第15話

「さて昨日の奇人、洋詠 栄下(ようえい さかと)の話でもするとしますか」


やっとあの男との関係を聞けるのかと焚は少し身構えた。烏真の友達と言われれば、どうあの男を許せばいいかまだ分からない。だから正直どんな関係か聞くのは怖いのだろう。

だが話してくれるのであれば話をしっかり聞いて、そして自分の気持ちに整理をつけようと考えた。


「予想はできたかもしれないけど少年兵時代の知り合いだね。まず洋詠家は古い時代暗殺者として、有名な名を残した人間の子孫なんだよ。そのせいか、それとも元々イカれていたのか、分からないけど。その家の長男は代々暗殺者として育てられるんだ。こんな平和な日本なのにね。まぁ平和だから海外にまで出て依頼を受ける、本物のイカれ集団なんだけど。だからその時に依頼を受けて、少年兵として潜り込まされた栄下と少年兵をまとめていた僕が偶々出会った、だけの関係」


「友人とかじゃないのか…?」


「まぁ僕だって薄情じゃないから、長い時間一緒にいた仲もあって、友人だと昨日までは思っていたけどありゃ見過ごせないや。僕の地雷でステップダンス踊ってんだもん」


確かに奇鬼として消滅するのを嫌悪する烏真だから、人間だった者を無理矢理奇鬼にするのは、地雷の上で踊ってるもんか。ならばもし、次出会っても手加減なんかしなくていいなと考えるのだ。


「で、これが本題なんだけど前に言ったじゃん?古い友人がカルト宗教にハマってるって、その友人が栄下だったの。…僕の知る限りその時点では栄下は奇人では無かった、だから悪魔の歌や死について何か呪生教団が関わってくるんじゃないかと考えた訳。あとは分かるよね?」


「俺達はその呪生教団の中身を調べればいいんだな」


「そうそう!分かってんじゃん」とうなづく烏真に焚は流石にこの流れでわからないとは言えないぞと苦い顔をする。


「今のところ、呪生教団のほとんどが裏町関係者か純粋に金を搾り出されてる一般人の集まりかしか知らないんだけど、まとめ役は誰かとか実際そのお金や人脈で何をしているのかを探りたいんだ」


「俺と真群、烏真と立橋で分かれていつも通り地道に聞き込みなどするんだよな」


作戦の確認をする。呪生教団が何処で活動しているのかなどはまだ不明だから表の町、裏の町どちらも調べることになるだろう。


「うんそうだね。でも真群は退院に一週間ほどかかるらしいから、それまで焚はゆっくり休んで。君は連続して頑張りすぎたからね少しぐらい休息を入れて日常も忘れないように。非日常に染まりすぎたら目的を果たした後困っちゃうでしょ」


「目的を果たした後…」


烏真達が言ってるのは、この世に死が戻った後の話。烏真は死ぬという終わりを、望んでいるけど焚は違う。焚はただ異常だから正そうとした。それだけの話だから、もし死が戻ったとしたら自分は次に何をすればいいんだろうか、と悩む。

過去の自分を思い出したら、それも分かるかもしれないと考えたが、昔の記憶に少しの恐怖を感じるのだ。それでも今は死を取り戻し、自分も思い出すことを無理にも目標として前を向かなければ何も解決出来ない。


「まぁ気楽に。この休息の時間の間に全てが終わったら何がしたいか考えなよ」


「…そうする。俺はちゃんと自分が何がしたいのか理解していなかったみたいだから。そう考えると俺は何も変わってない気がする」


自分自身が何がしたいか、何て今まで考えてこなかった。前の焚ですら全てを諦めて未来を見ようとしなかったデグの棒だったのだ。


「変わったよ。君は変わった。だって君は僕らのこと好きだろ?」


「え…?好き……なのか、な」


でも今の焚は変わった。よく笑ってよく泣いて、よく怒って、皆に強い感情を伝えてくれる。それが好意と言わずして何と言うのだろうか。しかし焚はまだ分からないのだ。本当にこの世で、人を好きになっていいのか、本当に自分に好意という感情が、備え付けられているのか。もしかしたら好意だけ産まれた時に落っことした、欠陥人間かもしれないまで思ってる。

