第4話

「えー、皆さん! くれぐれも海の事故には気をつけて、二学期には元気な顔を――」

 むしむしとした体育館の中で、校長先生の声が響いている。つい五分程前に始まったお話を体育座りで並びながら聞いている生徒達からは、どこかうんざりとした空気が漂っていた。

 陸の目の前には校長先生しかいない。まだ語ることのあるらしい校長先生を眺めながら、そろそろ耐えきれなくなったらしい男子生徒が、こそこそとお喋りをしだした。退屈な話よりもそちらの方が、まだ幾分か気になりながら陸は今日から始まる夏休みを、思案していた。

「オレな、明日からばあちゃんの家に行くねん」

「へー、どこ行くん?」

「四国」

 どうやらひそひそ話をしているのは平田と友人らしい。平田がこの長い休み――少なくとも盆明けまで親戚の家に預けられる事を聞いた瞬間、陸の内に安堵の念が沸き起こってきた。

「でもお前、花壇の水やりどうすんねん」

「あー、そんなんあったっけ」

「めんどーやんなぁ」

 ゴホン、と誰か先生が咳払いをしたのを聞いたか、後ろの二人が口を閉ざした。そして再び、うんざりとした空気が少年達の頭上に漂いだしたのだった。



 プリントに書かれた水やり当番表を眺める。夏休みの間は学校の花壇の一区画に、クラスで水やりをすることになっていた。朝早く、気温の上がりきらないうちに学校へ向かい、花壇に水をやらなければならない。五年二組は、二十三人のクラスだ。一ヶ月と少しの夏休みだと二回ほど、自分の番が回ってくる。

 陸の番は最初の日と八月の半ばであった。他の男子達はこの決まりをひどく面倒くさがっている。しかし陸は、花壇に水をやることは嫌いではなかった。学校で育てられている花や、それに引き寄せられてくるチョウやバッタを休み時間に眺めるのは学校での数少ない楽しみの一つだった。それも最近は平田のグループにドッジボールをするからと腕を引っ掴まれてグラウンドに連行されるのでなかなか叶わなかったが。

 プリントを捲り、宿題のリストを読む。国語と計算のドリル、読書感想文に自由研究。ドリルは面倒くさいが、こつこつとやるしかない。読書感想文は好きだ。家の中で堂々と本を読める。このときばかりは、小言も何も言われずに本を買う小遣いを貰うことが出来た。あとは……自由研究だ。

 今年こそは、自由にこれをやってみたい。プリントに書かれたいくつかの例を眺めながら、陸は考えていた。もちろん今までも自由研究は夏休みが来るたびに出されていた。ただ、自分がやってみたいことを出来た試しは無かった。

 だから、今年こそはと決めたのだ。

 ――なにがいいだろう。

 目の前にやってきた夏休みも、陸の決意の前では霞んでいる。どうせ、夏休みだからといって平田のように、祖父母や親戚の家にも預けられないし、日帰りの遠出をするという計画も無いのだ。あえての楽しみといえば、町にある小さな水族館に好きなだけ遊びに行けるということぐらいだった。

「おい」

 声と共にプリントに影が出来て、陸ははっと顔を上げた。そこには案の定、平田がこちらを見下ろしている。

「な、なに」

「オレ明日から盆明けまで四国に行くねん」

「そう、なんだ? いってらっしゃい」

 全校集会で話していたのを聞いたから知ってる、という言葉を飲み込みつつ、陸が笑みを向ける。それは傍から見ると口元が引きつっていたが、平田は陸の様子を気にもとめず、言葉を続けた。

「やからオレの代わりに花壇に水やっといてくれ」

「え」

 なんで、という言葉を出す前に、さすがに陸の表情から何か言いたげであると察したのか、平田は矢継ぎ早に続けてきた。

「ええやろ? ダチを助ける思ってやってくれや」

 なあ、頼むわ。手を合わせて頭を下げる平田に、先生に言ってよと言いかける。しかしどちらにせよ、あの頼りのない担任は誰か友だちに頼んでねと言うぐらいが、せいぜいであろうとも予想出来た。それでも、いきなりこちらに頼み込んでくるのは、嫌だ。

「あの、まずは――」

「なんや平田、天貝なんかに頭下げて」

「花壇の水やり頼んでんねん、ほらさっき言うとったやろ」

 やってきたのはいつもの、平田の友人達だった。へえ、と一人が相づちを打ち、そしてぱっと顔を明るくさせた。

「じゃあオレも頼むわ、天貝!」

「えっ、ちょっと――」

「だってオレ、忘れそうやし! それにお前、花壇好きやろ! 休み時間によう見てたやん、花壇好きやったら嬉しいやろ、な!?」

「それとこれとは……」

「なんやじゃあ都合ええやん。とにかく頼むわ。あ、表にはオレの名前書いとけよ」

 平田の言葉に続いて、オレも、オレも、と間髪入れずにそこにいた全員が陸に花壇の水やりを頼んでくる。平田ひとりなら、先生に言えと辛うじて言えただろうが最早いつものグループ全員に押しつけられればそれを断ればどうなるか、陸にも容易に想像出来た。

