死人に口なし

ぷるたぶ

第1話

朝から降り続く雨の音が、玄関先になるとひときわ大きく聞こえる。


寺の引き戸を開けると、行方をなくした雨の音が部屋の中に雪崩れ込んできて、耳をつんざくように辺り一面に響き渡った。

思ったよりも激しい雨に俺は思わず顔をしかめ、くたびれたビニール傘をさして外に出た。


玄関を出て、空の向こうに目を凝らす。

普段なら不快感を覚える玉砂利の音が聞こえないのは、俺にとって好都合だった。

ざああ、と響く雨の音を聞きながら、この後このくらいのシャワーでも浴びたいなあとぼんやり考えて、俺は先に進む。


しばらく山内を歩くと、目指す東屋に鮮やかな茶色の髪が覗いているのが見えた。

小さくため息をつき、少し歩を早めてその背中に近づく。


「先輩」


声をかけても、ぴくりとも動かない。雨の音で聞こえないのかもしれないと思って、その背中にもう一度呼びかけた。


「先輩。」


二回目で声が届いたのか、背中が微かに動いた。俺は少し早めに傘を折りたたんで、東屋に駆け寄る。


「もう、先輩。聞こえたなら返事してくださいよ」

「・・・・・・聞こえてない」

「ばっちり聞こえてるじゃないですか。おばさんが呼んでましたよ」

「・・・・・・母さんが?なんで?」

「なんかお客様が帰るから、挨拶をしてほしいそうですよ。ほら、先輩一応長男でしょう。だからですよ」

「・・・・・・知らない。俺、もう少しここにいたい」


呼ばれた先輩は体育座りのまま、一向に動こうとしない。

俺は小さくため息をついて、その向かい側に座った。


「おばさん困ってますよ。どうしてこんな時にいないのって。だから呼びに行ってくれって頼まれたんです」

「・・・・・・ああ、母さんお前のこと気に入ってるもんな」

「顔見知りなのが俺しかいないからじゃないですか?とにかくもう、戻りましょうよ」


ここ寒いですし、と言うと、先輩がやっとゆっくり顔をあげる。


「行かない」

「先輩」

「だって、俺のこと呼びに来るのは大和だけだもん。ここで父さんの葬式をした時に、こうやって泣いてたら来てくれたんだもん」


そう早口でぼそぼそと話す先輩の言葉に、思わず息を呑む。


「先輩」

「だから、お前が呼びにきたくらいじゃ行かない」

「ヒロ先輩、ならなおさら行かないとだめじゃないですか」


だって、あなたを呼びに来る人はもういませんよ。



俺はそう言って、目の前の先輩を見つめた。




「今日、大和先輩のお葬式でしょう」




雨はますます勢いを増している。

聞こえないふりをしているのか、先輩は動かなかった。



大和とヒロ先輩ーーー大翔の双子といえば、俺の学校で知らない者はいなかった。

見た目が派手で、運動神経もいい。道を歩けば芸能事務所にスカウトされるくらいだった。

二人はいつも一緒だった。大和のサッカーの練習を、いつも大翔が待っていた。練習の後、大和が大翔に駆け寄っていく。大翔はそれを見て、晴れやかに笑うのだ。

考え方も、感じ方も何もかも一緒。大和がおもしろいと思うことは大翔もおもしろいと思うらしく、いつも二人でこそこそと内緒話をしてくすくすと笑っていた。

双子とは元来そんなものなのだと思うが、特に二人には特殊な何かがあった。社交的で明るい大翔、クールな大和。

正反対な二人だけれど、お互いにお互いが必要で、お互い以外は何もいらない、そんな感じがいつもしていた。

二人を引き離すことは、二人ともを壊すこと。だから、皆遠巻きに見はするものの、あるいは両方と仲良くしようとはするものの、二人の間に入ろうとはしなかった。


二人の間に入ることは、二人の世界を壊すこと。


俺は、そんな世界が心底愛おしかった。大翔の明るさと、大和のバランスをとる力。それだけで世界は回っていると思っていた。


あの人達の幸福のために、世界は存在するのだ。


そう思っていた。



だけれど、そんな世界はあっさりと壊されてしまった。



叩きつけるような雨の音が、俺の思考を現実へと引き戻す。ヒロ先輩はまだ空をぼんやりと見つめたままだ。


