第8話
企画展だというのに、自分たち以外誰もいない。
第一展示室の中央にはイルカの頭の骨格標本がいくつか並べられている。
「これは瀰境町(みさかちょう)の至(いたる)浜(はま)にストランディングしたイルカの群れの頭部骨格標本です……一度に何匹も漂着してしまう現象を、マスストランディングと呼びます」
「これ一度にぜんぶ流れ着いたってこと? 2012年いたる浜に漂着の六頭……」
まるで鳥の頭のような頭骨を眺める。皮膚も肉もなにもかもを失って、がらんどうになった眼窩が自分を見ているような錯覚すら覚える。
展示室の壁にはパネルが貼り付けられていた。漂着したイルカや小さなクジラの写真や、解説が書かれている。
そしてガラス張りの展示ケースには、古い巻物が拡げられているのを見つけた。
「これ、なんだろう」
「古い絵巻物だ……どうやら江戸時代のものらしいね」
絵巻物のには骨と皮だけというに相応しいような痩せ細った人々が、項垂れている。落ちくぼんだ目つきに、異様に膨らんだ腹と棒のような手足の気味悪さに、陸は思わず一歩、後ずさりをした。
「飢饉の様子だな、これは」
「ききん?」
「米やお魚が捕れなくなってしまうことだよ」
「そんなの、死んじゃうじゃん」
「うん。沢山死んだだろうね」
どうしてそんな事を描いている絵がここにあるのだろうと暗鬱な気分になりながら、絵巻物を追っていく。次の絵は浜辺に人々が集まっている絵だった。そして人々の中心には、浜辺に漂着したのだろうクジラが横たわっていた。
「ストランディングだ」
陸が思わず声をあげる。
「つまりこれは、江戸時代のストランディングを描いたものなのか……」
なおちゃんも興味深げに、広げられた巻物を覗き込む。まだ続きがあるようだった。
浜辺に流れ着いたクジラは、次の絵では骨だけになっていた。あれほど痩せ衰えていた人々の顔は明るくなり、クジラの骨を拝んでいる。
「ねえ、これなんて書いてるの?」
「うーん、掠れていて……そもそも僕、古文なんて読めんよ」
「なおちゃんにも読めないもの、あるの?」
「あるさ」
陸の揶(か)揄(らか)うような声に、なおちゃんが軽く唇を尖らせる。しかし気を取り直して、多分、と彼は前置きした。
「流れ着いたクジラを、彼らは食べたんだ。食べて、飢えを凌いだんだよ」
「……」
最後の絵は残ったクジラの骨を、神社のような建物に運び込む人々の絵だった。圧倒されたような顔で陸はそれを眺めていたが、ふと気がつき、クジラの絵を指さした。
「クジラの絵、色が塗ってないね」
「本当だ。海や建物には色を塗ってるけど……うん、海の色と混じってしまうから、そのままにしたとか、かな」
なおちゃんの言葉になるほどと頷く。展示ケースの横に貼られたパネルを見て、なおちゃんが声に出して読んだ。
「これは瀰境町(みさかちょう)で一番大きな至(いたる)神(じん)社(じゃ)に奉納されていた江戸時代の絵巻物です。ここには、当時の瀰境村……今の瀰境町で起こった飢(き)饉(きん)と、漂着したクジラを食(しょく)糧(りょう)にすることで飢饉から脱した出来事が描かれています。作者は不明ですが、至神社の神職の一人が書いたものだと推定されており……」
なおちゃんの声を、ピンポーン、と館内放送のチャイムが遮った。
『本日は、瀰境町資料館にご来館いただき、誠にありがとうございます。当館の開館時間は、午後、五時までとなっております……』
なおちゃんが腕時計を見る。
思った以上にここで過ごしていたらしく、もう四時半だった。
「……帰ろうか、また見たくなったら来ればいいよ」
「うん……」
少し残された展示を横目で見やる。
『――海に漂うプラスチックごみが海洋生物に与える影響は深刻です。これは海から打ち上がったクジラの口の中を写した写真。釣り具、ブイの欠片が詰まっています』
流れているビデオは、どことなく古さを感じられる。僅かにノイズが混じったそれを、ブラウン管のテレビ画面が延々と繰り返している。
ほとんどの人は見向きもしないだろうそれを、少年は半ば義務のように数秒眺めたものの、哀れにも浜辺に打ち上がってしまったクジラの、無遠慮にめくられた口に詰まったゴミという絵面のグロテスクさにすぐに目をそらした。
資料館を出ると、むわりとした熱気が陸の頬を撫でた。
まだ明るく資料館のある高台からは瀰境町の港や、その沖合を眺めることが出来る。
海へと出る漁船、海から帰ってくる漁船の小さな影が海原に白いきずを作っているさまが見えた。
「なおちゃん、おれ、自由研究はストランディングのことにする」
「うん、それなら良いものが出来そうだね」
