
「うーん……男の子はどうなんだろう?」
肩凝りも辛いが年頃の女の子にとって一番気になるのはそのあたりのことだ。街を歩いていて男性の視線を感じることは多い。特に日本に戻って来てからは顕著に増えた。金髪碧眼の容姿のせいもあるのだろうが、一番の注目の的はやはりバストだった。人間の目はどこを見ているのかが他人から見てもよく判るのだ。最近ではそんな視線にも慣れた。というか、そんなことをいつまでも気にしているような繊細な神経では魔女などという仕事は務まらない。魔法の入浴剤入りの湯につかった肌はいまやしっとりとなめらかで、自分の目で見ても光り輝くようだ。
「魅力ないってことはないと思うんだけど……」
有象無象はさておいて、蔵人のことだ。
自分のセックスアピールが彼に影響を与えられているものか不安なソーニャだった。普段から、まるでカーテンによりかかるようなものでいまいち反応が感じられないのだ。今日も、あえて襟ぐりのおおきなTシャツで、前屈み姿勢を多用していたのに、蔵人の反応はあるんだかないんだかでさっぱりわからない。ほっぺにちゅーはすこしやり過ぎだっただろうか?
彼を思うと胸の奥が切なく疼く。心臓を魂の座だと考えた古代のエジプト人は正しい。まだほんの子供だった頃から年上の従兄に感じていたほのかな想い。地球の反対側で暮らしていた間も消えることのなかったくすぶるような気持ち。
再会してから胸の痛みは悪化するばかりだ。
「一緒に暮らしてて、こう、ムラムラって、なったりしないものかな……?」
同居を始めた頃はいずれ何かしらあるだろうと思っていたのに……。ソーニャは当初楽観的な気持ちで若い男女の同居というシチュエーションの持つ可能性に賭けていたのだが、いまのところその目論みは外れている。
はたして、年頃の男女が一つ屋根の下で一月も一緒に暮らしているのに、まったく、なんのマチガイも起こらないというのはどういうことなのだろう? 男の子というのはもっとこう、そういうことに積極的なのではないのだろうか。
蔵人が異常に奥手なのだろうか。それとも、女性に興味が無いのだろうか?
ソーニャの見立てではそんなことは無いと思う。
しかし、たとえばもし、小さいバストが好きなのだとしたらどうしよう。
そもそも、彼は私のことをどう思っているのかしら。
ただの親戚?
妹のような存在?
嫌われているわけではない……と思いたい。
気持ちを打ち明けてしまえば楽になれるかもしれない。
あるいはいっそこちらから夜這いをかけてしまえば……。
そのことは考えた。
でも、もし拒絶されたら?
彼のことだ。きっとすごく、困った顔をするに違いない。
彼のそんな顔を想像しただけで、つらくて泣いてしまいそうになる。
きっと、彼は慰めさえかけてくれるに違いない。ソーニャにはもっと似合う素敵な人が居るとかもっと自分を大事にしなさいとかなんとか。その後はお互い気まずいままで、まるで何事もなかったようなふりをして暮らすのだ。決定的にかわってしまった関係は二度ともとには戻せないのに……。
そんなおそろしいことを想像してみただけでソーニャはぞっとして身震いした。
やはり出来ない。
振られるのがこわくて、選択の責任を蔵人に押し付けてしまうのは、全くフェアではない。だが、蔵人を失うことはソーニャにとっては世界を失うことと同じだ。そのリスクを背負うには、十七歳の女の子の背骨は細すぎる。彼からのアプローチを待つほかないのだとソーニャは結論づけていた。
しかし、手をこまねいていては、いつトンビに油揚げを攫われてしまうやら判ったものではない。
本人は気付いてもいないのだろうが、彼はけっこうモテるらしいのだ。
顔立ちだって、ちょっと面長だけど、整っているし。なにより物腰ににじみ出る人の良さ。ちょっとしたときに見せる無防備な子供っぽいところ。なんというか、すごくかわいい。
今回、バステト神が夢枕にお立ちになったのは、あまりに急なことで驚いてしまった。だが、考えてみればちょうど良い機会なのかもしれない。
どうしても踏み出せない一歩を踏み出すための心理的なアリバイとして神を利用するようで、罰が当たってもしかたないくらいだ。
でも、もしかしたらバステト神はもろもろを織り込み済みで、御神託を下されたのかもしれないとソーニャは思っていた。
なにしろ愛と官能の女神様なのだから、忠実なる巫女の恋路を応援してくださってもいいはずだもの。
そんな風に自らの宗教心と恋心に折り合いをつけ、ソーニャは胸に決意を燃え立たせた。
今回のお祭りのハイライトを思い浮かべ、彼女は赤面した。
ことがうまく運べば、たとえ彼がどんなに朴念仁でも、少しは異性として意識せざるを得ないはず。
本当のところ、彼を罠にかけるようで、気がとがめる。
だが後悔だけはしたくない。
ぱん、と両手で自分の頬を叩きソーニャは、頭からお湯をひっかぶった。
ぱっ、とマッチが燃え上がった。
燭台にうつされた焔は一瞬大きく身悶えするようにくねった。
蝋に含まれた乳香が部屋の空気に馥郁たる香りを発散させる。
夜の最初の四時間が過ぎた今、盛装のソーニャ・葉月・プリンと三つ揃いの一張羅を着せられた安部蔵人の二人、それに巨大猫のホイエルは台所の食品庫の側に佇んでいた。
燭の焔がふくらみ、少女の姿を照らし出す。
瑠璃、玻璃、縞瑪瑙。紅玉、碧玉、緑柱石。
多種多様のビーズを連ねた幅広の首飾りがまばゆい。豊かな二つの丘陵の間でひときわ目立つのは大粒のオリーブ石を刻んだ甲虫の護符だ。
少女が身体を揺らすと、打ち出し模様の施された琥珀金の小札がしゃらしゃらと閃く。耳には銀の魚のイヤリングに、ルビーのはまった銅の腕輪。額の上に小さな銀の鏡を載せている。
女王もかくや、というまばゆいまでの装飾品だが、その下に着ているのはなぜか浴衣である。本人に言わせればユカタは日本で祭祀の際に着用されるものなので何もおかしくはないそうだ。
蔵人はニュアンスがだいぶ違うと言いたかったが、結局は本人のしたいようにさせるべきかもしれないと思い直した。
ソーニャは焔の安定した燭台を蔵人に預けると、床にかがみ込んで小さくバステト神の聖句を呟いた。机の上から乳鉢を取ると、中に入った鳩の血と魔女の軟膏の混合物を指先ですくい、床の食品庫の四角い蓋を囲む赤い魔方陣を描きはじめた。ホイエルがくんくんと描かれた赤い線を嗅ぐ。
「……舐めちゃだめよ、ホイエル」
「にゃう」
蔵人は息をひそめてソーニャの様子を見つめた。
彼女の横顔は真剣そのもので、古代の神秘を扱うにふさわしいしかつめらしい態度を保っている。窓の外からは街灯の明かりが差し込み、少し離れた県道を往来するトラックのエンジン音が聞こえてくる。ここが現代日本の民家の台所ではなく、黒い森の神秘的な祭壇や砂漠の秘められた洞窟、あるいは満天の星の見下ろす荒野の環状列石の石舞台であったなら。それはとても画になる光景だったろうと蔵人はぼんやりと思った。
