第6話

 少し重たくなったリュックを跳ねさせ、少年は走る。

 向かう先はいつもの場所だ。浜辺の端から茂みに潜り込み、獣道を抜け、岸壁に囲まれた小さな磯へ。ごつごつとした岩場は強い太陽光に照らされ、影を濃くしている。波が岩を打つ音を聞きながら、陸はやや高くなった岩の上に立った。

「くじらもどき、いる?」

 穏やかに揺れる海面へと呼びかける。

 その下で、大きな影が動いたように見えた。やがてそれは色を濃くして、泡沫がブツブツと浮かび上がっては弾けていく。

 ざぱん、少し離れたところで水飛沫があがった。

「やあ、りく。良い天気だね」

 海の中から友人がやってくる。淡い紅色の髪は濡れ、薄い色素の双眸はきらきらと嬉しそうに輝いていた。やがてゆっくりと岸辺に近寄れば、巨躯の友人はいつも通り、岩場に腰掛けたのである。

「うん」

 立っていた場所に座り込み、リュックを下ろす。

 くじらもどきが空を見れば太陽はまだ真上にあり、おや、と首を傾げた。

「今日はずいぶんと早い時間に来て、どうしたんだい」

「今日から夏休みなんだ。だから毎日……毎日は無理かもだけどたくさん会えるよ」

「ナツヤスミ?」

「学校、しばらく行かなくていいんだ。宿題はあるけどさ」

「おや、それは嬉しいね」

 くじらもどきがくすくすと笑う。そして隣に座る彼が強い陽光に晒されないように、己の身体で影を作った。

「宿題、たくさんだ」

 リュックを開けてごそごそとドリルと筆記用具を取り出す。文字を書き出した友人を眺め、そしてくじらもどきは口を開いた。

「ナツヤスミは宿題をする季節なんだね」

「うーん、宿題はしなきゃいけないんだけど、すぐに終わるよ。終わったら、みんな遊びにいく」

「遊びに?」

 

「うん、色々やるよ、皆。山にいったりとか、海にいったりとか。遠くに旅行にいく奴もいるし……宿題をやらない奴もいる」

「ふふ、悪い子だ」

「みんなしたくないんだ。面倒くさいし、沢山遊びたいし。でも怒られるからね」

「したくないことをすることは、僕は不思議に思うよ。でも人間はよく、したくないことをする」

「……くじらもどきは、したくないことをする人間に会ったことある?」

 くじらもどきの言葉を不思議に思い、陸が顔を上げて問う。くじらもどきの表情は影で読み取れない。

「うん……皆、苦しそうだった。それもすぐに消えたけれど」

「消えた?」

「……これはヒトの字?」

 話題を変えたくじらもどきがノートを指させば、ぱたりと水滴が落ちてきた。こら、と叱れば慌てた指が引っ込む。

「うん、漢字ドリル。なぞって漢字を覚えるんだよ」

「これは何て読むの、りく」

 それは宝、という漢字だった。

「たから」

「タカラ」

「うん、お宝……宝石とか、お金とか。大事なもののこと」

 この人魚に宝といったものが分かるのかと疑問を抱きながら、陸が答える。くじらもどきは小さく頷き、ほんの少しばかり思案した。

「それなら、僕にとってのりくのことか」

「えっ!?」

「りくは僕のタカラだ」

 くじらもどきが陸を見つめながら告げる。慌てたのは陸のほうだ。思わず、鉛筆を取り落とし、更にノートを落としかけ、すんでのところで握り直した。

「な、なに言ってんだよ」

「僕は間違っているのか? 僕にとって、りくはとても大切な友人だ。ということは、タカラだ。僕はここに来てよかった。まだ、僕の探し物は見つからないけど」

「うー、いや、宝っていうのは、こう、キラキラした石とか、金貨とか、見つけたらうわーってなるやつで…………探し物?」

 くじらもどきの勘違いを訂正しようと陸は焦った。しかし、最後に彼が零した単語を不審に思い、そっくりそのまま返せば、くじらもどきは首を傾げた。

「言っていなかった?」

「うん。くじらもどきは探し物をしているの?」

「そうか。……そう、探し物」

「えっ、なになに?」

 すっかりそちらに興味がわいたらしい陸が身を乗り出せば、くじらもどきは暫く黙り、ややあって口を開いた。

「秘密にしよう」

「ずるい!」

 黙秘を貫くらしいくじらもどきに、陸が声を上げて抗議する。しかし、くじらもどきは怯むこともなく、くすくすと笑った。

「見つかったら見せてあげるよ。きっとりくも喜ぶだろうから」

「なんだよ、余計に気になるだろ」

「それじゃあ、代わりになる事をお喋りしよう。ほら、何かないかい」

 

