5-3【歌を教えて何が悪い?】

 イリアス・アンテモッサ・アズーロの件は、外務大臣の預かるところとなった。

 彼女は今後、ポリュヒュムニアの属するムーサ地方内でのみ自由が保障される。

 これは名目上の保護であり、身の安全は国王の勅命を受けたムーサ地方領主が、武力行使も含めてこれを保証する。


 地方境界を超えた移動には大きな制限が設けられ、特に国外へ向かう際は、国の絶対管理の下であることを義務付けられた。

 それが意味するものは、彼女が国境を出るときは、聖域においてアテナイ王国とセイレーンの団体との交渉を行うということだ。

 つまり、今後アテナイ王国は国家として、制海協定を段階的に破棄することになるだろう。


 一つの国家が制海協定を破棄するという事態は、当然ながら前例が存在しない。

 果たしてそれがどのような結末に向かうのか。誰にも想像できないだろう。



                  ●



 夏の日差しが、ポリュヒュムニアの町に降り注ぐ。

 レイトンとイリアスは、音楽教室前の建物で日陰になっている堤防の上に腰かけ、海を眺めていた。

 石積みの堤防は通り側からは腰ほどの高さしかないが、海側は大人二人分ほどの高さがあり、下には小さな砂浜が出来ている。


 外出の為に必要だった外套は、もう羽織る必要もない。

 イリアスは自らの身長ほどはある翼を、海に向けて大きく広げてみせた。


「かなり大きいんだね、その翼」

「はい。だから隠すの大変だったんですけど」


 もう必要ありませんねと、はにかむイリアス。


「でも、むやみに見せびらかすのも良くないのでしょうか。町の人の中にも私達を怖がるような……」


 その懸念を無視することは出来ない。

 人口二千人ほどのポリュヒュムニアでは、イリアスの人柄を知らない者も多い。

 彼女を預かるという選択をした以上、まずは町の人々に、イリアスの存在をどう認知してもらおうかを考えていかなければならない。


 この先、あらゆる話し合いの場を設ける必要があるだろう。

 レイトンが思案を巡らせていたその時、背後からの視線を感じる。

 振り返ると、肩まで伸ばした癖っ毛が特徴の少女がイリアスの翼を見つめていた。


「でっかいはねだ! ほんとだったんだ!」


 臆する様子もなく言い放つ少女。

 そのような反応が予想外だったのか、イリアスも目を丸くしている。


「ねぇねぇ、お空とべる?」

「えっ? はい、飛べますけど」

「へぇー。いいなぁー。へぇーっ」


 困り気味のイリアスをよそに、少女が羨ましそうにその翼を眺めている。

 そんな少女の様子に興味を持ったのか、堤防を降りたイリアスが少女の前に立つ。


「あたしねー、お空とんでみたいな、おねえちゃん、乗せてー?」

「それは……人間さんを乗せて飛ぶのは危ないから。ごめんなさい」

「そっかー。お空とびたいなぁ」


 少女を背中に乗せ空を飛ぶイリアスを想像し、何とも言えない微笑ましさを感じてしまうレイトン。

 しかし空を飛びたいというのは、多くの人間にとっての願いだ。

 その方法を模索し続ける学者がいるとも聞く。


「人間さんはすごい方がいっぱいいますから。きっと空を飛ぶ方法だって見つけられますよっ」

「そうかなぁ。んー……」


 少女がイリアスの言葉に首をかしげているところで、遠くから彼女を呼ぶ女性の声が聞こえる。この子の母親だろう。

 少女はその声に「はーい」と返事を返すと、イリアスに手を振ってその場から立ち去る。


「いつか人間も空を飛べる、か」


 そんな日が来るのか。一体どんな方法で空を飛ぶことになるのか。

 レイトンには全く想像できない世界ではある。

 しかし、想像できない世界を追い求めているのは、自分も同じだ。


「レイトンさんも、空を飛んでみたいんですか?」


 少女の後姿を見送っていたイリアスが訪ねてくる。

 純粋で真っ直ぐな、金色の瞳がこちらを見上げていた。


「……正直、ちょっと怖い」


 少し照れくささを感じつつ、レイトンは本音を漏らす。

 当然だろう、崖の縁から下を覗くだけでも人間は恐怖心を抱く。

 足場の存在しない空中では、落ちるイメージしか湧いてこない。


 真顔のレイトンを前にして、イリアスは困ったように笑う。


「それなら、レイトンさんが空を飛ぶときは」


 イリアスが隣に立ち、レイトンの顔を覗き込む。

 その顔は、心から楽しそうに思える。本当に明るい笑顔だった。


「私も、その隣を飛んでついて行きますね。約束です」


 まだ飛ぶ方法すら存在していないのに、イリアスはその未来が確定したものかのように語る。

 人間が一日で空を飛べるようになるわけがない。

 五年、十年、それ以上かかることだって考えられる。


 それならば、いつか人間が飛べる日までずっと一緒にいればいい。

 いつ来るか分からないのならば、来るまで一緒に待てばいい。

 空を飛ぶ未来は分からずとも、そばに居続ける未来については少しずつ見えてきているのだから。


 イリアスの笑顔を見て、ふとレイトンはそんなことを思う。

 きっとそれは、彼女も同じ思いなのではないだろうか。


「そっか」


 イリアスが忘れた歌を思い出すまで……思い出したその先まで。

 いつまでも共に暮らせる。そんな未来が近付く気配を感じる。

 ならば人間が空を飛ぶ未来だって、訪れるかもしれないではないか。


「それなら、空を飛んでみるのも素敵かも知れないな」


 希望ばかり抱けるわけではないけれど、今くらいはそんな未来に思いを馳せてみたっていい。


 この町の暮らしは、嘘などではないのだから。

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歌を忘れたセイレーンに、歌を教えて何が悪い? 蕪菁 @acetone_0310

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