第12話

 3


 子ども達のランドセルを置く棚の上に、様々な工作が置かれている。

 それらはどこかいびつで、色とりどりで、奇妙だった。その中には陸が作った万華鏡も置かれていた。

 すっかり日焼けした子ども達が、わいわいと会話を交わしている。夏休みをどうやって過ごしたのか、行ったところの話や捕まえた昆虫、つい一週間前に到来した台風

……話すことは山ほどあり、また子ども達は喋ることに疲れるなんてことは微塵も無かった。しかし先生はそんな子ども達の目の前でパン、と手を叩き黙らせる。

 彼らが自然と口を閉ざすのを待っていれば数日はかかってしまうということを分かっているような顔をしていた。

「皆さん、二学期も元気よく学校生活を送りましょう!」

 そう切り出せば、はーい、と気のない声が返ってくる。しかし先生にとってはそれも想定内というように、話を続けた。

「さて、二学期というわけで……十月の始めには何がありますか?」

「はい、運動会があります!」

 男子生徒の元気な声があがる。満足そうに先生は頷いて、黒板に向き直った。右手のチョークが、コツコツと固い音をさせる。

 運動会、と黒板に書かれれば、さきほどまで夏休みの話題で持ちきりだった子ども達――特に、男の子は一斉にその言葉に興味を示した。

「まずは徒競走の組み分けをします!」

 徒競走は学年全体でくじ引きをして、紅組と白組に分かれて走ることになっている。教卓の上に置かれた箱から、子ども達が紙切れを引いていく。そこに書かれた色を見て、子ども達は一喜一憂していた。

「紅組!」

「わたし、白!」

 口々にひいた色を子ども達が言い合う。陸も手を入れ、ひとつ紙片を取り出せば白の十二組と書かれていた。

「おい、陸」

 平田が声をかけてきた。

 すっかり日焼けした彼の手には、同じく紙切れが握られている。

「お前、何組?」

「えっと、白……」

「ヘェ」

 陸が答えた途端、平田はにやりと笑った。何か嫌な予感がして、陸は眉を寄せる。

「何番?」

「十二……」

 平田は少し驚いた顔をさせ、しかし愉快そうに己の紙を見せてきた。そこに書かれた文字を見て、陸は一瞬、さっと血の気が引いた心地がした。

「一緒だな。オレ、紅組の十二番」

「……」

「ま、お互いがんばろうな」

 ポン、と平田は陸の肩を軽く叩いた。そのまま仲間のところへと去っていくのを、陸は呆然と眺めるほか無い。

「オレも赤が良かった。あいつの組なんて、負けるだろ」

 仲間の誰かがハハハ、と笑う声を遠くで聞きながら、握りしめた紙を見下ろす。二学期早々、気が重くなりながら、席に戻った。


「雨かなんかで中止になっちゃえばいいのに!」

 岩場で大の字になりながら、陸が叫ぶのをくじらもどきは不思議そうに見つめる。少年のそばで肘をつきながら、運動会? と首を傾げた。

「みんなで走ったり、玉入れしたり、つなひき――……お前には分からないか。とにかく、動くんだ」

「イルカと追いかけっこならしたことがあるよ」

「そう、そういうのだよ。それで……何人かでヨーイドンって走って、一番早い奴を決めるんだけど」

「楽しそうだ」

 陸の説明にくじらもどきが素直に言えば、陸は勢いよく身を起こした。まるで世界の終わりのような顔をしているのに、くじらもどきはおやと声を漏らした。

「楽しいもんか! どれだけ頑張っても皆にぐんぐん置いてかれて、最後には一人っきりだ! たったちょっとだけ、ゴールまでの数秒が本当に嫌なんだ! みんなの前でびりっけつのおれが、走るんだよ……」

「それは、よくないこと?」

「皆が頑張れって言うけど、きっと心の中では笑ってる。わかるんだ、おれは今から惨めでたまらないよ!」

 陸が叫ぶのを、くじらもどきは不思議そうな顔で頷いた。そして暫く考えたのち、口を開いた。

「陸は泳ぐことが得意なのに、走るのは苦手なの? 少なくとも、ぼくよりは速く走れるとは思うけど……」

「だって、去年はびりっけつだった! そもそも、お前は走れないだろ?」

「そう。だから……陸は海を泳ぐことより、走ることのほうが身体は軽い筈だ。僕の見立てだと、この町の子どもの誰よりも早く泳げるようになりつつある。そんな君なら、走ることなんてもっと簡単だと思うのだけど」

 それが自然の摂理であるかのようにくじらもどきが言うので、少年の拗ねていた心は少しばかり、その気になった。投げ出していた足を睨みつつ、しかしすぐにくじらもどきに視線を戻して、陸は眉を寄せた。

