第13話

運動会当日。晴れ渡った空に二発、空砲が響いた。

 生徒たちは一ヶ月間の練習どおりに整列して、入場ゲートの前に立っていた。皆、そわそわとしながら始まるのを待ち望んでいる。

『全校生徒の入場です』

 放送委員のアナウンスとともに、行進が始まる。

 今年が初めての運動会である一年生は、はしゃぐ気持ちを抑えきれずに観覧席の家族に向かって手を振って、ぴょんぴょんと飛び跳ねていた。二年生、三年生と行進は続いていく。いよいよ六年生の順番になった。一年生たちと比べるとずっと落ち着いた様子で行進している。

 陸は行進しながらそっと観覧席に視線を向けた。父も母も来ている。平田たちの両親と示し合わせたらしく、観覧席の一角は漁師の家族で纏まっていた。

 父親たちはすでに酒を飲んでいるようだった。

 緊張した面持ちで歩く子ども達を横目に赤ら顔で賑わっている。その傍では母親たちが我が子の勇姿をおさめようと熱心にカメラを構えていた。

「リュージ! こっち向きなって!」

 元気の良い女性の声に、近くにいた平田の肩がぎくりと跳ねた。

「ンだよ……」

 気まずそうに平田がそちらを睨みつける。クスクスと起こった笑い声におい! と怒鳴ったかと思えば、平田はツンと前を向いたきり観覧席を見ようとはしなかった。

 

 陸の父親は酒で顔を赤くさせていたが母親は正反対で、どこか居心地が悪そうな顔で夫の隣で座っている。能面のような表情で、この時間に何の意味も見出せないと言いたげな顔で軽く俯きがちに、座っていた。

 それを見た瞬間、陸はいたたまれずに前を向いた。母は自分を観に来たのではなく、仕方なしにここにいるのだと、悟らざるを得なかった。


 自分たちの出番ではないときはクラスで固まって椅子に座り、競技中、走り回る下級生たちを眺め、お喋りをしている。

 三年生たちの玉入れが終われば、昼食の時間になった。

 皆、それぞれの家族と一緒に昼食をとる。この日ばかりは豪勢な重箱で、子供達が好きなおかずを持ち寄るのだ。父親同士が仲の良い陸と平田の家族は、一緒に昼食を取ることになった。

「二人とも昼間も頑張るんだぞ! 徒競走、お前と平田くんは一緒の組なんだろ? どっちも応援しているからな!」

 父が上機嫌に言えば、陸は小さく頷いた。


 平田と喧嘩をしたことは知っている筈であるのに、こうしてお互いを奮い立たせようとする父から目をそらし、ちらりと平田を見れば、彼もこちらを見ていた。

「陸になんか負けるわけねーじゃん、おじさん」

「こらっ、リュージ!」

 建前のない物言いは子どもの宿痾である。平田の母が軽く窘めても、平田は顔を背けて握り飯を食べるのみで改めようという気がないようだ。

「ハハハ! 男はそれぐらいがいいんだ! 陸もリュージ君ぐらいの負けん気があれば、なあ!」

 子どもの失礼すら豪快に笑う父の傍から母の小さなため息が聞こえる。どう答えればいいのか分からず、陸は卵焼きを飲み込んで話を流そうとした。

 ――と。

「おい、陸」

 陸の父の言葉に調子づいたのか、平田が声をかけてきた。顔をあげればニヤリと笑いながら、こちらの反応を見ているようだった。

「……何?」

「徒競走、隣のクラスのやつらも走るだろ?」

 平田の問いに陸が頷く。すると平田は声を低くして、こう言うのだった。

「オレたちの組、田中と一緒だってよ!」

「……田中、くん?」

「あいつだよ」

 平田が顎で示した先には、お世辞にも走ることが得意ではないであろう体格の少年が家族に囲まれながらニコニコと昼食をとっている。

「デブの。あいつ、見た目どおりにとろくさい奴だから、お前でも勝てそうだよな」

 からからと笑う平田は、どうやら親切心もしくは励まし、そして少しばかり侮蔑を孕んだ意図で言っているようだった。

「ビリじゃなくなるな」

 平田の声を聞き流しながら、陸はお茶を飲む。それを無視だと受け取ったのか、平田はなんだよ、と小さく悪態をついて己の家族に向き直ったのだった。


 昼食が終わり、午後の部が始まる。

 組み体操、よさこい、つなひき、と運動会はいよいよ盛り上がりを見せた。紅組も白組も一進一退に勝ち負けが入れ替わる。

 子どもたちは自分の組を応援し、勝ち負けに一喜一憂していた。

『続きまして、これが最後の種目です。六年生の徒競走……』

 アナウンスと共に六年生たちが席を立つ。スタートラインの横に集まり、事前に決められた通りに並んだ。

 平田と陸、そして先ほど平田が言っていた田中ともう一人の四人が並ぶ。陸がゆっくりと深呼吸すれば、ピストルの音と共に第一走者が走り出した。

 皆、声援を受けて一生懸命走っている。ピストルの音が高らかに響き白いすじを作るたびに、陸の心臓の音はド、ド、と重くなった。転けてみっともない所を見られやしないだろうか、平田のいう〝とろくさい〟田中くんよりも遅かったら。

