くじらもどき
舎まゆ
第1話
薄暗がりの中で、くじらが、くじらの骨が、泳いでいる。
つやつやとした白い骨がライトに照らされながら、宙に浮いている。
「あれは、クジラの全身骨格標本です。江戸時代の頃に流れ着いたザトウクジラのもので、この博物館が出来る前までは瀰境神社(みさかじんじゃ)で神様の使いとして祀られていました。ここにある展示物は、町の関係が深い海のものばかりです」
引率の先生の話が終わらないうちに、元気な子どもの何人かが感嘆の声をあげて室内に入っていく。まだ年端もいかない子ども達にとっては、天井に吊されたくじらの骨は怪獣のようなもので、ある子どもは興味深そうに眺め、ある子どもは怖い、とぐずりだしていた。
数分前までは静寂に包まれていたであろう資料館の玄関ホールは、元気で雑多な声で賑わっている。
――ザトウクジラ 全身骨格標本 七メートル
くじらの喉元あたりを見上げる位置に設置されたパネルを少年は読んだ。所々読めない漢字がある解説文を暫く眺めて、そしてふと、顔を上げた。
肉を喪い、頑強な骨のみの姿となったくじらはそれでも大きく、生きてさえいれば少年を飲み込むことさえ容易いのだと思えるような圧があった。これが海の中で泳ぎ、時に海面を飛び出し、波を作るのかと想像して、少年は思わず手をきゅ、と握りしめたのだった。
「では部屋に行きましょう」
先生の声が室内に響く。ふざけあいながら、あるいは早くここから離れたいと足早に、子ども達がぞろぞろと室内から出て行けば再びホールは静寂を取り戻していく。少年は列の後ろに着いて、出る前にもう一度くじらの骨を見上げた。
胸の内、ざわざわとした心地が水底の砂のように舞う。しかしそれでも少年は、くじらから目を離せずにいた。
肉をもった、生きた、これを見てみたい。
そういった願望を自覚した。
くじらもどき
1
壁にとりつけられたスピーカーから、ひび割れたチャイムが鳴り響く。
「なあ、釣り行こうぜ! じいちゃんが今日は魚が来る日だってよ!」
「はあ? お前のじいちゃんはアテになんねーだろ」
斜め右隣で、クラスメイトが放課後の過ごし方を相談している。それを横目に、ランドセルに手早く教科書とノートを詰めて、薄いカフェオレのような色のそれを背負った。
授業が終わったという開放感からか、お喋りに夢中になる同級生から逃げるように、少年は出口へ向かう。
「りくー、お前も来るよな?」
友人を釣りに誘っていたクラスメイト――平田の声が聞こえた気がしたが、聞こえないふりをして足早に去る。ばいばい、と廊下で別の学級の誰かが挨拶を交わしている。そんな中を一人、歩いて行った。
小学校から家へは十五分、海を臨むゆったりとした坂を下っていく。小学校の校門からは町と、小さな漁港、そして一面の大海原が一望出来た。少年は殆ど毎朝この坂を上り、毎夕同じ道を下る。
学校が終われば真っ直ぐに家に帰るというわけではなく、坂を下りきったあたりの三叉路で、家とは反対の道を歩いて行くのだった。
海沿いの道をのんびりと歩く。
頭の中ではつい数日前に資料館で見たくじらの骨格標本が、白く艶やかな〝肌〟を淡く輝かせながら鰭を動かすことなく泳いでいる。
ざん、ざん、と寄せては引く波の音が、果ての無い大海原で泳ぐ生き物についての想像を、かき立てた。
そういえば、つい数週間前の夕飯時、父が焼き鳥を手にぼやいていた。
――クジラが港近くの〝いたる浜〟にあがったらしい。
まだ夏前とはいえ死んだクジラは臭くてかなわん。父の言葉を母は聞き流しながら、ぽり、とキュウリの漬物を囓っていた。
くじらはどれぐらい大きいの、と少年が聞けば父は顔をしかめて、そんなことを聞いてどうすると、逆に聞かれたので返事に窮してしまったことも、思い出した。