「本当にそう思う?」

「本当だとも」

「びりっけつにならない?」

「君が自分を信頼すればね」

 くじらもどきの指が陸の頭を撫でる。濡れた指先が己の髪の毛を湿らすのを感じながら、陸はそっと目を伏せた。

「それでも、おれは泳ぐ方が好きだよ」

 まだ暑い日が続いている。子どもたちも、学校の帰りに海に飛び込んでは遊んでいた。しかし、いよいよ秋も深まれば海水も冷たくなり泳ぐことも出来なくなるだろう。

 ふと、くじらもどきが、自分と出会った頃に言っていた言葉を思い出す。伏せていた目を陸は彼に向けた。

「ねえ、くじらもどき。秋が終われば、お前はどこに行くんだ?」

「さて……どうしようか。南に向かっていたのだけど」

「ずっとここにいなよ」

 陸の言葉にくじらもどきは肩を揺らした。そしてゆるりと首を振って、ほんの少し寂しげに否定したのだった。

「そういうわけにはいかない。探し物もあるし、あまりここに居着くのも、よくないんだ。人間に見つかってしまうから」

「……おれはいいの?」

「りくはいいよ。だって子どもだもの」

「なんだそれ」

 くすくすと笑うくじらもどきに、陸はむっと唇をへの字に曲げた。

 わざとらしくあぐらをかいて、海を睨む。もし、自分が大人であったら、くじらもどきはどうしたのだろうかと考えかけて、やめた。その代わり、そばでくつろぐ人魚を見やってはひとつ、息を吐いた。

「せめて、黙ってどこかに行くなよな」

「ああ、いいとも――」

 不意に、くじらもどきが口を閉ざした。はっとした表情をさせ、海を睨みつける。様子の変わった彼に陸はぱちりと瞬きをさせた。

「どうしたの?」

「今、なにか」

 落ち着かないままのくじらもどきの眼差しは、じっと海原へと向けられている。そしてざぷんと海に潜ると、海面に大きな影を作った。陸もその影をじっと見つめ、ごくりと喉を鳴らす。ただならぬ事が起きているのではないか――。

「……くじらもどき?」

 おそるおそる、海の下にいる友人へと呼びかける。しばらくすると、くじらもどきはゆったりと浮かび上がってきた。

「何か、あった?」

「いや……」

 煮え切らない返事をして、くじらもどきが逡巡する。ややあって陸が見たこともないような、真面目な顔でくじらもどきは告げた。

「りく、今日はもう帰りなさい」

「うん……でも、どうして?」

「海の様子が妙だ」

 そんなことをくじらもどきが言うのは初めてで、陸は驚いて瞬きをした。妙、とはいったいどういうことなのだろうか。

「妙って……」

「分からない。だから、帰るんだ。いい子だから」

 さあ、とくじらもどきに促され、岩場を離れる。

「うん、またね」

「もちろん、また」

 後ろ髪を引かれるような思いで、獣道に入る前に海へと振り向く。くじらもどきは海をじっと見つめたままであった。

 疑問を抱えたまま帰り道の港に差し掛かれば、いつものように平田達は遊んでいた。家から持ってきたのだろう釣り竿を海に向けている。

「あっ、天(あま)貝(がい)じゃん」

 一人が声をかけてきた。すると、平田も顔を上げてこちらを認めたようだった。

「こんにちは」

「どこいってたんだよ」

「えっ……と、いたる浜」

 フーン、と同級生がつまらなさそうな反応を示せば、陸はそっと安堵した。いたる浜よりも向こうの秘密の場所を知られるわけにはいかない。まだ何も不審がられてはいない筈だ。

 そう思った瞬間。

「何しに?」

 平田が短く問うてきた。疑念を孕んだ眼差しに陸は軽く肩を跳ねさせ、しかし何事もなかったかのように、自分が来た道を軽く振り向く。

 

「何か流れ着いていないかなって」

「……」

「くじらとか」

「ばかだなお前。くじらが流れ着いたら、前みたいに大人が騒ぐだろ?」

 子どもたちに笑われ、陸も愛想笑いを浮かべる。平田だけが、笑わずに陸をじっと見つめていた。

「お前さあ、最近オレたちと遊ばねーじゃん」

「そう?」

「夏休みだって、あのイトコ? とずっといたんだろ? あいつ帰った?」

「うん……夏休みのあいだだけだったから。それに平田君だって、四国に行ってたじゃないか」

 陸が肯定すれば、ハ、と平田が鼻を鳴らす。

「あんな余所モンに甘やかされてるから、お前ってトロいんだろ」

「……」


 

