背徳を浴びる鳥のうた

増田朋美

背徳を浴びる鳥のうた

その日は、台風がやってくると言われていたが、台風は予想進路から大幅に外れてしまい、日本には大した影響はなかった。それはそれで良かったというべきなのかもしれないけれど、なんだか力が抜けてしまうなと思わないわけでもなかった。

その日も、由紀子が製鉄所に来訪していて、咳き込んでいる水穂さんの世話をしていた。由紀子は咳き込んでいる水穂さんの口元にちり紙を当てて、内容物を拭き取ったり、背中を叩いて吐き出しやすくしてやっているのであるが、水穂さんは、咳き込むのをやめなかった。由紀子は、大丈夫、苦しい?と、声をかけてやるのであるが、水穂さんは咳き込んでしまうばかりであった。

「もう、ご飯を食べないからそういうことになるんだ。ご飯くらいちゃんと食べろ。食べないから、そうやって、疲れちまうんだ。今日の昼ごはんだって、たくあん一切れだったでしょ。それじゃあ体力つかないの。」

杉ちゃんに言われて、水穂さんは、咳をしながら申し訳ありませんというのであるが、それもなんだか弱々しくて、本気で言っているのか不詳であった。由紀子はそんな水穂さんを心配そうに見るのであるが、それと同時に、外出していたこの製鉄所という建物の、管理人をしているジョチさん事、曾我正輝さんが、四畳半にやってきた。製鉄所と言っても、別に鉄を作るところではない。ただ、居場所を失った女性たちが、勉強したり仕事をしたりするための場所であった。製鉄所という名前にしたのは、鉄は熱いうちに叩けという言葉があるように、早く居場所を見つけてほしいという意味を込めたのである。

「水穂さんまたですか。もういい加減にしてくださいよ。薬だってちゃんと上げているのになんでこうなってしまうんでしょうね。まあ、たしかに漢方薬だけですから、回復は難しいでしょうけど。」

ジョチさんがそう言うと、

「まあたくあん一切れしか食べてないんだったら、こうなっても仕方ないか。」

杉ちゃんもでかい声で言った。それと同時に水穂さんが立て続けに咳き込んで、口元から赤い朱肉のような色の液体が噴出した。急いで由紀子が、それを手ぬぐいで拭き取った。杉ちゃんが同時に、だめだこりゃと言った。それと同時に、

「こ、こ、こ、こ、こです。」

という特徴的な口調で話す声が聞こえてきた。

「ああ、あの話し方は、五郎さんだ。」

杉ちゃんがすぐいった。

「ちょっと、応答してきます。」

ジョチさんがそう言って立ち上がり、玄関先に行くと、

「こ、こ、こ、こ、こん、に、ちは。あ、り、も、りで、す。ちゅ、う、もん、され、た、ざぶ、とん、を、お届け、し、まし、た。」

有森五郎さんが座布団を一枚持ってそこにいたのだった。

「ああ、五郎さん。そういえば、座布団お願いしましたね。お代は代引ですか?」

ジョチさんがそう言うと、

「は、い、ふ、りこ、みで、けっこ、う、です。あ、と、で、ふり、こ、みよう、し、をゆう、そう、し、ます。」

と五郎さんは答えた。

「わかりました。じゃあとりあえず今日は品物だけを届けていただいて、それで、支払いは、後日振込用紙を郵送するということですね。それなら、なるべく早くお送りください。」

