紅い瞳の少女

 一人の赤ん坊が産声を上げたのは20年以上前のことだった。


 その母親に抱かれたその赤ん坊は女の子だった。玉のような、という表現がそのまま当てはまるような愛らしい姿に母親も付き添う医師や看護師も目を細めている。


 ただ、その女の子には生まれつき一つの障害。いや、特徴というべきことがあった。


 その両目。その瞳は赤い。ルビーのようなきらきらとした美しさで世界を見ていた。


 女の子はそれからもすくすくと育っていった。幼いころは駆けることが大好きだった。絵本をまじまじ見たかと思うと、その登場人物を実際に真似をするということを繰り返した。


 明るく、朗らかで何よりも裏表のない性格だった。嘘をつくということが苦手で隠し事をしてもすぐにばれてしまうことも彼女のかわいらしさだった。


 泣いたり、笑ったり、怒ったりくるくると表情を変えるその少女にとって。世界は明るさに満ちていた。太陽に両手を広げれば、暖かく世界が包んでくれるようなことを信じていた。


 16歳になった。


 家からは少し離れた高校に入り、人間関係が一新されるなどどこにでもあることだ。


 世界がひっくり返ることなどどこにでもあることだった。


 頭から水をかぶせられた。


 高校のトイレ、その奥のことだ。彼女の周りを取り囲む女子生徒たちはにやにやとずぶぬれになった彼女を見ている。それどころか、馬鹿にしながら小突き、空になったバケツを軽く投げられて頭に当てられる。


 何がおかしいのか彼女たちは楽し気に笑った。その中心で赤目の女の子はにへらとずぶぬれのままわらった。それを「きもい」などを罵倒しながら周りの少女たちはあざ笑った。それでも赤目の彼女は笑った。濡れていて助かったとすら思ったのは涙がそれにまぎれるからだ。


 教師も、そのいじめに加担していない生徒も赤目の彼女には触れなかった。机が廊下に「捨てられた」ときにも担任の教師はこういうだけだった。


「香華。授業をはじめるから早く自分で机を教室に入れなさい」


 紅い目の女の子は自らの苗字を呼ばれたとき一度だけ教師を「え?」と見たが、すぐに教師は目を背けて教室へ入っていった。廊下に立ち尽くしていると笑い声が響いた。


 香華という苗字も華やかな印象で物珍しい。そして悪いことにその美しい瞳が何よりも人の関心を引いた。それが好意的な見方をされればよかった。だが、いったん好奇の感情にさらされると人間の悪意と簡単に直結する。


 香華は表面に落書きをされた机を両手で抱えながらそれでも負けないと思った。唇を噛んで、いつかわかってくれるだろうと、いつか『仲直り』できるだろうと心に思った。


 人の心を根底を彼女は無意識に信じていた。それは恵まれた幼少期の育んだ麗しいものだろう。彼女は人を信じていた。


 だからこそどんなことがあっても彼女は誰にも助けを求めなかった。


 親に笑顔で


 教師に笑顔で


 周りに笑顔で


 いじめっ子たちに笑顔だった。


 何も悪いことはしていない。いずれわかってくれるはずだと彼女は思い続けた。紅い目を馬鹿にされようとなにをされようと母親の作ってくれた弁当をゴミ箱に捨てられれば彼女はその日の最後には「おいしかったよ」と母親へ笑顔を向ける。


 夜一人になったときにカチカチカチカチカチカチカチカチとカッターの刃を出してその目に近づけたこともあるが、次の日には笑顔を作っていた。


だからある日。壊れた。


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 通学路の途中でぷちりと何かが切れた様に公園のトイレに駆け込むと両手で頭を抱えて泣き喚いた。流れ落ちる涙を止めることはできず、ただただ頭を掻きむしった。


「もうやだ。もうやだ。もうやだぁ」


 学校に行かなきゃ。わめいている自分の心の中にも自動的にそんな言葉が浮かぶ、それを振り払うように頭をふった。彼女は必死に逃げるために学校とは反対側に向かった。誰にも見つからないようにと思っていたら、子供のころに遠足できた山のふもとの公園に来ていた。


 その公園は広い。彼女はその端のベンチにうなだれて座った。学校を休んだ罪悪感に吐きそうになりながら、明日どういじめられるかを思えば心が音を立てて崩れていく。彼女はずっとひとりでうなだれたままそこにいた。


