第2話
年代物のスピーカーから鳴るチャイムは、聞いて心地の良いものではないが陸を安堵させるものの一つだ。今や遅しと席から立ち、教室の後ろ、赤色と黒色のランドセルが並ぶ棚に向かい、薄ぼんやりとしたベージュに近い色――カフェオレ色と買った時に言われたそれを引っ張り出した。六年と三ヶ月使ってきたそれは、所々に傷がついている。陸は、間違いなく自分の所有物であるそれを背負う度に、憂鬱な気分になった。しかし六年も背負えば、慣れてしまうものだ。そそくさとベルトに腕を通して、帰路につこうとした。
「おい、陸」
背後から声をかけられ、びくりと肩が跳ねる。咎められたような気持ちでおずおずと振り向けばそこには男子が数人、こちらを見ていた。
「なに、平田くん」
「釣り行くぞ」
「え、おれも……?」
同級生からの突然の誘いに陸が戸惑いながら首を傾げれば、呆れたように当たり前やろと、声をかけてきた同級生――平田が睨みつけてきた。生来の気の強さが宿ったような眼差しに陸は思わず唇を舐め、言いよどんだ。
「あの、おれ」
「昨日もお前呼んだのに無視したやろ」
「あ、そう、なんだ……ごめん、聞こえてなかった……」
「耳悪いなお前……まあええわ、行くで」
急かす平田の背には既に黒いランドセルが背負われている。他の皆も帰りの支度を終えているようだった。――とはいえ、彼が背負っている傷だらけのそれの中は殆どからっぽで、おそらくは底の方に一週間前のプリントがくしゃ、と置き去りにされて、中途半端な長さの鉛筆が転がっているだけなのだ。
平田は放課後になると、友人達と共に陸をほとんど強引に連れ回した。彼らは毎日のように漁港近くの堤防で釣りをし、家から父か祖父の物であろう銛を持ち出しては、浅瀬に潜り魚を仕留めて遊んでいる。
陸はというとあまりそういった遊びをすすんで楽しむ気質ではない。家に篭もって読書やゲームをする方が楽しいと思えるのだが、それを見た父が渋い顔をするのだ。お前も平田くんみたいに外に出て遊ばんかい、としょっちゅう叱りつけては読んでいた文庫を取りあげるので、仕方なく――くだんの磯でひとり、過ごすのを好むようになったのだった。
六年生になってから平田が執拗に陸を誘うようになったのは、父と平田の父が同級生で、何かのきっかけで父がウチの息子と遊んでやってくれと頼み込んだに違いない。それを平田の父が快諾したのだと、陸はなんとなく、理解していた。
きっと平田だって、いい迷惑だろう。既に仲の良い遊び仲間がいるのに、そこに内気な〝友人〟を入れろと親が言ってきたのだから。
「あ、いや、あの」
「なんや」
陸の声に平田が顰めっ面で聞き返す。どうにかして彼らと別れなければならないと焦りながら、陸は視線を彷徨わせた。
「おれ、今日は用事があって……」
とっさに出た誤魔化しと共に、昨日あの磯で出会った大きな生き物の姿が脳裏によぎる。また明日。穏やかで低い声が、そう言ってくれていた、筈だ。
「用事?」
「……うん、用事」
「なんの」
いやに、食いついてくる。なんのって、と口をもごもごとさせればいよいよ平田は不機嫌になって、眉間に皺を作った。
「人に言えん用事なんてあるんか?」
「そういうわけじゃ……知り合いに会うんだ。ごめんね、もう行かなきゃ」
早口で告げ、カフェオレ色のランドセルを揺らしながら陸が立ち去る。ぱたぱたと逃げるように教室を出て行った同級生の影を、平田は暫く睨みつけていたが、もう行こうや、と後ろで待っていた友人の声に、平田はそちらに向き直ったのだった。
天気予報よりも先に梅雨明けを告げているような青が、海と空を明確に分けている。
「やあ、りく」
「……こんにちは」
案の定、くじらもどきは昨日と同じ場所にいた。岩に囲まれた潮だまりに大きな身体を横たえる姿は、さながらひなたぼっこをしている海獣だ。
「今日も来たのだね」
「また明日って言ってただろ」
背負っていたランドセルを、波飛沫のかからない平らな岩場に置いて、陸はくじらもどきの傍らにしゃがみこむ。その偉躯をまじまじと眺めれば、濡れた肌はゆっくりと上下していた。
「ああ、ただ……君は怖がってもう来ないかもと思っていたんだ」
ざぱりと水音と立てて、くじらもどきが上体を起こす。たちまち少年のまわりに影が出来て、大粒の雫が岩場を濡らした。
「怖いもんか」
「はは、ちいさいのに恐れ知らずなんだね、りくは」
「うるさい、お前からしたら誰だって小さいだろ」
