第2話
年代物のスピーカーから鳴るチャイムは、聞き心地のよいものではないものの、陸が待ち望んでいたものだ。今や遅しと席から立ち教室の後ろにある赤色と黒色のランドセルが並ぶ棚に向かい、薄ぼんやりとしたベージュに近い色――カフェオレ色だと買った時に告げられたそれを引っ張り出した。
ずっと使ってきたそれは、所々に小さな傷がついていた。陸は、間違いなく己の所有物であるそれを背負うたびに、慣れぬ憂鬱をその重みに感じている。
そそくさとベルトに腕を通して、陸が帰路につこうとすると。
「おい、陸」
背後から声をかけられ、びくりと肩が跳ねた。咎められたような気持ちで陸がおずおずと振り向けば、そこには同級生が数人立っていて、こちらを見ている。
「なに、平田くん」
「釣り行くぞ」
「え、おれも……?」
同級生からの突然の誘いに陸が戸惑いながら聞き返せば、呆れかえったように同級生――平田が睨みつけてきた。生来持つ気の強さが宿った眼差しに、陸は思わず目を泳がせ、言い淀む。
「あの、おれ」
「昨日も呼んでやったのに、お前、シカトしただろ」
「あ、そう、なんだ……ごめん、聞こえてなかった……」
「耳悪いなお前……ほら行くぞ」
急かす平田の背には黒いランドセルが背負われている。今から一緒に遊ぶのだろう他の同級生たちも帰りの支度を終えているようだった。
――とはいえ、彼らが背負っている傷だらけのランドセルはほとんど空っぽであること、おそらくは底の方に一週間前のプリントがくしゃ、と置き去りにされていて中途半端な長さの鉛筆が転がっているだけということも陸は知っていた。
平田は放課後になると、友人達とともにほぼ強引といってもいい勢いで陸を連れ回した。彼らは毎日のように漁港近くの堤防で釣りをし、家から父か祖父の者であろう銛を持ち出しては、浅瀬に潜って魚を仕留め、遊んでいる。
陸はというと、あまりそういった遊びをすすんで楽しむ気質ではない。
好んでいるのは本を読むことで、海辺でいる時は生きた魚を眺めているほうが楽しい。しかし、そんな我が子に父は渋い顔をする。
お前も平田くんみたいに外に出て遊ばんか、としょっちゅう叱りつけては部屋の中で読んでいた文庫を取りあげてしまう。それが嫌で仕方なく――一年ほど前に見つけたくだんの磯でひとり、過ごすのを好むようになったのだ。
六年生になってから同級生となった平田が執拗に陸を遊びに誘うようになったのは、父と平田の父が同級生だからだろう。
何かのきっかけで父がウチの息子と遊んでやってくれと頼み込んだに違いない。
それを平田の父が快諾したのだと、陸はなんとなく、理解していた。
きっと平田だって、いい迷惑だろう。すでに遊び仲間がいるというのに、そこに気質の合わない〝友人〟を入れろと親が言ってきたのだから。
「いや、その……」
「なんだよ」
陸が煮え切らない声を出したのが気に入らないのか、平田は顰(しか)めっ面をさせた。どうにかして、彼らから離れたい一心で陸は一度息を飲み、口を開いた。
「おれ、今日は用事があって……」
とっさに出た言い訳と共に、昨日、あの磯で出会った大きな生き物の姿が脳裏によぎる。
また明日。そう約束した、筈だ。
「用事?」
「……うん、用事」
「なんだよ、用事って」
いやに、食いついてくる。なんのって、と口をもごもごとさせればいよいよ平田は不機嫌になって、眉間に皺を作った。
「人に言えねえ用事なのかよ」
「そういうわけじゃ……知り合いに会うだけだよ」
「知り合い?」
「うん。ごめんね、もう行かなきゃ」
これ以上の詮索をさせないように早口で告げ、カフェオレ色のランドセルを揺らしながら陸が立ち去る。ぱたぱたと逃げるように教室を出て行った同級生の後ろ姿を平田はしばらく睨みつけていたが、もう行こうぜと待っていた友人の声に、そちらに向き直ったのだった。
天気予報よりも先に梅雨明けを告げているような青が、海と空を明確に分けている。
「やあ、りく」
「……こんにちは」
くじらもどきは昨日と同じく、磯にいた。岩に囲まれた潮だまりに大きな身体を横たえる姿は、さながらひなたぼっこをしているアザラシかなにかだ。
「今日も来たのだね」
