第5話

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「えー、皆さん! くれぐれも事故には気をつけて、二学期には元気な顔を――」

 蒸しきった体育館の中で、校長先生の声が響いている。

 つい五分ほど前に始まったお話を体育座りで聞いている生徒からはどこか飽き飽きしたような空気が漂っていた。陸の目の前には校長先生しかいない。まだ語ることのあるらしい彼を眺めていると、そろそろ耐えられなくなってきたのであろう後ろの同級生が、こそこそとお喋りをしだした。

「オレ、明日からばあちゃんの家に遊びに行くんだよ」

「へー、どこだ?」

「四国」

 どうやらひそひそと話をしているのは平田達らしい。

 平田がこの長い夏休み――少なくともお盆明けまで親戚の家に預けられるという事を聞いた瞬間、陸の心に安堵の念が沸き起こった。あの体育倉庫の一件は、ウソをついた陸に制裁を与えたことで過ぎたものになったらしかった。

 次の週明けにもなれば平田は、何事も無かったような顔で陸に話しかけたし遊びにも誘ってきていた。

「でもお前さ、花壇の水やりどうするんだよ」

「あー、そんなのあったっけ。めんどくせー」

 ゴホン、と誰か先生が咳払いをして、男子二人は口を閉ざした。そして再び、うんざりとした空気が少年達の頭上に漂ったのだった。


 教室に戻れば配られたプリントに書かれている水やり当番表を眺める。

 夏休みの間は学校の花壇の一区画に、クラスで水やりをすることになっていた。朝早く、気温の上がりきらないうちに学校へ向かい、花壇に水をやらなければならない。六年三組は、二十三人のクラスだ。一ヶ月と少しの夏休みだと二回ほど、自分の番が回ってくる。

 陸の番は、最初の日と八月の半ばであった。

 他の男子たちはこの決まりをひどく面倒くさがっている。反対に陸は、花壇に水をやることは嫌いではなかった。

 学校で育てられている花や、それに引き寄せられてくるチョウやバッタを昼休みや放課後に眺めるのは学校での数少ない楽しみの一つだ。――それも最近は、平田のグループにドッチボールをするからと腕を引っ掴まれてグラウンドに連行されるのでなかなか叶わなかったが。

「プリントはご両親にもしっかり読んでもらってくださいね」

 先生の言葉を右から左に、プリントを捲って宿題のリストを眺める。

 国語と計算のドリル、読書感想文に自由研究。面倒くさいドリルはともかく、読書感想文は好きだった。家の中で堂々と本を読める。この時ばかりは小言を言われずに本を何冊か買う小遣いを貰うことが出来た。

 あとは、自由研究だ。

 今年で最後の自由研究。今度こそ、自由にやってみたい。

 プリントに書かれたいくつかのテーマを眺めながら、陸は考えていた。もちろん、今までも自由研究というものは夏休みが来る度に出されている。ただ、自分がやってみたいことを出来た試しは無かった。――だから、今年こそはと決めたのだ。

 ――何がいいだろう……。

 どうせ、夏休みだからといって平田のように、祖父母や親戚の家にも預けられない。日帰りの遠出をするという経験もなかった。きっと今年も同じだ。

「おい」

 声と共にプリントに影が出来て、陸ははっと顔をあげた。いつの間にか目の前に平田がいて、こちらを見下ろしている。

「な、なに」

「オレ、明日から盆明けまで四国に行くんだけど」

「そう、なんだ?」

 全校集会でこそこそと話していたのを聞いたとも言えず、陸は相づちを返した。愛想笑いは浮かべていたものの、どこかぎこちないものしか向けられない。

 しかし平田は陸の様子を気にもとめず、言葉を続けた。

「だからさ、オレの代理よろしく」

「えっ?」

「花壇。水やり出来ねーもん」

 なんで、と陸が疑問をぶつける前に、流石に彼の表情を見て察したのか、平田は矢継ぎ早に続ける。

「いいだろ? ダチを助けると思ってさ。な?」

 なあ、頼むからさ。ついに手を合わせて頭を下げる平田に、先生に言ってよと陸は言いかける。しかしどちらにせよ、あの頼りなさそうな担任は誰か友達に頼んでねと言うぐらいがせいぜいである事も予想できた。

