第14話
4
運動会が終わってから、数日、〝しけ〟が続いた。上陸はしなかったものの沖合で今年最後と思われる台風が暴れたらしい。
「くじらもどき!」
岩場で友人の名前を呼ぶ。あたりを見渡してみたが、彼の尾ひれの影すら見えない。どうしたのだろうと訝しがりながら、まだ凪ぐには遠い海原を眺める。もしかすると、今日はいないのかもしれない。
まさか、この数日の間に去ってしまったのでは。
ふとそんな考えがよぎりながらも、陸は人魚の名前を呼び、磯を見渡した。
――と。
「あっ」
波打ち際、陽光にあたって何かがきらめいたように見えた。
なんだ、そんなところにいたのかと岩場を渡り近寄る。いつもの潮だまりではなく、やや行きづらい場所で何をしているのか。
「あ、あ、うわ……っ」
大人が、倒れている。
否、人間ではない。下半身がくじらもどきと同じように魚のそれだ。あの友人と違うのはあれほど大きくはなくせいぜい大人ほどの身の丈である。その尾びれもくじらもどきとのすべらかな肌とは違って、魚のように鱗に覆われていた。
そして陸を一番驚かせたのは、その人魚が傷だらけであるということだった。本来ならば美しいであろう青色の尾びれは傷をそこかしこにつくっている。彼の身体を攫いそうな波につられて、血が流れていった。
人魚はぐったりと横たわり、意識も朦朧としているらしく、ただ魘されていた。そしてその周りには、無数の小石がぷかぷかと、浮いている。
「……」
痛ましい姿のそれにおそるおそる近寄る。
人魚はどうやら少年が近寄っていることすら分からないようだった。まるで一枚の葉がかろうじて岩に引っかかってゆらゆらと漂っている。そんな風に見えた。
「……りく」
己を呼ぶ囁き声に、陸は顔を上げた。いつの間にやってきたのか、くじらもどきが海面から現れ身を乗り出している。
傷ついた人魚が波に攫われぬよう、盾になっているようだった。
「くじらもどき、これ……」
陸が声をあげれば、くじらもどきは人差し指を己の唇に当てた。静かにと促され、言葉を飲み込めばくじらもどきは人魚を見下ろし、口を開いた。
「〝――君。私の声は聞こえるか〟」
くじらもどきが発した声は、陸が知る言葉では無かった。
しかしぴくりともしなかった人魚が微かに反応を示したので、陸はくじらもどきが彼の本来の言葉でこの人魚に語りかけたことを悟った。
傷ついた人魚がア、と微かな声をあげて身を捩る。海に赤いものが流れていく。それを見てくじらもどきは、更に続けた。
「〝安心してほしい。君と、君の同胞である私以外には誰もここにはいない。フカも、空の者も、人間もいない。……何があったのか、教えてくれるか〟」
低く穏やかな声で慰めるようなくじらもどきの声に、人魚は少なからず安堵したのか身を震わせ、はくはくと口を開いた。
「〝海の、底が……光を噴いた……暮らしていた、住み処が……アァ、皆があれに巻き込まれて…………同胞よ、ここはどこだ……見えない……暗い……海の底が光を噴いた瞬間、何も見えなくなってしまった……波は俺をどこへと運んだのだ……〟」
「〝……今、君は海と陸の狭間にいる〟」
くじらもどきが告げると、人魚はカッと双眸を見開いた。その瞳が白濁として何もうつしてはいない事に気づき、陸は思わず息を飲んだ。
「〝一族は……住み処は、どうなった……〟」