 日が沈みかけていた。茜色の世界にぽつんと一人。


 香華は無意識に立ち上がるとふらふらと山の中に上がる車道を歩いていく。


――そうだ、しねばいいんだ。


 香華はそう思い、楽になれるんだと山道を歩き続けた。何時間かかったかはわからない。山の山頂付近に来ると展望台があった。人は誰もいない錆びれた場所だった。彼女はふらふらと展望台の階段を上っていく。


 いつの間にか夜になっていた。一番上までくると眼下に街の明かりが見える場所。


 そこには一人先客がいた。ぼろぼろのベンチに座り煙草をふかしている。彼は香華に気が付いたようで後ろを振り向いた。コートを見にまとった青年だった。柔和な表情を香華に向けた。


「お嬢さんすごい顔をしていますよ? 大丈夫ですか」

「……あ、え。……大丈夫です」

「そうは見えないな。ここに座りませんか?」


 男性は携帯用の灰皿で煙草の火を消してから香華を誘った。香華はその優しい響きの声にふらふらと吸い寄せられるように座った。


「お嬢さん……高校生かな……? お名前は? 僕は堂島」

「どうじま……さん? 私は……香華……です」

「へえ、珍しい苗字だね」


 『珍しい』その言葉に香華はびくりと体を震わせた。「は、はい」とか細く返事するだけが精いっぱいだった。その様子に堂島は言った。


「何か辛いことでもあったの?」

「……い、いえ」

「そうには見えないけど、こんな時間に一人で来るなんてのも危ないよ」

「……あの」

「ん?」

「ほって、おいて、くれませんか?」

「……」


 堂島は一瞬無言になった彼は空を見ながら諭すように言った。


「人っていろんな人がいるし、人生はいろんなことがあるから、辛い時もあるよ。でもそれもいつかよくなる」


 その言葉が香華の胸をえぐった。


「……なにもしらない、癖に」

「え?」

「何も知らないくせに! 何も知らないくせに!! 何も知らないくせに!!」


 香華は立ち上がっていた。赤い瞳から大粒の涙を流しながら堂島に叫んだ。


「私はずっと、ずっといつか変わるって、終わるって思った。何か、変わらない。誰も私に手を差し伸べてくれたりなんかしない!! いつかよくなるなんてうそだ!! うそだ!! 勝手なこと言うなぁ!!」


 ざあと風が森を撫でる音がする。堂島は彼女をまっすぐ見つめていた。


「ならさ、香華さん。君はどうしてここに来たんだい?」

「…………全部、終わりにしたいの。もう明日から学校に行きたくない……もう、いやなの」


 香華は両手で顔を覆ってその場に崩れた。堂島は彼女の肩に手を優しく乗せた。


「わかった。香華さん。僕が手伝おう」

「え?」

「君の苦しいことを終わらせてあげるよ。本当に望むのなら。僕は君を殺してあげるよ」


 香華の前の男は言った。優しく残酷な言葉を紡ぐ。


 その甘い声から響く壊れた提案を香華は「ほんと?」と涙でくしゃくしゃになった顔で答えた。


「ほんとにおわりなの? わたしはもう、もう、わ、笑わなくていいの?」

「…………ああ。そうだよ、でももう一度だけ」


 堂島は言いながらポケットに手を入れた。それから香華の手に何かを握らせた。


「君が運命を聞いてみないか?」


 それは一つのサイコロだった。香華はそれを手に持って堂島を見た。堂島は変わらず優しい笑顔だった。


「そのサイコロにこれからのことを聞いてみよう。2から6が出れば君の望みを僕がかなえてあげるよ。心配はいらない。でも、……もし1がでたらもう少しだけ頑張ってみないかな?」

「…………もう、終わりたい」


 香華はサイコロを握った。もうここで終わらせてほしいと祈りながら賽を振ろうとした。しかしその手を堂島が握った。


「ねえ、香華さん。本当にもう全部終わっていいのかい? 何も後悔はない……? もう、後戻りはできなくてもいいの?」

 