 きっと笑われる。呆れた顔をされる。

 不安だけが膨らんで、ここから逃げ出したくなる。いっそ、お腹が痛くなってしまったと、ウソをつけば――。


 ――走ることなんてもっと簡単だと思うのだけど。


 くじらもどきの言葉がふと、記憶として頭に振ってきた。


 ――君が自分を信頼すればね。


 空を見上げる。

 真っ青だ。海よりは、軽やかな青だ。

 身体が軽くなるような、いい天気だ。涼しい風も吹いている。

 目の前の列が立ち上がり、スタートラインに立つ。

「いちについて――……」

 ピストルの音。子どもたちが駆け出す。運動場の外周を、我先にと。


「最終走者です」


 アナウンスの声を聞きながら、スタートラインに立つ。もといた場所から切り離されたような心地を抱きながら、陸は隣をちらりと見た。

 平田は自信ありげな様子で、観覧席の方を見ていた。

「がんばれー」

 誰かの声が聞こえる。スタートラインのそばに立つ先生がピストルを掲げた。

「いちについて――ヨーイ!」

 軽い破裂音に背中を押されるように走り出す。

 ――足が、軽い。

 そんな気がした。足を前に、ぐんぐんと進んでいく。歓声が遠い。

 前に、誰も、いない。

「くそっ」

 すぐ傍で平田の声が妙にはっきりと聞こえてきた。振り向きそうになるのを堪えて、陸は前を向いて、腕を振る。カーブを曲がればゴールテープを持つ先生が小さく見えた。


 ――いちばんになれる?


 ピストルの音が鳴るまでは思いもしなかった考えが脳裏によぎった。その瞬間、身体が熱くなる。平田はまだ後ろだ。すぐ後ろにいる。

 ちょっとでも気を抜けば、ゆるめれば、抜かれそうだ。

 でも――。

 足に力を込める。土を蹴る。腕を大きく振る。歯を食いしばる。

 あと五メートル、三メートル。


「あっ」


 すぐそばで軽い悲鳴が聞こえた。

 足がもつれ、よろめくのが分かった。それでも前を向いていた陸の視界に、平田が飛び出す。一歩、二歩、離れていく。

 ――まだだ!

 身体に力を入れれば、倒れはしなかった。そのまま残りの三メートルを縮めようと前に。この勢いでいけば、平田と並ぶとどうしてか、確信した。

『接戦でした! 一位、紅組! 二位、白組です!』

 アナウンスの声に急に身体の力が抜ける。

 勢いを失った足ががくがくと震えているのを感じながら、陸は二位の列に並んだ。睫毛に汗が溜まっているのを指で拭うと疲れがどっと押し寄せてきた。

「……」

 結局、一位にはなれなかった。しかし陸の胸中には、走る直前まで感じていた惨めな気持ちや、恥といったものは微塵もやってこなかった。

「お前……」

 不意に呼びかけられ、そちらを見やれば平田が立っていた。どこか信じられないといった面持ちで陸を睨みつけている。

「……平田くん?」

 流れる汗はそのままに陸が首を傾げる。

 不思議と彼に対する恐れもない。いつもならば、何と揶(か)揄(らか)われるのかとビクビクしながら彼の言葉を待っていたのに。それに対して、とうの平田は目の前の同級生に何かを言おうとして、言葉が見つからないようだった。

「あの、平田君……一位、おめでとう」

 声をかけてきたくせに黙りこくったままの平田に陸は迷った挙げ句、そう一言告げた。そうすればいつもの平田であるならばその言葉を聞いて自慢げな顔で「惜しかったな」だとか「あそこで躓くだなんてトロいな」と言ってくると思ったからだ。今の陸は、それでも良かった。

「……」

 しかし平田はその言葉を聞けば頬をさっと赤くさせ、何も言わないまま踵を返した。競技が終わり自分たちの席に帰ろうとする仲間の元へと向かうその背中には苛立ちが隠しきれていない。そこでようやく、陸は彼が何らかの理由で怒っているのだと悟り、胸が締め付けられるような感覚を抱いた。