やがて方陣に最後の線が描かれ、聖なる角度をなした。
完成したのは頂点を手前においた五角形だ。かたわらにアンク十字やホルスの目といった聖なる印がそえられたそれは古の魔術を識る者達からナコト五角形と呼ばれている古い古い図形だった。正しいしぐさと共に発せられた力ある言葉によって現代科学の知る宇宙の法則が乱れた。
ホイエルが長く鳴いた。
次の瞬間、ソーニャが食品庫の戸を引き上げるとそこは異次元の入り口と化していた。普段、梅干しの瓶やら味噌の瓶やらが仕舞われている食品庫は、今や地下世界へと降りる石造りの階段となっていた。
「そんな馬鹿な……」
「クロード、そんなにびっくりしないで」
愕然としている蔵人に対して、ソーニャの方は悠然としたものだ。深さ1メートルそこそこの床下収納が、狂王の試練場にでも通じていそうな階段と化していることなど、どこもおかしくなどないとでも言わんばかりだ。
「だって……ちょっと前に開けたとき時はこんな風には……」
「しっかりして、クロード。今夜はバステト神のお祭りなんだから。これしきで驚いてたら身がもたないよ」
「だって、でも、こんなことありえないよ……」
「私は魔女だし、魔女は魔法を使うものなの」
ホイエルは、階段を降りようとしたところでソーニャに抱き上げられた。
「あなたはお留守番ね」
ホイエルは不満そうに鳴いたが、ソーニャによって五角形の外へと降ろされた。
「ごめんね、ホイエル。でも、このお祭りは大人しか参加出来ないの。良い子にしてたらアイスを食べさせてあげるから」
そう言ってソーニャはホイエルの頭を撫でた。
それでもホイエルは階段へ降りようとするが、赤い線をまたぐことが出来ないかのように近づいてはそっと前脚を伸ばし、触れる直前で引っ込めることを繰り返す。
「ホイエル、いい子。もし遅くなるようなら、迎えに来てね」
ソーニャがなだめるようにそう言うと、ホイエルはしぶしぶと言った様子で一声鳴いた。
「さて、じゃあ、クロード、行こうか」
「う、うん」
ソ—ニャは片手で蝋燭の燃える燭台を掲げて足下を照らすと、蔵人の腕をとって階段を下りはじめた。腕を引かれるようにして蔵人は地下世界へと足を踏み出した。蔵人が後ろを振り返ると、恨めし気な猫の目が緑色に光った。
ひた、ひた、ひた。
スリッパを履いた二人の足音が周りの壁に反響する。
明かりはソーニャの手にした燭台だけ。
無数の履物によって摩耗した石段で足を滑らさぬよう、二人は慎重に足を進めた。階段は二人並んで降りられるほどには幅があり、なだらかな傾斜で地下深くへと続いている。天井は高く、弓なりにアーチをなしている。ざらざらした砂岩の表面に触れてみると、じっとりとした湿気をおびている。
地下空間は意外なことに暑くも寒くもない。地下の方から吹いてくるかすかな風が燭台の焔をゆらして、二人の背後で影法師が踊る。
蔵人にはいまだに信じられない気持ちだったが、周囲の石壁は圧倒的な現実感を持って迫り来る。台所の地下に突如発生した地下道を歩いているのだと思うと、精神の均衡を失いそうだ。
ふいにソーニャが組んだ腕をぎゅっと抱き寄せた。
爽やかでありながら妙に官能的な、サンダルウッドめいた香りが蔵人の鼻腔をくすぐる。
薄衣越しに温かな少女の体温と、むにゅっ、としたなにやら妙にやわらかな感触がして、蔵人はそれまでとは全く方向性の異なる緊張を強いられた。ちらと横目で観ると、ソーニャの豊満な胸が自分の二の腕で大きく形を変えている。
やはり浴衣を着る際の伝統的なスタイルにしたがい、下には何も着ていないのだろうか?
蔵人はごくり、と唾を飲み込んだ。
「あの、ちょっと」
「なに?」
「くっつき過ぎじゃないかな、その……」
「狭いんだからしょうがないでしょ?」
蔵人にはそこまで狭いわけではないように思えたし、そもそも横並びで階段を降りなくてもよさそうなものだが、結局のところ黙ってされるがままにした。
そして果てしない距離を二人は下った。
やがて単調な壁に突如、鮮やかな壁画が現れ、蔵人は思わず目を見張った。
描かれた情景は古代エジプトのものであり、人物像は男女共に古代エジプトの格好をしている。しかしその画風は古代エジプトの様式とはあきらかに異なっており、肖像画のような写実性であらわされていた。女性の方は身につけた装飾品から高貴な女性神官だと知れる。彼女は帯を解きながら猫足のベッドの上の、簡素な衣装の若者の上にのしかかっている。次の壁画でも同じ二人が描かれ、その様子から時間の経過が表現されているとわかる。画家の筆致はいきいきとして生々しく、おおっぴらな性愛の讃歌が描かれている。
「ソーニャ、壁画だよ」
「……そうだね」
見事なできばえの壁画をもっと見ようと、蔵人は一瞬足を止めかけたがソーニャに強く引っ張られる。
「ちょ、ちょっと待ってよソーニャ」
「なに?」
かすかに棘のあるソーニャの返答に蔵人は一瞬たじろぐ。
「すごい芸術作品だよ。ちょっとくらい見てもいいだろう?」
「だめだよ、クロードのちょっとはちょっとじゃすまないんだから……そ、それにクロードは、こ、こんな……えっちなもの見たいの?」
「えっ?」
蔵人はソーニャの思わぬ発言に虚をつかれた。
ソーニャの顔は羞恥に赤くなっている。
地下の洞窟に描かれた壁画をポルノグラフィとして見ることなど想いもよらなかった蔵人だったが……なるほど、言われてみると確かに『実用品』としても十分に通用しそうないやらしさ、見るものの欲望をあおり立てるような猥褻さが確かにある。
「いや、そ、そうじゃなくてね……」
と言いかけるものの、一度意識してしまったエロティックさを振り払うことなどもはやできない。
もしや親戚の女の子と一緒にポルノを見てしまったのだろうか。そう思うと羞恥心が猛烈に燃え上がり、蔵人は美術への好奇心をあわてて振り切って、愛欲の芸術から目をそらした。
「行こ」
ソーニャが腕にぎゅ、とさらなる力を込めてより深き暗黒へと蔵人を誘った。二の腕に伝わる柔らかさがことさらに意識されて、蔵人は心の中でうめいた。
二人は、壁画の回廊を足早に進んだ。
路は無限に続くように感じられ、繰り返されるセクシャルなイメージがチラチラと蔵人の目の端で乱舞した。
描かれるモチーフは相変わらず、猫足の寝台の上で繰り広げられる女性神官と青年の情交の場面であったが、シーンごとの登場人物は次々と入れ替わっていくようだ。描かれる青年は時に平民であり、職人らしい者や頭を剃った神官、あるいは軍人、貴族と古代エジプトのあらゆる階層にまたがって表現されているのに対し、女性の方は常に薄衣を纏い、幅広の首飾りと金銀の装飾品に身を包んだ姿で表されている。蔵人はそのいでたちにそこはかとないなじみ深さを感じた。