 香華は泣き顔のまま叫んだ。


「いい!」

「そうか……わかった。……君の手にあるサイコロにすべてをゆだねよう。でも、その前に待ってほしいんだ」


 堂島はゆらりと立ち上がり、展望台のそばにおちていたこぶし大の石を掴んで持ち上げた。それから口角を釣り上げて笑う。


「さ、早くサイコロを振れよ」


 月を背に。その表情は香華から見れば真っ黒に見えた。その口元が赤く染まっているようにだけ見えた。


「……え?」

「早くしろ。お前の望みは、今ここで叶う」


 石をぱしぱしと手でたたきながら言う堂島。香華は何を言われているのか理解できない。彼女は眼を見開いて堂島に聞いた。


「や、優しく、こ、殺してくれるんじゃ?」

「そんなこと一言もいってないだろ? 勝手な事を言うな。手じかにあるのがこれだけだから時間かかるかもしれないけどな」

「で、でも。あの」

「早くしろ!!」

「ひっ」


 香華は体を震わせた。サイコロを取りこぼしそうになって、必死に両手で押さえて胸に押し付ける。『1』を出さなければどうなるかわからない。豹変した男の顔をまっすぐに見れず、彼女の口からは自然に言葉が出た。


「ご、ごめなざい。ごめんなざい。ゆるじてください……」


 堂島が彼女座ってる横のベンチを蹴りとばした。香華は悲鳴を上げた。


「サイコロを振るだけでいいんだよ。言葉なんていらないんだ。ほら、早く。これは全部合意の上でのことだろう、ああ? おい?」


 香華の胸ぐらをつかんで堂島は顔を寄せる。


「全部お前が、お前の言葉で望んだことだ? そうだろ?」


 男の顔は笑っているようだった。人を弄ぶようなその表情。先ほどまでの柔和なそれを醜くゆがめて彼は目の前にいる。だが、香華は否定できなかった。涙が流れ落ちていく中で堂島はうそを言っているわけでないと思ってしまった。


 堂島は彼女を突き放す。香華は唯一の希望と言っていいサイコロを握りしめた。


(お母さん……お父さん……誰か……神様……神様……神様。)


 彼女は祈った。何かに、大切な人へ、神へ祈りサイコロを振ろうとした。そして思った。


(あれ? 私……誰からも助けてもらえなかった)


 香華の中に過去が広がっていく。それまでのいろんな記憶がごちゃ混ぜになり。死にたいほどつらい記憶の時に祈ったことが役に立ったことはなかった。誰も助けてはくれなかった。


 手に握るサイコロ。その1度のチャンスを彼女は何かに預ける。それができない。堂島に見下されながら何かに運命を預ける今。香華は時が止まったように、何かに気が付いたように立ち止まった。


 ただ、サイコロを『1』を上にして地面に置いた。


「は?」


 堂島の冷たい声が響く。香華は震えながら言った。


「い、いちです」

「それ、許されると思っている?」

「…………だ、だって。私のこと、神様も! 誰も! 助けてくれなかった! だから、だから。こうするしか、ないの!」


 叫びが闇に消えていく。その静寂は堂島の笑い声に引き裂かれた。


「あ、は、あは、はははははははははははは!! なるほどねぇ。香華ちゃん。なるほどなるほど。確かにそうだ。君なんてだーれも助けてくれない。死ぬ寸前まで放置されていたんだからねぇ! あははは。いいよ、いいね。君のこと好きになりそうだ!」


 堂島の笑い声がひとしきり響く。彼は石を投げて捨てる。香華は身を縮こまらせていた。


「とにかく君は『1』を出した。ああ、そうだ。僕は君のことが気に入ったよ」


 堂島は彼女の横を歩いて去っていく。


「じゃあ、またね。香華ちゃん」



 夜遅くに帰ったことを香華は両親に心配されながら叱られたが、能面のように「大丈夫」というだけだった。彼女は翌日から学校に行き、いつも通りに様々な人間に侮辱されるような生活を送った。


 ただ、あまり心が動かなくなった。彼女の生活は何も変わらないが、何かに助けを求める希望は残っていなかった。


 そのうち、いじめを行った同級生の一人が退学した。理由はわからない。

 だが、もう一人、さらに一人と学校に来なくなった。香華はそれをぼんやりと眺めていた。


 いつの間にか無関心だった教師もいなくなっていた。何かの処罰を受けて遠くへ行ったと香華は聞いた。


 ある日のことだった。いじめを行っていた女子生徒と香華は廊下ですれ違った。その女子生徒はげっそりとしていた。だが目だけが血走り香華に詰め寄った。


「あんた……でしょ!?」

「…………?」

「あんたでしょ! みんなをハメたのは!?」


 ハメた? 香華は混乱した。彼女は何もしていない。それだけはわかっていた。だが女子生徒は香華に掴みかかって叫ぶ。彼女の父親が会社を解雇されたという、それもどこからか香華に対するいじめの話しが流れたことが原因だという。


「それに、みんな。変なことばっかり起こってる」


 いつの間にか親の借金ができたことで退学したものも、政治家を親に持つものは遠くに引っ越さざるを得なくなったり。それぞれが、様々な理由で人生を壊されてたと女子生徒は叫んだ。


「全部! 全部あんたが仕組んだことでしょ!? あんたに、ちょっといたずらしたやつばっかり狙われているじゃない!」


(ちょっと……?)