「つーかアイツなんなんだよ、いきなりワケの分からねーこと言ってきて。オレら、友だちなんだから助け合うなんて当たり前だろ。なんであんなのに口挟まれなきゃいけねーんだよ。なぁ?」

 平田が仲間に同意を求めれば、彼らも口元をにやつかせて頷く。

 あの時に受けた非難を思い出し、己の中で出来た後ろめたさを平田の言葉とともに払拭しようとしているように見えて、その瞬間、陸の頭に血がのぼった。

「なおちゃんのこと、悪く言わないで!」

 思わず声を大きくしたのは陸だった。その勢いに平田は驚いたような顔で、陸を見た。片眉を上げ、おかしなものを見るような眼差しを向ける。

「は?」

「……な、なおちゃんはおれの親戚だから、悪く言わないでよ。ヨソ者だなんて」

 一瞬怯みはしたものの、きっぱりと言い切った陸の態度に、少年達は僅かにたじろいだ。いつもはどれだけからかっても何も言ってこない友人が怒りを露わにしたことに、戸惑っている。平田も同じく、豹変した陸に対して一瞬驚きを見せたが、しかし苦虫を噛みつぶしたような顔をさせて口を開いた。

「お前……変だぞ」

「え……?」

「っ、……生意気言うなよ、陸のくせにさ。お前なんてオレらが誘ってやらねえと、友だちなんていねーし、ぼっちじゃねーか。トロくせーし、何にも出来ねーのに」

 平田がそう吐き捨てた瞬間、陸の顔が赤らんだ。平田の、自分の態度を咎めるような目つきは、一瞬だけ陸を躊躇わせたがしかし、それでも、怒りが勝ったのである。

「お、おれは」

 負けじと平田を睨みつける陸に、平田が顔を引きつらせた。他の子ども達は突如始まりだした言い合いを、ひそひそと声をひそめながら成り行きを見守っている。

「別に、頼んでなんかいない! ほっておいてよ! 君なんか、花の水やりも出来ないくせに!」

 瞬間、平田が掴みかかってきた。背中に痛みが伝わる。陸も、今度はがむしゃらに暴れた。ごつ、と拳が顔にあたり、視界に火花が散る。自分の拳も、相手の身体のどこかに当たった感触がした。子ども達は突如として始まった取っ組み合いをワッと囃し立てている。しかしその声も陸にとっては遠く、今は目の前の平田に抵抗することだけが、全てだった。

 しかし流石に喧嘩なれしているのだろう、陸が必死に腕を振り回しても平田には叶わなかった。殴りつけられ、疲れきってとうとう動けなくなってしまった陸を見下ろして、平田は唇を真一文字に結んでいた。

 流石に誰かが「もういいだろ」と止めに入ったらしい。ぼやけて視界で見上げる平田の顔には、ひっかき傷がついていた。

「いくぞ」

 平田が言えば、皆もそれについていく。

「あれ、ほうっておいて大丈夫かよ」

「でも平田がさ……」

 ぼそぼそと交わす会話をぼんやりと聞きながら、陸は空を眺めた。ミヤア、ミヤア、とウミネコが円を描きながら飛んでいる。ざん、という波の音とともに、潮の湿った匂いが届く。どこかを切ったのだろう、血のにおいも、した。


「あんた、どないしたん」

 


 陸が家に帰ると、すでに帰っていたらしい母が息子の姿を見て声を上げた。擦り傷や痣だらけで、服も土に塗れた格好が彼女の逆鱗に触れたらしい。

「別に……」

「別にとちゃうやろ! こんなに汚して、何したんや!」

 鋭く甲高い声で叫びながら、母はずかずかと陸に歩み寄った。息子の肩をガッと掴めば、その勢いで痛みがはしる。陸が顔をしかめるのを見ればいよいよ母は激した。

「こんな格好で帰ってきて、みっともない! 恥ずかしいと思わんの!?」

「だって、平田くんが――」

「言い訳しな!」

 髪の毛を鷲掴み、母が叫ぶ。顔を引きつらせながら睨みつけてくる母に、陸は目をそらすしかなかった。

「ごめんなさい……」

「はよシャワー浴び! ほんまに信じられへん……」

 ついには泣きそうな声で息子を突き飛ばし、立ち去る母から逃げるように、陸は浴室に向かった。掴んで揺さぶられた頭が、痛い。

 