「陸、はよ食べなさい」
母に短く咎められ、慌てて小さな茶碗の白米を口に運ぶ。はあ、とやけに大きく響いた母のため息も気にとめず、父は小さなグラスに注がれた発泡酒をぐっと呷った。
「五メートルぐらいだと。まだ若そうだな」
五メートル。いざ数字で言われれば、ぱっと想像がつかない。
「見にいっていい?」
「陸」
「もう夜のうちに砂場に埋めるらしいぞ」
ひらひらと手を振る父に、そう、と残念な思いで頷く。
母がもう下げるで、急かしながら空いた皿を片付けだして、少年は焦りながら串から外された鶏肉を箸で摘まんだ。
どこか居心地の悪い食卓はいつも通りだった。
海沿いを十五分ほど歩いて行くと、下におりるための階段がある。
青いペンキで塗られたそれは所々、赤茶に錆びていた。入り口を塞ぐ為にかけられているチェーンをまたぎ、階段をおりた先は小さな浜辺になっている。
港の隣に位置するいたる浜とは違って、町民の殆どがこの浜の名前を知らない。少年が父に聞いても首を傾げて「なんだったかなあ」と返されるだけであった。
チェーンがかけられた階段からしか来られないので、立ち入りを禁じられた場所であることは理解している。階段をおりてすぐの浜辺には空き缶や花火のごみなんかが落ちているので、自分以外にも立ち入っている不届き者はいるのだろう。
波の音が耳の中でいちだんと大きくなるのを感じながら、砂を踏み、更に奥へ。
浜辺の端にある鬱蒼とした茂みの隙間に潜り込めばこれは自然が作り出したのだろうか、小さな獣道が通っている。手入れの届かない茂みに隠された道を知るものはいないらしく、道中にも岩場の隙間にも潮だまりにもゴミは見当たらない。梢に覆われて涼しげなその道を進めばやがて、岸壁に囲まれた小さな磯へと辿り着くのだ。
ここは少年のお気に入りの場所であった。
いつもここで、波が掛かるか、掛からないかぐらいの岩に座ってぼんやりと海を眺め時間を潰す。潮だまりで微睡む蟹をつついたり、岩場の眼下、ゆったりと泳ぐ魚影を眺める。潮の匂いに包まれながら借りてきた本を読む。
同級生と釣りをするよりも、家でチャンネルの変えられないテレビを見るよりも、ずっと、少年の心を安らげたのだった。
くじらが、うちあがっている。
少年は、錯覚した。
波を砕く岩場、その隙間に白く巨大な尾ひれがくったりと横たわっているように見えたのだ。つい数日前に見てみたいと願望を抱いたものがこんなにも早く叶うとは。
どこか後ろめたいような、しかし誤魔化しようのない高揚感が少年の心を包んだ。
陽の光を受けて白く輝く鯨を近くで見るべく、恐れを失った少年はひょいひょいと手慣れた様子で岩場を渡った。
そうして辿り着いた先に横たわっているくじら――と思ったものを少年はまじまじと見つめ、目を丸くさせた。
「くじらじゃないや」
近くで見たそれは、まさしくクジラのような尾ひれを下半身に持つ――大きな男であった。
もし、人々がそれを見たならば人魚と呼ぶだろう。
常識的な考えを持つ大人ならば、おとぎ話でのみ語られる生き物だと断じるような存在である。
しかし実際、少年の目の前に人魚は横たわり穏やかにそそぐ初夏の陽気の中で濡れた肌を淡く輝かせていた。
「くじらに見えたかい」
少年の独り言に応えるように、人魚は穏やかな声を発した。
「うん」
子どもというものは恐れ知らずなものらしく目の前の未知の存在にはまったく恐怖を抱かない。つまらなさそうに傍の岩にしゃがみ、もう一度横たわるものを眺めた。
父親よりも、ずっと大きい。
大きさだけは、ちょっとした鯨だと言ってもいいのだが、人間の身体に、足の代わりの尾ひれがついているのだから、くじらではない。
「くじらもどき?」