「また明日って言っただろ」
背負っていたランドセルを波飛沫のかからない高い岩場に置いて、陸はくじらもどきの傍らにしゃがみこんだ。その巨躯をまじまじと眺めると、くじらもどきの濡れた肌はゆっくりと上下しているのが見てとれた。
「ああ、ただ……君は怖がってしまって、もう来ないかもしれないと思っていたんだ」
ざぱりと水音を立てて、くじらもどきが上体を起こす。たちまち少年に影が落ちて、大粒の雫が岩場を濡らした。
「怖いもんか」
「はは、ちいさいのに勇敢なんだね、りくは」
「うるさい、お前にとっては誰だって小さいだろ」
可笑しそうに笑うくじらもどきの言葉に、陸は口をへの字に曲げた。ごめんごめん、とくじらもどきが澄まし顔で謝罪をすれば、そうだ、と右腕をゆっくりと動かし、その手のひらを少年の眼前へと差し出した。
「おいで」
「なに?」
「おいで、手のひらにのるんだ」
そう促され、陸は戸惑った。
自分よりも大きな生き物が、己に触れようとしている事に今さら、本能的な畏れに襲われたのだ。しかし陸が動くのを待つくじらもどきの淡い色の瞳は、変わらずに穏やかである。
意を決して、陸は靴と靴下を脱いだ。それをランドセルが置いてある方向へ放り、濡れたくじらもどきの手に、素足をのせた。足裏から冷たさが伝わってくる。しっとりとして、温度は感じられないものの生きているものの皮膚であることは理解出来た。
自分の足が彼の手のひらに僅かに沈み込んだのを見るなり陸はあの、と声を上げた。
「重くない?」
「まったく。落ちないようにね」
くじらもどきの声に従い、彼の手のひらに腰掛ける。するとぐらりと揺れたので前後不覚に陥って目を瞑っていると、すぐに揺れは収まった。
「……」
「これでりくの顔がきちんと見える。あそこにいるとうっかり潰してしまうかもしれないからね」
頭の上から振ってきた声に、陸が顔を上げる。
少年を乗せたくじらもどきの手は、彼の胸の高さにあるようだった。遠くなった地面を見下ろし、それからもう一度、目の前の生き物を見上げる。まるで自分が、生まれたばかりの子ウサギか子犬か、小さな動物になったような心地に目眩を覚え、陸はのろのろとくじらもどきの指に、もたれかかった。
「……りく?」
「びっくりした……」
「――すまないね、おろそう」
「待って」
眉を下げ、手を動かそうとするくじらもどきを引き留め、陸は彼を見上げた。小さな子どもの言葉に律儀に従うこの大きな生き物を見ていると、鼓動が早くなる。
それが畏れなのか、それとも別の、そう、ついこの間に博物館で見上げたクジラの骨格標本に抱いたそれ――童心の興奮に近い感情なのか、幼い子どもには判然としない。落ち着くべく深呼吸をすれば、磯の匂いが肺を満たした。
「なにか話してよ」
「……このままでいいのかい?」
陸の言葉にくじらもどきが囁く。気遣わしげな柔らかい声にひとつ瞬きをして、陸は頷いた。
「おれはお前に会いにきたんだ」
「――そうだったね」
くじらもどきが目を細める。足を揺らしつつ、それで、と陸は彼を指さした。
「お前はここに住んでいるの? おれ、ここを見つけてから一年経つけど、お前なんか知らなかったよ」
「ここは僕のすみかではないね」
陸の問いにくじらもどきが否定する。
「なんだ、迷子か」
「まいご?」
「帰る場所は?」
「海のあるかぎり、どこでも」
さも当たり前のこととすまし顔で答えるくじらもどきになんだそれ、と陸は呆れ声を出した。たしかにクジラの中にも海を何千キロも移動する種類があると聞いたことはあるので、このくじらもどきもそういう生き物なのだろうと、己を納得させつつ、更に問いかけた。
「じゃあ、今までどこにいたの?」
「ここより少し冷たいところ」
「じゃあ北海道とか、ロシアとか、アラスカ?」
冷たい場所と言われ、思いつくかぎりの場所を上げればくじらもどきは、さて、と首を捻るだけだ。分からないのか、と陸は少々つまらなさそうな顔をさせた。
「住んでる国とか、ないの?」
「くに」
「ほら……住んでる場所で、人が変わるんだよ。アメリカ人とか、フランス人とか中国人とか。話す言葉も変わるんだ」
「りくは?」
「日本人。ここは日本っていう国で、日本語を話すから。そういうの、ないの?」
