第7話
いよいよ、盆に入った。仏壇には夏野菜や落雁が供えられている。
「明日の朝になおちゃんが来るから迎えに行ってくるわ」
夕食を食べている陸に、そう告げた母の声色は機嫌の良さをにじみ出している。
「わかった……」
陸が頷き、胡瓜の浅漬けを囓る。少し考えた後、口を開いた。
「なおちゃん、いつまでいるの?」
「五日か六日ぐらいやな」
「ふーん……」
父はまだ仕事から帰ってきていない。それきり会話もないまま陸が夕食を食べていると、先に食べ終わった母は自分の器を持って台所に引っ込んだ。
なおちゃんは、従兄弟だ。
母の姉の長男で、本当の名前は尚(なお)宏(ひろ)という。高校二年になる。
ここから新幹線と電車で半日ほどかかる都市に住んでいるのだが、今年、お盆の頃に家に泊まりに来ることになっていた。これまででも何度か、そういうことがあったがお盆の時期に来るのは初めてだった。
陸は彼が来ることに気が進まない。
「陸、はよ食べて片付け!」
銀色の缶を握った母がそう言い残し、彼女の自室に戻る。追い立てられるように白米を掻き込み、器を重ねて台所へ運ぶ。そのまま蛇口を捻り、シンクの中で積み重なっている食器を洗い始めた。
くじらもどきとは暫く会えない。どうして彼がお盆の間は来てはいけないと言うのか陸には分からないが、彼も来ないと言っているのだから言うことをきくべきだろうと己を納得させた。
翌日の夕方、母につれられて瀰境駅(みさかえき)に車で向かえば、なおちゃんは今しがた到着したようだった。大きなボストンバッグを提げて、駅のロータリーで迎えを待っている姿が見えた。
「なおちゃん、よう来たなぁ」
「よろしくお願いします、おばさん。陸くんも久しぶり」
「陸、バッグ預かったり」
「うん」
「ありがとうな」
なおちゃんは礼儀よく一礼し、後方座席の陸にバッグを渡した。そして開かれた助手席のドアに乗り込む。カチリとシートベルトをしめる音がした。
「お姉ちゃんは相変わらず忙しいみたいやなぁ」
「あはは、仕事の人手が足らないみたいで……」
家へ向かう道を走りながら、母となおちゃんが喋っている。陸は窓から見える海をぼんやりと眺めながら、それを聞き流していた。
「今日はご馳走作るさかい、よう食べてや」
母の声は相変わらず上機嫌だ。はい、と明るく応えるなおちゃんの隣で、陸は誰にも聞かれぬように小さく息を吐いた。
夕食は本当にご馳走だった。これだけは少し嬉しい。
エビフライに、からあげ、刺身と、陸の誕生日ですら出されないようなメニューの多さである。
「なおちゃん、来年は大学受験やんなぁ」
「はい、いい加減に受験勉強しろって言われてますよ」
「なおちゃんは頭ええから、どこでも受かるやろ。行きたい大学とかあるん?」
母となおちゃんの会話を聞きながら、大皿に盛られた唐揚げのひとつを取る。二人の会話を聞いても、小学生の陸には、なおちゃんの歳でもまだ勉強しなければならないのかという気持ちしか浮かばなかった。
「まだちゃんと決めてはないんですけど、理系の分野に行きたいです」
「偉いなぁ、お姉ちゃんもなおちゃんみたいな息子もって鼻高々ちゃう? ほんま羨ましいわぁ」
うちの子やったらよかったのにと母が冗談めかして言えば、なおちゃんは謙遜する。
――明日は何をしようか。
一方、のろのろと咀嚼しながら、陸はくじらもどきに会えない明日の事を考えていた。明日は押しつけられた水やり当番だから朝早く学校に行って、それから。
「せや、陸。あんた宿題どうしてんの! どうせ自由研究、手つけてないんやろ?」
「え……」
急に話を振られて、陸ははっと我に返る。そうなん? となおちゃんは首を傾げて陸の返答を待っている。手をつけていないのは確かだが、そろそろテーマを何にするか決めようとは思っていた。
「えっと、まだ、だけど……」
「夏休みの終わりになって泣きついてもしらんからって言うとるやろ! ほんま、この子なんも出来へんから……」
「……」
「そうかな、陸くんはしっかりしてると思いますよ。でも自由研究に悩んでるならお手伝いしようか?」
「そんなん悪いわ! せっかくこっちに来てるんやから、気にしやんでええよ」
母の勢いに圧され、陸が俯く。自分の意思を置いてけぼりにされる感覚が腹に落ちてぐるぐるとうねるのを感じながら、陸はこれ以上主導権を握られたくは無いと、慌てて口を開いた。
「あ、あのね」
「うん?」
「明日、自由研究のことを決めようと資料館に行こうと思ってて……」
「あんた、またあんな所行くん」
「……」
「それなら一緒に行こうか。おばさん、資料館なら自由研究のテーマが見つかると思いますから、大丈夫ですよ」
「そう? まあ、なおちゃんが言うなら……」
母の声色がトーンダウンしたのに、陸がほっとした顔をさせる。すると玄関の方でけたたましく扉が開く音がした。
「おー、なおくん来てるのか」
仕事から帰ってきた父の声だ。お邪魔しています、となおが腰を上げる。居間に来た父はよう、と笑いながらなおちゃんに片手を上げた。
「なおくんが来ると夕食が豪勢になるなあ。おい、酒」
父の言葉に母が無言で立ち上がり、冷蔵庫のドアを開ける。あぐらをかいた父に発泡酒の入ったグラスを手渡し、母は空いた自分の皿を片付け始めた。
翌朝、晴れた空を見上げつつ、なおちゃんは機嫌良く笑った。
「ここはいい眺めだなぁ」