どうしたらここまで感情に名前をつけるのを恐れているのか。今ここにいる誰にも分からないがでも、確かに分かるのは焚の感情を鈍くする事件が過去にあったのであろうことだ。それが姉が死んだ事件なのか、それより前の話なのかは検討もつかないが。


「もう、分かりませ〜ん!みたいな顔したって君の好意ぐらい分かるんだからね。…まぁそれが好意じゃないって言い張り続けて将来真群との時間を思い返して自分に恥ずかしくなれば!それはそれで面白いから」


「はぁ…。よく分からんが。とにかく俺は一週間普通の日常を送ればいいんだな」


ふふんと笑ってる烏真が言ってることがよく分からないが愉悦を企んでいるのを感じて眉間に皺が寄るのであった。


「そうしてくれ。その間に色々調べとくからさ僕達がさ」


「俺達二人だけで解決できちゃったりしてね。まぁ今回のことは闇が深そうな事だから正直手間取りそうだけどそう簡単には俺達もやられないからさ、安心してね焚くん。あ、後兄弟のお見舞いも気が向いたら行ってあげて」


「一週間任せた」そう返事して焚は部室を出る。真群のお見舞いについて曖昧にしたのは目の前で泣くなんて恥ずかしい事したもんだから行きにくいのだ。それでもきっと自然と病院へと足が向くのだろうことを今は知らない。


「結局今日一日サボちまったな…」


そう呟きながら廊下を歩く。何となしに自分の教室に足を向ける。先生や生徒が残っていたらややこしいことになるのが分かっていたが焚はやっていないことを思い出したのだ。

そうして静かな教室のドアを開けて入る。そこには幸運なことに先生も生徒も残っていなかった。しかし焚はそのことにガッカリするのだ。


「前だったらあんたはここで居残り掃除していて、そうしてサボった俺が来たら心底心配してくるんだろうな」


生徒達も掃除はしているが所詮は強制された掃除だから粗いのだ。ほこりが残っている教室を見ると本当にこの学校を自分の生徒を愛していたんだと今頃実感できるのだ。

焚は教壇に置かれた花の前まで歩き、その前で手を合わせる。


「俺、あんたの気持ち理解できないけど、でもあんたの罪悪感も親愛も嫌いじゃなかったよ」


そう言って真っ直ぐと前を向く。花は添えられないけど今だけはウィリアム先生のためだけに祈ろうと思う。どうか天国で兄に逢えてますようにって。


「じゃあいつかまた俺がそっちに行ったら、そっちのこと先生らしく教えてくれよ」


天国に行くまで道のりは長そうだが、でもいつかはまた逢えると信じて焚は祈るのをやめる。自分が天国に行けるのかも、天国なんてものが存在しているのかも、知らないが夢物語を語るのは生きる者の特権だろう。だから今は幸せなことだけを、信じて過去を後悔するばかりじゃダメだと自身を奮い立たせる。

焚は自分の頰を軽く叩いた後泣くことはせず教室から出て行く。

そして学校に用は無くなったから今日はもう帰路に着こうと家に足を進めるのだ。

帰る中自分の気持ちに整理をつける。焚は少しずつ自分の気持ちを理解しては片をつける。そうすればまた前に進めるから。いつまでも立ち止まるような自分は許せないから、焚の中で弱かった意思を芯を段々と固めていくのだ。

そして家に帰り、リビングに入ると母親とばったり出くわす。


「あ…」


こちらに恐怖したように見る母親の目を焚は初めて真っ直ぐと見た。母親がこんなにも恐れるのも仕方ないことかもしれない、でも焚はもう変わってしまったから今は戻れはしないのだ。


「…ッただいま!母さん」


だから勇気を出して今の焚が母親を呼ぶ。自分は帰ってきたんだと存在しているんだと主張するように大きな声で。


「え…?あ、あぁおかえりなさい、焚…?」


返事してくれたことに安否して次の言葉を必死に紡ぐ。


「母さん俺は昔に戻れないけど、でもそんな俺をさ、いつか受け入れて…くれたら嬉しい。…それだけだからじゃ」


困惑したような恐怖したような表情でこちらを見る女性を母親と思ったことはないけど、それでも焚は親という存在を求めていた。それは自分が、産まれたことを肯定する為かそれとも無償の愛という幻想を見てかは分からないが、それでもそう呼びたかったからそう呼ぶのだ。

