第3話

 次の日、登校すると平田がやってきた。その表情は不機嫌そのもので、陸はきゅっと身が固くなるのを感じながら、どうしたのと聞いた。すると低い声で

「今日はすぐに帰るんじゃねーぞ。話があるからな」

「え、あの……話って?」

 陸の問いには答えず、平田は黙ったまま踵を返した。その先では彼の友人達がこちらを睨みつけている。

 どうやっても悪い予感しか抱けず、今すぐにでも帰ってしまいたい衝動に陸は駆られたが、丁度よく担任の先生が戸を開けてやってきてしまった。陸は何かに押されたように席に座り、落ち着かないまま今日一日を過ごすことになってしまった。


「なにウソついてんだよ!」

 罵りと共に突き倒され、陸は尻餅をついた。

 放課後になってすぐ、逃がすまいと平田達に囲まれ連れてこられたのは運動場の隅に建っている体育倉庫の前である。

 自分を突き倒した張本人――平田を見上げながら、震える声で陸は反論した。

「う、うそじゃ、な――」

「じゃあ誰と会っていたんだよ。お前のオヤジ、そんな予定知らないって言ってたぞ! 親にも言えねえヤツと会ってたのか!?」

「……」

 立ち入り禁止の先の海辺で人魚と会っていたなどとは言えない。それこそウソだと彼らの怒りに火に油を注ぐことになるだろう。答えに窮した陸を見て平田は鼻で笑い、嘘つきの髪をぐしゃりと引っ掴んだ。

 

「いたい!」

「お前、なんでウソついた!? サイテーだな!」

 髪を掴まれ、強引に顔を上げさせられる痛みに涙がにじむ。痛みから逃れようと陸が小さく身を捩れば、それすらも平田の怒りを煽ったらしかった。なおも理由を聞き出そうと、平田は陸の頭を揺さぶる。

 二人を囲む同級生達も、ウソつきヤローと非難しながら、囃し立てた。

「オレらを騙した奴は懲らしめちまえ!」

 調子に乗った仲間のうちの誰かが叫んだ。それを耳にした平田はハッとした顔をさせて、そうだな、と頷き陸の頭を掴んでいた手を離した。しかしすぐに、痛みで動けずにいる彼の腕を掴み、ぐっと引っ張ったのである。同じ歳である筈なのに、平田はいとも簡単に陸をずるずると引きずっていく。

「や、やだ! やめて!」

「うるさい!」

「ウソつきヤローは黙ってろ!」

「お前がウソをつくからいけないんだ!」

 

 少年達の罵倒の中で引きずられ、土がざりざりと陸の足を擦る。ガラガラとけたたましい音と共に、ふっと視界が暗くなった。独特な埃っぽい匂いが鼻をつく。

 再び突き飛ばされれば、土ではなく堅いコンクリートの床が、陸の身体を打った。すぐにドサリと何かが投げ込まれる音と、もう一度、同じくガラガラとけたたましい音が響くのを聞きながら、陸は蹲り、呻いた。

「一晩そこで過ごしてろ!」

 平田が扉の向こうで叫ぶ。それからクスクスと誰かの笑い声がしたが、少年たちが喋る声は遠くなっていった。

「……」

 ひゅ、と呼吸を荒くさせながら、ようやく顔を上げる。うす暗い室内に、ボールが入ったカゴやグランドに線を引くための石灰が積み上がっている。

 床には、己のランドセルが転がっていた。

 痛む身体で立ち上がり、ランドセルを引き寄せる。細かい土まみれになったカフェオレ色のランドセルは、所々に新しい傷を作っていた。

「うぅ……っ、ぐ……」

 堰を切ったように涙が溢れる。

 顔をくしゃくしゃにさせれば、ぼたぼたと雫が床を濡らす。痛みと、悔しさと惨めさが幼い少年を締め付けている。擦り傷で血が滲んだ手で頬を伝う涙を拭う。しかし、どうやっても涙は止まらず、そのまましゃくりあげながら陸は扉に歩み寄った。

 ――ここから逃げ出さなければ、と考えたのだ。

 鉄製の引き戸に手をかけ、陸は力を込める。しかしガチャッ、と音をさせたきり扉は開きそうにない。何かがつっかえている。そんな感触がした。

「え、うそ……なんで……」

 ガチャ、ガチャ、と何度も引っ張る。それが駄目ならと押してみる。しかし扉は隙間さえも作りはしなかった。出られないという事実に、恐怖が襲う。

「あけて……」

 誰か、と言っても自分をここに閉じ込めた同級生たちは帰ってしまった。どこかに抜け出せる所は無いかと当たりを見渡せば、窓はあったが格子が嵌められていて出ることは叶わない。外は赤く、夕暮れが迫っているのを察して陸はいよいよ、ガタガタ、ダンダンと扉を叩いた。

「あけて! あけてよ!」

 助けを求め暫く叫んでいたが、それにも疲れきってしまった。

 赤く染まっていた窓の外もうす暗くなって、室内は一層輪郭を無くしている。ふと天井に蛍光灯があることに気がつき、陸は壁に見つけたスイッチを押した。灯りは点いたがそれも弱々しく、時折チカチカと明滅するので寿命が近いらしい。

 そのまま、ランドセルを落としてずるずると床に座り込む。本当にここで一晩過ごさなければならないのかと考え、膝を抱えた。

「怒られる……」

 ふと浮かんだのはそんな考えだった。五時のチャイムはとっくに鳴っていて、今は何時だろうか、きっと母はすでに市場の仕事から帰っていて、夕食の準備をしているに違いない。夕方五時のチャイムが鳴れば帰るようにと厳しく言いつけられて育ってきた。ちょっとでも母が遅いと思えば――叱責が飛んでくる。

 いつまでたっても帰ってこないと分かった時、母はどうするだろう。

 怒りながら探すだろうか。探して、自分を見つけた途端怒鳴りつけるに違いない。閉じ込められていたと言っても、母は自分を許さないだろう。

 少年にはそんな確信があった。

 そもそも、探そうとするだろうか?