壁画は延々と同じモチーフを繰り返していた。階段を下るにつれ、内容は過激さを増すように思えた。人間の想像力と創意工夫によって生み出された様々な方法が試され、ときおり倒錯的な内容にまで発展した。
歩みを進めるにつれて、絵の中の時代もくだってゆく。
ギリシャ人の旅行者がいた。ローマの兵士がいた。キリスト教徒がいた。
イスラム教の時代に入ってもこの壁画の時代は下り続け、やがて十字軍時代を迎えた。白に近い金髪と短い顎ひげを生やした十字軍騎士が小柄な巫女と居る絵を過ぎた所から巫女の風貌に大きな変化があらわれた。それまで一様に黒髪に褐色の肌だったのが、ちょうどソーニャと同じような金髪、碧眼の娘にかわったのだ。そのことがほのめかす事柄について蔵人が想いを巡らしかけたその時、ソーニャの掲げた蝋燭が大きく揺れた。
地下から吹き寄せるかすかな風が、甘い香りを運んで来た。
目を凝らすとまだかなりの下方だったが、遠近法の彼方で壁がおわっていた。ぽっかりと空いた空間の底で蝋燭の明かりを照り返す黒い水面が見えていた。階段の終わりで二人は足を止めた。
巨大な地下空間がそこに広がっていた。
巨大な気泡のような、ドーム状の地下空洞。向こう側の壁までどれほどの距離があるのか、燭台の頼りない光では見定めることもおぼつかない。天井は中央に向かって高さを増し、中央部分では数十メートル近い高さになるようだ。半球状の壁面はラピスラズリの青で塗り籠められ、古の星座が金で描かれている。描かれた星はかすかに燐光を放ち、巨大な空間は夏の夜空の下のように静かな輝きが満ちている。足下の最後の階段にはちゃぷちゃぷと波が寄せており、水をすかして砂地が姿を見せている。遠浅の海の向こうにはぼんやりと島影が浮かび上がって見える。
「遥かな地底にこんなところが……」
「あの島が目的地だね。深くないから歩いて渡れるよ」
ソーニャはスリッパを脱いで着物の裾をからげる。白いふくらはぎが暗闇に浮かび上がる。
ちゃぷん、と一歩を踏み出す。
「さ、行くよクロード……なにしてるの?」
「うん……ソーニャ、これ……」
蔵人は階段の最後の絵に釘付けになっていた。
背広を着た黒髪黒目の、一見してアジア人だと判るハンサムな青年の姿。そして、彼に寄り添うグラマーな金髪碧眼の美女。画家の写実的な筆は二人の顔の特徴を見事にとらえ、漆喰塗りの地下洞窟に表現していた。蔵人はこの二人にどこかで会ったように思えた。そうだ、間違いない。かつて、一緒に団欒したソーニャの両親の思い出す。記憶の中の二人を十年ほど若返えらせたとしたら、この壁画の顔になるだろう。
「この二人って……」
言いかけて蔵人はソーニャが壁画から顔をそらし。真っ赤になっているのに気付いた。蔵人はいまいちど壁画へ目を向け、再びソーニャを見て、また壁画を見た。
そして結局、それ以上の言及は避け、黙ってスリッパを脱ぎ、ズボンの裾を引っ張ってぬるくたゆたう地底湖へと足を浸した。
水底の砂を踏んで二人は島へと進んだ。裸足の甲を何かがかすめて泳いでゆく。水面のそこここに丸い葉が浮かび、まどろむような睡蓮のつぼみがゆったりと身を起こしている。
暗闇にぼんやりと浮かぶ青い蓮が甘い芳香を放ち、呼吸するだけで酔ったような気分になってくる。
やがて二人は小島にたどり着き乾いた砂を踏んだ。
小島はおよそ二十メートルほどの円形をしており、盛り上がった中央に豪奢な猫足寝台がぽつんと設置されているのがなんだか場違いな感じだ。
ソーニャは砂の上に籠を置くと、小さな鉢をいくつも取り出して灯心を差しては油を注ぎ、燭台から炎を移して即席のランプを作り島の周囲に配置してゆく。ほのかに揺れる皿の灯りが寝台をとりかこみ、聖なる儀式の場を闇の中に浮かび上がらせた。
周囲からさらさらとかすかな音がわき上がった。蔵人があたりを見回すと、水面から睡蓮のつぼみがまるでフィルムの早回しのようにその顔を伸ばして、その花弁を次々に開くのが見えた。開花のかすかな振動が作った波紋がランプの灯りに照り映える。
「さあ、クロード。こっちに来て」
寝台の横でソーニャが言った。
「う、うん」
間近で見ると寝台の造形の見事さに驚かされた。
さぞ名のある職人の手によって作られたのであろう。黒檀の組木細工に金箔や螺鈿、貴石の類いをふんだんにあしらってある。側面にはこの寝台で寝る者に悦びを保証する魔除けのベス神や官能の女神ハトホル神の姿が彫り込まれている。
「荷物はベッドの上に置いちゃって」
「あ、うん……」
蔵人は籠を寝台の上におろす。ソーニャはてきぱきと籠からタッパーや酒瓶を取り出し、布巾を広げた上に食器を用意しはじめた。
数分後。
すっかりと用意をととのえた後。
「それでは、これから、春のバステト祭をはじめます」
ソーニャはそう言って身体の前で組んだ手に金と銀で出来た古代エジプト風のガラガラであるシストルムを持ち、ぺこり、と頭を下げる。
砂地の上にシートを敷いて正座した蔵人がパチパチと手を叩く。
ソーニャはしばらく蔵人の様子を気にしながらもじもじとしていたが、意を決したかのように、おほん、と咳払いをして、シストルムを大きく振った。
じゃん、と音がして——
空気が変わった。
ソーニャが朗々とした声で歌いはじめる。
高く、あるいは低く。
少女の唇から古風なメロディが紡ぎ出される。猫の鳴くような。あるいは喉を鳴らすような。蔵人の知らない言葉だった。ときおり繰り返されるバステト神の名だけが聞き取れる。ソーニャは歌いながら、腕を上げシストルムを振るわせる。リズムにあわせて頭をゆらしはじめ、素足でステップを踏んで、ぐるぐると旋回しながら踊り始める。
じゃん、じゃん、じゃん。
シストルムが打ち鳴らされる度に、周囲の空気の感触が少しずつ、確実にかわってゆく。ぴりぴりと空気中の緊張が高まり、今しも電気の味がしてきそうだ。ソーニャは動きの早さを増してぐるぐると独楽のように回り出す。
遠心力でソーニャの髪や、着物の裾がふわりと広がる。旋回速度が絶頂へと上り詰める。
そして、唐突にぱたりと止まった。
かすかに弾んだ息をととのえながら、上気した顔をあげた。きっと唇を引き結び、決意に満ちた表情で蔵人の顔を見た。
つかつかと蔵人の側までやってくる。近づくと共に、彼女の香りが強く感じられる。
ソーニャはしばし蔵人の側に立ち尽くした。
蔵人はきょとんとしてソーニャを見上げた。
やがて何かに決心を下すかのように、ふぅーっと大きく息をつき、ソーニャはぎゅっと着物の裾を掴んだ。
蔵人の目の前で、ばさり、と浴衣の裾がまくり上げられた。
