第11話
なおちゃんが帰った翌日も、陸は小学校に行き花壇に水をやっていた。
連日の猛暑のせいだろうか、夏休みの初め頃より、花はずいぶんと元気を失ったように見える。
「おはよう」
「おはようございます」
用務員は相変わらず向日葵に水を撒いていた。あれほど華やかに咲き誇っていた黄色い群れも、いくつかは萎れ、花びらを落としている。
「いつも来てえらいね」
用務員がタオルで汗を拭きながら声をかけてくる。陸ははにかみながら、ジョウロに水を満たす。陸のクラスが担当する花壇を眺めながら、用務員は口を開いた。
「君のクラスの花壇が一番元気が良いよ。水やりを忘れちまうクラスなんかは、ほら、もう駄目そうだ」
おじさんが指さした先の花壇を見る。自分たちの花壇より枯れた花が多く、辛うじて咲いている花も元気が無い。
「誰も世話しないの?」
陸が眉を下げて問えば、用務員は小さく息を吐いて苦笑いを向けた。
「たまには水をやっているさ。でもな、ボウズ。それじゃあ課題にならないだろ。俺が毎回あいつらの為に水をやると『誰かがしてくれるだろう』って、それきりになっちまう。それじゃあ、先生の出した宿題にならんのよ。夏休みが終わって、登校した時に酷い有様の花壇を見るまでが夏休みの宿題だと思うね」
「それじゃあ」
ジョウロの水を受けてぽたぽたと雫を落とす花を見ながら、陸は考えた。自分が平田たちの代わりに水をやらなければ、もしかするとあの枯れた花壇のような結果を迎えていたのだろうか。
なおちゃんが祭りの夜に語ったことも思い出した。あの言葉は陸にとって、この花壇の件でもやもやとしていた心を幾ばくか晴らしてくれるものであった。
「ボウズ。お前がどうしてこうやって……ほとんどの日に水をやっているのか、俺は分からんが」
水筒の水を一口呷りながら用務員が続ける。
「今この花壇が立派に花を咲かせているのはボウズのおかげだよ。たいしたもんだ」
笑いながら用務員は向日葵の花壇に近づく。褒められたことに陸はぽつ、と顔を赤らめるのを横目で見つつ、用務員は過日、体育倉庫からくしゃくしゃの泣き顔で出てきたこの少年の姿を思い出していた。
あの後、それとなく担任の教師に伝えたものだが反応は芳しくなかったのだ。
面倒くさそうに用務員を見ながら「まあ、まだ子どもですし、ね?」「ふざけあいがちょっと過ぎただけでしょう」と言うばかりで、最後には「あなたよりもずっと私は生徒たちを見ていますから」と苛立った声で遮られたのである。
夏休みのはじめから半分以上、ここに水やりにきている少年を見かけ、そうなったいきさつを察するのは用務員にとっては容易であった。
ならばせめて、彼の勤勉さと優しさを褒めるのは大人の務めだと考えたのだ。
「台風が来てるってな?」
パチン、と音をさせて彼は独り言つ。パチン、パチン、と音と共に向日葵が揺れた。
「流石にこいつらでも風で倒れてしまうだろうからな。ボウズ、持っていきな。家の花瓶なり、好きな子にでも渡してやれ」
よっこらせ、と用務員が立ち上がる。その手には切り取られたいくつかの向日葵が束になっていた。
「うん……ありがとう、おじさん」
向日葵を受け取る。用務員は満足そうに頷いたあと、花壇の手入れを続けようと去って行った。
一週間ぶりの秘密の場所だった。
久しぶりすぎて、道中で誰かに見咎められはしないだろうかとヒヤヒヤしたが幸いにもそんなことはなく、陸は獣道を抜けて磯へと出ることが出来た。
最後に来た時と変わらぬ様子の岩場で、くじらもどきは日向ぼっこをしているのか横たわっていた。
「やあ、久しぶりだね。りく」
「久しぶり、元気だった?」
「もちろん」
くじらもどきは尾ひれをゆらりと動かした。よかったと笑いながら、陸は岩陰でTシャツを脱ぐ。
