第4話
海面から注ぐ光すら届かなくなってきた深みの中を、くじらもどきは泳いでいた。
淡い珊瑚色の髪と薄い色素の双眸、白く滑らかな尾ひれは揺れる境界の外から得た光を僅かに孕みながら泡沫を照らす。
ゆったりと尾ひれを動かし、暗闇を進んでいけばいくつかの影がそばをよぎった。合唱とともに深く潜っていくそれを見送った後、くじらもどきは上を目指していく。
――すると、同胞に出会った。
くじらもどきの体長の半分にも満たない人魚は、偉(い)躯(く)の同胞を見た途端ぎょっとした顔をさせて、それから胡乱なものを見る目つきで口を開いた。
「お前か? 最近ここら一帯でうろついているって噂のは」
「そうなのかい」
目の前に浮かぶ小さな人魚をまじまじと見つめつつ、くじらもどきが首を傾げれば人魚は苦々しい顔をさせた。
「見たこともねえデカブツがうろうろしてるって、仲間内でもちきりだ。どこのモンだ、何しに来た」
「少し探し物をしていて。でもここに来たのはちょっとした偶然だよ。別に君たちを食べようとか、つついて遊ぼうだなんて、微塵も」
くじらもどきに話しかけてきた人魚は、この海域の住人のようだった。警戒の意を隠さない口ぶりの彼に、くじらもどきは安心させるように首を横に振った。
すると人魚は一応は納得したらしいが、うんざりしたような顔で目を細めた。
「なんだ、いつものか」
「いつもの?」
「ここは余所モンがよく流れ着くんだ。オレの先祖もそうだった……群れの奴らは皆そういったやつらの子孫さ」
そうだったという割にはこの人魚は流れ着いた自分をあまり歓迎していないらしいことは明らかだった。人魚が眉間に皺を寄せ、口をへの字に曲げながら、くじらもどきの眼前に、にじりよる。
「いいか、余所モンのデカブツ」
「わっ」
「お前がここでなにかを探すのは自由だが、群れには近寄るなよ!」
「……分かってる。だいたいどこの群れもそうじゃないか。僕みたいな〝はぐれ〟は嫌なんだろ?」
「よぉく分かってるじゃねえか」
人魚の目つきは厳しい。
「ただでさえ〝はぐれ〟は厄介ゴトしか持ち込まねえのに、お前みたいなデカブツなんて、まっぴらごめんだ。分かったら――」
「分かった、分かったよ。君たちには近寄らない。誓ってだよ」
目の前でなじる人魚を制止し、くじらもどきが手を彼に伸ばす。
すると人魚は顔をさっと青くさせ、尾ひれをがむしゃらに動かしてくじらもどきから離れ、そのまま逃げ去ってしまった。
くじらもどきはそれを見送った後、再び海上を目指すべく身を捩る。尾ひれで水を蹴り、ぐっと浮かび上がる。強くなってきた光を浴びながら、泡沫と戯れるように泳ぎ、そしてうんと伸びをした。
波の砕ける音と、海面を撫でる風の音が近い。
海と空をへだてる強い揺らぎをものともせず、くじらもどきは伸ばした手で波間の裏側に触れた。指先に熱が触れ、身体が重くなる。
一瞬、視界が白んだが数秒でそれは収まり、灰色の空が視界に入った。
目を慣らすように瞬きをし、周囲を見渡す。少し遠い場所の岩場から、あの小さな友人が見えた。じっとこちらを見つめて、少し驚いたような顔をさせている。
「くじらもどき」
あの小魚ほどの口から発せられた自分の呼び名に、くじらもどきは応えるようにもう一度潜り磯へと近づいた。人の子の声は鯨の囁きにも満たないほど弱々しい。波の音にかき消されて、まるで迷子の子イルカが親や群れを求めては不安げに呼びかけているようにも聞こえる。
しかしこの偉躯の人魚に、あの少年の声は不思議なことにひどく明瞭に届いた。あの岩場から少し離れた海中であっても、人魚の聴覚を打つのだ。
ひとつ尾ひれを振るうだけで、岩場にはすぐにつく。
今日の声は随分とつらそうだ。一体どうしたのだろうかと考えながら人魚は殻を破るように海面から顔を出した。やはり、あの少年は暗い顔で佇んでいる。
「りく」
人魚は数日ぶりにやってきた少年の名を呼んだ。腕や足に、絆創膏が貼られている。人魚の呼びかけにも少年は黙って俯いたまま、立ち竦んでいた。
「……りく、ケガをしているね」
彼が怪我をしているのは、微かに香る血の臭いで分かった。僅かな沈黙を置いて人魚が問いかければ、少年――陸は小さく頷いた。
「――別に、大丈夫だから。体育、の時間に……こけただけ。走ってたんだ。走って、こけて……それよりもさ、くじらもどき」