その瞬間、蔵人はソーニャが浴衣を伝統的なスタイルにのっとって着ていることを知り、この地下世界全体にかけられた古の魔術の、必要とされる最後の要素がそろった。
蔵人は、南極の古代都市のように凍り付いた。
何が起きたのか。脳が理解を拒み、突如馬鹿になったように目の前に現れた光景を呆然と見つめた。白く、しみひとつないすべらかな肌が少女のしなやかな筋肉と脂肪を覆い、なめらかな曲面を構成している。計算されたように美しいかたちがそこにあった。柔らかそうなお腹。形の良いおへそ。
甘い香りの微風が吹き寄せ、ふわふわとした黄金色をゆらす。
蔵人は思わずぱち、ぱちと瞬きをした。思考がようやく現実に追いついて、顔が燃えるように熱くなった。
「な、な、ななん……」
一体全体何事だ。蔵人は目をぎゅっとつぶり顔をそむけた。
そんな蔵人の耳にくすくすと楽し気な笑い声が降ってくる。
「いったい、君、からかってるのかい、ソーニャ、らしくないよこんな冗談!」
我知らず、強い言葉が口から出る。くすくす笑いがさらに高まる。
「ソーニャ? 君、いったい……」
「汝、目をあけよ」
その声を聞いた瞬間、蔵人は背筋を羽根で撫でられたような気がした。
意思に反して瞼が開く。
蔵人は目の前に立った存在を正視した。
裾はすでに下げられ、先ほどの光景を見ずにすんだが、蔵人にとってはほっとするどころではなかった。見上げると、ソーニャの緑色の目と相対したが、その瞳は信じられないほどの齢を重ねているように思えた。蔵人の背筋を冷たい戦慄が走った。ピラミッドや、スフィンクスに見下ろされたらこんな気持ちになるだろうか。
目の前にいるもの。
姿はまぎれもなくソーニャだ。
しかし、その精神は、いまや彼女の物ではないことを蔵人はなかば本能的に理解していた。女神が、巫女の身体を借り、現世へと降臨したのだ。
蔵人は身震いした。今や太古の神の御前に居るのだ。
「顔を見せよ」
ソーニャの姿をしたものが言った。その声は蔵人の魂を痺れさせた。言われるままに蔵人は顔を上げ、ソーニャの顔をしたものはにやりと笑みを浮かべた。
「ふぅむ。みてくれはそう悪くないの」
蔵人は蛇に睨まれたカエルのように硬直したまま脂汗を流した。
しばしの沈黙の後、不興げな声がした。
「なにをボサッとしておる? 吾が立ったままでおるのを楽しんでおるとでも思うておるのか?」
「あっ、は、はい! すみません!」
蔵人は弾かれたように立ち上がり、周囲を見回した。
「ええと……」
座れそうなところは砂地に敷いたシートか、寝台しかない。
どちらを勧めるべきだろう。
蔵人が躊躇していると、少女の肉体を纏った女神は自分の先ほどの発言も忘れたように勝手に寝台へと進み、腰掛けた。勝手気ままなところはさすが猫の女神だ。グラスを持ち上げてしげしげと眺めると、ワインのボトルを持ち上げて蔵人を呼ばわった。
「汝、はようまいれ」
「あ、はい、ただいま」
蔵人は弾かれたように女神の元へと馳せ参じた。
賽子が転がって、赤い一つ目を上にして止まった。
バステト神は鼻を鳴らしてコマを進める。
次に蔵人が賽子を振ると、今度は六の目が出た。蔵人はコマを進め、あがりに到達した。これで二勝目だ。
「賽の目とナイルの流れは思うようにはならんものじゃな」
バステト神が肩をすくめて言った。
二人は今、装飾のほどこされた寝台の上で差し向かいになっていた。二人の間にはすごろくのボードが広げられ、その上にはプラスチック製のコマが載っている。
「もう一回じゃ」
コマをスタート地点へと戻しながら言うバステト神の様子を微笑ましく見ながら蔵人は自らの置く状況の奇妙さを思い苦笑した。
バステト神は寝台の上に座ると、前置きもそこそこに籠の中からすごろく板をとりだして蔵人との勝負を所望したのだった。ワインを片手に真剣な様子で賽子を見つめるバステト神の様子は、どこかおかしく、また、なにやら可愛らしいと思えた。なんだか、自分まで童心に戻ったようにも思える。数年前、まだ小さかったソーニャと一緒に過ごした正月休みの事などが思い出される。はじめて相対した時に感じた畏怖の印象はすでに薄れてきていた。
しかし、ソーニャが言ってくれなかった儀式の内容が、まさか地下深くで古代エジプトの猫の女神とすごろく遊びをすることとは思わなかった。
だが考えてみればそう不思議でもないのかもしれない。古代エジプトにもすごろくに似たゲームはあり、死者の書にも描かれている。あらゆる遊びと同じく、宗教的な意味を持っていたらしい。
日本にも、力士が見えない神と相撲をとる祭りがあるし、あれと似たようなものなのかもしれない。
「吾に勝って嬉しいかの」
蔵人の漏らした微笑を誤解したのか、バステト女神は不満げに口を尖らせた。
容姿はソーニャそのままだというのに、振る舞いはハイティーンの彼女よりも幼いように思え、喋り方は妙に時代がかっている。会話はありがたいことに全て日本語でおこなわれていたが、そのこと自体は蔵人にはさして不思議にも思われなかった。恐山のイタコのようなものだろう。
「あ、いえ、その……」
「ふん」
萎縮した蔵人を半眼で睨みながらバステト神はぐっとグラスをあおり、ごくごくと喉を鳴らしてワインを飲み干した。さきほどから立て続けに杯を重ねているが、目元がほんのりと赤らんでいる程度だ。
蔵人としてはソーニャの身体に障らないかと心配になってくる。だがこの古き神の機嫌を損ねるのも恐く、結局何も言わなかった。だが、あまり量が過ぎるようなら一言いわなくてはならないだろう。
内心、そんな事を考えていた蔵人を、バステト神は何やら意味ありげな目で見つめた。うずくまった猫が薄目をあけて獲物を品定めするような目だ。そして出し抜けにこういった。
「この遊びはこれだけで十分に楽しいが……もうすこし楽しめるように工夫をしてみぬかの?」
「工夫ですか」
「次の勝負は賭けをしようか」
「賭け……」
「吾にまた勝てば、汝にいいものやろう」
「はぁ……いいものって何です」
「んふふふふ。秘密じゃ」
「あ、はい……しかし、こちらは負けてもこれといって何も差し上げられるものなどございませんが……」
「そのようなことはあるまい。人は皆一つは価値あるものを持っておる」
そこでバステト神はにんまりと笑みを浮かべた。
「汝には心の臓を貰おうか」
何気ない様子で発声された一言に、蔵人は凍り付いた。
改めて目の前の少女の姿をした神をまじまじと見つめる。
相変わらず、獲物を前にして、あえて何気ない風を装うネコ科の動物を思わせる眼差しで蔵人を見つめている。
「ちょ、ちょっと……、それは……」
「なんじゃ? いかんか?」
「えーと……」
やはり、古の神を相手取るのは、なまなかなことではない。
「心臓を取られたら僕は死んでしまうのですが……」