 それでも、いきなりこちらに頼み込んでくるのは、嫌だ。

「あの、まずは――」

「うわ、平田が天(あま)貝(がい)なんかに頭下げてる」

「花壇の水やり頼んでるんだって、ほらさっき言ってただろ」

 二人の様子を見つけて茶化してきた平田の友人達に、平田が苦笑いを向ける。へえ、とひとりが納得したそぶりを見せれば、それからぱっと顔を明るくさせた。

「じゃあオレのもやってくれよ、天貝!」

「えっ、ちょっと――」

「だってオレ、忘れそうだしさ! それにお前って花壇好きだろ? 休み時間にあそこにいるじゃん! お前も嬉しいだろ、な!」

「それとこれとは……」

「なら都合いいじゃん。とにかく頼むから。あ、当番表にはオレの名前書いとけよ」

 

 平田の言葉に続いて、オレも、オレもと間髪入れずにそこにいた全員が陸に花壇の水やりを頼んできた。

 平田ひとりならば、先生に言えと辛うじて言えただろうが、最早いつものグループ全員に押しつけられれば、それを断ればどうなるかは陸には容易く想像出来る。

 ――断ればまた痛い目を見る。

 一ヶ月前に体育倉庫に閉じ込められ、ランドセルをボロボロにされた記憶は陸にとってはまだ新しい。思わず黙りこくってしまった陸の様子を了承と捉えたのか、平田はにかっと笑った。

「サンキューな!」

 結局、一ヶ月と少しのうち、四分の一の水やりは陸がやることになった。


 

 朝八時はまだ涼しい。

 太陽の光は強さを増しつつあって、学校へと向かう坂に照りつけているが海から吹く風が熱をいくぶんか和らげているように思えた。

 

 今日からはカフェオレ色のランドセルではなく、出掛ける時用の青色のリュックを背負っている。陸の母が「こんなんしかないんか」とぶつぶつ言いながら息子に買い与えたものだった。

 リュックを、陸は気に入っている。

 しかし店のレジで支払い、自分に渡してきた時もそれに不満を抱いていることを隠さなかった母の様子は記憶にこびりついていた。

 休日に遊びに行くたび、それを背負うたびに、自分が母の気に入らないことをしているような心持ちにどうしても陥ってしまう。

 今日、そのリュックには水筒とタオルと、宿題、そして小さな財布が入っている。

 夏休みでも家にいると、父が苦虫を噛みつぶしたような顔で子どもは外で遊ぶものだと言うので、夏休みも外で宿題や読書をすることにしていた。

 小学校は長期の休みでもグラウンドで遊べるように、図書室で読書が出来るように、短い時間ながら解放されている。花壇に水をやる生徒のために朝八時から校門は開いていて、陸もそこから入り、足早に花壇へと向かった。

 ジョウロやスコップが置いている用具棚から青く大きなジョウロを取る。すぐ隣にある水道で水を溜め、指定されている花壇へと向かった。

 するとそこに、体育倉庫に閉じ込められたあの日に助けてくれた用務員がいた。

「お、おはようございます」

「ああ、おはよう。あんときのボウズじゃないか」

「あの、ありがとうございました……」

「いいんだよ。あのまま帰ってたら怒られてたのはオレのほうだ。水やり当番かい? えらいねえ」

 用務員に褒められてこそばゆい思いをしながら、陸はひとつ一礼して自分たちの花壇に向き直る。

 丸く可愛らしいオレンジのマリーゴールド。白やピンクのニチニチソウの形は星のようだ。サルビアは真っ赤な炎に似ていて、風に機嫌良く揺られている。それらが、花壇の中で行儀良く並び、冷たい水を今か今かと待ち望んでいた。

 たっぷりの水で重くなったジョウロを持ち上げる。軽くよろめきながらもそれを傾け、陸は花たちに水を与えはじめた。

 蓮口から注がれる水はきらきらと輝きながら、植物達を濡らす。水滴が葉に触れるたびに嬉しそうに揺れて、花も葉も、どこか鮮やかさを取り戻したかのようだ。


 時間をかけてたっぷりと水をやる。

 途中でジョウロが空になれば水を汲んでは傾けていく。水やりに没頭する陸の耳には近くの木にとまっているのであろうクマゼミの大合唱が届いて、その音が少年の耳を塞いでいるような心地にさせた。

 そうしてようやく、水やりが終わった。

 来たときよりもどこか生き生きとした植物たちを見て、陸はほっと息を吐いた。

 ふと隣の花壇を見やると、老用務員は別の花壇の世話をしているらしい。誰もいなくなったそこには自分よりも背の高い向日葵の群れが、我らよりも目立つ花は無いと誇らしげに咲いていた。