「泳ぐの、久しぶりだ」
「約束を守ってくれていたみたいだね」
「親戚が来ていたんだ。宿題もしないといけなかったし、祭りにも行ったよ。くじらもどきは何をしていたの?」
「浜の灯りは祭りだったのか。僕? ……だいたいは少し遠い沖合で過ごしていたよ。この時期は色んなものが漂っている。魚も、物も、色んなものが。それを見ながら、深いところにいたんだ」
「ふうん……?」
水着に着替えた陸が岩陰から出てぐっと伸びをする。軽い準備運動をしてから、ざぶんと海面に飛び込んだ。
その先には青々とした世界が、広がっている。
穏やかな揺らぎに乗るように足を動かし、少し深く潜ってみたあと、海面に上がった。ふう、と息を吐いて、身を任せる。
「〝足〟は鈍ってないみたい」
くじらもどきが満足げに笑う。彼は海には戻らず、横たわっていた岩場から身を起こしてこちらを見ていた。
彼の淡い色の尾びれは海水で濡れて、強い日差しのせいだろうか、目映く輝いている。それをちらりと見てから、陸は眩しそうに目を細めた。
「ねえ、くじらもどき。おれ、資料館に行ったんだ。……宿題のためにさ」
「シリョーカン?」
「えっと、海のこととか、町のことを勉強する場所。そこでストランディングのこと――……浜辺とかに打ち上がっちゃったイルカの話を見たよ。この町って、よくそういうのが打ち上がるんだって、父さんも言ってた。……くじらもどきの仲間も、そんなことあるの?」
「……フム、そうだね」
くじらもどきの声が少し、低くなる。その表情はどこか複雑な憂いを帯びている。
「ぼくたちは君たち人間には無い、海の流れを感じ取る力を持っている。たしか、君たちの道具にラシンバンという物があるだろう? あれと似たような働きを、僕たちは僕たちの内側に持っている。だから僕たちは迷わない」
くじらもどきが語り、一度言葉を切った。
「……何かの拍子にそれが狂う。海と海でない場所の境が分からなくなって、水の無い場所に打ち上がってしまう。……そんな同胞を、何度かは見たことがある」
「それ……どうなるの? くじらもどきは腕があるでしょ? 這ったりして、戻れるんだよね?」
陸の不安げな声に、くじらもどきは小さく首を振った。薄い色素の眼差しを海へと向けながら更に語る。
「残念だけど、殆どが戻れないんだ。ああなってしまったら、大抵がもう気がおかしくなってしまって、海に戻ろうとすらしなくなる。そのまま、弱ってしまって死んでしまう。その後は、空の者が全てを持ち去るよ」
二人の間に、波の音だけが響く。彼らの会話を聞いていたのだろうか、見計らったようにウミネコがミャア、ミャアと鳴きながら頭上を飛んでいるのだ。
不意に陸は、あの小さく見えるウミネコの影が、いやに不吉で恐ろしいもののように見えた。その影から逃げるように、海中へ潜る。
泡を伴いながら深くを目指せば、少年の影に驚いた魚たちが慌てふためくのが、眼下に見えた。そのまましばらく海中の大きな揺らぎを感じ、そして上昇していく。海面を破ればすでにウミネコは遙か向こうの小さな点に、成り下がっていた。
「悪いことではないよ。そういうものなのさ」
「それでも、さみしいよ。一人で死んじゃうなんて」
陸の言葉にくじらもどきは答えない。陸の言葉が、この偉躯の人魚を物思いに耽らせているようだった。
ひとしきり泳いだあと、陸は岩場に上がった。もうそろそろ五時のチャイムが鳴りそうな気がしたのだ。
「夏休み、終わっちゃうなあ」
ぽつりと陸が呟けば、くじらもどきは少年を見た。もっと遊んでいたいのにと零す陸のそばにあるものを見つけ、それを指さした。
「それは?」
「これ? ひまわりの花。学校で貰ったんだ」