 ――断ったらまた痛い目を見る。

 一ヶ月前にこっぴどくやられ、ランドセルをボロボロにされた記憶はまだ新しい。思わず黙りこくった陸の様子を了承と捉えたのか、平田はにかっと笑った。

「ありがとうな!」

 結局、一ヶ月と少しのうちの四分の一の水やりは、陸がやることになった。



 朝八時はまだ少し、涼しい。

 太陽の光は強さを増して、学校に向かう坂に照りつけて白く輝かせているが、海から吹く風が熱を幾分か和らげているように思えた。

 カフェオレ色のランドセルではなく、今日からリュックを背負っている。これは青色で、陸の母が「こんなんしかないんか」とぶつぶつと言いながら息子に買い与えたものだった。リュック自体は、陸は気に入っている。しかしレジで支払い、自分に渡してきた時もそれに不満を抱いていることを隠さなかった母に対して、後ろめたい気分になった。それは今も拭えていない。休日に遊びに行くたび、それを背負うたび、母が気に入らぬことをしているような気分に、どうしても陥ってしまうのだ。

 そのリュックには、ドリル二冊と宿題リスト、筆記具。それから小さな財布が入っている。夏休みでも家に篭もっていると父が苦虫を噛み潰したような顔で子どもは外で遊ぶものだと言うだろう。なので夏休みも外で、宿題や読書をすることにしたのである。

 夏休みもグラウンドで遊べるように、図書室で読書を出来るように、短い時間ながら学校は開放されていた。花壇に水をやる生徒のために朝八時から校門は開いていて、陸も底をくぐり足早に花壇へと向かった。ジョウロやスコップが置いている用具棚に向かい、青く大きなジョウロを手に取る。すぐ隣の水道で水を溜め、指定された花壇へと向かった。

「おはようございます」

「おお、おはよう。朝からえらいねえ」

 すぐ隣の花壇にホースで水やりをしていた、老いた用務員に挨拶をすれば、にっこりと挨拶を返された。褒められてこそばゆい思いをしながら、自分達の花壇に向き直る。

 丸く可愛らしいオレンジのマリーゴールド、白やピンクのニチニチソウの形は星のようだ。サルビアは真っ赤な炎のようで、風に機嫌良く揺られている。それらが、花壇の中で行儀良く並び、冷たい水を今か今かと待っていた。

 水が満ちて重たくなったジョウロが、たぷんと揺れる。軽くよたつきながらそれを傾け、陸は花たちに水を与え始めた。蓮口から、きらきらと輝く水が植物たちに降り注ぐ。水滴が葉に触れるたびに嬉しそうに揺れて、花も葉も、濡れて輝いた。

 ひとつずつ丁寧に水を与え、途中で空になれば水を汲んで与えていく。近くの木からはクマゼミの大合唱が聞こえてきて、その音が陸の耳を塞いでいるような心地にさせた。

 何度か水を汲み直して、ようやく水やりが終わった。来たときよりもどこか生き生きとした植物たちをみて、陸はほっと胸をなで下ろす。ふと隣の花壇を見ると老用務員は別の花壇の世話をしているようで、そこには自分よりも背の高い向日葵の群れが自分達よりも目立つ花は無いと誇らしげに、咲いていた。


 用具棚にジョウロを戻して、当番表に名前を書く。明日も来なければならないことを確認してから、陸は学校を出た。目指すは、九時に開くこの町唯一の書店だ。



「ああ陸ちゃん、いらっしゃい」

 商店街というには規模の小さい、店の集まっているところにその店はある。小さく古い店で、そこに棚がいくつか置かれているものだから通路も狭い。それでも陸にとってはその店は、この町で数少ない楽しい場所の一つだった。

 そこの女店主はもちろん顔馴染みである。小遣いを貯めてささやかな一冊を求めにくる陸がかわいらしいらしく、よく陸が面白いと思うであろう本をとっておいてくれるのだった。