 これ以上は本当に話す気は無いらしいくじらもどきに、陸が頬を膨らませる。宿題をする気も失せて、地面に足を放り出して寝転べば二人の間に沈黙が下りた。

「絶対教えてもらうからね」

「いつかは」

「…………あ」

 何か思いついたらしい陸が勢いよく身を起こす。おや、とくじらもどきがその様子を眺めれば、陸は真っ直ぐに人魚を見つめた。

「じゃあさ、代わりにお願い聞いてよ!」

「……お願い?」

 くじらもどきが首を傾げる。陸は、目を輝かせて口を開いた。



 耳元で海面が弾ける音がしたかと思えば、視界が青く染まった。そのまま足をばたつかせたものの、中々身体は前に進まない。

「やみくもに足を動かすばかりではいけないよ」

 海水で聴覚が阻まれているというのに、くじらもどきの声は明瞭に届く。

 声がした方へ視線をむければ、自分よりもう少し深い場所でくじらもどきがこちらを見上げている。

「ぷあっ」

 息苦しくなり海中から顔を出す。冷たい空気が肺に入り込むのを感じながら陸はぷかぷかと浮いた。するとくじらもどきもゆっくりと海面に上がってきたらしい。陸の周囲がぐわりと揺れて、思わず慌てた。すかさず、くじらもどきの手が陸を支える。

 二人は、磯から少し離れたところで泳いでいた。

 無論、足がつくような深さでは無い。

「でも、ヒトにしては上手だ。りく、きっと上手になるよ」

「本当に?」

 くじらもどきの指に捕まりながら陸が問えば、人魚は頷き肯定した。夏休みのはじめ、陸が彼に強請ったのは、泳ぎの練習であった。

 もちろん陸も海の町の生まれなので、ある程度は泳ぐことは出来るのだが、いつも港近くで遊んでいる平田たち程は上手くはないと言い張っていた。

 彼らと遊ぶ時は浅いところで足をつけているぐらいが、彼らの無茶に付き合わされずに済むと知っていたからだ。そんな陸を平田たちは当然のように、からかった。

 くじらもどきは陸のお願いにそんなこと、と二つ返事で受けた。

 ――そうして、二週間ほど経つ。

「夏休みのうちにさ、くじらもどきぐらいに泳げるようになりたい」

「はは、僕のようにか」

「くじらもどきってどれぐらいの深さまで泳ぐの?」

「どこまででも。でもりくは、あまり深く潜れないだろうね。くしゃくしゃに潰れてしまうよ」

 くじらもどきの言葉に、いいなぁと呟く。くじらもどきの手を離れてもう一度潜れば遙か下方に、魚の影が見えた。水中眼鏡越しに海の底を見ようと目をこらす。身体が酸素を求めだしたところで、また海面から顔を出した。

「……皆よりは上手になりたい」

「りくなら出来る。ずっと泳ぎ続けていればね。――ただ」

 くじらもどきが笑い、海面に背を預けながら浮かぶ陸を掬い上げる。どうしたの、と陸が問えば、くじらもどきは、少しばかり真剣な顔で少年を見つめた。

「君たちには、お盆というものがあるはずだ」

「? うん、あるよ。もうすぐだよ」

「……お盆のあいだ、ここに来てはいけないよ。海にも入ってはいけない。約束してくれるかい」

「えっ……じゃあくじらもどきに会えないの」

「僕もここには来られない。……誰もいない。りく、頷いてくれるかい」

 くじらもどきの声はどこか真剣だった。その声色に、思わず陸は頷いてしまった。それを見てほっとしたのか、くじらもどきは笑みを浮かべ、それじゃあ、と陸の身体を再び海水に下ろしたのだった。

 そういえば、去年のお盆もここには来なかった気がする。大人達も海に入るなって言っていたし、それに――。

「……じゃあ、宿題片付けておく。お盆が終わったら来ていい?」

「待っているよ」

 ――約束をした。

 くじらもどきと別れ、帰路につく。Tシャツとハーフパンツの下の水着も、すぐに乾いていた。波にさらされ続けていたサンダルが、熱されたアスファルトに黒い足跡をつける。海水に濡れている髪をぬるい風が撫でていく。

「あ……」

 港に戻った所で、同級生たちが遊んでいるのが見えた。そこから海に飛び込んだり、家から持ってきたのだろう簡単な釣り具を振り回している。平田はまだ四国から帰っていないらしい。

 同級生達はこちらに気がついていないのか、遊ぶことに夢中のようだった。一瞬、だれか一人がこちらを見た気がするがすぐに何かに気を取られ、そっぽを向いた。

 自然と、足が早くなる。


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