第10話
祭り当日、日が沈んだ頃にいたる浜に人々が集まり始めた。
今日ばかりは夜の漁に行く人達ですら皆休みをとっていて、漁師の大人たちはそれぞれ誂えた法被を身につけている。
ヨイヤサァ ヨイトサァ
太鼓が鳴り始め、神社の社から神輿が担ぎ出される。
胴には神社のご神木で彫ったというクジラの像が鎮座していた。漁師たちがそれを担いでいたる浜へ向かうのだ。
漁師たちのかけ声に合わせて、神輿が揺れる。波の装飾も相俟ってまるで荒れ狂う波間をクジラが泳いでいるようである。境内をひとしきり泳いだクジラの神輿は、いよいよ、いたる浜へと下っていく。神社から浜へのゆるやかな坂を、手持ち提灯を持つ漁師に導かれ、町の人々に迎え入れられながら、灯りがともる浜辺へ――。
ヨイヤサァ ヨイトサァ
提灯とろうそくの灯りのみが頼りの道を、太鼓の音と共に神輿は泳いでいく。
浜辺に辿り着き、柔らかな砂を散らしながら担ぎ手達はクジラを波打ち際へと運んでいく。彼らのくるぶしを波が洗い、彼らのつま先が波を蹴る。
かけ声と、手持ち提灯と共にクジラは暴れるように揺れ、観ている人間もそれを見ては囃し立てた。神輿の盛り上がりは最高潮に達し、担ぎ手達は腰まで海水に浸かる。いよいよクジラの神輿は高々と掲げられた。
神事が終われば、海から上がった担ぎ手達には酒を振る舞われる。
あとは神事の成功と日々を労る宴の時間だ。彼らの妻たちが明るいうちより準備をしていた寿司や肴をその場で振る舞うので、漁師の子どもたちはそのおこぼれを頂戴しながら浜辺に置かれた神輿によじ登ったり、手渡された花火で遊ぶのであった。
「すごかったね」
なおちゃんが感嘆の声をあげた。楽しみにしていたらしい神事を目の当たりにして、いたく感激したようだ。
「まるで本当のクジラがロウソクの灯りの中で泳いでいるように見えたよ」
「なおちゃん、そんなに気に入ったの?」
「うん。こんなの、僕の町では見られないよ」
大真面目に返しながら、羨望の眼差しで浜辺に置かれている神輿を眺める。
「ずっと続いているって言っていたね」
「うん……おじいちゃんも、寝たきりになるまでは祭りの担ぎ手だった。戦争のあとで、神輿を新しくしたんだって。あれはオレたちの神輿だって、じいちゃんが言ってた。おれは覚えていないけど、あの神輿に乗せてくれたってさ」
「陸くんも、担ぎ手になるの?」
なおちゃんの問いに、陸はうーんと唸り小さく首を振る。
「父さんたちみたいな漁師さんは、皆なるよ。でも――……」
「おっ、天貝じゃん」
聞き覚えのある声に呼びかけられ、そちらを向けば同級生たちがいた。彼らと共に、平田もいる。やはりこの祭りにあわせて帰ってきたのだと、陸は察した。
「こんばんは……」
「おい、陸。誰だソイツ」
平田がじろりとなおちゃんを見る。見かけない顔だと、警戒しているようだった。
「親戚。イトコだよ。うちに泊まりに来てるんだ」
「フーン……」
なおもジロジロと紹介された従兄弟を眺め、平田は面白くなさそうな様子を隠そうとはしなかった。おそらく一緒に祭りを回らなかった陸に不満を抱いているようである。その様子に陸が何も言えずにいると、なおちゃんが一歩踏み出した。
「はじめまして、陸くんの従兄弟の尚(なお)宏(ひろ)です。君たちは陸くんの――」
「あ、あのね、同級生だよ、なおちゃん。一緒のクラス……」
慌てて陸が伝えた言葉に、平田は少し驚いたようだった。なおちゃんは合点がいったのか一つ頷き、それから少し考える素振りを見せた後、口を開いた。
「ああ、せや……。君たち陸くんにお礼は言ったんかな? 君たちの代わりに陸くんは夏休みの間はずっと学校の花壇に水をやっていたみたいだけど」
いつもの柔らかな声と少し違った、どこか冷ややかな彼の声と言葉に、陸はえ、と声を漏らした。一方、質問をされた平田たちはギクリとした顔をさせたかと思えば、ちらりと陸を見たあと、なおちゃんを睨んだ。
「陸がやりたいって言うから――」
「そう、そう。天貝は花壇の水やりが好きだって。だからやらせてやった――」
「そうだとしてもね」
少年達の言い訳を、ぴしゃりと、なおちゃんが遮る。
「もし、そうだとしても、お礼は言うべきなんだ。自分のやらなければいけない事を誰かにやってもらったなら、きちんとお礼を言うことが世間の常識だよ。もしかして、お母さんやお父さんに教わらんかったの?」
なおちゃんがそう言い放てば、暗闇の中で平田の顔が一気に赤らんだように見えた。苛立ちと怒りに染まった彼の顔が、足下のロウソクに照らされている。しかし彼が何も言えずにいるのを見て陸は思わず、なおちゃんをちらりと見やったが、この従兄弟は表情や顔色を変えず、じっと目の前の少年達を見据えていたのである。