ジョチさんがそう言うと、五郎さんは、

「お、ね、がい、します。それか、ら、みず、ほ、さんは、ござい、た、く、でしょう、か。」

と言った。

「はあ、水穂さんならいますけど、それがどうしたんですか?一体水穂さんに何の用があるのでしょう?」

ジョチさんがそうきくと、

「は、い。この、ひ、と、に、れ、す、ん、して、あげ、て、ほしい、んです。」

と、五郎さんは不明瞭な発音で答えた。それが、この人にレッスンしてあげてくれと頼んでいるのだと理解するのに、ジョチさんは数秒かかった。

「この人とは誰のことなんですか。あいにく水穂さんは体長が悪く、レッスンをしてあげられるような状態ではございません。また後日いらしてください。」

ジョチさんがそう言うと、

「い、え、きょ、う、を、のが、し、たら、もう、こ、ら、れない、か、もしれない、んです。だ、か、ら、い、ちど、だけ、き、い、て、やっ、ててて、くれま、せんか。」

と五郎さんは言った。

「そうかも知れないけど、水穂さんの事を考えてください。」

ジョチさんはそう言ったが、

「い、ち、ど、だ、けで、いい、ん、です。かれ、の、えん、そ、う、を、聞いて、く、ださい。お、ね、が、い、し、ます。」

五郎さんはそういった。

「そうですが、どんな人なのか、教えてくれませんかね。その彼というのは、どんな人物なんですか。音大出とか、そういう方ですか?」

ジョチさんがちょっと苛立ってそう言うと、

「ち、が、い、ます。そ、うで、はなく、しゃ、べ、る、の、が、できない、ひと、で、す。」

と、五郎さんは言った。

「喋るのができない人?どういうことですか。ちょっと、その人物にあわせていただけないでしょうか?」

「わ、か、り、ま、し、た。な、まえ、は、う、さ、み、さん。う、さ、み、ふ、じ、お、さん。」

五郎さんは一生懸命説明しようとしてくれているが、発音が何よりも不明瞭であり、一言一言切るようにしなければ発音できないので、ジョチさんは、五郎さんの言葉を聞き取るのに、非常に困ってしまうのだった。

「宇佐美富士夫さんという方ですね。わかりました。じゃあ、とりあえず、その人に会わせてください。」

ジョチさんはそう言うと、五郎さんは近くに停めてあったタクシーのドアを開けた。すると、背の低い小柄な男性が、ジョチさんの前に現れた。

「あなたが宇佐美富士夫さんという方ですか?」

ジョチさんが聞くと、宇佐美富士夫さんは、首を縦に振った。

「か、れ、は、は、な、す、の、うりょく、が、な、いんです。で、も、ピアノ、は、も、のすご、い、うまい、か、ら、きいて、く、ださい。」

「とりあえずこちらにお入りください。」

五郎さんの説明を聞いて、ジョチさんは、その男性を中に入れた。まだ40代にも到達していない若い男性のようであったが、でも、端正な顔つきをしている。

「どうしたんだよ。いつまで経っても来ないから、心配で見に来たぞ。」

と、杉ちゃんがやってきた。

「いえ、大丈夫です。こちらの宇佐美富士夫さんという方が、水穂さんにピアノの演奏を聞いてほしいというので、五郎さんが連れてきたようですね。」

ジョチさんがそういうと、宇佐美さんという男性は、深々と頭を下げる。

「まあとにかく中へ入れ。」

杉ちゃんに言われて、宇佐美さんは杉ちゃんと一緒に、部屋の中に入った。

「はじめまして。僕が、磯野水穂、旧姓は右城ですが、なにか御用がお有りでしょうか?」

水穂さんは、由紀子に口元を拭き取ってもらうと、そう宇佐美さんに挨拶した。

「なんでも、彼の演奏を聞いてほしいということだそうです。なんでも、話す能力がまったくないようですが、演奏はものすごいと五郎さんが言っています。」

ジョチさんが説明すると、宇佐美さんは、また深々と座礼した。なにか話したそうだったけど、声にならないようだった。それを見たジョチさんが、

「声帯を切除されたのでしょうか。それとも、脳梗塞か何かで、話す言語野をやられたのでしょうか?」

と聞くと、

「く、も、ま、か、し、け、つです。」

と五郎さんが言う。それがくも膜下出血ということだと理解するのに、みんな時間がかかってしまった。

「さ、い、わ、い、か、た麻痺は、な、に、もなか、たそうで、すが、こ、とば、を話す、のが、またく、で、き、ない、そう、です。」

「つまり、片麻痺はなかったけど、言葉を話すことができなくなってしまったんですね。」

「なんだか、誰かに話すのには通訳が要るだろうな。」

杉ちゃんとジョチさんは相次いで言った。

「くび、を、た、て、に、ふる、か、よこ、にふ、るか、しか、で、きな、い、のです。」

「わかりました。じゃあ、コミュニケーションは首を縦にふるか横にふるかしかできないんですね。文字を描くことは可能ですか?」

ジョチさんがそうきくと、

「そ、れ、も、でき、ない。」

五郎さんは答えた。

「お話はわかりました。五郎さんが一生懸命説明してくれるのもわかりましたから、演奏をしてみてください。何の曲を弾いてくださるのですか?」

水穂さんがそう言うと、

「ご、る、ど、べ、る、く、」

と五郎さんは言った。

「ああ、ゴルドベルク変奏曲ね。よし。じゃあ聞かせてもらおうかな。このグロトリアンのピアノで、思いっきり弾いてみてくれ。」

杉ちゃんがそう言って、宇佐美富士夫さんを立たせ、ピアノの前に座るように促した。宇佐美さんは、そのとおりにしてピアノを弾き始めた。

それを聞いて杉ちゃんたちは、

「なんて美しいアリアだろうね。これではただのアリアというより、羽二重みたいにきれいだぜ。」

という感想を漏らすほど、すごいきれいな演奏だった。

「ええ、素晴らしい演奏ですね。技術的には素晴らしいと思います。ただ、少し装飾音が派手すぎると思います。それは、難しいとは思いますが。もう少し装飾音を抑えるといいでしょう。」