「・・・・・・先輩、もう行きましょうよ。ここ冷えますよ」


俺が言うと、彼は返事をして、視線を少し空から落とした。その目はまだ、俺をとらえない。


「大和がね、」

「はい」

「大和がね、こういう時呼びに来てくれるんだ。父さんが死んだ時、ここでこうやって泣いてたのを大和だけが気づいて、迎えに来てくれたんだ」


だから俺は、大和だけに呼ばれるんだよ。


彼はそう言って、少し目を伏せた。


大和だけ。その言葉が、ずしり、と俺の中に重たく響く。大和だけ。確かにそうだ。この人には大和先輩しかいない。

二人を引き離すことは、二人ともを壊すこと。だから、皆遠巻きに見はするものの、あるいは両方と仲良くしようとはするものの、二人の間に入ろうとはしなかった。


二人の間に入ることは、世界を壊すこと。


二人のことを一番わかっているのは二人でいい。

俺は、そんな世界が心底愛おしかった。ヒロ先輩の明るさと、大和先輩のバランスをとる力。それだけで世界は回っていると思っていた。

だから俺は、そんな世界を守りたかった。この人たちが笑う未来を、その礎に俺はなろう。俺はこの人達を守るために生きていくのだ。


それが俺の幸せだった。



そう、そのはずだったのに。



「・・・・・・大和先輩は来ないですよ」

「でも、大和が来てくれないと、俺、行くわけにはいかない。誰のお願いでも聞けない。俺にとっては大和しかいないんだもの」


だから、行かない。


ぽつりとこぼしたその言葉は、ひどい雨の中でもよく聞こえた。


(大和しかいない)


そうだ。この人には、いつだって大和先輩しかいなかった。大和先輩だけが必要で、大和先輩だけがいればよかった。大和先輩がいれば、何もいらないと笑った先輩。

俺は、そんな世界を守りたかった。この人たちが笑う未来の、その礎に俺はなろう。俺はこの人達を守るために生きていくのだ。

それが俺の幸せだった。


そう、そのはずだったのに。


(大和先輩、)


貴方がいれば、よかったのに。



雨が激しく振り続ける。

遠くで雷が鳴っている。灰色の雲はどんよりとした色を湛えて、行く手を阻んでいた。


「大和、まだ来ないのかな」

ヒロ先輩がぽつりと呟いた。袖をきゅっと握りしめて、身を寄せたのはきっと寒さのせいだけじゃないはずだ。

「先輩」

「大和」


大和、大和、大和。


「やまと」


雨の音に混ざって、先輩がやまと、と名を呼んで辺りを見回す。それに呼応するかのように、遠くで雷が鳴った。


「先輩、もうやめましょうよ。雷鳴ってますし、中戻りましょう」

「だって、呼ばないと、いなくなっちゃうんだよ」


痛々しくて声をかけた俺の声を遮るように、彼が声を張り上げた。初めて合わせられた瞳に怯えが滲む。


「俺だって、大和がもういないことくらい知ってるよ。だけど、俺が大和を必要としなかったら、大和は本当に消えちゃうよ」


大和。

彼がその名を呟くたびに、瞳の奥が揺れる。

俺は、この人たちを守りたかった。この人たちが笑う未来の、その礎に俺はなろう。俺はこの人達を守るために生きていくのだ。

それが俺の幸せだった。


そう、そのはずだったのに。



(大和先輩)



「大和がいないなんて、俺には耐えられない。ずっと一緒だったのに。大和とずっと一緒にいたかったのに。大和がいれば、何もいらなかったのに」

「先輩」

「大和、どうしていなくなっちゃったんだよ。俺には大和だけがいればよかったのに。大和以外何もいらないと思ってたのに。大和もそうだって知ってたのに。大和も俺だけでいいって言ってくれたのに、大和」


やまと、と小さく発音した彼の目から涙がこぼれ落ちた。一度流れ落ちた涙は留まるところを知らず、彼の頬を伝い落ち、滑り落ち、流れ落ちる。


「俺が大和を忘れちゃったら、大和は今度こそいなくなっちゃう。大和が消えちゃう。俺には大和が必要だったのに。俺には大和だけがいればよかったのに。大和しかいらなかったのに」