笑うくじらもどきの言葉に陸が、む、と口をへの字に曲げる。ごめんごめん、とくじらもどきが慌てて謝れば、そうだ、と右腕をゆっくりと動かし、その手のひらを少年の眼前へと差し出した。
「おいで」
「なに?」
「おいで、手のひらにのるんだ」
そう促され、一瞬戸惑う。自分より大きな生き物が、自分に触れようとしている事に今更、本能的な畏れが過ったのだ。しかし、再び促してきたくじらもどきの淡い色素の瞳は、変わらず穏やかである。意を決して、陸は靴と、靴下を脱いだ。それをランドセルが置いてある方に投げ、家の座布団よりも大きいであろう、しっとりと濡れた皮膚に、素足を乗せた。布とは違う柔らかさだ。祖父の家に置いてある、革張りの書斎椅子に近い。しかしそれよりも、しっとりとして、生きていることを明確に感じ取れた。自分の足が、彼の手のひらに僅かに沈み込んでいるのを見て、陸はあの、と声を上げた。
「重くない?」
「全く。そんな端っこでは落ちてしまうよ、真ん中においで」
くじらもどきの声に、ぺた、ぺた、と手のひらの真ん中へと進む。すると、ぐらりとそこが大きく動いて、少年は思わずそばの指にしがみついた。そのままずるずるとその場にへたり込んで、目を瞑る。前後不覚に陥ったままでいると、すぐに揺れは収まった。
「…………」
「そばにいると、潰してしまうかもしれないからね。これでりくの顔も見ることが出来る」
頭の上から降ってくる声に、陸が顔を上げる。相変わらず、くじらもどきの手の上でへたり込んでいたが、くじらもどきの手は彼の腹の高さにあるようだった。遠くなった地面を見下ろし、それからもう一度、目の前の生き物を見上げる。まるで自分が、子ウサギか子犬か、そんな小さな動物になったようだ。陸はくらりと目眩をさせつつ、のろのろとくじらもどきの指に、もたれかかった。
「……りく?」
「びっくりした……」
「――ごめん、おろすよ」
「待って」
申し訳なさそうに手を動かそうとしたくじらもどきを引き留め、陸は彼を見つめる。小さな子どもの言葉に律儀に従うこの大きな生き物を見ていると、鼓動が早くなる。それが畏れなのか、それとも別の、そう、ついこの間博物館で見上げたあの鯨の骨格標本に抱いたものに近い感情なのか、幼い子どもには判然としない。
「なんか話してよ」
「……いいのかい」
陸の言葉にくじらもどきがそっと、囁く。柔らかな声に瞬きをして、陸は頷いた。
「おれはお前に会いにきたんだ。お前が、また明日って言うから」
「――そうだったね」
くじらもどきが肩を揺らす。濡れた肌が微かに震えるのを背で感じながら、それで、と陸は足を投げ出した。
「お前はここに住んでるの?」
「ううん、違うよ」
陸の問いにくじらもどきが首を振る。
「なんだ、迷子か」
「まいご?」
「帰る場所は?」
「どこへでも。海のあるかぎり」
澄ました顔で答えるくじらもどきに、なんだそれ、と陸が笑う。
「りくの帰る場所は?」
「…………龍養戸町尾原三丁目」
ぶっきらぼうに答える陸に、おや、とくじらもどきが声を漏らす。それからそっと首を傾げた。
「帰る場所は、あまり良いところじゃないんだね」
「……なんでそう思うんだよ?」
「だって、りくは少し嫌な顔をした」
くじらもどきの淡い双眸がそっと細められる。どこか、自分の心の内を見透かされるような気分になりながら、陸は曖昧に頷いた。
「そうかも」
「暴れん坊の鮫でもいるのかい」
「いるわけないだろ。ただ……すぐには帰りたくないんだ」
別に、普通の場所だよと陸がひらりと手を振れば、そう、とくじらもどきが頷く。少し考えた素振りを見せて、それなら、と口火を切った。
「もう少し、ここにいよう」
「くじらもどき?」
「決めたよ」
だからいつでもおいで、とくじらもどきが小指の先で陸の頭を撫でる。そのせいで陸の髪は濡れて、ぽたぽたと雫を滴らせた。彼の言葉の意味を汲み取れず、しかし陸は曖昧に頷く。
「じゃあ、おれがここに来たら、ちゃんといろよ」
「そうするよ。りくの声で呼べば、僕はこの海からやってくるから。りくの声で、呼ぶんだよ」
陸の頭を撫でていた手で、くじらもどきは海を指さした。つられて陸も振り向く。いつもより高い場所から、太陽が海に沈み溶けるさまが見えた。
「……わかった、呼ぶよ」
ひとつ頷く。なにか、大きく、そして誰にも言えないような約束を交わしたと思えた。大きく、丸い、きらきらとしたものを飲み込んだ――そんな心地で、陸は潮騒に耳を傾けたのだった。
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