第3話

 ――人魚は自由だ。

 この世界の大部分を泳ぎ回る事が出来る。群れはあるが国はなく、境目もなく、海が海であるかぎりは、どこへでも行くことが出来る。海中わだなかの音、水泡の生まれ死ぬ音、群れを成す魚が持つウロコのきらめき、揺れる境界の頼り無いようでそのじつ、頑なな感触。


 海面から注ぐ光も届かなくなってきたあたりを、くじらもどきは泳いでいた。薄い色素の双眸や、滑らかな尾鰭の鱗は微かな光を孕んで、泡沫を照らし、輝かせている。

 ゆったりと尾鰭を動かし、暗闇を進む。時折自分よりも大きな影が見えた。歌を歌いながら更に深く潜っていく影を見送り、徐々に浮上していく。

 途中で、同胞に出会った。自分の体長の半分にも満たない彼は、くじらもどきを見た瞬間ぎょっとした顔をさせて、それから口を開いた。

「――また海面に上がるのか」

「うん」

「もの好きな奴め。何があるんだ?」

 大地ヴィキン天空ヴィキルィエ、あとは小さなお友達。そう答えながら気持ちよさそうに海中でぐるりと身体を捩れば、ぶわりと沫が生まれる。くじらもどきが生み出した流れに同胞の身体が煽られ、慌てて彼はバランスをとった。その様子に悪戯っぽく笑うくじらもどきを睨み、悪態をつく。

「漁師どもに見つかっても知らないぞ」

「大丈夫だよ。あの子は言わないだろうから」

「子どもは心変わりが早い。人間だろうが人魚だろうがなんであれね」

「それが子どもの良いところだ。見ていて飽きない。まだ十と一つなんだって」

「十と一? 赤ん坊じゃないか」

 一体何が楽しいんだか、といよいよ呆れた顔で同胞がしかめっ面を向ければ、くじらもどきはううん、と考え、尾鰭を揺らした。

「理由を聞かれると、答えが見つからないものさ」

「退屈さを紛らわせるだけの為に海面に行くなら、他の暇つぶしにするべきだぜ」

「お前は相変わらずヒト嫌いだねえ」

 苦笑いと共に尾鰭で水を蹴り、海面に向けてぐっと浮かび上がる。忠告は聞いておくものだぜ、デカブツ。悪態にも似た言葉を置き去りにして、くじらもどきは強くなってきた光を浴びながら、泡沫と戯れるように身を捩り、そしてうんと伸びをした。

 波の砕ける音と、海面を撫でる風の音が近い。海面の強い揺らぎをものともせず、くじらもどきは伸ばした手で波間の裏側に触れた。指先に熱が触れる感覚と共に、身体が重くなる。

 視界の目映さが収まり、ぱちりと瞬きをする。少し遠い場所の岩場から小さな友達が、じっとこちらを見つめている。

 本来、ヒトの声は遠くまで届かない。鯨の囁きにも満たないほど弱々しい。海においては尚更である。

 しかし、人魚にとってあの少年の声は、不思議なことにひどく明瞭に聞こえた。あの岩場から少し降りた海中にいても、小魚ほどの口から発せられる呼び名が、人魚の器官を打つのだった。

 それが、人魚にとっては面白かった。

 今日も自分を呼ぶ声が聞こえてくる。しかしそれはいつもより沈んでいるように聞こえて、人魚にはそれが迷子の仔イルカが親や群れを求めて不安げに呼びかけているようだとふと思い至り、身を翻し波間を縫った。ひとつ尾鰭を揺らすだけで、岩場にはすぐに着く。一体どうしたのだろうかと考えながら、人魚は殻を破るように海面から顔を出した。そこには、やはりあの少年が暗い顔で佇んでいたのである。

「りく」

 人魚が、少年の名を呼ぶ。いつものように彼はぶかぶかとした――ヒトが服と呼ぶものを身につけていたのだが、それが普段よりも土にまみれているように見えた。おや、とよくよく観察をしてみると彼の肌にも土がこびりついていて、脚部には擦り傷も出来ている。

