集中豪雨の村で 後編

 鬼見坂君は、高熱を発していた。

 俺と柴岡さんで二階へと運ぶ。マットレスで簡易ベッドをしつらえて寝かせ、柴岡さんの奥さんが付き添ってくれることになった。


 俺と柴岡さんは、部屋の一角にぐったりとへたり込んだ。気がつくと、全身にべっとりと汗をかいている。隣に座った柴岡さんは、顔面蒼白だった。


「……山崎さん。見たよな?」

「ええ」

「あれ、要救助者じゃないよな?」

「絶対違いますよ。というか、生きてる人間だったらあんな首の回り方しませんよ。あれって、あれは……」

「うん、わかった。わかった。この話は、内密に、誰にも言わないで」

「わかりました。言いません」

「鬼見坂君には、体調が戻ったら俺から話すから」


 柴岡さんは、ペットボトルの水をがぶがぶと飲んだ。


「駐在さん、ちょっとさ、うちの婆ちゃんが話があるっていうんだ。いいかな?」


 声をかけてきたのは、九宮くのみやさんという男性だ。

 俺と柴岡さんは顔を見合わせた。九宮さんのいう『婆ちゃん』という方は村内最高齢なのだが、いわゆる『そういうのが視える人』なのだそうである。


 九宮のお婆ちゃんは、九十歳を超えているとは思えないほど、かくしゃくとしていた。開口一番に言う。


「駐在さん、鬼見坂のお孫さん、たちの良くないのがくっついてるね」

「やっぱり、そうですか」

「運が悪かったんだ。ちょうど逢魔が時にあたってしまったんだねえ」

「どうすれば?」

「明日の朝になれば、命を取られることはないだろう。今夜は戸締りをしっかりして、中に入れないことだね。むりやり押し入ってはこれないけど、内から戸を開けると入ってくるよ」