 その日の夕食は重苦しい空気のままであった。父は帰りが遅いらしく、テレビもつけずに親子二人はただ無言で食事をとった。母は小食で、陸よりも早く食事を終えた。

「ノロノロしてやんとはよ食べ!」

 一言叫んだあと、母は自分の皿をがしゃがしゃとシンクに置いて、自室に戻ってしまった。陸も急いで残りの白米を飲み込み、台所に己の皿を持っていく。そのまま、皿を洗うために蛇口を捻った。

 父が帰ってきたのは、陸が自室の布団に潜って暫くしてからだった。リビングから微かに、母の声が聞こえてきた。

 ――みっともない…………さんところの……近所が見てたら……恥ずかしい――

 ――子どもの……別に……考えすぎ……――

 ――そんなんやから……ありえへん……! ――

 少し湿っぽい掛け布団を引っ掴み、くるまる。母と父の言い争いをどうにかして聞こえないようにしようと、目を瞑り、丸くなった。真っ暗闇の中、息をひそめる。

 殴られた頬が痛い。地面で擦った足も、背中も、掴まれた頭も痛い。

 両親の声がさらに小さく、遠くなっていく。


 

 何かのうなり声がした。

 いや、声なのだろうか。

 それとも、海鳴りだろうか。

 とても遠い音だった。

 微睡みながら、その音を聞く。

 あれは、くじらもどきにも聞こえているのだろうか。



朝起きると、父も母もすでに出ていた。父は今日は休みであるはずなのにと訝しげに思いながら、食パンをトースターに放り込む。

 焼き上がるのを待ちつつ、テレビをつければどこかの海が映っていた。

『昨夜未明、太平洋沖で海底火山の噴火が発生した件で気象庁は――』

 きつね色に焼けたトーストにマーガリンを塗りながら、ニュースを食い入るように見る。

 海面からは白い煙が一筋立ちのぼっていて、もしかすると島が出来ているのではと目をこらしてみたが、それらしい影は見えなかった。

 テレビ番組で大人が火山を眺めながら話している中、リモコンで電源を切る。カフェオレ色のランドセルを背負い、壁に掛けていた鍵を引っ掴んだ。


 今日は半日で終わる土曜日であってよかったと、陸は心の底から思った。教室に入っても平田はこちらをちらりと見た後、何事も無かったかのように仲間と話していた。授業が終われば陸は誰よりも早く教室を出た。

 気がかりはあの海に住まう友人である。

 昨晩、微睡みながら聞いた海鳴りのような音は、遠くの海底火山が噴火した音だったのだろうか。ニュースではここよりいくらか遠い沖であったらしいものの、あの巨躯の人魚は夜はどこで過ごしているのか、陸は知らない。

「くじらもどき!」

 秘密の場所に辿り着くなり、友人の名を叫ぶ。するとすぐに、海面の下に大きな影が出来た。

「りく」

 ゆっくりと海面から現れた人魚に駆け寄る。彼の姿を見上げれば、特に怪我や火傷をしていないと分かり、陸はほっと息を吐いた。

「あのね、ニュースで海底火山が噴火したって!」

「ああ……海の底がひどく震えるのを僕も感じたよ。魚たちも怯えていた。しばらくは落ち着かないだろうね」

「くじらもどきは大丈夫だった?」

 くじらもどきの言葉に少々不安になった陸が問えば、くじらもどきは微笑み頷く。その表情にようやく安堵し、陸は岩場に座った。くじらもどきは少年の姿を見て、おや、と目を見開いた後。

「怪我をしている」

 と悲しげに呟いた。くじらもどきがそっと指で陸の頬を示せば、はっとした顔をさせ、陸は頬の痣を手のひらで押さえ、隠した。

「転けちゃったんだ」

「……本当に? 腕も、足も……どうしてこんなに……」

「ほんとに! ……ほら、運動会があるって言っただろ! びりっけつになりたくないから、早くなる練習! それで転けちゃって……うん、平気。慣れてるし……」

 くじらもどきを心配させまいと、陸が笑う。その表情にくじらもどきは薄い色素の双眸は何かを探るような眼差しを向け、それからゆっくりと首を振った。

「痛いだろう?」

 そう問われ頷いた陸の頭を、くじらもどきの指がそっと撫でる。相変わらず濡れた指先が少年の黒髪を濡らせば、陸はくすくすと笑い声をあげた。その頬が濡れているのに気づいてくじらもどきは口を閉ざし、逡巡した。

 くじらもどきの目は、身体の至る所に傷をつくったこの少年が痛々しいまでの虚勢を張っていることを見抜いていた。

 しかしこの磯でしか会うことの叶わない仲で、陸が己の目の届かない場所でどういった扱いを受けているのか分からない以上、その虚勢を受け止め、彼の頭を撫でることしか出来なかった。

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