「はは、くじらもどきか」
くじらは喋らないが、くじらもどきは言葉を流暢に話した。海水が時折かかるような岩場に横たわりながら、くじらもどきは愉快そうに笑い、肩を揺らしている。肩先まで伸びた髪は淡い紅色でその一房ががっしりとした首筋に、はりついている。
「君は、くじらを見たかったのかな」
「うん」
人魚――くじらもどきと少年が呼ぶことにした生き物の問いかけに、少年は素直に頷いた。そうか、と困ったように微笑めば、くじらもどきは薄い色素の、不思議な色をした瞳を少年に向けた。
「それは期待を裏切ったね。騙してしまったような気分で、申し訳が立たないよ」
「くじらもどきは、くじら、見たことがある?」
別にくじらもどきは、自分を騙そうとしていたわけではない。少年はそう思っていたので、代わりに別の質問を投げつけた。
するとくじらもどきはこくりと頷き、瞬きをさせた。
「あるさ。思慮深いやつら。いるかのように気さくといったものではないが、あれらの気分が良いときは唄を聴かせてくれるものでね。僕は好きだ」
「ふうん」
少年はくじらには興味があったが、くじらが歌うらしいという事にはあまり興味をそそられなかった。生返事をしながら、くじらもどきの尾ひれに眼差しを向ける。
鱗の無いすべすべとした尾ひれは黒くごつごつとした岩肌の上で白さを際立たせていた。時折、飛び込んできた波の飛沫がかぶる。くじらもどきは、その波飛沫のおかげで陸にいてもつらくないのではないかと、少年はふと思い至った。
「くじらを見つけてどうするつもりだった?」
今度はくじらもどきが質問を投げかけてきた。少年は小さく瞬きをさせてから、ううん、と軽く唸り考え込んだ。――しばらくして。
「みんなに自慢する」
「困ったな」
「どうして?」
「誰かを、呼ぶのかい」
くじらもどきの声は、困惑を孕んでいる。まるで誰かをここに連れてこられると良くない、と言いたげな調子である。
「呼ばないよ。お前はくじらじゃないもの」
少年の正直な返答に、くじらもどきはほっと安堵したようだった。そうか、と頷いてから目を伏せ、尾ひれを小さく揺らした。
「静かでいさせてくれれば、嬉しいよ」
「静かって、ここは波がひっきりなしに鳴っているじゃないか」
「それがいいんだ。それだけが、僕にはいいんだ」
「へんなの」
くじらもどきの言葉の真意を汲み取れず、少年は呆れた顔で彼を見上げた。むくれた表情がくじらもどきにとって可笑しいものであったらしい、薄い色素の双眸をすっと細める。
「そう言わずに聞いてごらん。目を閉じて、何も考えずに、すべての音に意識を預ければ静かだと思えるから」
促され、素直に目を瞑る。ざん、ざん、ざあ、と遠いようでいてしかし近い、波のさざめきに意識を預けた。暫く、そうしたままでいたのだが、やがて少年はそっと目を開いた。
向こうから、夕方五時のメロディが聞こえたのだ。
「帰らなきゃ」
「そうか。もう日が落ちるだろう。気をつけて帰りなさい、小さな人間くん」
「陸だよ。天(あま)貝(がい)陸(りく)」
「あまがいりく。りく、君が踏みしめているものと同じ名前だね」
「……明日もここにいる?」
「――おそらくは」
くじらもどきが肯定すれば、そっか、と少年――陸はランドセルのベルトをぎっと握った。
「じゃあ、また明日」
「ああ、さようなら、りく」
ばいばい、と陸が手を振り、岩場をひょいひょいと渡り獣道へと消えていく姿を巨躯の人魚が見送る。それからふと沈みつつある太陽を眩しげに眺めたのち、自らの肌に食い込む岩場に横たわればそっと目を瞑ったのであった。
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