第9話
朝起きると、台所に食パンとサラダとゆで卵が置いてあった。食パンはトーストして食べるように、今日は夕方の五時半までに帰るという母からのメモを見つけ、陸はそっとため息をついた。
――いつもは朝ご飯なんて用意しないのに。
台所に並べられたサラダを横目に、陸は食パンの袋を開ける。
「おはよう」
なおちゃんも起きたらしい。すこしボサボサな髪の毛で、台所にやってきた。
「オハヨウ」
昨夜のこともあってか、なんとなく気まずいまま、陸が挨拶を返す。なおちゃんは何事も無かったかのように振る舞っていた。
「牛乳とオレンジジュースがあるよ」
「牛乳がいいな。手伝おうか?」
陸がなおちゃんの言葉に首を振りながら、トースターに食パンを放る。
「トースト焼くだけだから、いいよ。何枚食べる?」
「そう? 二枚お願い」
食卓を囲む。口数は少なく、なんとなくつけたテレビは終戦記念日の話題を流している。それをぼんやりと眺めながら、陸はトーストをかじる。
なおちゃんもフォークでプチトマトをつついていた。
「陸くん、自由研究のことなんだけど」
切り出したのはなおちゃんだった。陸が黙っていればなおちゃんは暫く逡巡したあと、やはり言うべきだという顔で続けた。
「陸くん、本当にいいの?」
「……」
「僕には遠慮せんでいいよ。陸くんがやりたいことをやるのがいいと思うんだ」
陸はなおちゃんの提案には答えず、コップの中の牛乳を一息に飲んで、席を立った。怒るわけでもなく、悲しむわけでもない。ただ寂しそうに笑って、陸は首を振った。
「母さんがせっかく買ってくれたから。あれでいいよ」
サラダの入っていた皿と、パン屑が残る皿を流し台へと運ぶ。なおちゃんも食べ終わった己の皿を持ってきた。
「片付けるよ?」
「いいよ。いつもやってるから。――……洗ったお皿、拭いて欲しいな」
陸が言えば、うん、となおちゃんが嬉しそうに洗ったばかりの皿を手に取る。乾いた布巾でそれについた水気を拭っていった。
「陸くんはえらいね。お皿もきちんと洗うし、学校の花壇に水をやるし」
「そうかな……」
白い膜のついたグラスをスポンジで洗いながら、陸が首を傾げる。
「おれ、いつも母さんに怒られてばっかりだよ。とろくさい、とか、なんにも出来ないとか。父さんだっておれにはもっとしっかりしろとか男らしくいろとか、家に引きこもるなって言うし……おれがえらいって思うのはなおちゃんの勘違いだよ」
洗剤の泡を水で流し、水気をきってなおちゃんに渡す。
「おれ、だめなんだ」
水を止め、かけていたタオルで手を拭く。
なおちゃんは黙って、陸をじっと見つめていた。
「――……今日は登校日なんだ。冷蔵庫にアイスがあるから食べていいよ」
「いや、帰ってきたら一緒に食べよう。僕は宿題をしないといけないから。それをやっつけながら待っているよ」
「うん」
居間に置いていたランドセルを背負う。いってらっしゃい、なおちゃんの声を背に玄関を出た。八月の半ば、空はいっそ恐ろしいほど青く、日差しは少年の肌を焼いた。
夏休みの中で、一日だけある登校日だ。
終戦記念日に合わせて、アニメ映画を見る。うす暗い体育館の中で、大きな船が燃えている。誰もがお喋り出来ない空気の中で、陸はスクリーンを見つめながら息をひそめる心地でいた。きっと、他の子どもたちも大なり小なりそうだったのだろう。
「平田っていつ帰ってくるんだっけ」
映画の時間が終わり、教室で千羽鶴用の折り鶴を折る。後ろの席では同級生たちがここにはいない友人について話し合っている。
「祭りの日って言ってたぞ。いいよなあ、登校しなくていいんだぜ」
すでに男子達は折り鶴づくりに飽きているようだった。陸はせっせと、折り鶴を作っている。ひとつ、ふたつ、そしてみっつめが出来たところで、授業が終わった。
昼過ぎ、帰りの会を終え家に帰るとなおちゃんは居間で自分の宿題を片付けている途中だった。
「おかえり、陸くん」
「ただいま」
ランドセルを自室に放り、あついあついと言いながら冷凍庫を開く。ぶわりと白い靄を吐き出したそこには、自分となおちゃんに用意されたカップアイスが並んでいた。
取り出し、スプーンを持ち出す。はい、と手渡せば、彼は宿題から顔を上げて嬉しそうに受け取った。
「今日は何したの?」
「体育館で映画を見たよ。戦争の映画」
「ああ、そうか。終戦記念日だから」
「つまんなかった」
アイスの蓋を開け、中蓋をめくる。完全に外したそれの裏側に少しだけついたクリームを暫く眺めて、それから遠慮がちにそれを舐めた。
「なおちゃんも見たことある?」
なおちゃんはスプーンでアイスの表面をこそぎながら、頷く。
「あるよ。きっとどこの小学校でも見てたんじゃないかな」
「ふうん」
削り取ったアイスを頬張る。冷たさが先にきて、甘さがじゅわりと口の中に広がる。
「なおちゃんの宿題って多い?」
「それはもう、たくさん」
なおちゃんが苦笑いを浮かべるのに、陸が軽く眉を寄せる。