「先輩、」


「大和が、」



大和が、いなくなっていいはずが、なかったのに。



震える唇から出た言葉を聞いた刹那、雨の音が止んだ気がした。


頭を撃たれたような衝撃だった。

そうだ。ヒロ先輩には大和先輩が必要だった。大和先輩がいない世界なんて、ヒロ先輩がいない世界なんて、あっていいはずがなかった。二人は一人で、お互いがお互いを一番わかっている存在だった。

俺はそんな世界を守りたかった。大和先輩も、ヒロ先輩も、笑っている世界。二人が幸せでいられる、調和のとれた世界。

二人に初めて会ったあの日から、俺の使命はきっとそうなんだと悟っていた。だから、大和先輩と同じ部活に入って、ヒロ先輩と同じ委員会に入って、自然に二人に近づいた。



二人が笑っているのが好きだった。

二人が幸せなのが、好きだった。



「先輩、」


自然に体が動いていた。席を立って、先輩の横に座る。

ここは大和先輩の特等席だった。座るのはいけないことだと思った。


「先輩」


震える先輩の肩を掴む。想像よりもずっとずっと薄かった。とめどなく涙が落ち続ける彼の瞳を見据えるために、少しかがんで視線を合わせる。


「先輩、俺じゃダメですか」

「・・・・・・お前?」

「俺が大和先輩になるから、大和先輩の代わりになるから、」

「お前が?なんで?」

「俺、先輩が泣くのを見たくないだけなんです」

「お前じゃきっと、大和にはなれないよ」

「いいんです。何でも言ってください。大和先輩と違う所があったら、直しますから」


そう。俺が大和先輩になればいい。大和先輩がいれば、彼は大丈夫だろう。大和先輩さえいれば、大和先輩だけがいれば、ヒロ先輩は大丈夫だ。


今、彼に必要なのは大和先輩だけだ。


「先輩」

俺が促すように呼ぶと、先輩はちょっと戸惑ったような表情を浮かべつつも、俺のことをまっすぐ見る。

「お前、どうしてそこまでするんだよ」

「どうして?」

「大和はもういないんだよ」

「知ってますよ。でも、俺は先輩を助けたいんですよ」

「お前が、大和になることで?」

「だって先輩には、大和先輩がいればいいから」



だから、俺が大和先輩になるんだよ。



俺はそう言って、先輩を抱きしめる。



「ねえ先輩、」



俺を大和先輩の代わりにしてよ。



そう囁くと、先輩がわずかに頷いたのがわかった。



先輩が抗えないのは知っている。この人には、いつだって大和先輩しかいなかった。大和先輩だけが必要で、大和先輩だけがいればよかった先輩。大和先輩がいれば、何もいらないと笑った先輩。だから、大和先輩がいない状況に耐えられるはずがない。

俺は、そんな世界が心底愛おしかった。ヒロ先輩の明るさと、大和先輩のバランスをとる力。それだけで世界は回っていると思っていた。

だから俺は、そんな世界を守りたかった。この人たちが笑う未来の、その礎に俺はなろう。俺はこの人達を守るために生きていくのだ。



それが俺の幸せだったから、俺が大和先輩になるのは当然の事だった。



二人のいる世界を守りたかった。

二人に幸せでいてほしかった。

誰も入り込めない、二人だけの楽園。

調律された世界。



(大丈夫、俺が全部元通りにしてあげる、)



こんな時大和先輩ならどうしただろうか。ああそうだ、この人の手を引いてきっと帰るんだろう。何も言わずに、でも背中で、手で、俺がいると伝えて。


「帰ろう」


俺が手を出すと、頷いて手を握ってくる。この手を取ってくれたから、俺は大和にならなくちゃ。この人の全てでいなければ。


もしかしたら、俺はただ二人を愛したかっただけかもしれないし、愛されたかっただけなのかもしれない。二人が笑っている、二人が幸せでいられる、それを俺のおかげだと認識してほしかったのかもしれない。



そう悟った俺の思考は、雨の音の中で消えててゆく。


徐々に耳の中を支配してゆく雨の音を聴きながら、俺はつないだ温もりに誓うように、その手を強く握りしめた。


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