「死は単なる始まりに過ぎぬ。現世こそ仮の世界ぞ。汝の属する世界は永遠の天のナイルの水面に映るかげのようなものじゃ。われら神こそが永遠である。吾の見立てでは汝は現世に向いておらぬようじゃ。一思いにここでかりそめの命を脱ぎ捨て、真の栄光にその魂を浴するがよい。汝の魂は吾とひとつになり、永劫を共に支配しようぞ。どうじゃ。なかなか楽しそうじゃろ?」
「……冗談ですよね?」
「吾はいつでも真剣じゃ」
そう言ってバステト神は賽を投げた。賽はボードの上を転がって、六の目を上にして止まった。バステト神はコマを六つ進めて、蔵人の顔を見た。
「ちょ、ちょっと待ってください。そんな、心臓を捧げろなんて、そんなの無理ですよ!」
「なんじゃ、嫌なのか? では勝ってみせよ」
「こんな運任せのゲームで命を賭けられませんよ!」
「おかしなことを言う奴じゃな。およそ人の生き死には全て運任せのはずじゃ。汝が今日まで毒蛇に噛まれもせず、蠍に刺されもせず生きてこられたのもその運のおかげじゃろ。それを信じてみよ」
「そんなむちゃくちゃな……」
バステト神の目が危険な光を帯びはじめた。緑色の瞳の中で、ちらちらと鬼火のような光が踊る。
「汝は吾をもてなすのが役目であろう? その役目を放棄するか? 汝が吾と遊ばぬというのなら、吾は怒って汝を殺してしまうかもしれんぞ?」
そう言いながら、バステト神は白い手を軽く閉じたり開いたりした。神の魂が、巫女の肉体にいかなる力を振るったものか、その爪がするすると伸び縮みした。剃刀のように鋭利なエッジがぎらりと光る。
ソーニャは、全然危ない事なんてないって言ってたのに。
これでは話が違うじゃないか。
しかし、今さら言ってもしかたない。
怒れるバステト神の鉤爪を避けるには、ゲームを続けるほか無いようだ。
蔵人には心臓が胸郭の中でぎゅっと縮んだように思えた。
掌に汗を感じながら蔵人は賽子を握った。
手がかすかに震えていた。
半時間後。
「にゃははははは」
けたたましい笑い声を上げながら、バステト神が蔵人の背中を叩いた。手にしたグラスからは紅の液体がこぼれ、蔵人のスーツの膝にしみ込んだ。
「いやぁ、しかし、汝強いのぅ」
「はぁ、その、恐縮です」
結局、すごろくは三回目も蔵人が勝ちを納めた。途中、なかば覚悟を決めかけたが、バステト神が連続して一の目を出すなどの幸運に恵まれた。
蔵人にはこの猫神が手加減をしているような気すらした。神は賽子を振らない、という諺もある。女神なら賽子の出目を操作するなど朝飯前ではなかろうか。心臓うんぬんの話は、どうも最初から自分を担ぐ冗談だったのでは。そう思えてくる。ともかくゲームはつつがなく終わり、蔵人の心臓は獰猛なる猫神の鉤爪を逃れることが出来たのだった。
ゲームの後、バステト神は宴会に突入することを宣言した。
浴衣の裾にも無頓着に寝台の上にあぐらをかいて、ハイペースでグラスを干し、また注ぐ。スルメやチーズ鱈といったつまみをつかんではむしゃむしゃと食べている。
「汝、あーん」
「あ、はいはい。どうぞ」
バステト神は時折思い出したように口を開けて催促する。
蔵人はその度にナイルパーチのほぐした身を食べさせていた。
この女神は箸が使えないのだ。巫女の肉体を借り、日本語を話すことは出来るというのに、蔵人にはこれはいささか不思議に思えた。
好物だという血合いのところを摘んで口に運ぶと、さても嬉しそうに咀嚼する。口の中のものを飲み込んでは紅の杯を傾ける。ほう、と大きく満足げな溜め息をつくと、まるでそうしていなくては落ちてしまうとでも言うかのように両手で頬を支えてうっとりと虚空を見つめる。
まるで天上の美味でも味わっているかのようだがバステト神にとっては久々の地上の食物なのだろう。たとえアンブロシアといえども飽きがくるのだろうか。ともかく彼女のカーが力を取り戻すために地上の食物は欠かせぬもののようだ。しばらくの間、ナイルパーチのもたらす無上の恍惚を楽しんだ後、バステト神は蔵人の方を見やりながら聞いた。
「汝も飲んでおるか? ん?」
「はい、ええと、どうも」
「酒酔いは神聖なものじゃ。過ぎて吐いても吾は咎めぬぞ」
「あ、は、はい……」
古今東西、神様というものは酒好きのようだ。しかし、お酒が飲めない蔵人は唇を湿らせる程度でごまかしていた。
「んふふー……。良い気分じゃ」
もうかなりの量を飲んでいるバステト神は暑くなってきたのか、胸元を大きく開き、ぱたぱたと手で扇いだ。白い肌が上気して、じんわりと汗が浮かんでいる。正直目の毒だ。
一秒後、妙なる光景に見とれている自分に気付き、蔵人は慌てて視線を外したが、その仕草は女神の視線にとらえられていたらしい。
潤んだ瞳に怪しい輝きが混じった。
蔵人は慌ててグラスの中身を飲むふりをして、むせた。
こぼれたワインがシャツを汚す。
「おやおや、勿体ない事を」
そういってバステト神は籠からタオルを取り出して蔵人の胸をぽんぽんと叩きはじめる。
「あ、す、すみません」
かいがいしくシャツを拭きはじめたバステト神の様子に、蔵人は驚いた。傲慢さと共にこのような優しさも兼ね備えている。あらゆる神の持つ二面性というやつだろうか。
バステト神は真剣な表情で、ほどんど蔵人の膝の上に乗るようにして入念にシャツをぽんぽんし続ける。そのわりにはシャツの染みはますます広がってゆくように見えた。
「むぅ、うまくいかんのう」
「あの、大丈夫ですよ、そんなにしていただかなくても」
「一度その着物を脱いだ方がよいかもしれぬのう」
「だ、大丈夫です、大丈夫ですから」
「ふむ、そうか?」
蔵人が固辞すると、バステト神は少しばかり不満げな顔をした。
しかし、なぜか蔵人から離れようとしない。蔵人がいぶかしげに見下ろすと、バステト神はすこしすわった眼差しでじぃっと蔵人の顔を見上げていた。
「……汝、よう見ればなかなか可愛い顔をしておるのじゃな」
「あの……えっと……」
突然の言葉に困惑する蔵人にバステト神はしなだれかかり、胸板に手を置いてなで回すようにまさぐる。
アルコールと乳香の匂いが少女の体臭と入り交じり、蔵人の鼻腔をくすぐった。知らぬうちに喉がからからに乾いていた。
「ええと……そ、そうだ、賭けの話ですが……」
蔵人は話の接ぎ穂を求めて言った。
「そうじゃった。汝に褒美を授ける約束であったのう」
少女の姿をした神は蔵人の耳に、なにげない風にそっと囁いた。
「褒美は吾じゃ」
「……はい?」
「どうやら汝は良い男のようじゃからな。今宵の伽を申し付ける。吾が生身の男を召すはさして多くあることではないゆえ、名誉に思うがよい」
「ちょ、ちょっと、待ってください……」
蔵人は突然のバステト神の言葉に慌てたが、だしぬけに細い指が腰の後ろをなで回した。ぞくぞくする感覚が背筋を駆け上る。