興味深そうな顔のくじらもどきに、笑みを浮かべながら陸は一輪を拾い上げ、彼に差し出した。くじらもどきは少年が差し出したものを手のひらに載せ、暫く見つめた後、頬を緩ませる。
「ちいさい。かわいい」
「お前からしたらなんだって小さいだろ?」
「姉さんたちが髪につけていた貝殻みたいだ」
物珍しさと向日葵の見た目がいたく気に入ったのか、くじらもどきはうっとりとした様子で手のひらの黄色い花を眺めている。その様子に、陸は笑いながら残った花束を拾い上げて、友人を見上げた。
「そんなに気に入ったなら、全部あげるよ」
少年の申し出にくじらもどきはぱっと表情を明るくさせた、そしてはにかみながらおずおずと口を開いた。
「それならね、りく。おねがいなのだけれど」
ひまわりをあそこへ浮かべてくれるかい。くじらもどきが指さした先は潮だまりであった。陸は頷き、向日葵をそこに浮かべようと茎を短くしそっとそれを浮かべる。ぷかりと浮かぶ大輪の花が潮だまりの中でくるくると踊って、くじらもどきは満足そうにそれを眺め、海に浸かった尾ひれを気分よく揺らした。
「……嵐が来るね」
「え、分かるの」
ふと思い立ったかのように呟かれたくじらもどきの言葉に、陸が首を傾げる。くじらもどきは勿論、と頷いた。
「明日ぐらいには。海に近寄ってはいけないよ」
「くじらもどきは大丈夫?」
「深い場所にいれば穏やかなものさ。荒れ狂うのはいつも上の方だからね」
「じゃあおれは……本でも読んでいようかな。でも台風が来たら、このひまわり……無くなっちゃうな」
潮だまりに咲く向日葵を見下ろしながら陸はため息を吐く。
潮水に浸かっているのでどちらにせよ数日で駄目になってしまうのは理解していたが、それでも惜しいと感じるのだ。
「波にさらわれて、海の底へと向かうだけさ。きっとこれを見た魚たちは喜ぶよ」
くじらもどきが言うように、魚たちにも向日葵を美しいと思う心があるのかは分からなかったが、それならいいのかもしれないと己を納得させた。すると夕方五時のチャイムが鳴ったので、陸は置いていたシャツを手にした。
「また嵐のあとで、りく」
「うん、また来るよ」
シャツを着て、くじらもどきと別れる。くじらもどきはしばらく潮だまりの向日葵を、眺めているつもりのようだった。
翌日、夕方ごろから風が強くなってきた。
古い家の窓ががたがたと揺れている。雨が叩きつけられ、昨日まで真っ青だった空は今や灰色の雲が立ちこめていた。
父も母も、仕事を早く切り上げて帰ってきたらしい。
陸は自室で、本を読んでいた。本屋のおばさんが薦めてくれたあの本は夏休みの間に読み進めていって、いよいよ終盤に差し掛かっていた。
雷鳴と大雨、そして流れ着いたならず者達から逃れるべく、少年達は洞穴の中で身を寄せ合っている。彼らと同じように、陸は息をひそめページを捲る。ごうごうと唸る外の音を耳に、陸は物語に没頭していった。
夜のうちに台風は去って行ったらしい。
空は青を取り戻していたが未だに海はうねり、港に泊められた船がゆらゆらと覚(おぼ)束(つか)なげに揺れているのが見えた。波が大人しくなるまで、あの秘密の場所には行けないであろうことを残念に思いながら、陸は欠伸をかみ殺す。読み切った本をテーブルに置き、夏休みが始まる時に手渡された原稿用紙を広げた。
「ええっと、『十五少年漂流記』を読んで……」
鉛筆を握りしめ、授業で習ったとおりに書いていく。うんうんと唸りながら原稿用紙を埋めた頃には夕方になっていた。
壁にかけられたカレンダーを見る。数日後には二学期が始まってしまうことに気がついて、小さくため息を吐いた。
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