「全部知っているんでしょ?!」


 女子生徒ははあはあと荒い息で詰め寄った。香華は本当に何も知らない。彼女はだから「知らない」と言おうと思った。


「シッテルヨ」


 口に出た言葉は冷たかった。香華の顔に冷たい笑みが浮かんだ。女子生徒はたじろいで後ろに下がる。


「ゼンブ、シッテル。私」

「あ、あんた。ぜ、絶対許さないから!」

「オワッテないよ?」

「はあ?」

「ダッテまだあのこと、シッテル」

「な、なによ」


 くすくす、くすくす。香華は答えない。


「あ、あのことってなによ。ねえ、何のことよ」


 くすくすくすくす。


「その笑い方やめてよ! やめて!」


 女子生徒は香華を突き飛ばすとそのまま走り去っていく。香華の一言で彼女の人生に影が落ちることになる。


 香華は一人。廊下からトイレに行く。手を洗って、鏡を見る。そこには笑顔を張り付けた自分がいた。


「ひ」


 自分じゃなかった。彼女は顔に水をかける。なんであんな「嘘」を言ったのかわからない。しかし、前の自分ならそのようなことはぜったいにしなかっただろう。


「ああ。あああ」



 堂島は展望台でタバコをふかしていた。夜空の綺麗な日に街から離れた場所を彼は好んでいた。


「ねえ」


 堂島は振り向かない。


「やあ、香華ちゃん。久しぶり。元気している?」


 声だけが響いた。お互いに顔は見えない。表情は見えない。


「堂島さん。あなたがやったの?」

「やった? なにをさ」

「みんなを陥れたの?」

「ああ、人聞きが悪いな。いろんな人にちょっとお話をしただけだよ」

 

 堂島はふーと白い煙を吐く。


「ねえ、香華ちゃん。人間ってのはガラス細工のような人間関係でつながっているんだ」


 堂島は両手を広げる。


「そこをちょっとつついてやるとね、がらりがらりと崩れていく。人は人でしかないから、そうなったらどうしようもない」


 どこからか鳥の声が響く。


「地位のある人たちに君の『困っていること』を相談したらすぐに対処してくれたよ。ありがたいことに僕にもお礼をくれたりね。いいことをするって気持ちがいいなぁ」


 香華はぽつりと言う。


「お礼?」

「…………」


 堂島はゆっくりと振り返って口元をゆがめて笑う。


「ささやかなものだよ」

「……結局、堂島さんも私を利用しただけなんじゃないの……?」

「まさか、僕は善意でやっただけさ。君も彼ら全員の人生が破滅してくれれば楽になっただろう」

「…………私は……私は……いつか、みんなわかってくれて仲良くできるように……なりたかった」

「……は、はははは。無理無理。勘違いしちゃいけない。彼らにとって君はおもちゃに過ぎないんだから。人間同士のようなことを言ってもダメだよ」

「おもちゃ……」

「そうだよ。紅い目をしたかわいらしい女の子、の形をしたね。遊びやすかったんだろうね」

「…………」

「さ、もう帰りなよ」


 香華はうつむいたままいう。


「私は……あなたに感謝していいのかわからない……」

「しなくていいよ」

「だって、貴方は嘘つきだって思う。全部……」

「嘘をついたことはないなぁ。嘘はいけない。正直が一番だ。僕も君に対して嘘を言ったことはないだろう? 嘘は人を殺すことだってあるわるいことだ」

「そう……」


 香華は口を開く。彼女の脳裏にはあの日の堂島とのやり取りが浮かんだ。


「そうだ。貴方は人を誘導して自分だけ嘘をつかない……ねえ、堂島さん」

「なんだい?」

「嘘が人を殺すなら、堂島さんも殺せるの?」


 香華と堂島はお互いに見つめたまま黙った。


「さあ、どうかな」


 笑うことなく堂島は言うと、彼は立ち上がり香華を横切っていく。


 煙草の煙が緩やかに立ち上っていく。

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香華カリューは噓をつく(一部完結) @hori2

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