と、水穂さんが、指導者らしくそういった。

「でも、いい演奏だったよ。まるで軽蔑しているとか、汚いものを否定するようなそんな演奏だよね。上手だよ。なかなか行けるじゃないか。」

杉ちゃんは、彼の演奏を褒めてあげた。宇佐美さんは、杉ちゃんに深々と頭を下げる。

「あ、り、が、とう、ご、ざい、ます。そ、れ、で、そう、だん、な、ですが、かれ、を、こ、く、るに、だ、し、て、も、よろ、し、です、か?」

五郎さんは、そう話を持ち出した。それを聞いて皆驚きの顔をした。多分五郎さんの言っていることを理解すると、それは果たして実現できるかどうか、わからないからそういう顔になるんだろう。

「まあ、そうかといいたいところだが、コンクールに出ても、角兵衛獅子みたいに利用されるだけなんじゃないかな。確かに、言葉が言えないってことは武器にもなるのかもしれないけど、それは、本人のためにはならないで、そういう会社とか、マネージャーみたいな人の利益になるだけで。それなら、出ないほうが平和に暮らせるのではないかと思うけど。」

杉ちゃんが言った。

「そうですねえ。確かに今でこそ、障害のあるピアニストも居るけれど、それで社会を潤す役目をちゃんと与えられているかどうかといえば、そうはいい難いこともありますね。」

水穂さんも同じことを言うのだった。

「で、も、か、れ、を、だし、て、あげ、たい。」

五郎さんはそういうのだった。

「それは五郎さんの気持ちで。本人の意志ではありませんよね?」

ジョチさんがすぐに言った。

「五郎さんが、一生懸命彼を応援しているのはわかりますけれど、でも、一番大事なのは本人の意思ですよね。本人にお伺いしますが、本当にコンクールでゴルドベルク変奏曲を弾く希望があるのでしょうか?」

と、ジョチさんは話を続けた。ところが、その宇佐美富士夫さんは、ジョチさんが問いかけても、答えを出さずにぼんやりしているままである。

「なあ、意思があるのか?」

杉ちゃんが急いで聞くが、彼は答えない。

「か、れ、に、は、話し、を、き、く、のも、おそい、んです。」

五郎さんが言った。

「なるほど。他人の言葉を聞き取ることも難しいということですね。それでは、余計に難しい事になりますね。」

「そうそう。余計に角兵衛獅子見たくなっちまう。角兵衛獅子だって、純真な子供で結成されていたんだし、それを悪質な大人が芸人にさせちまうのが人権侵害って騒がれたのではないかな?」

杉ちゃんとジョチさんは、お互いの顔を合わせてそういう事を言った。それと同時に、宇佐美富士夫さんは、涙をこぼして泣き出してしまった。

「それでは、宇佐美さん、本当に、コンクールに出る意思がお有りですか?」

ジョチさんがそう言うと、彼は泣き続けた。

「もう一度聞きますが、コンクールに出てみたいという希望がお有りですか?」

それでも宇佐美さんは答えなかった。

「わかりました。じゃあ、やり方を変えましょう。もしかして、口で言っている言葉はわからなくても、文字で書けばわかるかもしれません。」

水穂さんが、手帳を取り出して、丁寧な字で、コンクールに出てみたいですか?と書いた。五郎さんが、

「こ、ん、く、るに、で、た、いですか?」

と改めて聞くが、やはり理解するのは難しいようである。そこで水穂さんがもう一度手帳を開いて、

「コンクールに出たい?」

と描く。これでやっと、宇佐美さんは言葉を理解できたらしく、首を縦に振った。

「できれば、コンクールに出てみたい理由なんかも聞いてみたいところだが、どうもこいつは、難しいぞ。コンクールに出たいだけで、こんなに手間がかかるんだもん。それでは、もうコンクールに出るということを仮定して、コンクールの当日の日程を話し合おうじゃないか。」

と、杉ちゃんが言った。水穂さんもそのほうがいいかもしれないと言った。ジョチさんが、水穂さんに、紙に書くときは、ひらがなよりも、漢字で書いたほうがわかりやすいと説明した。

「わかりました。それでは、どこのコンクールに出たいですか?」

水穂さんは、手帳を開いて、演奏、何処と書いた。宇佐美さんは、カバンの中から、一つのリーフレットを取り出した。

「はあ、全日本バッハコンクール。バッハの作品を普及させるためのコンクールですね。それでゴルドベルク変奏曲ですか。わかりました。とりあえず予選は一ヶ月後ですか。もう、申し込んだんですか?」

