No.2 狼は月に吠える

風白狼

狼は月に吠える

 走っている。

 逃げるため、守るため、食べるため、殺すため。

 そのために走っている。


 俺達は雪夜の森で数頭の鹿をっていた。

 俺達の群れは六匹、俺は狼の筆頭だ。俺の合図で群れは走り、狩りは動く。


 ばう、ばう、ばうと三度吠える。

 それを合図に若い二匹の雄が左右に割れ、姿をくらました。

 この走る先は、先日人間たちが木を切り倒して開けた場所がある。

 そこに鹿共を誘い込み、挟み撃ちにするのだ。


 鹿の群れも疲弊してきていた。走る速度が落ち、差が詰まっている。

 しかし俺達もかなり堪えていた。

 もう数日、獲物が捕れていない。群れはかなり飢えているのだ。

 これを逃せば俺達はもうダメかも知れない。

 否が応でも気合いが入る。


 間もなくだ。

 間もなく開けた場所に出る。俺はばう!と強く吠えた。

 群れの速度は上がり、鹿を追い詰めていく。

 間もなく、間もなく――


 しかし、鹿が予想外の行動を取った。

 目的の場所に出る前に、鹿たちは四方に離散したのだ。

 散り散りになる鹿を急いで追わねばならない。


 まずい。

 あおおおう、あおおおうと、俺は二度遠吠えを上げた。

 こうなってしまえば集団の狩りは破綻だ。一頭を狩るために全力を尽くすしか無い。

 俺は鹿のうちの一番大きな個体に目星を付け、追い始めた。

 群れは俺に続いて動く。


 雪煙が毛にまとわりつく。ただでさえ足の悪い森で、疲労は溜まる一方だ。

 いつものように狩りが出来ていれば、こんなに深追いすることもないのに。

 人間が森に入るようになってから、狩りがやりにくくなった。

 やつらは鼻が利かないから、平気で俺達の縄張りを荒らしやがる。


 俺はさらに疾足で駆ける。

 群れの息が上がっていく。

 これ以上は追うな、腹が減った、狩りは失敗している。

 俺に付いていた狼たちは脱落していく。

 それでも俺は鹿を逐い、鹿を逐い、鹿を逐い駆け……結局、脚を止めた。

 鹿が丘のを行き、それを登る体力が残っていなかったからだ。


 暗い森に白い息が浮かぶ。こんな暗い森にも、月明かりは届く。

 俺はああおおおおおおうと、一際に長く声を上げた。

 それは狩りが失敗した合図だ。

 俺は臭いを辿りながら、来た道を戻る。

 俺を待つ者は誰も居ない。銘々に群れの今の拠点まで戻ったらしい。


 足取りは重い。

 もう何日も獲物にありつけていない。生まれたばかりの狼が三匹、既に弱っている。

 このまま冬を越すのは厳しいかも知れない。

 群れが弱って行くのは、群れの頭の俺のせいだ。

 狼は狼の肉を食わない。血も飲まない。

 俺はあいつらに捧げられるものが何も無い。


 群れに戻ると、誰も、俺に一瞥もくれなかった。

 誰も彼も怒る気力さえない。

 俺は皆から少し離れた物陰まで歩き、地面に伏した。


 それからしばらくしてからである。

 二手に分かれていた二匹の狼が戻ってきた。

 彼らは兄弟の狼である。

 兄弟の狼はなんと、一匹の子鹿を仕留めていた。それから冬眠していたアナグマを一匹。

 血の臭いに、群れは色めき立った。


 兄弟はかしらの俺の前に、獲物を置いた。

 俺は死んだ子鹿を引きずり、群れの母狼たちの前に引きずり、差し出す。

 そしてしゃうしゃうと声を出し、母狼にそれを喰うように促す。

 母狼たちは遠慮がちに子鹿の腹の肉に噛みついた。


 他の狼は母狼たちが少し喰ったのを見るや、我先にと肉に飛びついた。

 凍った鼻に血生臭いかおりが届く。

 俺は兄弟狼に近づくと、彼らの身体に、自らの身体を擦りつけた。

 ありがとう、これで子狼は助かるかもしれない。

 兄弟狼は返事をするようにううと唸ってから、皆が獲物を喰らうのに参加していった。


 俺はそれを喰わなかった。

 とてもじゃないが、それを喰うにあたいしないと思ったからだ。

 俺は皆が寝静まったあと独りで森に入り、僅かな木の実と、鼠を数匹喰らった。


 兄弟狼に狩りを教えたのは俺だった。

 小さい頃はいかにも子分といった調子で、俺のあとをひょこひょこと付いて回っていた。