「いつまで宿題とか、やらなきゃいけないんだろう」
「うーん、大学生かな。でも大人になっても宿題みたいなものはあると思う」
「うええ、やだ。ずっとじゃん」
「陸くんのお父さんも、毎日魚を獲ってくるでしょ。仕事も宿題みたいなもので……僕たちがやっているのは、その練習みたいなものだから」
カップの中のアイスはゆっくりと溶けていく。急いでそれを掬い上げながら、二人は甘いそれを平らげた。
アイスを食べながらふと、陸は自室の万華鏡キットを思い出した。暫く悩んだあと、決心したように立ち上がって、空になったカップを捨てた。
「もう、さっさとやっちゃおう」
カラフルな箱を自室から取りに戻り、箱を開ける。
スパンコールの入った小袋、紙筒と三枚の反射板などが入ったそれを睨みつければ、なおちゃんも宿題の手を止めてそれを眺めた。
「手伝おうか?」
「これぐらいなら簡単だよ。それになおちゃんも宿題があるでしょ?」
「そっか。分かった」
なおちゃんが笑って宿題に向き直る。
陸は机の引き出しにしまっていた淡い水色の折り紙に糊を塗りたくり、紙筒に貼り付けていく。ぴったりとずれないように丁寧に。
「お祭りがあるんだってね」
難しそうな数字の羅列を睨みながら、なおちゃんが切り出す。陸も説明書を眺めながら、頷いた。
お盆の最後に、いたる浜で祭りがあるのだ。
浜辺一帯に沢山のろうそくを置いて、夜通し灯りをつける。神社からいたる浜までの道もろうそくの灯りで照らされて、僅かだが屋台も出た。神事が珍しいものらしく、隣町や遠くからわざわざこれを見に来る人もいる程度には、盛大だ。
「去年は雨が降って屋台が出なかった。父さん達がおみこしを担ぐだけだったな」
「御神輿は担いだんだ?」
水色になった紙筒に、海の生き物シールを貼っていく。くらげ、いるか、さかな、くじら。キラキラとしたそれらが紙筒を彩っていった。
「うん。じいちゃんが言っていたけど、おみこしは絶対にやらないといけないんだって。戦争中もおみこしだけはちゃんとやったって言ってた。……ひいじいちゃんが子どもの時にね、大雨だからって一回サボったんだって。そしたら海の神様が怒って、魚が全然とれなくなっちゃったから……だからどんな時でもおみこしだけはしないといけないんだよ」
なおちゃんは顔をあげ、へえ、と声を上げた。
どうやらそういった話に興味があるらしい。
「去年も父さんたち、大雨の中でおみこしをしたんだ。びしょ濡れで帰ってきて、母さんすごく怒ったんだけど祭りだからしょうがないだろって」
「はは……」
反射板を三枚、てきぱきと組み立てる。テープをそれぞれに貼って、三角の形にあわせるのだ。
「なおちゃん」
軽い微調整をしながら、陸がなおちゃんに呼びかける。
「お祭り、行こうよ」
「それは、嬉しいけど……陸君は友達と一緒にいかなくてええの?」
「うん。約束とかしてないし」
陸の返答にどこか難しい顔をしながら、なおちゃんはそっか、と頷く。
陸は反射板の三角を紙筒の中に入れて、底につけるキャップの中にスパンコールを流し込んだ。それが漏れないようにアクリルの板を嵌めて、そのまま紙筒の上下にそれぞれのキャップをはめ込んだ。
「できた」
出来上がった万華鏡を覗き込む。手の中でゆっくりと回してみると、中のスパンコールが不思議な模様を作り出している。水色、銀色、青色、黄色。回すたびに万華鏡の中は、めくるめいて陸を楽しませた。
「どう?」
「きれい。きらきらしてる」
「見たい」
「ふふ」
まだ待って。陸ははにかみながら夢中で万華鏡を覗き込んでいる。そしてようやく、従兄弟の方を見れば、従兄弟は嬉しそうにこちらを見て笑んでいた。
「ほら、見てよ」
「どれどれ」
万華鏡を受け取ったなおちゃんがそれを覗く。わあ、と軽く声をあげてはゆっくりと回しているのを横目に、陸は余った紙切れを片付けはじめた。
「晴れるかな」
万華鏡を覗いたまま、なおちゃんが言う。
「天気予報はやってるかな?」
陸はリモコンを拾い上げ、電源をつけた。自分たちの会話を聞いていたかのようにテレビ画面が天気図を映し出す。
「南シナ海上では台風十四号が発生する見込みで、勢力を強めながら徐々に北上し、来週末には日本列島に接近するとみられています。それまではおおむね真夏日になる予報です。気温が高くなるため熱中症には充分注意して――」
「台風だって」
「でも明日、明後日は晴れるみたいだね」
なおちゃんがほっとした様子で頷く。コトリと万華鏡を置いて、麦茶を呷った。
「じゃあ、お祭りを楽しむために宿題を終わらせないと。陸くんは?」
「おれも、あとは算数ドリルがちょっとと読書感想文だけ」
ドリル持ってくる。そう言って陸が立ち上がり、万華鏡を手に再び自室へと戻る。テレビ番組は子どもと行くレジャー特集を流し始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます