集中豪雨の村で

旗尾 鉄

集中豪雨の村で 前編

 濃い灰色の空から、土砂降りの雨が、丸三日以上も続いていた。

 滝のような雨。バケツをひっくり返したような雨。両方の表現を合わせても足りないほどの集中豪雨である。不安と恐怖を感じる雨の光景だ。

 まだ昼過ぎだというのに、日暮れ時のように暗い。


「山崎さん、ここにいたんですか。……うわあ、相変わらず酷いっすねえ」


 様子を見にきた鬼見坂おにみざか君が、呆れたような声で言った。

 下足箱の間の通路を通って俺の隣まで歩いてくると、ガラス製の玄関扉の向こうを眺める。


「うーん。とうぶん、止む気配なさそうだなあ。ニュースでは、雨のピークは過ぎたって言ってたんだけどなあ」


 俺、山崎やまざき裕一ゆういちは、鬼見坂君に返事をする。


 ここは、この村の避難所に指定されている村立小学校の正面玄関である。

 俺たち二人が立っているガラス扉の足元には、念のため土嚢が積まれていた。


 ふたたび外に目をやる。

 校舎よりも低い位置にあるグラウンドは、完全に水没している。茶色く濁った泥水に覆われ、池のようになってしまっていた。

 コンクリート製の玄関ポーチも、階段の半ばまで水が来ているから、グラウンドは水深一メートル近くありそうだ。


 梅雨の真っただ中、この村に大雨による避難勧告が出されたのが一昨日だ。山に囲まれた盆地で、毎年のように水害が起きる。


 それにしても、今回はかなり深刻だ。

 村の中央を流れる川の堤防が決壊して、村全域が浸水しているらしい。こんなへき地の村に単身赴任して六年目になるが、避難までするのは初めてだ。


 そう、六年目だ。

 三年間だけ我慢してくれと上司に言われてこの村へ赴任したのが六年前。

 帰ってきたら、それなりのポストを用意するなんて言っておきながら、あと一年だけ待ってくれ、を繰り返して今年で六年目である。

 週末しか娘に会えない生活もそろそろ我慢の限界というところで、泣きっ面に蜂のこの大雨なのだった。


 この小学校には現在、地域の住民約二十人ほどが避難している。地方の自治体のご多聞に漏れず、住民の多くは高齢者だ。


 三十九歳の俺より若い大人は、運悪くたまたま帰省していた大学生の鬼見坂君、その他ほんの二、三名しかいない。

 年齢的にちょうどいい、というだけの理由で、俺はこの避難所の世話役みたいなことをやらされているのである。


「じゃあオレ、いったん中に戻りますね」


 鬼見坂君はそう言うと、丸っこい童顔をくしゃっとさせて笑った。軽く頭を下げて戻っていく。俺は彼の大きな背中と坊主頭を見送った。


 鬼見坂おにみざか良介りょうすけ君。この村の旧家である、鬼見坂家の次男坊である。東京の大学で柔道をやっていると聞いた。

 村会議員をつとめている祖父に頼まれて、避難所の手伝いに来たという。ちなみに、鬼見坂家は高台にあるので避難の必要はないらしい。


 彼のことはこれまでよく知らなかった。が、話してみると、人懐こい性格の好青年だった。なにより、避難者用の荷物運搬など、力仕事を嫌な顔もせずにやってくれる。そんなわけで、俺は好印象を持っていたのだ。




 避難所に充てられた二階の教室に戻った。


 少子化で使われなくなった教室二部屋が、災害時避難所として整備されている。

 冷暖房やテレビ、連絡用無線などが揃っていて、備品倉庫には毛布や非常食なども備蓄されていた。

 村の規模のわりには、ずいぶん充実した避難施設である。なんでも鬼見坂君の祖父が、村会で強く推進したそうだ。


 部屋では、警察官の制服を着た男性が無線でなにやら話をしていた。


 駐在所の柴岡しばおかさんである。

 歳は五十代後半だったはずだ。定年までカウントダウンだと冗談を言っていたのを覚えている。体はあまり大きくなく、温厚な感じの人だ。

 この村の出身でもあり、村のお巡りさんとして住民の受けがいい。


 避難者にペットボトルの水を配っている女性もいる。柴岡さんの奥さんだ。


 無線を終えた柴岡さんが、皆に向かって話をはじめた。


「えー、みなさん、ご苦労様です。んーとですね、いま、役場と消防署と無線で話をしたんですけど、天候はこのあと回復してくるそうで、どうやら大雨の峠は越えたようです。ただ、水が引くまではもうちょっと時間かかりますのでね。安全に帰れるようになるまで、みなさんもうしばらく、ここでがんばりましょう。体調が悪くなった方はね、うちの女房に言ってください。元看護師なんでね、遠慮なく、ご相談ください。以上です」