そう思って口に出してすぐに怖くて目を逸らして、逃げるように階段を登る。


「…焚、今までごめんなさいね。…明日の朝ごはんまた一緒にホットサンドでも食べましょ」


そう弱々しい声で焚の背後からそう声をかける声がして焚が悲しいような、嬉しいような、気持ちでぐちゃぐちゃになる。ホットサンドは前の焚が好きだったものだったから。


「うん、また明日」


人間全てを理解し合えることはないのだ。だから今はこれでいいと思い込みたくて自室に駆け込む。


「俺いいのかな、これでいいのか、わからない」


自室に入ってすぐ座り込んで悩む。でも焚は自分の感情が膨れ上がってこれ以上無視できなかったのだ。前の焚が見たらなんて言うか想像しては怖くなってギュッと自分の身体を抱きしめる。

__「焚ちゃんは完璧なんかじゃなくていいんだよ」

頭がぐるぐるしてる中で真群の言葉が思い上がる。この言葉は前の焚が好きだった男が言った言葉だと思うとあまりにも可哀想で笑えてくる。

前の焚が望んだ姿を否定する、それがどれだけ真群にとって重いものだったかやっと今実感するのだ。

でもその分喜びと安心感を抱くのだ。今の焚を肯定してくれてる。変わっていく焚を見ていてくれてる。真群の言葉は前の焚を殺す代わりに今の焚を存在させていてくれるのだ。

罪の分だけ愛を感じる。

これこそが背徳感というやつなんだろうと思う。

焚はその背徳感を感じながらベットまでなんとか歩き沈む。

これでいいのか、まだわからないけど変わってしまったのは仕方ないだから、今は明日の朝の事を思って焚は眠りにつくのだった。


また夢を見る。

わたしの存在は希望から罪に変えられた。

わたしが方舟、ノアの方舟になるはずだったのに。

彼が愛したから

彼が恋をしたから

わたしは方舟にはなれなかった。

ただ一人滅びゆく世界から逃れ一人の少女として生まれ変わるのだ。

でもきっと産まれ変わったわたしは罪人で欠陥品で産まれた事を後悔するような人生を歩むのだろう。

だってわたしは方舟になれなかったのだから。

多くの命を犠牲に成り立つものなのだから。

だから次はだれもわたしを愛さないで恋をしないでそして救わないでほしい。

わたしにはこんな重いもの抱えきれないから、本当は次なんて欲しくない。

わたしは、ワタシは、私は貴方と共に犠牲になるのであればそれでよかったのに

愛の怪物

なんてものは必要ない

わたしがいたからこの世界も滅びへと向かう

でも、もしかしたら、わたしがパンドラの箱なれればわたしは今度こそ、役目を果たせるのかもしれない。

つぎのわたしは私じゃなくなるだろうけどそのわたしに希望を繋ごう。

わたしよ罪人よどうか光あれ


パチリっと目が覚める。焚は意味のわからない夢を見ていたことは覚えているが、何故か夢の中の声に聞き覚えがあった。何処かで聞いたことある声だけど、何処だったかは思い出せない。まぁ夢は記憶の中から引っ張りだされた欠片達が組み合わされて、構築されて出来たものといわれているから、声だけ前の焚の知り合いだったのだろうと考え、深くは考えないことにした。

ベットの脇に置いてる時計を見ると朝5時。早すぎる起床だが焚は昨日の夜風呂に入らず寝てしまったから、ちょうど朝風呂にはいい時間だと考えて着替えとタオルを持って風呂場まで歩く。

いつもなら親の方が早く起きて焚が自室にいるうちに、何処かに逃げるように出かけてるはずだが今日は違う。昨日約束したからか母親はまだ自室で寝ている。

それに少し安心して風呂の湯が入るまで歯を磨いて顔を洗う。

鏡で見た自分の顔はいつもより穏やかに感じた。焚自身ですら自分表情への変化に気づけるのだから、周りから見たらあからさまだったんじゃないかと気付き焚は恥ずかしさで顔を赤く染める。

