桜茶の思い出

スズシロ

第1話

 桜の季節が嫌いだ。いや、正確には「桜茶」が苦手だ。桜を見ると「桜茶」の存在が脳裏を掠める。だから桜の時期はなるべく外に出ないようにしていた。


 「桜茶」とは桜の塩漬けに湯を注いで作る飲み物のことである。湯呑の中にふんわりと広がる桜の花が可愛らしくて小さい頃は祖母にせがんで良く作って貰っていた。

 祖母の家の庭には古い八重桜の木があり、毎年その花を使って塩漬けを作っていたのだ。その塩漬けを使って桜茶を作ったりお菓子を作ったりするのが毎年の楽しみだった。


 ある時、桜があまり咲かない年が続いた。確か私が小学生の頃だったか。


「もうこの桜も寿命なのかねぇ」


 祖母はそう言って寂しそうに八重桜の木肌を撫でた。祖母が子供の頃には既に大木だった八重桜だ。いつからここにあったのかは知らないが、かなりの高齢であることには違いない。


「来年からは桜の塩漬けも作れなくなるかもしれないね」

「えー」


 桜の塩漬けが作れなくなる。それが小学生の私にとっては受け入れがたいことだった。毎年の楽しみが無くなってしまうのだ。「嫌だ嫌だ」と駄々をこねる私を宥めるために祖母は残っていた塩漬けで桜茶を淹れてくれた。

 湯を注ぐと湯吞の中にふんわりと花が咲き、しょっぱいような甘いような「春」の香りが漂ってくる。掌の中に小さな春を抱えているだけで幸せな気分になれるのだ。市販の塩漬けとは何かが違う。祖母が作る桜の塩漬けは「特別」だった。


 翌年、桜の咲く少し前の時期だったか。祖母から手紙が届いた。やはり今年も桜の蕾が少ない。昨年よりも花の量が減ってしまうだろうとの知らせだ。

 その知らせは幼い私に絶望を与えるのには十分で、「やっぱりもう二度とあの桜茶が飲めないんだ」とショックを受けた。今考えると大袈裟かもしれないが、まさにこの世の終わりのような心持だったのだ。


「本当に行かないの?」

「うん」


 そのショックが抜けきれず、またなんとなく祖母と顔を合わせるのが気まずくてその年から桜の咲く時期に祖母の家を訪れるのが億劫になった。母の話では祖母は残念がっていたそうだが、そんな祖母の気持ちを知っても尚、「桜茶が飲めないなら行かない」と意地を張っていたのだ。今から考えると子供にありがちな我儘だったが、無理だと分かっていてもそうしていればいつかまた「桜茶」を飲めるのではないかと淡い期待を抱いていたのだ。


 祖母が亡くなったのは祖母の家に行かなくなってから数年経った頃だった。


「今年は少しだけ多く咲いたので塩漬けを作りました。少ないけれど……」


 そんな手紙と共に小さなガラス瓶に入った桜の塩漬けが私の手元に届いたのは葬儀が終わったあとのことで、小学生の小さな手で包めてしまうほど小さな小瓶に入った塩漬けを見て、私は何とも言い難い気持ちになったのを覚えている。

 祖母が亡くなって家主の居なくなった家は売りに出され、花をつけなくなった庭の八重桜は切り倒された。ガシャンガシャンと音を立てて引き倒されていく祖母の家を眺めながら、縁側に座って毎年減っていく桜の花を眺めていたであろう祖母の姿を想像して「意地を張らなければよかった」とそこで初めて後悔したのだ。

 

 祖母は孫が楽しみにしていた塩漬けをなんとか作ってあげようと、植木屋を呼んで八重桜の世話を頼んでいたらしい。その甲斐あって咲く花の数が徐々に増え始めた矢先の出来事だった。僅かながらの桜の花で作った最後の塩漬けはほんの小さなガラス瓶に収まるほどだったけれど、それを送ればきっと私が喜ぶだろうと、来年は遊びに来てくれるだろうと祖母は思っていたのだろう。

 その胸中を想像すると、子供ながらに「取り返しのつかないことをしてしまった」という後悔の念に押しつぶされそうになり、切り倒された八重桜の切り株を前にただ涙を流すしかなかったのだった。


「おばあちゃん、あんたのことをずっと待ってたんだよ」


 母親が厭味ったらしく言う。祖母が作った最後の塩漬けをお気に入りのマグカップに入れて湯を注ぐと「いつもと同じ」春の香りが漂った。桜茶を一口飲むと塩漬けのしょっぱい味がする。しかしそれが桜茶の塩気なのか自分の目から流れ出る液体の味なのか分からなくなってしまった。


 それ以来、私は「桜茶」が苦手になった。あんなに好きだったのに、あの「春の香り」を嗅ぐと決まって祖母のことを思いだす。そしてなんともしょっぱい気持ちになるのだ。空っぽになった小さなガラス瓶を窓辺に置いて、春が過ぎ去るのをひたすら待ちわびる。自責の念と後悔ばかりが押し寄せる、桜の季節が嫌いだ。

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桜茶の思い出 スズシロ @hatopoppo

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