 用具棚にジョウロを戻して当番表に名前を書く。明日も来なければならないことを確認してから、陸は学校を出た。目指すは、九時に開くこの町唯一の書店だ。


「いらっしゃい」

 瀰境駅(みさかえき)から港へ向かう道は、ちょっとした商店街になっている。

 小さく古い書店は、この町に住む子供達なら一度は入ったことのある店だ。入り口には駄菓子が並べられ、その奥に本棚がいくつか置かれている。

 母より少し年上の女店主は、いつも小さなレジカウンターの中で椅子に腰掛けながら店番をしていた。

 女店主とは小さな頃からの顔馴染みである。

 小遣いを貯めてささやかな一冊を求めにくる子どもがかわいいらしく、よく陸が面白がるだろうという本をとっておいてくれていた。

「塚田のおばさん、あの、読書感想文の……」

「もう夏休みなのねえ、去年は何を読んだかしら」

「ええっと、動物と喋れる獣医さんのお話……」

「そうだったわ、思い出した。図書カードはいくらのを貰った?」

 塚田のおばさんの言葉にいそいそとリュックから財布を取り出す。ウサギのキャラクターが描かれたそれには、三〇〇〇円と書かれていた。

「あら、奮発してもらったのね」

「何読もうかな」

「ゆっくり選んでいって。二、三冊ぐらいは買える値段だから、いくつか選んじゃいなさいよ」

 

 彼女の言葉にうん、と頷き狭い通路に入っていく。自分以外は誰もいないらしい店内は、採算が取れているのかは不明である。

 子ども向けの本が並ぶ棚には更に低学年、中学年、高学年と分けられていた。

 台に平積みされている本は読書感想文のための本に悩む子どもに向けてのものが並べられているのだが陸はそれには目もくれず、店の奥、少し暗くひっそりとしたその棚を見上げた。

 ――どれにしよう。

 内気な少年の心は、ずらりと並んだ本の背をひとつひとつ追うたびに昂ぶっている。日本の本、外国の本、どれも魅力的に思えた。

 ふと、奇妙な題の本が目に留まった。

「かいてい、に、……?」

 その本のタイトルは感じで書かれていた。しかし作者はカタカナである――つまり外国人が書いた本だ。

 ジュール・ヴェルヌ。

 少しぶ厚いその本を取り出す。

「かいてい、に、まん、さと……?」

 その表紙には、まさに海底を突き進む巨大な潜水艦の絵が描かれていた。

 海の話というのが今の陸にはひどく惹かれるものであった。――海から来た友が、脳裏をよぎったのからである。

 よくよく見るとそれはタイトルの横に【上】と描かれていて、隙間になった場所の隣を見やれば同じタイトルで【下】と書かれたものがあった。

 それをそっと抜き出し、後ろを見る。二冊とも買える範囲の値段である。

「おばさん」

「決まった?」

「あの、これ……」

 その二冊を見れば少し驚いたように女店主は目を見開き、そして微笑んだ。

「あら、気が合うわね」

「かいていにまんさと、って読むの?」

「かいていにまんり、よ」

「海底二万里?」

「海底二万マイルのほうが有名ね。潜水艦に乗って海を冒険する話なの」

「へえ……でも、どうして気が合うの?」

 すでにその二冊を買う気になっていた陸が、女店主の言葉に首を傾げる。彼女もこれが好きなのだろうか。

「陸ちゃんにおすすめしようとしてた本がね、それを書いた人のなのよ」

 そう言いながら取り出したのは、同じく文庫本であった。

「じゅうご、しょうねん……」

「十五少年漂流記。これは無人島に流された男の子たちが力を合わせて暮らしていくお話」

「わあ、面白そう!」

「でも書いた人、被っちゃったから別のものがいいかしら」

 そう聞かれ、彼女に渡された本の表紙を見る。黄色い表紙に、座礁した帆船から脱出しようとする少年達が描かれている。

「ううん、これも読みたい! ……図書カードの金額足りるかな。ええっと、……」

「あら、ちょっとお待ちなさいよ」

 ふくよかな指が手元の電卓を叩く。足りなければお小遣いから出そうかしらとソワソワしている陸に、おばさんはにっこりと笑った。

「じゅうぶん。ちょっと余るぐらいね」

 

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