すでに開門している小学校の門をくぐり、二人は校庭の花壇を目指す。彼らを向日葵の群れが迎えた。
「ここ、陸くんが毎日水やりしてるん?」
「当番の時だけだよ。それに花壇のあの部分だけ」
なおちゃんの質問にぶっきらぼうに答えながら、陸がいつもの棚からジョウロを取り出す。そばの蛇口を捻れば、冷たい水が出てきた。
「それって、今日だけ?」
「明後日も。それから一日飛んで……」
「他のみんなはしないの?」
陸の不機嫌そうな声に何かを感じ取ったのか、なおちゃんが首を傾げる。
「女の子たちはやるよ!」
「……女の子は?」
「平田たちが、おれにやれって言ったから。平田は四国に行くから出来ないって。だから代わりにやれって言われて、そしたら――」
陸の言葉に、なおちゃんは驚いたようだった。え、と小さく声を漏らして、そして一言それっていいの? と聞いたのだった。
「イヤだよ。でもイヤって言ったらきっと殴られるし」
「……陸くん、先生には言った?」
「言うもんか。言っても、無駄だから。それに良いんだ」
ジョウロに水が溜まる。両手でそれを持って、僅かに水を零しながら、花壇へと移動する陸にならって、なおちゃんもジョウロに水を溜め始めた。
「だって考えてもみなよ。あいつら、おれに押しつけなくても水やりをサボって、この花壇の花を全部枯らしちゃうよ。そっちのほうが、イヤだ」
陸のきっぱりとした声に、なおちゃんはなにも言わない。ややあって、そうだね、と陸の言葉を肯定して、年下の従兄弟の反対側で水をやりはじめた。
「きれいな花だね。この暑さでも生き生きしてる。陸くんが欠かさず水をやっているからだよ」
白いニチニチソウの花に柔らかく水が降りかかる。なおちゃんの言葉が妙にくすぐったくて、陸は黙ったまま目の前のマリーゴールドの花に水をやった。
家から歩いて二十分ていどの所に、資料館がある。この町の歴史資料や、海についての展示があって、この小さな町にしてはなかなかの規模だ。
一年の内で何回かは小さな企画展もやっている。小学校の遠足といえばだいたいはここに来るので、町の子どもたちにとっては目新しく楽しい場所というわけでは無かったが、陸はむしろこの施設が好きだった。
陸となおちゃんは、家でお昼ご飯を食べたあと、そこへ向かった。
「学生一人と小人一人、お願いします」
小さな水槽がある入り口、そのカウンターでなおちゃんが入場券を買う。切符のような入場券を受け取り、通路に入った。
資料館はよく冷房が効いていた。ひんやりとした空気がここに来るまでに火照っていた身体が冷やされる。
「涼しい……」
各展示室に向かうためのホールには、陸となおちゃんの他に一人か二人ほどしかいない。備え付けられたベンチに座ってうつらうつらとしている老人、そして若い女性の姿が見えたが、彼女は資料室に入っていった。
ホールの中央には、相変わらずあのザトウクジラの骨格標本が天井から吊り下げられている。自分こそがこの資料館の主だと言いたげに、見下ろしているようだった。
「企画展、瀰境町(みさかちょう)のストランディング……」
入ってすぐの立て看板にポスターが貼られているのを見つけた。イルカの骨格標本の写真と、小さな説明文の書かれたそれを見て陸が首を傾げた。
「すとらんでぃんぐ?」
「クジラやイルカが浜辺に漂着してしまうこと、だって。どれどれ……『瀰境町は国内でもクジラやイルカの漂着――ストランディングが多いとされる場所です。その事例は戦国時代から遡り、町の古い資料にも大きな鯨が漂着したことを示すものがあります。本企画は瀰境町とストランディングに関する資料を集め――』」
「……」
陸がきょとんとした顔をさせているのを見て、なおちゃんは逡巡する。
「つまり……どうしてクジラやイルカがこの町に流れ着くのかってこと」
「流れ着く……」
ふと、くじらもどきと初めて出会った時のことを思い出した。岩肌にくったりと横たわったあの大きな人魚。今は何をしているだろうかと考えながら、まずは常設展示を回っていく。代わり映えのしない展示だが、それでも楽しい。
「それで……陸くんは自由研究で何がしたい?」
展示室からホールに戻ったところで問われ、陸の肩がびくりと跳ねる。
我に返り、目を泳がせた。
「え……ん、と」
「……実は考えてたんじゃないかな。陸くん、あの時なにか言いたそうだったから」
「海……のこと。だから何かないかなって、資料館に」
浮かぶザトウクジラの骨格標本を見上げながら陸が答える。
「そういえば、去年は何をしたの?」
「母さんが用意したよ。紙粘土で作る貯金箱キット。それならどこにも連れて行かなくていいからって」
ホームセンターで売っていた恐竜の貯金箱だ。そういえばあれをどこにやったっけ、と頭によぎったが恐らくもう捨てられているだろう。そんな事を考えながら、陸は再びポスターを見つめ、口を開いた。
「でも、これ見たい。どうして流れ着くんだろう。……うちの町に神社があるでしょ。あそこの手前にある浜って、いたる浜って呼んでるんだ。あそこは色々と流れ着くって、父さんが言ってたよ」
「よし、それなら行ってみよう。陸くん、それは立派な自由研究のテーマになるよ。だから見に行こう」
立て看板が指し示すのは第一展示室だった。
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