こうして表情をくるくる変わるのも許してしまうほど焚は柔かな人間となっていた。

ピロリと風呂が沸いた音がする。一人だけなのに湯を貯めるのは何だか贅沢な気もするが今日の一回ぐらいは許してくれるだろう。

そんな事を考えながら、服を脱ぎ湯に浸かる。最近烏の行水だったからゆっくり湯に浸かるのは久しぶりで体もあったまり、固まったところがほぐされていく気分だ。

風呂に入って気持ちいいと感じる、まるで自分が溶けて湯と同じになっていく気分になる。その気分が何処かで感じたものと同じだなと思い思考の海の中で漂っているとふと思い出す。前の夢で見た自分が泥になる夢と似ているのだ。自分でもよく分からない夢を見たなと思うがあの夢あの瞬間は今感じるものと同じで悪夢ではない、心地いいものだった事を確かに覚えているのだ。

あのまま完璧に泥になってしまえばどうなっていたんだろうか、何て意味のない事を考えながら湯から出て体や頭を洗う。

焚は見た通り綺麗好きなのだ。軽い潔癖症とも言うだろうが日常に支障がない程度だから意識したことはない。でも体や頭を洗う時は丁寧に頭から足へと洗っていく。初めは頭の汚れをジャンプーで流してリンスで手入れをする。その後に身体を隅から隅まで綺麗に洗う。

洗い流した後はせっかく湯を入れたのだからもう一度ゆっくり湯に浸かるのだ。

そうすると体の疲れなどがほとんど取れるもんだから自分は健康な証だな、なんて焚は考える。

そうして長風呂を堪能しているとトントントンと階段を降りる音が聞こえてきた。

だから焚は風呂場から出て身体を拭き始める。次にジュージューという音に釣られてお腹が減る音と共に美味しそうな匂いが漂ってくるのだ。

パンの香ばしい匂いに焚のお腹は思わずグゥ〜と可愛らしい音が鳴るもんだから焚はつい小さく笑ってしまう。

今の焚になってから誰かが作ったものを食べるなんて本当に久しくて。心が躍り不思議といつも以上にご飯が食べれそうな気分になる。小食な焚にとってご飯などただ栄養を摂取する為だけの虚無の時間に近いと思っていたが、真群と出会ってから変わっているのが分かる。だって真群が入院してからの焚の昼ごはんは味気なく感じて寂しさすら感じたのだから。あの一人で居たがる"焚が"寂しいなんて認めれるのも変わった所だろう。


「__!ご飯よ」


母親が焚に向けて声をかける声が聞こえる。

しかしその言葉はノイズがかかったような音がする。焚は自分の耳を触りながら首を傾げる。

焚は確かに自分の名前を呼ばれたように感じた。しかしそれはノイズのようになっている。自身の認識の矛盾に首を傾げる。

だが呼ばれているのであれば、行かなければ行けない。

服を着てリビングへと向かう。


「__おはよう。今日の体調はどうかしら?昨日あんまり良くなさそうだったから心配で」


「え、あ、うん今日は大丈夫…」


何度聞いても名前のところがノイズに聞こえる。しかしそのノイズ音が焚の名前だと認識できるのだ。

不思議な現象に少し戸惑いながら席に着く。

焚の前に母親は焼き終わったホットサンドを置く。

卵とチーズが挟まったそれからは香ばしい香りがしてきて、また腹の音がなる。


「ふふ__ったら。そういうところは変わってないのね」


「変わってない…。なぁ母さん前の俺ってどんな感じだったんだ?あ、いや、記憶がないとかじゃなくて客観的に見た前の自分が知りたいんだ」


腹の音を恥ずかしがるよりも、好奇心が勝った。

焚の問いに少し困ったように笑う母親。

言葉を間違えたかと考えたが知りたい気持ちは止められなかった。


「__は、気弱で、いつもぼんやりしていて、何を考えてるか全く分からない」


だろうなと思った。

焚が知ってる焚もいつも鈍臭いイメージが拭えないのだ。自分を下げるのもなんだが大人しいのに勉強はできない劣等生が昔の焚だ。

だから人に迷惑をかける事しか出来ない自分が大っ嫌いだった事はよく覚えている。


「でもね、貴方はとっても優しい子で何よりも私達を救ってくれた」


「救った…?」


両親には迷惑をかけた事しか覚えてない。優しいとか誰にでも言える言葉なら驚きはしなかった。焚は心底不思議そうな顔する。


「貴方が私に「お母さん私ね恨んでないよ、憎んでないよ、嫌ってもないよ、お母さんが好きだよ」って言ってくれたことあるでしょ?あの言葉を聞いて産んだことを間違いじゃなかったんだなって思えたの。私は何一つ貴方を助けてあげれなかったのに」