 もしかすると、とよぎった疑念が、陸の胸を締め付ける。帰ってこないなら、とそのまま放っておかれるかもしれない。そう思えてしまう。

 陸は、母が自分に対してあまり良い感情を抱いていないのではないかと常々感じていた。小さい頃から、母は厳しかった。

 時折、自分を見る眼差しに子どもが言い表すにしては難しい、蔑みと、嫌悪のような感情が孕んでいるのを、陸は幼心に感じていたのだ。

 父は今日、夜遅くに帰ると言っていた。父が帰ってくれば、家に息子がいないことを知って探し出すかもしれない。それまであと何時間だろうか?

「…………」

 考えることも嫌になってしまって、陸は項(うな)垂(だ)れる。身体の節々が痛い。泣いたせいか、どっと疲労感が襲ってきた。

 ――このまま、誰も助けに来ないんだ。

 ぼた、と涙が零れた瞬間、陸は身体の力が抜けた。もう指先一つも動かしたくない。そんな気分になった。

 ――と。

 

「灯りの消し忘れかぁ? ったく誰が……」

 しゃがれた声にはっと顔を上げる。ぶつぶつと扉の向こうで呟く大人の声に、陸は咄嗟に叫んだ。

「あけて!」

 その声が届いたのか、あっ、と驚いた声がした。そしてガラガラとけたたましい音が鳴り響いたと思えば。

「ボウズお前、こんな所でなにしてんだ!」

「っ、閉じ込め、られて……」

 声の主は初老の用務員だった。訝しげな顔で陸を眺め、用務員は口を開いた。

「誰にだ?」

「……っ、……同じ、クラスの……」

「なァんだ、ケンカでもして負けたか!」

 呆れた声の用務員に、陸が俯く。ったくよお、と用務員がぼやき、そして同情を込めた眼差しで少年を見つめた。

「それにしてもやりすぎだなァ……おい、ボウズ、先生ェに言ってやろうか」

 

 用務員の提案に陸ははっとした顔をさせて勢いよく首を振った。そんなことをされても、何にもならないに違いない。

「や、やめて……大丈夫だから……あの、ごめんなさい……めいわく、かけて……」

 か細い声で懇願し、謝る少年に用務員は暫く黙っていた。

 傷と泥だらけの惨めな姿だ。子どもならばケンカの一つや二つをするものだが、この少年は明らかに一方的な暴力を受けているように、用務員には思えた。

「……もう暗くなるから、帰りなさい。気をつけてな」

「……はい、ごめんなさい……さようなら」

 ランドセルを持ち上げ、陸がぺこりと頭を下げる。

 そのまま、とぼとぼとうす暗い帰り道に向かいだした小さな子どもを見て、用務員は皺の刻まれた顎をぐし、と手のひらで擦った。


 ――家に帰れば、息子の姿を横目で見た母が一瞬のうちに厳しい顔になった。

「なにしたんや、それ」

 土で汚れた服と傷ついたランドセルを睨みつけながら問い詰めてくる母に、陸が言い淀めばいよいよ母の顔が怒りに染まっていく。

 転んだ、と慌てて陸は誤魔化したが、しかしそれも一度着火した母の怒りに油を注ぐだけになった。

「あんたなぁ、こんな遅くに帰ってきた上に、せっかく私が選んで買ったったランドセルをそんなボロボロにして、いったいどういうつもりなん? まだあと一年使うもんなんやで?」

「ちょっと擦れただけだよ……、使えるよ」

「そういう問題ちゃうねん、みっともない! モノを大切にせえへんねやったら、買わんだらよかったわ」

 母に吐き捨てられ、陸は一瞬途方に暮れた。

 しかしこれ以上、母を怒らせるわけにはいかないと小さな声で、ごめんなさい、とか細く謝るほかに無かった。そんな陸を母は暫く無言で睨みつけていたが、やがて多少の収まりがついたのか再び台所に向き直り、先ほどよりも大きな音をたてながら夕食の準備を続けたので陸はそそくさと逃げるように、自室に逃げ込んだのだった。

 灯りをつけ、背負っていたランドセルを机に置く。所々に目立つ傷がついてしまっている。

「……」

 カフェオレ色のランドセル。一目見た母がこれがええと有無を言わさずに買ったものだった。一緒にいた祖父母は難しい顔をさせていたが、そんな周囲の反応を気にもとめずに、彼女はさっさとそれを持ってカウンターに向かったのだ。

 他の同級生は皆、赤か黒のランドセルを買っていた。もう一人だけ、かわいらしい水色のランドセルを持っている女の子がいるが、彼女はこれがいいって言ったの、と誇らしげに、そのランドセルを大切に使っているのを、陸は知っている。

 部屋に戻った陸はしばらく放心していたがやがて洗面台に向かい膝の泥を水で落とし、タオルを濡らした。それでランドセルを拭けばそれを汚しているのは擦り傷だけになった。まだ、見た目はマシに思える。

「っい……」

 不意に膝に痛みがはしり、思わず呻いた。視線を落とせばそこに血が滲んでいたので、陸はため息を吐き、引き出しに忍ばせていた絆創膏を不器用に貼ったのだった。

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