老人と天使

ある一人の余命宣告された老人が、病院で横たわっていた。ちょうど痛み止めで打っていたモルヒネが切れてきたのか、体が痛み出して動くことができない。

「早くモルヒネを持って来い。早く、早く」

老人は叫んだが、まだ誰も来ない。上手く声が出せないため、伝わっているかも分からない。暗い病室の中で、老人のうめき声だけが響いていた。

「なんでこんな目に私が合わないといけないのだ。この私が何かしたのか。あれだけ社会のために、家族のために生き、善行を積んだ私が、なぜ死ぬのだ」

老人のうめき声は、ほとんど泣き声のようだった。老人は言葉の通りの善人ではなかったが、悪行は若い頃だけ、それも犯罪行為はしたことがなく、離婚も、裁判もしたことがなかった。子どもたちには自分勝手な性格から一時期恨まれもしたが、大人になってからはトラブルもなく上手くやっていた。孫が生まれてからは残していた財産をほとんど使い、全てを分け与えた。もうほとんど人生の満足を得たといった感じであった。妻のことは心から愛していた。二人で生活していたときも、妻への感謝を忘れず、仲良く笑顔で暮らした。妻が死んだときには、悲しさのあまり少し塞ぎ込んだが、すぐに立ち直り、自らもすぐに妻の元に向かうのだと覚悟をした。

しかし、そんな老人が今、死を目前として思うのは、死にたくない、生きたいという、切実な想いだけだった。老人は神の存在、死後の楽園を信じていたが、それでも、やはり死に対する恐怖を無くすことはできなかった。

「死にたくない、死にたくない」

老人はそう何度も呟いた。あまりの恐怖と、身体中の痛みから、意識が朦朧とする中、譫言のようにそう何度も繰り返している内に、自分が今どこにいて、何をしているかも分からなくなっていった。。そのとき、病室が光に包まれて、老人の前に、天使が現れた。老人はびっくりして思わずベッドに起き上がると、不思議と痛みは消えていて、恐怖や不安も無くなっていた。老人は目の前の天使を見て、自分が死んだのかと思った。

「天使さま。私は死んだのでしょうか」

「いいえ、あなたはまだ死んでいません。しかし、それもあと数日のことですが」

天使の声は、老人のことを安心させる魅力を持っていた。老人は自分が死んでいないことを不思議に思った。

「ならばなぜ、私は天使さまとお話しできているのですか。今は身体の痛みも無いし、意識もしっかりとしています」

「それは、私があなたをあまりにも憐れんでいたからです。あなたは生きている間、悪を成すことはなかった。いくら自分の得になろうとも、騙されようとも、人のために生きてきた。それなのに、このような状態で死んでいくのは、悲しいことです」

「おお、おお。分かってくださるのですか。御慈悲をありがとうございます。それならば、私の疑問に答えてはくださいませんか。簡単なことですので」

「いいでしょう。あなたの心が安らぐのであれば、なんでもお答えしましょう」

「では、楽園は、死んだ後に行けるという楽園は、本当にあるのでしょうか」

「ありますとも。死んだものたちは皆楽園へと向かい、そこで幸せに暮らしているのです。あなたの奥さんも、そうですよ」

老人は、その言葉を聞いて、安心した。

「ならば、私もそうなるのでしょう。ありがたいことです。それで、その幸せな暮らしとは、一体どのようなものなのでしょうか」

「穏やかな平原のもと、皆が笑って暮らすのです。善人であったものも、悪人であったものも、全てが平等に、手を取り合って、安らかな生活を送るのですよ」

「おお、おお。それはありがたいことです。本当にありがたいことです。私は、死ぬのが怖くて、怖くて、たまらなかったのです。死んだ後、自分は何も残らないのではと、意識は深い海に沈み、一生登ってくることはないのかと、不安だったのです。朝の暖かな日差しも、漂ってくるコーヒーの香りも、新聞に載っている面白い事件も、少し焼けすぎたトーストの味も、その横で笑う妻の笑顔も、友人たちとの会合も、子どもたちとの旅行も、孫の成長も、科学の進歩も、感動的な物語も、喜怒哀楽の感情も、神への感謝も、全て私には残されるのですね?」

「その通りです。全てが楽園にはありますよ。安心してください」

天使はそう言って笑った。そして、光と共に静かに消えていった。老人は天使への感謝と、妻の顔、子どもたちの、孫たちの顔を思い浮かべながら、深々とお辞儀をした。その後安心したのか、痛みも感じずに眠った。

老人は、そのまま起き上がることはなかった。

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短編ホラー・怪異・不思議系 みどり怜 @oreo1115

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