なおちゃんが嬉しそうに言うのに、陸が相槌をうつ。そして、自分はこの年上の従兄弟のことを母が絡まないうちは別に苦手とは思わないと気がついた。
むしろ、自分の話を聞いてくれるという点においては、親しみやすいとさえ思う。
「ねえ、なおちゃんはどうして泊まりにきたの?」
ふと陸は抱いていた疑問を、なおちゃんに向けた。すると彼は少し目を見開いて、それから苦笑いを浮かべたのだ。
「親がさ、仕事が忙しいんだ……っていうのは、中学生までの理由」
「……じゃあ、今年は?」
「うーん……家から離れる時間というか、うん。今年の夏にはここに行こうって思ってたんだ。僕はここが好きなんだろうな」
「でも、何もないよ。なおちゃんとこにも海はあるでしょ?」
「あるよ。でもこんなに綺麗じゃないし」
時々車が走るだけの道を、二人歩いて行く。
「おれは、なおちゃんが羨ましい。だってなおちゃんの住んでる都会って、あの資料館より大きな博物館とか、水族館とか、動物園とか、それに遊園地もあるんでしょ。ずるいよ」
「それを言われると反論が出来ないなあ」
なおちゃんが笑うのを見て、陸が唇を尖らせる。まあ勘弁してよ、と言われれば小さく頷いた。
「でも、しばらくはここに来られないな」
「どうして?」
「受験だしさ。勉強しなきゃ。それにどこの大学に行くかも分からないし」
「受験って、テスト?」
「そう。大学に入るためにテストを受けるんだ」
なおちゃんが肯定し、小さくため息を吐いた。頭の良いなおちゃんでも夏のあいだじゅう勉強をしなければいけないことを知って、陸は肩を落とす。
「おれもしなきゃだめ?」
「うーん、いつかはね。大学に入るなら……」
港沿いの道に差し掛かる。帰ってきた船から、獲った魚が詰まったトロ箱が運び出されている。蒸した熱気と魚の臭いが混じり合って、あたりに漂っていた。
「あのね、なおちゃん」
なおちゃんの住む街をずるいと言ったけれど、と陸がぽつりと呟く。なおちゃんは陸の歩幅に合わせてゆっくりと歩きながら、少年の言葉を待った。
「おれも、この町は嫌いじゃないよ。海以外なんにもないけど、それに――」
そう言ったきり、心のうちに浮かんだのはやはりあの、大きな人魚のことだった。なおちゃんに言えば信じてくれるだろうかとふと思い至り、しかしくじらもどきの困ったような顔を思い出したので、言葉を飲み込んだのだった。
家に帰ると、母はすでに帰ってきていたらしい。居間のテーブルにカラフルな箱が置いてあるのを見つけ、陸は目を見開いた。
「これ……」
「自由研究、買ってきたったで」
吐き捨てるように母に告げられ、陸は全身からさっと血の気が引くような感覚に襲われた。隣ではなおちゃんが、え、と戸惑ったように声を漏らしたのが聞こえた。
「え、でもおれ、今日はなおちゃんと――」
「なおちゃんごめんなぁ、陸の宿題の面倒なんか見てられへんやろ? この子ほんまにトロくさくて」
「いえ、僕は面倒なんかじゃないですよ」
なおちゃんが母の言葉をやんわりと否定するのを聞きながら、陸が箱を拾い上げる。
「ほんまに優しいなあ。ええねんで、気ぃつかわんでも……陸! あんた、なおちゃんにお礼言うたん!?」
「あっ、あ、ありがとう……」
なじられ、万華鏡手作りキットと書かれたその箱を取り落としそうになりながら、陸はなおちゃんに向かって頭を下げた。
目の前の従兄弟は困り顔で、いいんだよ、そんなのと言うばかりである。
「ほんまに気の利かん子で……ちょっとはなおちゃんを見習って欲しいわ。ああ、お腹減っとるよな、夕飯の準備するさかい手洗ってきてや」
そう言って母が台所に引っ込んだので、居間に少年二人が取り残された。
「……」
先に動いたのは陸だった。
逃げるように自室に戻り、手に持っていた箱を机に放り投げる。箱が凹む音に唇を噛んで立ち尽くせば、コンコンと控えめなノック音が部屋に響いた。
「陸くん……?」
扉を少し開けて、なおちゃんが顔をのぞかせる。陸が何も答えずに立ち尽くしたままであるのを見て、彼はやはり申し訳なさそうな、困った顔をさせるのだった。
「陸くん、おばさんに言ってあげようか」
僕のことはいいから、となおちゃんが聞けば陸はハッとした顔をさせ、しかしすぐにその表情に影を落とした。
「いい。おれ、これやるから」
はっきりと言えば、なおちゃんは眉を寄せる。
「でも――」
「なおちゃん、ごはん行こう。母さん待ってるよ」
何かを言いかけたなおちゃんを遮り、陸が部屋を出る。なおちゃんは、もうなにも言わなかった。
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