五郎さんが代わりに、申し込んだと答えた。

「そうなると、同日なにかトラブルが起きても大丈夫なように、通訳を付ける必要がありますね。それは、舞台袖で通訳をしてくれる人を付けましょう。僕が出てもいいのですが、もうひとり、通訳を必要とすると思います。由紀子さん、お願いできますね。」

ジョチさんに言われて、由紀子は驚いてしまう。

「私が、宇佐美さんに通訳を?」

思わず由紀子がそう言うと、

「はい、だって、あるきにも言葉にも不自由でないのは由紀子さんではありませんか。」

と、ジョチさんは当然のように言った。確かにそのとおりだった。由紀子は、確かに言語にも何も障害はない。

「わかりました。できる限りのことはします。役に立てるかどうかわかりませんけど。」

由紀子は、水穂さんの手帳に、よろしくおねがいしますと書いた。彼が理解してくれたか不明であるが、こればかりは漢字では表せなかった。日本語は本当にこういうところでは不自由な言語である。そこで由紀子が頭を下げると、宇佐美さんはわかってくれたようで、静かに頭を下げた。

話は決まった。一ヶ月後、宇佐美さんがコンクールに出る日が来た。宇佐美さんは、五郎さんと一緒に、富士市の文化センターに到着した。由紀子は、彼を文化センターの入り口で出迎えた。そして、受付に今日行われるピアノのコンクールに出場するのだというと、受付は、変な顔をしていた。由紀子はそれでも平気だった。なにか言葉をかけたら、彼が混乱してしまうのではないかと思った。二人はそのまま、控室に通されて、順番が来るのを待った。そして、係員に促されて、二人は舞台袖に通された。

「エントリーナンバー五番。宇佐美富士夫さん。曲はゴルドベルク変奏曲よりアリアです。」

アナウンスがなった。でも、宇佐美さんにはわからないだろう。由紀子は、急いで手帳に出番と書いた。それで理解してくれた宇佐美さんは、舞台に出て、ピアノに向かい、ゴルドベルク変奏曲をひいた。杉ちゃんが汚い言葉を否定する演奏だと言っていたけど、正しくそのとおりだった。アリアを弾き終わって、宇佐美さんはお客さんからの大拍手とともに、舞台袖に戻ってきた。その後で、何人かの挑戦者がバッハの作品を演奏したが、宇佐美さんのような美しい音を出すような人はいなかった。由紀子は宇佐美さんの優勝は間違いないと思った。

それから、二時間ほどホールの中で待たされて、由紀子と宇佐美さんは、結果発表の時間になった。結果発表は、主宰者である文化センターの館長が、述べることになっている。なんでも三位までが表彰されるようであるが、三位にも二位にも、一位にも、宇佐美富士夫という名はでなかった。下手な演奏を、カッコつけて弾いている人たちが、表彰台を独占してしまったようだった。

由紀子は、彼が優勝を逃した事を、どうやって伝えようか迷った。でも、もう終わりだということを、彼には伝えなければならないと思ったので、手帳に「終了」とだけ書いた。

宇佐美さんは、にこやかに笑った。その顔は、表彰台に乗って喜んでいる下手な連中よりもきれいだった。由紀子は、本当は優勝と書いてあげたい気持ちがあったのであるが、それは無理な話だった。でも、彼の演奏は素晴らしかったということも伝えてあげたかった。

不意に、宇佐美さんが立ち上がった。多分、もう自分が用なしであることがわかったのだろう。そのまま一人でホールを出ていく宇佐美さんに、由紀子は、

「演奏、すごく素敵でした!」

と言ってあげた。でも、彼に伝わっているかは全然わからなかった。それでもいいやと由紀子は思うのだった。そうやって、背徳と思われる事かもしれないけど、由紀子は彼に伝えてあげたいと思ったのである。

「それでも、それでも。」

由紀子は、自分の言葉を無視して出ていってしまう、宇佐美さんにそういったのだった。このまま水穂さんや杉ちゃんたちに結果報告しなければならないのであるが、多分、順位には入らなかったということよりも、素晴らしい演奏か聞けて、素敵だったということを、伝えてあげたいと思ったのだった。

もう燕が文化センター近くに営巣している。もう家族を作って居るのだなと由紀子は思った。もし、宇佐美さんにも、そういうふうに暖かく向かえてくれる存在がいたら、随分違うだろう。由紀子は、こういう人たちを暖かく迎えてやれるような人間になりたいと思うのだった。


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背徳を浴びる鳥のうた 増田朋美 @masubuchi4996

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