 今回は、その彼らに助けられたのだ。

 俺はそれにありがたさと、そして自らが衰えていることを感じずにはいられなかった。

 しかしそれでも、まだ喰い物は足りていない。

 俺はまだ、走らなければならない。


 しかし次の日、再び狩りに出ようとすると、兄弟狼は群れにいなかった。

 どこにいったのかは分からない。

 もしかしたら俺に愛想を尽かして出ていったのかもしれない。

 走らなければ、走らなければ。

 しかし俺は疲労と空腹で思うように走れず、結局その日も狩りに失敗した。


 兄弟狼が戻ってきたのは、夜になってからだった。

 驚くことに今度は身体の大きな牡鹿を仕留め、戻ってきたのだ。

 群れの全員が喰えるだけの獲物を、わざわざ苦労して、群れの元まで運んできた。

 そして兄弟狼は昨晩と同じように、俺の目の前に獲物を置いた。

 それは俺がかしらだからだ。


 俺は昨晩のようにはしなかった。

 すっと後ろ足で身体を避け、兄弟狼に道を譲った。

 獲物を母狼に届けろ、それはもうお前たちの仕事だ。

 うるうると俺は喉を鳴らす。

 彼らは戸惑っていたが、しかし、周りの狼はそれがどういうことなのか、すぐに理解した。


 ばうう!

 一匹の狼が俺に吠え掛かった。

 ばうう! ばうう!

 他の狼たちも、続けざまに俺に吠える。

 狩りの出来ない頭はいらない。

 お前は頭を降りろ。

 次は俺が頭だ。

 いや、俺が頭だ。

 ばうう、ばうう、ばうう!


 兄弟狼は場の雰囲気に萎縮し、物陰で小さくなっていた。

 皆、喰うことを一瞬忘れていた。

 俺はそれを制するようにがうううっ!と大きく吠えた。

 その大きな声に、皆が一様に黙る。

 お前らは頭の器じゃない。

 喰うことを考えられないお前らは、結局誰かを殺してしまう。

 俺は、喰うことだけは忘れなかった。

 兄弟狼も、それを忘れなかったのだ。


 俺は兄弟狼に近づき、彼らの顔をひとつ、ふたつ、甘く噛んだ。

 くん、と二人は喉を鳴らす。

 二人は獲物を、母狼たちの元に運んでいく。

 俺はその背を見守った。

 他の狼たちはぐるるぐるると唸っている。

 餌を待ち、俺にある種の怒りを覚え、威嚇するように唸る。


 俺はばふばふと、息を吹かすように吠えた。

 そして俺は群れの真ん中をゆっくりと、割るように歩く。

 このようになっては、群れはもう機能しない。

 俺がいては、この群れは結束することは、、もはやない。

 俺は群れを去らなくてはならないだろう。


 あの兄弟が新しい頭として認められるかは、まだ分からない。

 だが彼らがいれば、しばらく喰い物には困らないはずだ。

 俺は喰い物を用意できなかった。

 彼らはそこに喰い物を届けた、それだけだ。

 それだけが、重要なことなのだ。


 雪の森に月が出ている。

 群れから離れてしばらく歩いていると、背後から追いかけてくる音がした。

 聞き慣れた足音。

 それは、兄弟狼たちのものだった。


 兄弟狼は俺の姿を見ると、駆け寄ってきた。

 そして身体を擦り付けてくる。

 まるでそれは、かつて狩りを教えたときのじゃれつきのようであった。

 冷えた身体が、少し温まったような気がする。


 俺は「がう」と言った。

 兄弟狼は、「ぐるぐる」と言って、俺を真っ直ぐに見る。

 俺達の間に、木々から漏れた月明かりが刺さっている。


「あおおーーーーーーう」と俺は遠吠えを上げた。

「あおおーーーーーーう」と、兄弟狼もそれに続いた。


 二度、三度、三匹の遠吠えが森を揺らす。

 風が吹き、雲が流れ、月が隠れる。


 やがて暗闇になった森で、俺は兄弟狼に背を向け、走り出した。

 もう、彼らは俺を追っては来ない。


 俺は走っていた。

 逃げるため、守るため、食べるため、殺すため。

 そのために走っていた。

 そして、これからも俺は走り続けなければならないだろう。


 まとわりつく雪を払うこともせず、俺は夜の森を走り続けた。

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