「塚田のおばちゃん、あの、読書感想文の……」

「夏休みやものね、去年は何を読んだの」

「『ドリトル先生アフリカゆき』。動物と喋れる獣医さんの話だった」

「あら、素敵やね。図書カードはいくらのを貰ったん?」

 女店主の言葉にいそいそとリュックから財布を取り出す。ウサギのキャラクターが描かれたそれには、三〇〇〇円と書かれていた。

「奮発してもらったんやね」

「うん。何読もうかな」

「ゆっくり選んでいき。三冊ぐらいは買える値段やから、宿題っていう名目でいくつか買っちゃいなさいよ」

 彼女の言葉に頷き、狭い通路に入っていく。自分以外誰もいないらしい店内は、採算が取れているのか、まだ子どもの陸には分からなかった。

 子ども向けの棚は、更に低学年、中学年、高学年に分かれていた。店の入り口付近にもこの時期にあわせて読む本に悩む子ども向け用の棚がもうけられているのだが、それにも目もくれず陸は店の奥、少し暗くひっそりとしたその棚を見上げた。ようやく、高学年の棚に手を伸ばすことを許された気がして、この内気な少年の心はこのときばかりは昂ぶっていたのである。

 ――どれにしよう。

 ずらりと並んだ本の背をひとつひとつ、眺めていく。日本の本、外国の本、よりどりみどりであった。

 ふと、指が止まった。

「かいてい、に、……?」

 その本のタイトルは漢字で書かれていた。しかし作者はカタカナで書かれている。

 ジュール・ヴェルヌ。

 少し分厚いその本と取り出す。

「かいてい、に、まん、さと……?」

 その表紙にはまさに海底を突き進む巨大な潜水艦の絵が描かれている。海の話であることは明白で、それが今の陸にとってはひどく惹かれるものであった。

 ――海から来た友が、脳裏を過ったのだ。

 それはタイトルの横に【上】と書かれていて、空白になった横を見やれば同じタイトルで【下】と書かれたものがあった。それをそっと抜き出し、後ろを見る。買える範囲の値段である。

「おばちゃん」

「選べたん?」

「これなんだけど」

 その二冊を見せれば少し驚いたように女店主は目を見開き、そしてにやりと笑った。

「気が合うなあ」

「かいていにまんさと、で合ってる?」

「かいていにまんり、やで」

「海底二万里?」

「海底二万マイルのほうが有名やね。潜水艦に乗って海を冒険する話や」

「へえ……どうしておばちゃんと気が合うの?」

 すでにその二冊を買う気になっていた陸が、女店主の言葉に疑問を零す。彼女もこれが好きなのだろうか。

「陸ちゃんにオススメの本がな、それ書いた人のやつやねん」

 そう言いながら取り出したのは、同じく文庫本であった。

「じゅうご、しょうねん、……」

「十五少年漂流記。これは無人島に流された男の子達がサバイバルする話や」

「おもしろそう」

「中々ええで。でも書いた人被ってもうたし、別のオススメがええ?」

 そう聞かれ、受け取った推薦本の表紙を眺める。黄色い表紙に、座礁した帆船から脱出する少年達が描かれている。

「ううん、これも読みたい。……カード、足りるかな」

 ちょっと待ってな、とふくよかな指が電卓を叩く。足りなければお小遣いから出そうかしら、とソワソワしている陸に女店主はにっこりと笑った。

「まけて丁度三千円にしとくわ」



 少し重たくなったリュックを跳ねさせ、少年は走る。向かう先はいつもの場所だ。

 ごつごつとした岩場も強い太陽光に照らされ、影を濃くしている。それを転けないように軽やかな身のこなしで陸は奥へと進んでいった。波が岩を打つ音が大きくなっていく。やがて開けた場所にたどり着き、やや高くなった岩場に立った。

「くじらもどき、いる?」

 穏やかに揺れる海面に呼びかける。その下で、大きな影が動いたように見えた。やがてそれが更に大きくなり、それと共に泡沫も浮かび上がってくる。

 ざぱ、と少し離れた場所で水飛沫があがった。

「やあ、りく。良い天気だね」

 海の中から友人がやってくる。淡い紅色の髪は濡れ、薄い色素の双眸はきらきらと嬉しそうに輝いていた。やがてゆっくりと岸辺に近寄り、巨躯の友人はいつも通り、岩場に腰掛け、小さな友人に手を差し伸べたのであった。

「うん」

 シューズを脱ぎ、陸がくじらもどきの手のひらに登る。そっと持ち上げられるのも慣れて、リュックをおろしながら陸は友人を見上げた。

「どうしたんだい、今日はずいぶんと早い時間に来たのだね」

「今日から夏休みなんだ。だから毎日……毎日は無理かもだけど、たくさん会えるよ」

「ナツヤスミ?」

「学校、しばらく行かなくていいんだ。宿題はあるけど」

「おや、それは嬉しいだろうね」

 くじらもどきがくすくすと笑う。いつでも会いにおいで、と付け足せば陸ははにかんで、頷いた。そして、何か意を決したように少年は、くじらもどきを見上げたのだった。

「あのさ、くじらもどき」

「なんだい」

 どこか真剣な顔に、くじらもどきが首を傾げる。

「お願いがあって」

 陸の言葉にくじらもどきは耳を傾ける。そっと身を乗り出して、少年は唇を開いた。

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くじらもどき 舎まゆ @Yado_mayu

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