平田の取り巻きも物言いたげな、不満そうな顔でなおちゃんを睨みつけている。
こちらも自分たちに反論の余地が見出せずにいて、何も言ってこない。気まずい沈黙は、波の音をよりいっそう大きくさせた。
「言わないの? お礼」
「はいはいアリガトウゴザイマシタ! おい、行くぞ」
なおちゃんの追撃に、とうとう平田が言い捨て、踵を返す。
取り巻きたちもそれに従って、去って行った。よそもんがよ、と誰かが吐き捨てたのが陸の耳にははっきりと聞こえ、思わず唇を噛んだ。残された二人が顔を見合わせる。困惑した顔の陸に、なおちゃんは少し申し訳がなさそうに笑んだ。
「ごめんね」
「な、なんで謝るの」
「勝手に怒っちゃった。だってあの子たち、失礼やったから。大人げないな」
なおちゃんが小さなため息を吐く。しかし陸はぶんぶんと首を振った。
「あの、おれ、嬉しかったよ。……なおちゃんが羨ましい。おれだったら……ああやって、言い返せなかった……」
陸の言葉は途切れ途切れで、喋るごとに彼は俯いた。じわりと視界が滲むのを感じて、すん、と鼻を鳴らす。
「なおちゃんみたいに……なれたらいいのに」
ぱたぱたと砂の一部が濡れる。ぐっと手の甲で涙を拭えば、なおちゃんはそっと、陸の肩に手を置いた。
「陸くん」
「……」
「僕はね、陸くんのことを〝何も出来ない〟とか、〝誰かよりも劣っている〟とか、みじんも思っていないんだ。陸くんのお母さんも、君がどれほど物事をしっかりと考えているのか、気がついていないだけだ」
「……でも、おれ……」
「陸くんは友達、いる?」
「え……」
なおちゃんの問いに、陸は少し黙り込んだ。同級生の中に、友達と呼べる人間はいるだろうか。あまり、自信がない。――ただ。
「いる……今、ここにはいないけど」
ぽつりと呟けば、なおちゃんはホッとした表情を見せた。そして、少年の肩に置いた手にほんの少しだけ、力を込めた。
「きっとその子は、陸くんが自分は駄目だって言って、辛くなっているのを見たら悲しむと思う」
年上からの言葉に、陸はのろりと頷く。果たしてあの人魚はそういった悲しみを持ってくれるだろうか。どこかつかみ所の無い彼を想って、陸は目を伏せた。
「子どもはそろそろ帰れー」
大人が言い回る声が聞こえる。そこらじゅうで遊び回っていた子ども達は、名残惜しそうに帰路につき始めた。
帰ろうか。
なおちゃんに促され、二人も浜辺の砂を踏みながら未だ賑やかに歓談をしている父たちを残し、いたる浜を後にした。
次の日は何もせず過ごした。昼間にまたアイスを食べ、なおちゃんのお土産を買うために港に行った。町で唯一の土産物屋で買い物をした後、長閑な港の道を歩いて帰った。途中、いつもの所でたむろしている平田達を見つけ、彼らもこちらを認めたようだったが、睨んでくるだけで何も起こらなかった。
夕飯はまた豪勢なものだった。またいつでも来てええからね、と母がなおちゃんにしきりに言って、陸は何も言わなかったがこの時ばかりは、内心母に同意していた。彼が来る前に感じていた憂鬱は、全ては拭えなかったものの殆ど、残っていなかった。
最後の日、なおちゃんは朝早くの電車に乗る予定だった。
「もう帰るだなんて、寂しくなるなぁ」
車を運転しながら母が至極残念そうに繰り返している。
窓の隙間から入り込む潮風の匂いと温度が夏の盛りを伝えているのを感じながら、陸はなおちゃんと母親の会話を聞き流していた。駅に着けば、お盆の帰省から帰るのであろう人々が、改札を通っていくのが見える。
「陸くん」
ボストンバッグを肩に提げながら、なおちゃんが声をかけてきて陸は顔を上げた。
「また遊びに来るよ。元気でね」
「うん」
「それと――……もし、陸くんの気が向いたらあの自由研究の続き、僕が次に来たときに見せてよ」
母に聞こえないように告げられたなおちゃんの言葉に陸は目を丸くした。それからひとつ、大きく頷いたのだった。それを見て従兄弟も、ほっとしたように笑う。祭りの夜のように、ぽん、と軽く肩に手を置いて、楽しみにしていると告げた。
『――一番線、列車が参ります。こちら当駅止まりの折り返し……』
「それじゃあ、またね」
なおちゃんは手を振り、改札を通っていった。
陸も、彼に向かって大きく手を振り、その姿が列車を降りる人、乗る人の群れに交ざって見えなくなるまで見送ったのだった。
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