確かにそう言ったことは記録としては残っている。あの頃の焚は両親を嫌った姉と、両親の間に挟まれていて窮屈に感じていた。だからどちらにも良い顔しようとして言った最低な言葉なことを思い出すのだ。

それに救われたという、母親への罪悪感から顔をあげられない。


「__とも和解したかった…私達両親の事情に振り回された貴方と矢久には本当に申し訳なく思ってるの」


__とは焚の2歳上の姉だ。この死なない世界で不可解な死に方をした大事なお姉ちゃん。その名前を聞いて焚は何故か首を傾げてしまう。


「__……?」


__姉と俺は同じ名前だったけ?

その疑問が頭に浮かんでは頭痛を起こす。痛みが先ほどからの違和感を浮き彫りにする。母が焚を焚と呼んでいるのか。焚が聞こえている音は本当に正しいのか。

分からなくて、分からないのが怖くなって手が震える。

母親の心配そうな声も焚には入ってこない。ただパチパチと何かが焼けるような音がする。

それが幻聴だってことは周りをよく見れば分かる。でも焚にはそんな余裕なんてなかった。


「あ、ぁあ姉さん?…ねえ、さん」


母親の向こう側にある食器棚のガラスに映った焚が姉の顔に見える。

昔から姉と焚は双子のようにそっくりだと言われていたが、自分じゃ全く分からなかった。

姉の方が絶対に美人だと思ってた。

そんな姉が、姉の顔が、焚にべったり張り付いた気分だった。

自分が自分じゃないような感覚。

気持ち悪くて、吐き気を感じる。

姉に助けを求めるように手を伸ばす。

その瞬間思わぬ、温もりで正気が戻る。


「__!…ごめんね、ごめんなさい!貴方にとっても辛い記憶よね。そうよね当たり前よね、貴方が変わったからと言って__を大事にしてた気持ちは忘れないものね」


そう言って焚を優しく抱きしめる母親の声は涙声だ。焚は母親が泣いたのを見たのはこれが初めてだった。だから困惑して、でも暖かくて、苦しい気持ちでごちゃごちゃになる。


「母さん、ごめん、ごめんなさい」


でもこの言葉だけは確かに伝えなくてはいけないと思ったのだ。

母がどれだけ苦しかったのだろう、どれだけ苦労したのか。焚はずっと目を瞑っていたから分からない。

でも母も同じ人間だったことに安心する。

それが違和感から顔を逸らす行為だとしても。

今はただ母から子への、愛を感じていたかった。

この喜びが誰のものかも知らずに。


「__…とりあえずホットサンド食べましょうか。冷めちゃうわ」


ひとしきり母からの抱擁を感じて、顔を見合わせたら、何だか変な気分になって二人共笑って落ち着いた。

母は席に戻って赤くなった目を擦りながらもホットサンドに齧り付く。

それを見て焚もゆっくりとホットサンドを味わうのだ。

何にも昔から変わってない味をゆっくり咀嚼する。

そしたら不思議と涙が出てくるもんだから焚は笑う。


「母さんのホットサンド今も大好きだ」


「ふふ泣くほど?そこまで言われたら毎日作りたくなっちゃうわ」


そんな焚を見て母親も優しく微笑む。久しぶりの家族団欒に始めはどうなるかと思っていた。だが思った以上に今の焚を少しずつ受け入れてくれる母親を見て安心するのだ。

母と穏やかな時間を過ごす。

そしてホットサンドを食べ終わる瞬間、母は真剣な顔をして口を開く。


「__は将来どうするの?将来の、夢とかあるのかしら」


「将来の夢…」


世間一般的な生活をするという目標はあった。でも夢と言われたら何か違う気がした。

それに焚はそれが本当に自分にとって望んだことなのかも分からなくなったのだ。


「まだ、夢かは分からないけど、変わりゆく俺を受け入れてくれる場所で生きたいと思ってる」