 人魚の呼びかけにも少年は黙って俯いたまま、立ち竦んでいた。

「……りく、ケガをしているね」

 僅かな沈黙の後に人魚がそう問いかければ、少年――陸はかろうじて頷いた。

「――別に、大丈夫だから」

 つっけんどんに答えた陸に、人魚は首を傾げる。

「でも、血が出ているよ」

 陸のそばに肘をつき、血が滲むそこを指さす。海水で濡れた指で触れるとヒトは痛がることを人魚は知っていたので、触れなかった。

「体育、の時間に……こけただけ」

 膝の土を払いながら、陸は背負っていた荷物をいつもの場所に置いた。人魚が砂の色をした荷物だと思っているそれは、数日前に会った時よりも擦れて、傷だらけになっている。陸は置いた荷物をじっと睨みつけた後、人魚を見上げた。

「ねえ、くじらもどき」

「うん」

 なにかな、と〝くじらもどき〟と呼ばれた人魚が首を傾げる。この小さな友人が話す言葉を聞き逃さぬよう、器官に神経を巡らせた。

「くじらもどきは、嫌な奴とか、いる?」

「…………嫌な奴?」

「うん、自分に嫌なことをする奴」

 陸の言葉にううん、と小さく呻く。海の中でも巨躯の部類に入る自分に危害を加えようとする生き物はあまりいない。暴れん坊の鮫だって、鉢合わせになっても素知らぬ様子でどこかへ行ってしまうし、海面をぷかぷか浮いている時にやってきては羽を休めようとする鴎は悪気があってのことではない。ただ、少し困るけど、それだけだった。

「嵐の日に起こる波の大暴れは嫌だな」

 いつものように泳げないから。ぽつりと呟いたくじらもどきの言葉に、はあ、と陸は小さいため息を漏らした。しかしくじらもどきは、それを聞き逃したようだった。

「お前は図体がでかいから、つっかかってこないんだよ」

「ふふ、海の生き物のほとんどは、分かっているからね。でも小さなものたちも、僕たちのような大きなものを使って、上手くやっているものさ」

「おれは」

 陸が一際大きな声を上げたので、くじらもどきは軽く目を見開いた。足下で揺れては弾けている波の粒を睨みつけながら、ぎゅ、と握りしめた拳を震わせている。

「それならおれは、大きなものがいい」

「…………りく?」

「お前みたいに大きかったら、あいつらに負けないし、あいつらも近寄ってこなくなるだろ。だから――」

「あいつら?」

「…………」

 ぐす、と鼻を鳴らしたきり陸は再び黙ってしまい、くじらもどきはその姿を僅かな困惑の眼差しで、まじまじと見つめていた。

「りくは大きくなりたいんだね」

「うん」

「まだまだ大きくなるよ。ヒトの成体はもう少し大きいから」

 くじらもどきは、勿論ヒトの成体を知っていた。時折、船に乗っては銀色の竜巻を作っている魚たちを一網打尽にして、海から引き上げていくのを遠目から眺めることもあったし、また逆に、彼らが海に飲まれて暗い底へ落ちていく様も、見たことがあった。くじらもどきがまだ稚魚の頃、昔は彼らとお喋りしても良い時代もあったと一族から聞いたことはある。しかし、今はすっかり、人魚とヒトが接することを忌避する風潮になってしまった。ほとんどの人魚達はヒトの目に触れないように、海の底で暮らし、やむなく海面に顔を出す時は、ひときわ注意深くなっている。

 こうしてこの巨躯の人魚がヒトの前に姿を晒すのは、ひとえに彼が幼体――子どもであるからに他ならない。ヒトの成体は、幼体の言葉を信じないフシがあるのを、くじらもどきは知っていた。