「うん」
なにかな、と〝くじらもどき〟と呼ばれた人魚が首を傾げる。この小さな友人が話す言葉を聞き漏らさぬよう、器官に神経を巡らせた。
「くじらもどきは、嫌なやつとかいる?」
「…………嫌なやつ?」
「うん、自分に嫌なことをするやつとか……」
くじらもどきはううん、と小さく呻いた。
海の中でも巨躯の部類に入る自分に危害を加えようとする生き物はあまりいない。暴れん坊の鮫だって鉢合わせになっても素知らぬ顔でどこかへ行ってしまうし、海面をぷかぷかと浮いている時に、無遠慮にやってきては羽を休めようと己の身体に降り立つ鴎は、悪気があってのことではない。
ただ、少しくすぐったい。それだけだ。
「嵐の日にある波の大暴れは、嫌だな」
いつものように泳げないから。ようやく思い至ったくじらもどきの言葉に、陸は小さなため息を漏らした。くじらもどきには、それが聞こえなかった。
「お前は図体がでかいから、つっかかってこられないんだよ」
「ふふ、海の生き物のほとんどは分かっているからね。でも小さなものたちも、僕たちのような大きなものを使って、上手くやっているものさ」
「おれは」
陸が少し苛立ったような声を上げたので、くじらもどきは軽く目を見開いた。
足下で押し寄せては弾けている波の粒を睨みつけながら、頑なに握りしめた拳を震わせている。
「それならおれは、大きいほうがいい」
「……りく?」
「お前みたいに大きかったら、あいつらに負けないし、あいつらも近寄ってこなくなるだろ。だから――」
「あいつら?」
「……」
ぐす、と鼻を鳴らしたきり陸は再び黙ってしまった。くじらもどきはその姿に困惑の眼差しを向け、暫く思案すれば。
「りくは大きくなりたいんだね」
「うん」
「まだまだ大きくなるよ。ヒトの成体はもう少し大きいから」
くじらもどきは、ヒトの成体を知っている。銀色の竜巻を作っている魚たちを、彼らは一網打尽にするのだ。大きな網で竜巻を捕まえて、海中から引き上げていくのを遠目から眺めることもあるし、また逆に、彼らが海に飲まれて暗い底へと落ちていくさまも、見たことがある。
くじらもどきがまだ稚魚のころ、昔は彼らとお喋りをしても良い時代があったと一族から聞いたこともある。しかし、今はすっかり、人魚とヒトが接することを忌む風潮になってしまった。
ほとんどの人魚たちはヒトに見つからないように、海の底で暮らし、やむなく海面に顔を出す時はひときわ注意深くなる。
こうしてこの巨躯の人魚がヒトの前に姿を晒すのは、ひとえに彼が幼体――子どもであるからに他ならない。
ヒトの成体は、幼体の言葉を信じないふしがあることもくじらもどきは知っていた。
「くじらもどきみたいに?」
「あははっ、僕みたいにか」
陸の問いかけにくじらもどきはくつくつと笑う。それからゆるりと首を振って、それは無理だよと微笑めば、少年は頬を軽く膨らませた。
「りく、僕が君みたいにそちら側を歩くことが出来ないのと同じだ。生き物にはそれぞれ、どだい無理なことがある。魚がそちらでは息が出来ないように、君たちがろくに泳げずじきに波に呑まれて底へと落ちていくように。そういうものだよ、りく」
「じゃあ、おれは……ずっとこのまま?」
いよいよ濡れたものが混じりだした陸の声に、くじらもどきはゆっくりと瞬きをさせた。淡い輝きを孕む人魚の瞳がすっと細くなる。
「ヒトという生き物は、生きる年月が短い代わりだろうね、とても早く変わることが出来る。君たちはそれの積み重ねによって船というものを造り、いまや僕たちの領域にまで手を伸ばそうとしている」
「難しいよ、わかるように言ってよ」
「ふふ、そうだね。だから……りくも変わることが出来るよ。今、君が自分自身のことを小さいものだと思っているのならば、大きくなろうと思えばいい。それにはまずは顔を上げるのが一番いい。俯いてばかりいると、縮こまってしまうから」
そう柔らかく諭されて、少年はゆるりと頷く。
「変わりたいなあ……」
己が座っている高い岩場の眼下、波も穏やかな海面を見つめる。もっと下、この友人がやってくる深いところに思いを巡らせる。
もし、海深くまで潜れたなら同級生たちや母の声は届かないのではないか。
そんなことを、考えてしまった。
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