虹の向こう側(カフェシーサイド9)
帆尊歩
第1話 カフェシーサイド9
カフェシーサイド「柊」の謎の女亭主、遙さんに散々こき使われて、自分の部屋に帰って来ると、ドアの前に誰かいる。
いや厳密に言えば、うちではなく隣か。
僕に気付くと、寄ってきた。
真希だった。
「今日は、本当にありがとうございました」
「いえ、僕は何も。カコちゃんは?」
「念のため、今日はお泊まりで」
「入院てこと?」
「そこまで大げさではないんですけれど」
「でも大事がなくてよかった。あっ、立ち話もなんですから、うち上がります?」
「とんでもない、そんな厚かましいこと」
「ああ、そうですね」ちょっと残念と思った。
「明日お昼頃、改めて伺います。皆さんによろしくお伝えください」
「ああ、わかりました」
僕はこの「柊」で砂掻き要員として雇われている。
カフェシーサイド「柊」は、砂の影響を受けないように、三メートルのテラスに店がある、とはいえ、波のように押し寄せる砂を掻いていかないと、三メートルのテラスにまで砂が来てしまうかもしれない。
それで雇われたのが僕だ。
朝からの肉体労働に嫌気がさした頃、もうすぐ昼というタイミングで、昨日の沙絵さんがやってきた。
「あら、こんにちは。眞吾君だっけ」
「はい」
「何しているの」
「砂掻きです」と言って、砂掻きの理由を説明する。
「そんなことさせられているの。遙は鬼ね」というくせに、何の同情もなく階段を上がって、店内に入った。
その十分後に、カコと真希がやってきた。
「何しているんですか」
以下同文。
「昨日はありがとうございました」と真希が言うと、二人は頭を下げた。
なぜか、またしても香澄さんがいる。
仕方なく僕と香澄さんは、二人で固まる。
「うちは別に何も」と遙さん
「私も別に何かをしたということではないから」
「でも沙絵さんの言葉でこの子、考え直したというか」真希だけが話して、カコはまだうなだれている。
カコはまだ納得していないのかな、とも思った。
「カコちゃんだっけ、別に堕ろすなって言っているわけじゃないのよ。昨日はああ言ったけど、どうしても育てられない人だっている。でも後悔はしないでね」
「後悔?」
「そう、流産しても良いなんて思って、今なら良いかもしれないけれど、後でもの凄い後悔するよ。小さい子供と遊んでるお母さんを見ると。ああ名前もないあの子も産んでいたら、あんな感じだったとか、今頃オムツ替えで大変だったとか、事あるごとに思い出すよ。夢にだって出てくる。ママ、ここは何でこんなに暗いの。なんでママは側にいないのって」
「ちょっと沙絵」と遙さんが割って入った。
カコは、顔が青くなっている。
話がリアルすぎる、沙絵さんに何があったと僕は思った。
「ゴメンね。沙絵の言うことはあまり気にしないで。でもこんな思いをした人間もいるということ。彼氏はなんて言ってるの?孝だっけ。命が失われるのは仕方がない。でもその命を絶つというのはまた別よ。それには覚悟がいる。でないと沙絵みたいになるよ」
「あの」と真希が恐る恐る言う。
「沙絵さんに何が」
「興味本位なら、聞かないことね。人には誰しも話したくないことがある」
「いいよ遙、覚悟なく子供が流れるとどういうことになるか。教えてあげる」
「沙絵」と遙さんは心配そうに言う。
「あたしは看護師をしていた。
仕事が忙しくて結婚はしたけれど、全然新妻らしいことはしなかった。
でもそんなあたしを、夫はなにも言わず、支えてくれていた。
それを良いことに、さらにがんばった。
夫は派遣で世帯収入が多くなかったから、少しでもポジションを上げて、収入を上げようとして頑張ったの。それが幸せになる唯一の方法と思っていたから。
あたしは看護師で、自分の体のことは全て分かると思っていた。
でもね、職場で倒れた。
そのまま子供は流れて、さらに子供が産めない体になってしまった。
それから夫とギクシャクしてね。今は花の独身。
一時期はあたしも荒れたよ。
カコちゃんみたく、もうどうなってもいい。
仕事も辞めて、流れ流れてこの町にきた。
そんな思いをして欲しくない。
カコちゃんを見ていると、あの頃のあたしそっくりなのよ」
「どうしてこの町に?」初めてカコが口を開いた。
「この町で海の彼方に虹を見たの。そしたらあの子が、ママここにいるよって、言ったような気がした。
ああ、あの子はあの虹の向こう側にいるんだと思ったら、この町を離れられなくなったの。で、この町にいついちゃったってわけ」
カコと真希は黙ったままうなだれている。そして意を決したように真希が言う。
「孝に会いに行こう。あたしも一緒に行くから」
「いや、一人で行く。これはあたしと孝の問題だから」真希は優しくカコの肩を抱いた。
「これで、海に虹でも出てたら、最高なんですけれどね」
みんな帰った後、僕はテラスの手すりに肘をついて、海を見ながら遙さんに言った。
「手代よ、そんなご都合主義があるか」
「手代に戻っちゃったよ」
海にはまだサーフィンをしている人が残っていた。
虹の向こう側(カフェシーサイド9) 帆尊歩 @hosonayumu
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