「くじらもどきみたいに?」

「あははっ、僕みたいにか」

 陸の問いかけにくじらもどきはくつくつと笑う。それからゆるりと振って、無理だよ、と微笑めば、陸は頬を軽く膨らませた。

「りく、僕は君みたいにそっち側を歩けないのと同じだ。生き物にはどだい無理なことがある。魚が、海の外で息が出来ないように。君たちが、ろくに泳げずにじきに波に呑まれて底へと落ちていくように。そういうものだよ、りく」

「じゃあ、おれは……ずっとこのまま?」

 ぽつり、陸が呟けばくじらもどきはゆっくりと瞬きをした。淡い輝きを孕む瞳が、僅かに細まり、笑った。

「ヒトという生き物は、生きる長さが短い代わりだろうね、とても早く変わることができる。君たちはそれの積み重ねによって船を造り、いまや僕たちの領域にまで手を伸ばそうとしている」

「難しいよ、わかりやすく言ってよ」

「ふふ、そうだね。だから、りくも変わることが出来るよ。今、君が自分のことを小さいものだと思っているのならば、大きくなろうと思えばいい。それにはまず顔を上げるのが一番いい。底ばかり見ていると、縮こまってしまうから」

 くじらもどきの声は柔らかい。それがどこか歌をくちずさんでいるような調子に思えて、陸はつられるように顔をあげた。眼前には初夏の太陽が、もうそろそろと傾いて地平線に沈む準備をしている。来たときよりも低くなったそれの日差しによって、黒々とした海面に光の粒が見え隠れしている。

 その光景を陸とくじらもどきは暫く黙って見つめていた。そして十七時のメロディが遠くから流れてきたので、陸は立ち上がり、またね、とくじらもどきに告げて、今日のうちにぼろぼろになったランドセルを背負い、家路についたのであった。



 ――家に帰れば、自分を横目で見た母が一瞬のうちに厳しい顔になった。

「なにしたんや、それ」

 母が指したのは、土で汚れた服と、ランドセルであった。問い詰めるような声色に陸が言いよどんでいると、いよいよ母の顔が怒りに染まっていったので、転んだ、と陸は誤魔化した。しかしその誤魔化しも、一度着火した母の怒りに油を注ぐだけになった。

「あんたなぁ、せっかく私が選んで買ったったランドセルをそんなにボロボロにしてどういうつもりなん? まだあと一年以上使うもんなんやで?」

「ちょっと擦れただけだから、使えるよ」

「そういう問題ちゃうねん、みっともない。モノを大切にせえへんねやったら買わんだらよかったわ」

 そう吐き捨てられ、陸は一瞬途方に暮れた。しかしこれ以上、母を怒らせるわけにはいかないと、小さな声で、ごめんなさい、と言うほかに無かった。そんな陸を母は暫く無言で睨みつけていたがやがて多少の収まりがついたのか、再び台所の食材に向き直ったので、陸はそそくさと逃げるように、自室に逃げ込んだのだった。

 灯りをつけ、背負っていたランドセルを机に置き、見つめる。所々、小さな傷がついてしまっている。放課後に平田のグループに捕まって、こっぴどくやられた時に出来た傷だった。用事なんて無かったんやろ、嘘つきめ。そんな罵倒を吐かれながら、突き飛ばされた拍子に、膝をすりむき、ランドセルも傷がついたのだった。

「…………」

 カフェオレ色のランドセルは、母がこれがええと有無を言わさずに買ったものだった。他の同級生は、だいたいは赤や黒で、もう一人ほどかわいらしい水色のランドセルを持つ女の子がいたが、彼女はこれがいいって言ったの、と誇らしげに、大切に使っているのを陸は知っていた。

 暫く放心していたものの、やがて洗面台から持ってきたタオルを手に取ってランドセルを拭く。土の汚れはなくなって、それを汚しているのは擦り傷だけになった。まだ、見た目はマシに思える。

「っい…………」

 不意に膝に痛みがはしり、思わず呻いた。そちらに視線を落とせば膝は相変わらず血が滲んでいたので、陸は仕方なしに、引き出しに忍ばせていた絆創膏を、不器用に貼ったのだった。

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