 連絡事項を伝えた柴岡さんが、俺のところへ歩いてくる。


「そういうわけなんで、山崎さん、もうしばらく、よろしく頼んます」

「はい、こちらこそお願いします」


 柴岡さんはにっこりすると、うなずくしかない俺の肩をポンポンと叩いた。






 午後三時を過ぎたころになって、ようやく雨足が弱まってきた。


 俺は柴岡さんに呼ばれた。


「雨が弱くなってきたし、これからちょっと見回りに出ようと思うんだ。まんいち、逃げ遅れた人がいないとも限らないんでねえ。山崎さん、悪いんだけど一緒に来てもらえないかな? ほんとは警察や消防の仕事なんだけど、俺一人じゃ救助とかできない場合もあるし。男手は山崎さんと鬼見坂君しかいないもんで、頼むよ」


 わかったと答えると、柴岡さんはほっとした表情になった。


 一階に降りると、正面玄関のところで鬼見坂君が準備をしていた。

 ゴムボートに空気を入れている。

 五、六人は乗れそうな、船外機のついた防災用ゴムボートだ。こんなものまで備えつけてあったらしい。


 俺たち三人は、背中に村の名前が記されている雨ガッパを着て、ボートを玄関ポーチの下へと運んだ。

 濁った茶色の水面に浮かべ、乗り込む。鬼見坂君は、ちょっと楽しそうだ。

 船外機を起動すると、ボートはゆっくりと進みはじめた。






 村の様子は、とうぜんだが普段の景色とは一変していた。

 道路や田畑は完全に水没している。

 鬼見坂家のような高台にある家を除けば、民家の大半は床上浸水の状態だった。


 そんな中を、俺たちの乗ったボートが進んでいく。

 俺と鬼見坂君が、船外機とオールを担当した。柴岡さんはボートの一番前で、ハンドスピーカーを手にしている。


「こちら駐在でーす! 誰かいませんかー!」


 ときどき声をかけるが、返事はない。

 どうやら、取り残された住民はいないようだった。


 村を一回りして、柴岡さんも一安心といった表情だ。


「じゃあ最後に、洲手塚すてづかのほうを回って終わりにしようか」

「えー行くんすか。オレ苦手なんだけどなあ」


 洲手塚は、古い共同墓地があった場所である。昔は捨塚と書いたらしく、疫病や死罪などの『良くない死に方』をした村人の遺体を捨てた、などと伝わっている。

 民家の少ない寂しい場所でもあり、怪談や肝試しの定番なのだ。


 俺たちは最後に、その洲手塚地区へと向かう。

 雨は小止みになっていた。






 夕暮れ時の洲手塚は、暗くて静かだった。

 聞こえる音といえば、船外機のモーター音だけだ。

 柴岡さんがスピーカーで呼びかけるも、なんの反応もない。


「そろそろ、切り上げるか」


 柴岡さんがそう言ったときである。


「柴岡さん、あれ!」


 鬼見坂君が、前方を指差した。


 ボートの前方、三十メートルくらいのところに、なにかが浮いているように見える。

 よく見ようと、柴岡さんが懐中電灯を向ける。


 その瞬間、俺はぎくりとした。


 浮いていると思ったのは、人間の後頭部だった。

 俺たちに背を向けた格好で、肩から上を水面に出しているのだ。

 老女のようだった。

 歳を重ねた髪は灰色だ。現代風にいえばグレイヘア。日本髪を結っていたようだが、崩れてボサボサになっている。

 水面から出ている肩には、泥水で薄茶色に汚れたの衣類が見えた。白い襦袢じゅばんだったのだろう。


「おおいっ! 大丈夫ですか! いま助けますからね!」


 被災者だと思った柴岡さんが、緊迫した声をかける。

 だが俺は、なんともいえない嫌ななにかを感じた。


「ちょ、ちょっと待って、様子がおかし……」


 俺が言いかけたとき、とつぜん、老女がこちらを振り向いた。


 ……首だけを回して。


 肩から下は向こう向き、首だけを俺たちのほうへ回したのだ。

 老女は俺たちを見た。

 やせこけ、皺だらけの、それでいて眼だけがぎらぎらと光っている。

 般若のごとき恐ろしい形相だった。


 老女の視線は鬼見坂君を捉え、金切り声をあげた。


「鬼見坂の次男坊! この恨み、晴らしてくれる!」


 老女は今度は肩から下だけを回し、こちらに向き直った。

 バタフライのような泳ぎ方で、水しぶきをあげてゆっくりと迫ってくる。けたたましく笑い声を上げながら。

 それは、獲物を見つけた歓喜の笑いだった。


「うわああっ!」


 鬼見坂君が卒倒した。全身を震わせている。


「山崎さん、エンジン! 早く!」


 柴岡さんがオールに飛びつき、ボートの向きを変える。

 後ろを振り返る勇気はなかった。

 老女の狂ったような笑い声が、しだいに遠くなっていく。

 俺たちはひたすら追いつかれないことを願いながら、やっとの思いで避難所へと辿り着いたのだった。

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