「ひゃあっ」
思わず声が出る。次の瞬間、バステト神が動き、蔵人の鼻先に自分の鼻をくっつけた。しばらくこすりつけるようにしてから離れ、にっこりととろけるような笑みをうかべる。
「あ、あの……」
「んふふふー」
バステト神はおもむろに蔵人の手を取って両手で包み、自らの胸元へと押し当てた。反射的に引っ込めようとした手は意外なほど強い力で引き止められる。掌に少女の高い体温が感じられた。跳ね返すような弾力もさりながら、なによりも華奢な少女の胸郭でことんことんとリズムを刻む心臓の拍動が蔵人を狼狽させた。
「な、な、何を」
全身の血と体温の半分が頭の中に殺到したようだ。
頭の中を思考と感情の破片がぐるぐると渦巻いてまともに形をなさない。こめかみの血管がどくどくと脈打ち、海馬のあたりで耳鳴りがぶんぶん、キーンと騒ぎ始める。もし脳に沸騰する機能が備わっていたならば、この時、蔵人の脳は沸騰していただろう。
そんな蔵人の様子に目を細めながら、バステト神はまるで恋人に睦言を囁くかのように言葉を続ける。
「心臓を奪うに火打石やら銅の刃を用いる輩の居ることは周知のとおりじゃな。しかし吾ほどの徳高く尊き愛の神なれば、そのような無粋な外科的手段を持ちいぬでもよいのじゃ」
蔵人の耳元をバステト神の言葉が滑るように流れて行く。
ソーニャの心臓の上に置かれた蔵人の指先を割って、ほっそりとした指が絡み付いてくる。
ぐるぐると回る頭の中で蔵人は考えた。
この人は、いったいどういうつもりなのだろうか。たちの悪いからかいの対象にされているのだろうか。むしろ、なにかの冗談なら良いのだが……。
蔵人はバステト神の顔をうかがった。
ほんのりと頬を赤らめ、眉尻は下がっている。潤んだような大きな瞳が上目遣いに蔵人を見つめる。
どうしよう。
蔵人の顔をよぎる不安を見て取ったのか、バステト神が優しく言った。
「なんじゃ、もしや汝、その歳でまだなのか? 平気じゃ。怖がらずとも良い。吾がやさしく愛の技巧を味あわせてやろうの? 並の人間では三たび生まれ変わっても味わえぬ法悦じゃ」
「えっと、その……うわぁっ」
女神は蔵人の肩を掴み、寝台に押し倒した。背中の下でお菓子の包みが潰れる。身体の上にのしかかった少女の身体は熱く、燃えるようだ。シャツと薄衣越しにむっちりと柔らかな乳房が押し当てられる。
「ちょ、ちょっと、ちょっと待ってください!」
蔵人はバステト神を必死で押しとどめようとするが、猫神の力は驚くほど強い。それに、ソーニャの身体を乱暴に扱うわけにもいかない。
ピッと音がして鋭利な爪でシャツが裂かれる。
カチャカチャとベルトの金具がいじられる音に、蔵人は血相を変えてバステト神の両の手首を掴んだ。
「だ、だめですって」
バステト神は聞く耳ももたず、ベルトをバラバラに分解してしまった。
「ちょ、ちょっと、駄目です、本当に駄目です!」
「なんじゃな? 吾が気持ちよくしてやると言っておるに」
悲鳴のような蔵人の声に、ようやくバステト神が返事をした。
遊びの途中で玩具をとり上げられた子供のようにむくれた顔をしている。
蔵人はズボンを出来る範囲で引っ張り上げながら言った。
「その、ええと……最初からよろしいですか」
「何がじゃ」
「今、何をなさろうとしていらっしゃいましたか」
「なんじゃ、女の口にそのようなことを言わせたいのか?」
「いえ、そうではなくてですね」
「わかっておろう。吾と汝でみとのまぐわいをするのじゃ」
「こ、困ります!」
「なんじゃと?」
バステト神は本当に困惑したかのように目を瞬かせた。
「吾も長の年月を過ごして来たが、そのようなことを言う男は初めてじゃ。いったい何が不満なのじゃ」
「バステト様は今、この、仮の肉体に憑依されているわけですが……」
「吾が自ら地上に降りるのはかなわぬゆえの」
「その、この娘の気持ちが……この身体は、ソーニャの身体なのですから……」
「気持ちじゃと?」
バステト神は腕を組んで胸をそらした。
「わが巫女は吾を信じて吾に全てを任せておるのじゃ。そのようなこと、無用な心配じゃ」
「いや、しかし、こればっかりは」
「のう、この娘はわざわざ汝を選んでこの場に連れて来ておるのじゃ。吾がここまで興に乗るは珍しきことゆえ、必ず抱かれるとは思うておらぬでも、汝に抱かれてもよいとは思うておるはずじゃ。そうでなくては汝がここに居るはずがなかろう。そのように気を回しては、かえって女に恥をかかせることになるぞ。ささ、男ならはよう心を決めよ」
「そんな……」
そんなことがあるだろうか。
ソーニャが、そんな風に思っているなど。
蔵人は自問した。そうだとしたら、どうなのだ。
心臓が、ばくばくと激しく拍動する。胸が苦しい。軽く口をつけただけのワインのせいでもあるまいが、頭の中に霞みがかかったようだ。
目の前の娘を見る。
薄闇の中、ぼんやりと浮かび上がる彼女の肌は、月明かりに照らされる百合の花のようだ。燭の光を反射する明るい緑の瞳は、普段にも増して猫のように見える。ふっくらとした頬が上気しているのは、ワインのせいばかりではないだろう。女神は横目で蔵人の方を見やりながら、気のないふうを装って鬢の毛を指先でくるくるといじりながら、じれたように蔵人の次の言葉を待っている。
ごくり、と蔵人は生唾を飲み込んだ。
据え膳食わぬはなんとやらという男にとって都合の良い文言が適用される状況になるとは一瞬前まで想像すらしていなかった。
どうしよう……。
そのとき、何かが蔵人の潜在意識に囁いた。
しとやかげに臥せられた瞳にうかぶ色か。尖らせた唇からこぼれるかすかな溜め息とも呼べない吐息の音か。あるいは、脚を組み替えたさりげない仕草にほんのすこし含まれた意図のようなものか。それが何なのか実際のところ蔵人にもわからなかった。
しかし、自分の中のなにかが、これはちがうと言っていることはわかった。
姿はソーニャでも、やはり目の前に居るこのひとはバステト神なのだ。
なかば暴れはじめていた衝動が理性の手綱に縛められ、従順さを取り戻した。そして、そのことを良しとしている自分をちょっとだけ褒めてやりたい。
やはり、こういうのは当人の合意がなくてはいけない。
「あの——」
「待て」
蔵人が言いかけたところで、バステト神が遮った。
「何も言うでない」
そう言いながら、しぃーっ、と猫の女神は蔵人の唇に人差し指を当てた。
蔵人を真正面から見つめながら、バステト神は続けた。
「言っておくがの、吾は今までこれと決めた男に袖にされたことはないのじゃ」
蔵人は口を開こうとしたが、何かしらの魔法によるものか、上下の唇がくっついてしまった。
「よう考えれば巫女の気持ちも汝の気持ちも吾には何の関係もないことじゃ。吾はしたいようにするのじゃ!」