「…そう。良い夢ね」


悩んだ末に出た言葉は夢と言えるか分からないほど曖昧で。しかしそれでも焚の本心であった。だからこそ母は優しく微笑むのだ。

それを見てやっと"私"は母も人間なんだと実感する。今まで母は自分と違う生き物なんだって。違うから話したって意味ないんだって思っていた。

でも話してみたら呆気ないほど母は焚を受け入れるのだ。

それが表向きな良い母親を演じるためだとしても、焚は"引っかかっていた違和感"がなくなったことで満足出来るのだ。焚にとってそれだけの存在で母というものに理解していなかった自分にも恥じる。


「…母さんは、これからやりたい事とかあるのか?」


「…お母さんね、昔からの夢があったの」


「夢…」


母からそんな言葉出るのは意外だった。焚にとって母は実家に帰りたくない故に父を捕まえて帰る場所を作った、だがその場所に父を要らずにギクシャクとした関係を築いてしまった愚かな人。そんな話しか、聞いてなかったから。でもふと母も昔の焚と同じく"普通の家庭"を望んでるんじゃないかということも頭の片隅で感じていた。


「お母さんね保育士になりたかったの」


「は…」


思わぬ返答に声が上手く出なくなる。この人は何と言ったのか脳は理解を拒む。だって焚にとっての、この人は家庭を持つことを失敗とし、後悔して、一人の女性として生きることを選んだのだから。

いくら昔の焚が甘えたり、病気で苦しんでも、友達と遊びに行くことを優先していたのをずっと見ていた焚にとっては理解不能の一言に余る。


「私がしてきたことは忘れてないわ。それでも矢久が死んだ時思ったの、もっと愛してあげれば良かったなって」


心からドロドロした泥ようなモノが溢れ出す。今まで食べていたものが、味がしなくなる程に泥は身体を支配する。


「な、んで、いまさら…」


その泥が外にまで出てこようとしたもんだから、やくは、でかけた言葉をふさぐように咄嗟に口を押さえる。


「__?どうしたの?顔色が悪いわよ」


「あ、はは食べすぎたかもしれねえ」


「あら、そうね。__にしてはよく食べると思ったのよ。まるで矢久みたいで。貴方が料理を作るのが楽しいと言ってた頃の気持ちが、体験できたわ。そういえば__は今でも料理をするのよね、そこらへんの気持ちは昔と変わらないの?」


"おれたち"の顔色が変わったってこの人の語りは終わりやしない。

そう、焚は知っていた。

焚は理解したくない、過去の焚の気持ちを体験する。

母親が前に座ってずっと、ずっと、_が喋っている。

「お_さんは分かってるんだからね」

そう耳が痛いほど聞いた。

__はその言葉に期待を抱いてしまった。

矢久はその言葉に諦めを覚えてしまった。


「なんだ分かってるじゃん。僕はいつだって楽観的なんだって」


「は?」


脳内から声が聞こえる。焚は等々自分がイカれてしまったのかと困惑の声を出したはずだった。

その声は音にはならない。

代わりに静かな狂気が自分に突きつけられる。


「私だって期待したかったよ。でもね期待の先にあるのは絶望なんだから、もう嫌になっちゃうんだ」


焚の視線先にある、焚の顔を映しだした、焚の顔が大きく自分とは違う表情をして喋り出す。

それを見て不気味に見えるというよりは、思考が止まる。


「僕はね、生きたくないけど、青春(い)きてみたかったから。だからね人に、未来に、物語に、期待しちゃうんだ。だって、人生、ずっと苦しいのが続くなんて考えたら頭が、イカれちゃうよ。まぁ欠陥人間の自分のことだけは、もう諦めしかないけど、こういう人って、自分に甘いっていうのかな。だからね、僕はあの子の目が好きだった」