くじらもどきは少しばかり考えた末に答えた。
「僕たちには僕たちが使う言葉がある。それと、群れを作っている奴らもいる。彼らは住んでいる海域からは出ようとはしないね」
くじらもどきの答えに、陸が目を見開く。父や祖父からは、今まで一度も人魚を見ただなんて聞いたことがないにも関わらず、彼らは海に沢山いるのだという。
もしかすると自分は、世界ではじめて人魚を見た人間なのではないか、と自惚れに似た考えが陸の頭をよぎった。
「くじらもどきは群れで暮らさないの?」
「うん、昔は群れで過ごしていたのだけど」
「……もしかして、はぐれた?」
「……」
「やっぱり迷子じゃないか!」
無言を通すくじらもどきに是と受け取ったのか、陸はくすくすと笑いながらからかった。笑う少年にくじらもどきは少しばかり呆気にとられていたが、全く無邪気な様子のこどもにつられて、くじらもどきも笑った。
「そうかもね。でも自分が迷子だなんて思ったことはないんだ。一人で生きていけるから」
「……そっか、じゃあ、くじらもどきは自由なんだね。だって何にも気にしないで生きていけるんだろ」
いいなあ、と陸がくじらもどきをまじまじと見上げる。どこか眩しそうな顔をさせて、次は何を聞こうか迷っていると夕刻のチャイムが鳴った。
ああ、と陸が名残惜しげな声を漏らす。
「りくの帰る場所は?」
「……瀰境町(みさかちょう)尾(お)原(はら)三丁目」
ぶっきらぼうに答える陸に、おや、とくじらもどきが首を傾げる。
「帰る場所はあまり良いところじゃなさそうだ」
「……なんでそう思うの?」
「だって、りくは少し嫌な顔をした」
くじらもどきの淡い双眸がそっと細められる。どんな生き物のこころであっても見透かしてしまうような眼差しに、陸は一瞬躊躇ったあとのろのろと頷いた。
「そうかも」
「暴れん坊の鮫でもいるのかい」
「いるわけないだろ。ああ、でも……近所にいるかも。でも家は普通だよ。父さんは船に乗って魚をとる仕事をしていて、母さんは市場で働いているんだ。たまに父さんは帰ってこない日があるけど、船に乗る大人ってだいたいそうだし……。母さんは家ではいっつも不機嫌だけど、怒らせなければご飯も作ってくれるし……。怒ったら怖いよ。でも、それっておれが……」
そこまで言って、陸は口を閉ざした。すぐに小さく首を振って、少年が誤魔化すようにはにかむのを眺めれば、くじらもどきはぽつりと呟いたのだ。
「もう少し、ここにいよう」
「駄目だよ、チャイムが鳴ったら帰らないと、怒られちゃう」
陸の慌てた声に、そうじゃなくて、とくじらもどきは笑みを向ける。
「僕のことだよ。もう少し、このあたりですごそうと思ったんだ」
「どこかに行くつもりだったの?」
くじらもどきの言葉にハッとして、陸は不安げに聞いた。うん、と頷きながらくじらもどきは一度、眼前の海に眼差しを向ける。
まだ会ってたった二日なのに、とひどく落胆した陸の様子にくじらもどきは指でそっと、少年の頭を撫でた。
「そうだな……秋が終わるまでは、いてもいいかもしれないね」
人魚の指先は濡れていて、そのせいで陸の髪は濡れた。くじらもどきの言葉に、ぽたぽたと雫を滴らせながら陸はほっと安心したような顔をさせた。
「じゃあ、おれがここに来たら、ちゃんといろよ」
「ああ、そうするよ。秋が終わるまでは僕はこの近くにいる。りくの声で呼べば、僕はこの海からやってくるから、りくの声で、呼ぶんだよ」
くじらもどきは海を指さした。つられるように陸も指された先を見れば、いつもより高い場所から、水平線が見える。もうすっかり初夏らしく日の入りにはまだ早い。沖合から帰ってくる漁船の影が小さく見えた。
「……わかった、呼ぶよ」
ひとつ頷く。なにか重大な、そして誰にも言えない約束を交わしたと思えた。
けして後ろめたいものではない。大きく、丸い、きらきらとしたものをおのずから飲み込んだ――そんな心地で、陸はくじらもどきの指に触れる。
呼ぶよ。と潮騒に負けぬよう、もう一度言葉にしたのだった。
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