その瞳は爛々と燃え、鼻息は荒い。
次の瞬間、バステト神は蔵人に飛びついた。
顎に両の手があてがわれ、唇に濡れたものが押し付けられる。
「む、ぐぅ……」
貪るように熱烈な接吻を受けて、蔵人は呻いた。少女の唇は熱く、とろけるようだ。舌が唇を割るように差し込まれ、前歯の間に潜り込んでくる。独立した生き物のようなそれの感触に蔵人が思わず舌を引っ込めると、どこまでも追いかけて来て絡み付いてくる。
猫神の手管に蔵人は懸命に抵抗しようとしたが、腰が砕けていた。甘い震えが全身を侵し、血液に混じって血管を流れた。
濃厚なキスの合間にも、バステト神の鉤爪はスーツのズボンを引き裂きながら侵入し、太腿を撫で、内股をゆっくりと這い登る。ひんやりとした掌が軽く揉むように腿の筋肉を押す。鋭い爪の先が戯れるように皮膚を引っ掻く度に、蔵人は思わず呻き声を上げた。その声を聞いたバステト神が喉の奥でくっくっと笑った。
窒息する、と思ったところで、口腔から舌が引き抜かれ、蔵人は大きく息を吸った。口のまわりも、口の中も、少女の唾液で濡れているように思えた。
バステト神は袖で口を拭うと、息をついて勝ち誇ったような獰猛な笑みを浮かべた。
「ふっふっふ。どうじゃ!」
唇がひりひりする。頭の中では嵐が吹き荒れ、押し寄せた桃色の波に思考のすべてを鮮やかな単色で塗りつぶされた。暴力的なまでに濃厚な接吻に蔵人の魂は蹂躙されていた。ふと気付けば目の端が涙で濡れている。
仰向けになったまま放心している蔵人の上に、バステト神は四つん這いになる。蔵人の目の前で、金の飾り帯に据えられた宝石のスカラベがゆらゆらと揺れた。その向こうでは、たっぷりとした質量の柔らかそうな半球体が、少女の荒い息づかいにあわせてふよふよと揺れる。ソーニャによる着付けはすでに崩れきり、浴衣の前は大きく開いている。ウェストを締める帯だけがかろうじて浴衣の最終的な崩壊に対して抵抗を続けていた。
「吾の愛の技巧に屈するは不名誉ではないぞよ。人の身で神に抗うはナイルの流れを押しとどめようとするに似て無駄な試みじゃ。……などと申してみたところで、もう一つのことしか考えられぬじゃろうの?」
視界の奥で白い太腿がちらりと見える。蔵人の身体にまたがっているため、開き気味になった脚が、浴衣の布地を押し広げ、合わせ目は、股下数センチまで達していた。バステト神は膝をずらしながらにじり寄り、浴衣の合わせ目はますます切れ込みを深くした。
霞のかかった頭のまま、バステト神が浴衣の帯を緩め始めるのを見た。
このままではいけない。
打開策を見つけないと……最後までされてしまう。
そんなことになれば、きっと後悔することになる。
やみくもに手を伸ばし、指先に触れるものを掴んだ。
バステト神の肩越しに見たそれは、フルーツジュースのボトルだった。
溺れるものは藁をもつかむ、というがこれは……。
まさか、この娘の頭を殴るわけにもいかない。
バステト神は今や前を大きく開き、蔵人の胸に自らの胸を押し当ててくる。
むっちりとした圧力と、その中央にある小さなつぼみが今やはっきりと感じられた。
もはやこれまでか。
そんな時、蔵人は手にしたボトルのパッケージに描かれた緑の楕円にはたと気付いた。かすかな希望が蔵人の胸をよぎった。そして蔵人は、自らの思いつきが功を奏することを猫神以外の全ての神に祈った。
蔵人は素早く左手をバステト神の後ろに回してボトルのキャップを掴んだ。
ちょうど抱きかかえられる姿勢になった女神には、蔵人が突然、おのれの欲望に素直になったように思え、満足げに喉を鳴らして蔵人の首筋に頬を擦り寄せた。
その女神の頭上から、緑のどろりとした液体が降り注いだ。
バステト神はにゃっと小さく悲鳴を上げ、怒りの声を発した。
「ぶ、無礼な! 汝、何を……ふにゃあっ?」
次の瞬間、バステト神の怒声は雲散し、甘い呻きが取って代わった。
爪先から頭の先までぶるり、と大きな震えが走り、先ほどまで力強く蔵人を押さえつけていた猫神の力が四肢から消え去り、ぐったりと蔵人の上にしなだれかかった。
「汝……にゃ、何をしおった……!」
舌をもつらせ、しどけなくあけた口からは荒い息を漏らし、全身を苛む甘美な懊悩に眉根を寄せながら耐えつつも、気丈に蔵人を睨みつけるまなじりには涙の粒が膨らんではこぼれた。
「吾に……この吾に、盛りおったのか……!」
ぐっしょりと顔を濡らし、唇を伝っておとがいからこぼれる液体を袖で拭いながらバステト神はキッと蔵人を睨みつけようとしたが、その瞳は焦点を結ばず、ぼんやりとした悩まし気な視線をおくるばかりだ。
「そんな、盛っただなんて……ただの、キウイのジュースですよ」
蔵人はバステト神の非難にそう答えながら、その効き目に舌を巻いた。
サルナシ科の植物であるマタタビの成分が、ネコ科の生物に強い恍惚をもたらすことはよく知られている。
キウイもサルナシ科の植物であるため、バステト神にも覿面に効果を発揮した。依り童であるソーニャはヒト科の生物なので、効かない恐れもあったが、どうやらそれは杞憂のようだった。
しかし、まさか、これほどまでとは。
「うなぁ、う、にゃぁ……にゃおう……」
バステト神はすっかり正体を失い、ゴロゴロニャンと喉を鳴らし始める。
蔵人はバステト神の身体の下から這い出すと大きな溜め息をついた。膝の上にうずくまったバステト神は少しの間キウイジュースの染み付いた浴衣の裾を歯牙んでいたが、やがてすぅすぅと規則正しい息を立てはじめた。
「やれやれ、だ」
ようやく、危機を脱したと思えた蔵人は、あえて口に出してそう言った。
一張羅はボロボロだし、体中の皮膚にも細かい引っ掻き傷が出来て血がにじんでいる。しかしどれも浅く、長く残るようなことはないだろう。
膝の上で寝息を立てる少女は、半分以上裸の状態で、高価な宝飾品と、素敵な浴衣をキウイジュースまみれにしているが、見たところ怪我はないようだ。
もし仮に、あのままバステト神に押し切られていたら。彼女に、怪我をさせてしてしまったかもしれない。
蔵人の脳裏を漠然とそのような思考がよぎり……蔵人は赤面した。
馬鹿め。何を考えている。
蔵人は眠る少女に何かかけるものをと周囲を見渡したが、結局、脱いだ上着を使った。少女の寝顔はあどけなく、先ほどまでの、淫蕩な女神の面影を残すものは何も無い。憑物の落ちたような、と言ってしまえばそのまますぎるだろうか。そんなことを考えていると、蔵人は、ふと音とも振動ともいえないような感触が、足下からかすかに伝わって来るのに気付いた。
最初は、気のせいかとも思えた。
羽虫のうなりほどの震えが、ほんの少しずつ、しだいと強度を増して高まってくる。蔵人が困惑しているうちに、振動は食器を鳴らしはじめ、ワイングラスに同心円状の波を起こしはじめた。