「私は、死にたくないし、希望なんてみない。現実主義者なのさ。だから人に、未来に、自分に期待しない。何故なら期待とは重りにすぎないからさ。期待すればするほど理想はズレていく。ならば最初から出来る事しか見ないようにしてる。でもそのせいで私は夢(ロマン)が悪夢にしかならなくなった。だから私は彼の思考が好きだった」


知ってる。

知ってるのだ。

だってこれは焚の"記録"。

二人が想っていた本音。

「でも、なんで、俺が姉さんの想っていた事が分かってるんだ」そうだ、焚は__のはずで、焚は姉を理解しないまま終わったはずで。

だから聞こえてくる、視える、記録に困惑する。

まこくんの笑顔を見ている僕。

夏ノの言葉を聴いてる私。


「お前は、お前は本当に、おれのことが好きなんだよな?例え私が世界を滅ぼそうと、例え僕が全てを壊そうが、お前はおれを好きだって言ってよ」


あぁそうだ、俺は、あの時、見舞いに来てくれた、あの人にこんな言葉をかけたんだった。

酷い言葉。

全てを放り投げて、足を引っ張って、罪を重ねる行為。

汚い、汚い、前にいる__いも。

焚したはずなのに。

なんで、生きてるんだ。

なんで、生かしたんだ。

なんで、おれを許してもらおうと思ったんだ。

なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで


「焚ちゃん!」


その一声で目の前が明るくなる。

何でか目の前には真郡がいて、自分の部屋の天井が見える。

今まで何を考えていたのか思い出せないが酷い、苦しい、"悪夢"を見ていたように身体が重い。


「大丈夫?焚ちゃん」


「なんで、ここにお前がいるんだ」


何で自分が寝ていることも聞きたかったが、それよりも真郡が何故か異物感があって、そう問うた。


「…焚ちゃんの家が軽い火事になったて聞いたから病室から抜け出して慌てて来ちゃった」


「あぁ、そうか。そうだったな」


そうだ、焚の記憶を振り返れば、すぐ思い出す。

母と食事して楽しく話していたのに、ボヤ騒ぎになって母と一緒に消火したり、消防士呼んだり、烏真に学校にいけないと報告したり、で夜まで大変だったから疲れて寝てしまったのだ。

疲れた分、母との溝は埋まったから結果的に良かったのかもしれない、なんてスッキリしてたのをよく覚えてる。


「お前、どうやって家に入ったんだ?」


「焚ちゃんの親にはちゃんと許可とったよ!偉いでしょ?」


本当か?と言わんばかりのジト目を見せる焚に真郡は喜んだような顔をする。

それを見て焚は大きくめんどくさそうな表情をするのだ。


「__ちゃんには迷惑かけてない方向で言いくるめたから安心してね」


「…え?」


焚の驚いた声に真郡も困惑する。

しかし焚はそんなことを気にしてられない。

名前が、自分を呼ぶ名前が、何と呼んでるのか分からないのだ。


「なぁ、もう一回言ってみろ」


「え、迷惑かけない方向で言いくるたって…」


「違う、その前だ」


焚の不安そうな声に釣られて真郡も何か間違えたかと考えている。 


「__ちゃん?」


その前といえば許可をとった話かと思ったが、何となく違う気がして、もう一度名前を呼ぶ。

そうして真郡も一つ違和感に気づく、そういえば焚は自分のこと名前で呼んでくれてなかったか…?

なのにさっき"お前"としか呼ばれなかった気がすることに。


「なぁ」「ねぇ」


同時に二人は声を出す。違和感を拭うために。

お互いを見つめて、噛み合わない現実を自覚するために二人は相手の声を無視するように、不安そうな瞳を揺らして、もう一度声を出す。


「お前今、俺をなんて呼んだんだ?」

「__ちゃん、もう俺の事名前呼ばないの?」


早くこの不安を拭って欲しい。そんな気持ちで聞いたのに二人は心音が早くなるのを感じていた。本当に聞いていい事だったのか、それは次の言葉で不安の終わりを告げる。


「お、れはお前の事名前で呼んだ事ない。それよりお前は?」


「え…?あ、俺はちゃんと矢久ちゃんって呼んだよ…?」


不安の終わりの次は崩壊の始まり。

二人の現実が大きく歪む。

まだ始まったばかりだと悪魔が笑ったようだった。

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