「わかりました。この話はその、他の人には……」

「わかってる。誰にも言わないから」


 俺はこの手の話を信じない主義だったのだが、そんな主義など簡単に撤回した。

 人間なんて、そんなものだ。なんだかんだ理屈を言ったって、目のあたりにした恐怖には勝てっこない。

 俺と柴岡さんは大慌てで一階へ降り、すべての出入り口を念入りに施錠したのだった。


 その夜、俺と柴岡さん夫婦は、交代で鬼見坂君に付き添った。

 どうせ、眠れるものではない。

 夜半にはふたたび雨が降りはじめ、吹き返しの風もあった。


 夜中に二、三度、俺は扉をたたく音や、叫び声を聞いた気がする。

 もちろん、気のせいにちがいない。雨風の音だったのだろう……たぶん。

 窓から外を覗く勇気も、一階へ降りて確かめる勇気も、俺にはなかった。





 翌朝。

 俺と柴岡さんは、武器代わりのモップを手に、おそるおそる一階へ降りてみた。確かめないわけにはいかないからだ。


 窓から、朝日が差し込んでくる。

 太陽を見るのが、ずいぶん久しぶりのような気がした。

 日の光は俺たちの味方だ。この明るさが、昨日の恐怖をただの悪い夢に変えてくれる。俺はそう感じた。柴岡さんも同じ思いだっただろう。


 だが、そんな俺たちの思いは、正面玄関の前で打ち砕かれた。

 俺たちは凍りついたように立ちすくんだ。


 正面玄関のガラス扉には、泥水でスタンプされた手形が無数に残されていたのだった。






 あの集中豪雨から、二か月ちかくが過ぎた。


 鬼見坂君の高熱は、三日後にようやく下がった。体のほうは回復したものの精神的なショックが大きく、いまは村を離れている。


 あの件を知っているのは、俺と柴岡さん夫妻、九宮さん、それに鬼見坂君の家族だけだ。

 鬼見坂君の祖父の肝いりで、来週のお盆に合わせて洲手塚の供養祭をするという。


 柴岡さんが訪ねてきたのは、そんなある日のことだった。




 俺たちは河川敷のベンチに腰掛け、缶コーヒーを飲みながら話した。

 目の前の河川敷は簡易ゲートボール場なのだが、あの水害のあとは整備がされておらず、草ぼうぼうの荒れ地同然だ。

 生活に必須の施設ではないから、復旧が後回しになるのもとうぜんではある。

 八月の夕陽が、川面をオレンジ色に照らしていた。


 村の復旧の具合など、ひとしきり当たり障りのないことを話したあと、柴岡さんはおもむろに本題を切り出した。


「……実はさ、なんだけどね。あ、そうだ、あれ、約束通り黙っててくれてありがとうね」

「いえ、気軽に言いふらせるような内容でもないですし」


 俺は自分の声がこわばっているのを感じた。


「ちょっと、思い当たることがあってね。山崎さんは村外よその人だけど、俺といっしょに当事者だったわけだし。あんたにだけは、隠しておくべきじゃないと思うんだ」


 柴岡さんはそう前置きしてから、村の暗い過去を話しはじめた。




「これは、俺の祖父じいさんから聞いた話でね。祖父じいさんが若いころ、祖父じいさんの父親、つまり俺の曾祖父ひいじいさんから聞かされたっていうから、また聞きもいいとこなんだけどね。鬼見坂の家っていうのは昔からの家柄で、代々の庄屋をつとめてたんだそうだ。村一番の絶対権力者ってとこだ」


 柴岡さんは続ける。


「もう、百年以上も前のことだけども、この村で『村八分』が行われたらしいんだ。村八分って、わかりますよね?」


 俺は頷いた。聞いたことはある。

 火事と葬式以外は、村人とのいっさいの交流を絶たれてしまうという、一種の制裁だ。当時の『ムラ社会』において、周囲の村人との関係を絶たれるというのは、現代では想像できないほど過酷な制裁だったという。


「村八分されたのは、一人暮らしの婆さんだったらしい。で、その村八分をあおってたのが、当時の鬼見坂家の次男坊だったんだ。権力をかさにきて好き放題の嫌われ者だったんだが、鬼見坂には誰も逆らえない。そんなときに、その婆さんが面と向かって意見したそうだ。次男坊はそれを逆恨みして村八分をけしかけた。酷い話だよ」


 陰惨な話に、俺の心はざわついた。

 柴岡さんはコーヒーを一口すする。


「そのうち、その婆さんの遺体が発見された。洲手塚でね。あざだらけで、ひどい状態だったそうだ。みんなうすうす、次男坊の仕業だとわかっていた。村八分では飽き足らず、リンチしたんだろうと。だが結局もみ消されて、事故として処理された」


「問題はそのあとだ。その後ひと月もしないうちに、問題の次男坊が原因不明の病で死亡した。高熱が続いて、苦しみ悶えて死んだそうだ。さらにそれから二十年ほど経って、鬼見坂の当主が代替わりしたころ、その新しい当主の次男が事故で酷い死に方をした。そんなことが三代続けて起きたため、鬼見坂の次男坊は祟られる、なんて噂が、公然の秘密みたいに広まったそうだよ」


 背筋が寒くなった。

 胸の中がドロドロして、飲んだコーヒーを吐き出しそうになる。やっとの思いで、俺は口を開いた。


「それじゃあ、良介君は……」

「九宮さんを信じるなら、大丈夫だろう。供養祭もやるからね」


 ……そうだろうか?

 ……百年以上も続く恨みが、たった一度の供養祭で消えるものだろうか?


 俺の思考を見抜いたかのように、柴岡さんは付け加えた。


「ま、俺がそう思いたいだけなんだけどね。俺は警察官だからさ、本当は祟りがどうとか言っちゃいけない立場なんだよ。ただ、その婆さん、この村へ嫁いでくる以前は海女さんで、水泳が達者だったそうなんだ。そこまでつじつまが合っちゃうと、どうもねえ……」


 俺は、口から出かかった疑問を飲みこんだ。

 この人は、俺とは違うのだ。

 柴岡さんは、これからも、この村で暮らしていく。

 迷信、祟り、因習。そのほか、村のいろんなしがらみと、折り合いをつけて生きていかなければならないのだ。

 早ければ数か月後には村を去る俺が、軽々しく口を挟むべきではない。


「……おっと、もうこんな時間だ。そろそろ帰るよ。話、聞いてくれてありがとうな。一人で抱えてるのも、ちょっと辛くてね」


 俺たちは沈みかけた夕陽と川に背を向けて、帰路についた。

 堤防の斜面に長く伸びた自分の影を踏むようにして、土手を登る。


 パシャン。


 俺たちの後ろで、水の跳ねる音が聞こえたような気がした。

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集中豪雨の村で 旗尾 鉄 @hatao_iron

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