「〝分からない。流れ着いたのは君だけだ。……案ずるな、君を海へと戻してやる。ただ、少し休んだほうが良いだろう。今は目を閉じ、眠るといい〟」
くじらもどきの言葉に従うように、人魚はのろりと目を閉じた。自ずから閉じたというよりは、力尽きて意識を手放したかのように見えた。
「りく……こっちだ」
くじらもどきが呼び寄せるのに、陸はいそいそと岩場を登る。
「寝ちゃった……?」
「うん……でも、もう……目を覚ますことはないだろうね」
「え、それって……」
陸はそのまま口を閉ざした。続く言葉を口にするのがどうにも憚(はばか)られたのだ。
「この人はどうしてこんなに傷ついているの?」
「……陸は言っていたね。海底火山というものが噴火をした、と。きっとその近くで暮らしていたんだろう。傷ついたまま、海の流れに一ヶ月も流され……ここに漂着した」
そこで言葉を切り、くじらもどきは目を伏せた。暫く何も言わずに思案する素振りを見せたのち、やがて陸に向き直ったので陸は、友人を見つめ返したのだった。
「りく、ぼくは明日、彼をつれてここを離れようと思う」
「え……」
「もうすぐ冬が来る。もともと、ここを離れねばならない時期だったからね。彼が住んでいただろう場所に送り届けようと思うんだ。そこがどうなっていても……彼にはきっとそれがいいはずだ」
「送り届けたら、すぐに戻ってくる?」
陸が問えば、くじらもどきはゆっくりと首を振った。
「そんな――」
「りく、ぼくはね、元々ここの近海に住んでいる者ではないんだ。ずっと海を巡っていて……探し物をしていた」
「探し物って?」
「白い鯨……」
くじらもどきがぽつりと呟き、海へと眼差しを向ける。陸はぽかんとした顔で、頭を振った。
「白いクジラなんて、いないよ!」
「いるとも。彼はぼくの友人なんだ」
くじらもどきの言葉に、陸は雷に打たれたような心地に襲われた。くじらもどきにも旧来の友だちがいることはよくよく考えればあり得る話なのに、今まで考えもしなかったからだ。
「友だち……」
「もう随分……君たちでいうところの二百年ほどは会っていないけれど」
「そんなに? どうして?」
「はぐれてしまった。嵐にあって、意地悪な波がぼくたちを離してしまったんだ」
くじらもどきの薄い色の瞳には、寂寞の色が浮かんでいる。それから目を離せないまま、陸は黙っていた。
「だからこうして、海を巡っている。きっと冬は皆、南へと向かうからね。もしかすると会えるかもしれない。そうして、何度太陽が沈み、月がめぐっただろう。次こそは会えるかもしれない。ぼくはそう思って、海を巡っているんだ」
「……おれ、お前と別れたくないよ」
「……」
「くじらもどき、おれはお前のこと、友だちだと思ってる。それじゃあ、だめかな」
友人に問うたところで、陸ははっと息を飲んだ。自分が我が儘を言っている事を自覚し、恥ずかしいとさえ思った。そうして俯いてしまった少年をくじらもどきはじっと見つめ、微笑んだ。
「ぼくも、りくのことを友だちだと思っているよ。りくも、〝あの子〟も大切だ」
「……おれが、お前と同じだったら……」
「りく?」
「おれも、きっと探していたかも」
笑顔をつくり、陸は海へと視線を向けた。白いクジラ。この広い海に、本当にいるのだろうか? 誰にも知られることなく、泳いでいるのだろうか?