「負けてやるのかと思った!」

 平田を迎え入れた仲間たちの声が聞こえる。平田は黙ったまま、閉会式の為の列に並んでいった。


「惜しかったなぁ!」

 閉会式を終え、解散した陸を待っていたのは父だった。朝よりも日に焼けたように見える陸の顔を見るなり、ばしんとその背を叩く。彼なりの慰めだった。

 他の生徒たちも家族に迎えられ、褒められていた。最後の競争で一緒に走った田中の姿も見かけた。両親に褒められているらしく、自慢げに笑っている。

「母さんは?」

 母の姿が見えないことに気づいて、陸は父に聞けばああ、と父が苦笑いする。

「飯を作りに帰ったぞ。陸の番まで待てば良かったのになぁ、アイツ」

 父が平田の父へと向かう。親しげに彼と一言二言話した後、戻ってきた。

「帰るか」

 親子二人、帰路に就く。小学校から港へ向かういつもの坂を下っていく。

「去年はビリだったのに、今年は頑張ったじゃないか。本なんぞばかり読んでいるんで心配してたが……」

 そう呟く父は妙に上機嫌だった。ずいぶんとビールを飲んでいたので、それもあるのかもしれない。

「好きな子でも出来たか!」

「そんなのじゃないよ!」

 父のからかいにぶんぶんと陸が首を振る。

「それに、一位じゃないし……」

「平田さんとこの坊主となら、二位でも充分だろ。あの子はスジがいいからなぁ」

「途中までは勝ってたんだよ。でも、つまずいちゃって」

「そこがお前のどんくさいところだな」

 ハハハ、と父が笑う。しかしすぐに、ふと真面目な顔をさせながら父は口を開いた。

「来年、中学生だな」

「うん」

「どうだ。何か運動部に入る気はあるか?」

 父の声にはどこか期待が篭もっていた。今日をきっかけにこの内気な息子が自信を持って、本ばかりを読まず運動に打ち込むのではと考えているようであった。

「まだどんな部活があるか、分かんないよ」

「サッカーなんかいいんじゃないか。それこそ平田さんが言っていたぞ。息子は中学に入ったらサッカー部に入るってなあ……どうだ、陸。一緒なら嬉しいんじゃないか? この前は喧嘩をしたらしいが、よく遊んでいるんだろ?」

「……まだ決めないよ。中学生になったらちゃんと考えるってば」

 陸のそっけない返事に、父はややがっかりした様子を見せた。しかしそれ以上は何も言わず、見えてきた我が家に向かって早足になるのだった。

 

 帰ってからシャワーを浴びれば、夕食が用意されていた。余った弁当のおかずと、味噌汁と白米だ。

「陸が徒競走で二位をとったんだぞ。なあ」

「はん、そうなん」

 父のはしゃいだ言葉を、母は一言だけ返すのみで興味を示さない。

「二位だぞ、二位。去年はビリだっただろ? すごいじゃないか」

「一位にはなれんかったんやろ。そんなんビリも二位も変わらんわ」

 母は鼻で笑い、味噌汁を一口飲んだ。無碍にされた父はまあ、そうだが、と口籠もる傍で、陸は黙って温めなおした唐揚げを黙々と食べていた。


「二位だった」

 翌日の振り替え休日、陸は秘密の場所に朝から訪れていた。

 くじらもどきは陸が話す昨日を興味深そうに聞いている。半身を岩場にもたれさせて、随分と涼しくなった十月の海辺の潮風を受け止めていた。

「でも、りくはそんなに悲しくない。そうだろう?」

「……わかる?」

「分かるとも」

 くじらもどきが笑えば岩場に座っていた陸が身を乗り出す。

 

「あのね、おれ……くじらもどきの言うとおりだった。生きていたうちで一番足が軽かったんだよ。風になったみたいで、気持ちよかった。……みじめな気持ちになんて、ならなかった」

 陸の声は一種のすがすがしさを孕んでいる。自分の助言が役に立ったということに、くじらもどきは満足そうだった。薄い色素の瞳をぱちりと瞬かせ、笑うのだ。

「はじめて出会った時より、りくはおおきくなった」

「うそだぁ、たった数ヶ月で背が伸びたりするもんか」

 けらけらと笑う陸とは対照的に、くじらもどきはどこか真面目である。柔和な微笑みの中に、小さな友人への敬意を孕んでいた。

「でも、ぼくと初めて会った時のりくは……ちっぽけだったよ」

 くじらもどきの言葉に陸はうーんと唸る。しかしやがてゆるゆると頷いた。そうかも、と零して偉躯の友を見上げる。

 ――少しだけ、彼との差が縮まった気がした。

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