不意に尻の下をすくわれるような気がして、蔵人はぎょっとした。腰掛けた寝台の脚が、砂の中へと沈みこんでゆく。
グラスが倒れ、食器が砂の上へと落下してゆく。
慌てて眠れる少女を抱え上げ、寝台から離れた場所へ逃れる。振り返ると、漏斗状に沈む砂に、寝台が呑まれて行くところだった。
まるで、流砂のようだ。
みるみるうちに砂の漏斗は直径を広げ、蔵人はあとじさった。脚がぬるい水を踏んで、波打ち際まで来ていたことに気付いた。
これは、いったい。
恐怖と困惑の入り交じった感情で、蔵人は穴の底に目を凝らした。
そこには、漆黒が口を開けていた。
今やクレーターの底は抜け、ぽっかりとあいた空洞が、周囲の砂を飲み込んで、無限の深淵へと落としこんでいた。
蔵人は慌てて踵を返すと、おぼろげに覚えている元来た階段の方角へ走り出した。ざぶざぶと進む蔵人の行く手で、水面に浮かぶ蓮の花がいっせいにその花弁を散らした。
ぐらぐらと足下が揺れる。
足下の水面に小さな水柱が立ち、頭に砂がパラパラとふりかかった。
遠くで大きな水音がして、見れば白い波頭に巨大な岩塊が沈むところだった。闇の天井を仰ぐと、虚空から次々と大小の岩石が落下してくるのが見える。大空洞が崩れはじめている。蔵人は少女の頭を手でかばいながら浅瀬を走った。前方から風が吹き寄せ、頬を撫でてゆく。
足下の水が、空洞の中心部へと穏やかに流れはじめる。
振り返ると、意外なほど近くまでその淵を広げてきたクレーターが、水を飲み込みながら迫っていた。
水の流れに逆らい、砂から交互に足を引き抜き進む。
気ばかりが急き、身体が自分のものではないように感じられる。肺は痛み、心臓は早鐘のように胸郭の内側を叩く。
やっとの思いで階段までたどり着くと、蔵人は少女の身体を抱え直す一瞬だけ立ち止まり、階段を駆け上がった。風が前方から吹き付け、まるで意思を持つように蔵人の脚にまとわりついて背後の闇へと押しやろうとする。
額ににじんだ汗は次の瞬間には風に乾かされ、吹きまくられた前髪が目の中に入る。
轟々と吠え猛る風の中で、蔵人は不意に心底からの怖気を感じ、肩越しに振り返り、次の瞬間、足は虚空を踏みぬき、その身を空中へと踊らせた。
落とし穴に落ちた人のように、蔵人は純然たる驚きで目を見開いたまま無限の深淵へと飲み込まれた。眼前には空中に浮かんだ階段が蚕食されてゆく光景を見たが、それもすぐに遥か上空へと消えた。
風が消え、音が消え、方向感覚が失われた。
悲鳴を上げたように思えたが、耳にはその声も届かなかった。
落下の感覚だけが強く、他の五感を麻痺させ、魂を凍えさせる。
光を照りかえすことのない無限の空間を落ちながら、蔵人は腕の中の少女を強く抱きしめた。溺者が浮き輪にしがみつくように、少女の感触に自らの正気をつなぎ止めていた。
数分の間とも、永劫の間とも思えた時間の後。
目を開けているのか、閉じているのか、それさえもわからないような漆黒の世界に、瞬くような輝きが差し込んだ。遥か彼方に小さな緑色のきらめきが燃え上がると、小さな星が生まれ、ゆっくりとその光を増しはじめた。蔵人が注視するうちに、緑の星は二つにわかれ、ぎらぎらと、双子の明けの明星のように輝きながら大きくなった。
耳を聾するばかりの声が響き渡った。
長く、尾を引くような、低く太い雄猫の声だった。四つ足が闇を踏む音が聞こえた。双子星は一対の猫の瞳となり、朦朧とした影をしたがえながら飛び込んできた。次の瞬間、蔵人は襟首を掴まれて流星の速度で引きずられた。耳元では低く遠雷のような音が鳴り、襟元に吹き寄せる温かく湿った風はまごうことなきバニラの香りを含んでいた。
呆然としたまま、蔵人は首を捻り、この存在が自分達を運んでゆく方向を見た。遥か彼方に赤い光点を見たように思った。その円は瞬き一つの間に燃え盛る焔の巨大な輪となった。二人を連れた疾風は、踊るように輪をくぐり抜けた。直後、凍てつく暴風が吹き付ける中、いつ終わるとも知れぬ凄まじい旋回と上昇、降下の連続に身をもみくちゃにされながらも、蔵人は少女の身体を抱きしめ続けた。気を失っても離さなかった。
顔に当たる陽光のぬくもりと、尻に感じる冷たい床と、膝の上の温かい重みと、雀の鳴き声とをほぼ同時に意識して、蔵人は目を開けた。磨りガラスから差し込む朝日から目をかばいながら、自分が自宅の台所の、半地下式の保存庫の中に居ることに気付いた。衣服はボロボロ、体中引っ掻き傷だらけ。節々が痛み、足は痺れきっている。
膝の上には、蔵人と抱き合うような姿勢でソーニャが眠っている。
キウイとアルコールの匂いを発散させながら、すうすうと安らかな寝息を立てている。黄金の髪と装身具が朝日を浴びて燃えるように輝く。
目の高さにある台所の床には、本来、蔵人が座っているべき場所に収まっているはずの梅干しの瓶や味噌の瓶が乱雑に転がり、蓋があいて中身をこぼしているものもある。
悪い夢から覚めたような、狐につままれたような気分の蔵人の前に、トタトタと足音を鳴らして大きな猫が歩いてくる。ふわふわとした体毛が日差しを横切って、蔵人の目の前にやって来る。
「なおー」
一鳴きして踵を返し、ふわふわとした尻尾を振りながら冷蔵庫の前まで歩いて行く。振り返り、尻尾を振って期待のこもった目で見つめてくる。
「ホイエル、お前……」
「なおう」
蔵人は昨夜の宇宙的恐怖の締めくくりに起きた出来事の細部がほのめかす事実とこの猫の態度との間にぼんやりとした関連性を見いだし、この猫の言わんとするところに思い当たった。彼は当然もらえるはずのご褒美をねだっているのだ。
冷蔵庫の下の方をしきりに引っ掻き、鳴き声をあげる。アイスクリームを出してほしいらしい。
「……ちょっと待ってくれないかな。まず君のご主人を起こさないと、僕はこの穴蔵から出られないんだよ」
蔵人はそう言いながら膝の上で眠るソーニャの肩に手を置いて揺さぶった。
ソーニャはむにゃむにゃと口の中で何事かを呟いたが、またすぐに寝息を立てはじめる。アイスクリームを何より好む大猫は、不実な配膳係を責めるようにさらに大きな声で鳴きはじめ、憤懣やるかたないといった様子でその場でぐるぐると回り始めた。
やれやれ、まったく。
「……もう、二度とバステト神のお祭りになんか参加しないぞ」
蔵人はそう言って嘆息した。
窓の外からジワジワという蝉の鳴き声が聞こえてきた。太陽は今日から本格的に夏をはじめることを決意したらしい。窓からの日光はぎらぎらと照りつけ、台所から朝の涼しさを追い払いはじめた。はやくも蔵人の額には汗がにじんできた。
今日は暑くなりそうだ。
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