「すごいんだろうな。そいつに会えたら、おれ、びっくりすると思う」
「優しい子だよ。きっとりくが背に乗っても、じっとしてくれるだろうし、一緒に泳ぐことも出来るよ」
「会ってみたいなあ」
「……りく、友だちの頼みを聞いてくれるかい」
望みを言ったきり黙ってしまった陸をくじらもどきが見つめ、ややあって切り出す。陸が視線を上げれば、くじらもどきは小さく首を傾げていた。
「五度、季節がめぐったあとで、ぼくはまたここに来るよ。必ずね」
「五度ってことは、五年後?」
随分と先のことだと陸は思った。五年後、自分は今のなおちゃんと同い年になる。しかし、くじらもどきはあっという間だよと笑った。
「白い鯨を見つけられたら、連れてくるよ。そして陸がもし、この近くであの子に出会ったら……友人が探していたって伝えてくれないか? 南へ向かったと」
「え、どうやって? おれ、お前みたいにクジラと話せないよ!」
陸が驚いた声をあげれば、くじらもどきはおいで、と陸に手を差し出した。それはいつの日か、出会ったばかりの少年にそうしたようである。
靴と靴下を脱ぎ、陸がくじらもどきの手のひらにのぼれば、くじらもどきは腕をひいた。近づいてきた顔に、ぶつかる、と思わず陸は目を瞑ったが心配とは裏腹に、あの柔らかだが知らない言葉と、ぬるい水滴が陸の身体に降り注いだ。
「わっ……?」
その水滴は潮の香りが強かった。
不思議と生臭くはない。むしろ懐かしさを感じるような、海の匂いだった。
「ほら、耳を澄ましてみて」
いたずらっぽく笑いながら、くじらもどきが促す。
耳を澄ませば、波の音が聞こえる。
そして、波の音の隙間から、何か小さな声が聞こえてきた。よくよく耳を傾ければ。
冬が来る
冬が来る
暖かい海に行こう
潮にのればすぐだ
穏やかな南へ行こう
あの人魚、かわいそうに
どうなったか行ってみようよ。
ここを離れるときがきたよ
ぽつぽつと呟くような、無邪気な声が聞こえてきたのだ。
「えっ……何……?」
思わず陸が驚けば、声がざわざわとざわめく。
人間だ。人間だ
あの大きなものがあげたんだ
小さな人間 こんにちは
「これって海から聞こえてる?」
「そう……彼らは、〝海〟だ。聞きたい時に聞いて、話しかけた時に話しかけるといい。彼らはぼくたちみたいに〝個〟をもたないけれど……」
くじらもどきは言葉を切って、頷いた。
「そう、〝個〟をもたない。それだけは覚えておいて、りく」
「個をもたない?」
「少し無責任ってことだよ。ちょっと練習すれば魚や鯨とも喋ることが出来る」
「くじらもどきが喋っていた言葉は?」
「百年ぐらい練習すれば」
「ええ……」
それじゃ無理だよ、と唇を尖らせる陸に、くじらもどきが笑う。しかしすぐに真面目な顔をさせた。
「でも人間に悟られてはいけないよ。きっと、陸がおかしくなったと思ってしまうだろうから」
「うん、気をつける」
陸が頷けば、くじらもどきはほっとしたようだった。手のひらの上の少年は、ぱっとくじらもどきを見上げ、手を広げた。
「五年後、おれはもっと泳げるようになっているよ! それと、白いクジラのことも調べる。だから、約束してよ、くじらもどき!」
「うん」
「五年後の春、おれたちが会った季節にここで会おうって!」
「約束するよ」
「必ずだよ、友だちなんだから」
「ああ、ぼくの大切な友人。きっとすぐだよ」
「あはは、お前にとってはだろ」
ぺたりと陸の手のひらがくじらもどきの小指に触れる。
「ゆびきりげんまん――……」
翌日、秘密の場所に陸が立ち寄ると、すでにあの人魚の亡骸はなかった。
岩場にべったりと赤い血がついているのが見えるのみで、少年は自分の友人が彼を連れて行ったのだと、悟った。
一番高い岩場から、海を眺める。
穏やかな海面が秋のくすんだ陽光に照らされて輝いている。小さな船の影も見えた。
いったよ
あのおおきなものはここを去ったよ
かわいそうな人魚をつれて、彼はいったよ
大きな尾を振って、潮の流れに乗っていったよ
探し物をさがしにね
人間は泳ぐのがへただから
つれていけなかったんだね
〝海〟がくちぐちに言うのを聞きながら、陸は笑みを浮かべる。
「五年だよ。おれは長い間、ここで待つんだ。白いクジラを探しながら……」
あっという間だよ
〝海〟に言われれば、そんな気もしてくる。
遠くの方、沖合で何かきらめくものはないか、白い影は見えないか、少年はしばらくぼんやりと、凪いだ海原を眺めていた。
その頬をじっとりとした風がやわらかく、撫でたのだった。
くじらもどき 舎まゆ @Yado_mayu
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