忘れられた社

 麟は尾根山道場を飛び出したあと、当てもなく独り歩き続けていた。

 歩き慣れた街の曲がり角を幾つも曲がり、見知らぬ路地を突き進み、遂に道なき道に立ち入ろうとしている。


 帝都の中心部である街から外れ、人の手があまり入っていないらしい荒れた竹林。

 麟はただ、人の声から遠ざかるためにその中へと踏み入ってゆく。


 尖った小石と足が沈み込む腐葉土、枯れ落ちた竹の枝葉が覆う地面は、草履履きの足には少々辛いものがあった。

 こんな時は洋靴の方が助かるのかもな、などと考えながら、麟はただただ薄暗い林の中へと潜ってゆく。


『良かったじゃないか、居場所が出来て。」

「そうだ、俺は幸せだよ。一人で竹刀を振るっていた以前より、ずっと……。」


 言葉に反して、麟は表情をより一層曇らせた。

 ……どうして、いつも自分は誰かの邪魔をしてしまうのか。

 彼の頭に浮かんでいるのは、そんな淋しい考えであった。


 神代道場にいた時は、師範代を父に持つということが理由で他の門下生達に疎まれていた。

 麟自身は精一杯剣術の腕を磨いていたつもりだったのだが、他の人間達からは必死で身に付けたその技術すらも父からの依怙贔屓に見えていたらしい。


 麟は、神代道場の看板などには一切の興味も抱いていなかった。

 幼少の頃は唯一の肉親である父からの愛情を。紡と出逢ってからは、好敵手として彼に認められるだけの力を、ただ求めていただけだ。

 だから師範の座も、蒼天流の第一人者の名も、欲しければ誰にでもくれてやるつもりだった。


 しかし今回ばかりは、話が違う。

 麟は晴れて友人となった紡と、紡と自分にとって大切な存在の絃。

 その二人とこの退屈で平穏な日々を過ごしたい。暖かな陽だまりの中で笑う彼らの隣で、同じ時を共有したい。

 麟は、それだけを強く望んでいた。


 つい数刻前に紡が放った、聞いたこともないような冷たい声。

 同時に自分に向けられた視線は、神代道場で麟を目の敵にしていた門下生のそれに酷く似ていた。


「紡、ごめん」


 麟は鼻の奥がつんと痛むのを感じながら、そう呟く。

 本当は心のどこかで、紡が軍人としての未来を諦めて自分の元に帰ってくるのを望んでいたのだと、そう気づいていた。


 尾根山道場に足繁く通っているのも、『紡の為』というのは偽善的すぎる言い分だ。

 紡の存在が当たり前にあった場所から消えてしまうのが、麟にとっては酷く恐ろしいことだったが故に、彼の残り香を延命させようとしているだけだ。


 桜花神社の客人のこともそうだ。

 紡のいないところで、彼にとっての大切な場所が形を変えてゆくのが怖かった。

 かつてとは違う日常が、自分の大切な場所で当然のように繰り返されるのが不安でたまらなかった。

 だから紡の興味を引いて、神社に向かうよう仕向けようとしたのだ。

 あの桜舞う神社で、三人の時間を再生するために。


 結局自分は、自分と共にあってほしい存在が変わって行くことが受け入れられなかった。

 そして挙げ句の果てに、親友が道半ばで折れることを望んでしまった。


 もし、紡が戻って来た時のために。

 紡がいつでも帰ってこられるように。

 耳障りの良い言葉で誤魔化して、その裏には友人として最低の人間が居る。


 麟はまるで長時間走り続けた時のように荒い息を繰り返していた。

 それでも、一度立ち止まるとその場から動けなくなってしまうのを予感して、麟は足場の悪い中を歩き続ける他なかった。


 そんな時ふと、麟は前方に立ち並んだ竹の数が、少しずつ減ってきていることに気づく。

 それに伴ってか、僅かに明るく見える方角があった。


 もうあの竹林を縦断してしまったのだろうか。

 麟自身も、自分が歩いているのが何処なのかを把握していない。

 だからこの林自体がそれほど大きなものではなく、まっすぐに突き抜けてしまったという可能性は十分に考えられる。


 しかし、その予想が外れた事は直ぐに分かった。

 麟の前に現れたのは、ひびだらけの大きな石畳の広場と、ぼろぼろに朽ちかけた『社』のような建物であった。

 広場は約二十畳ほどの広さであり、

 呆然としてそれを眺めるうちに、徐々に呼吸が落ち着いてゆく。

 そよ風が吹くと、広場を囲む竹の葉が擦れ合いしゃらしゃらと音を立てた。


 麟は足元に落ちていた腐って変色した木の板の破片を拾い上げる。

 何やら文字が書かれていたらしいが随分と古いもののようで、一文字たりとも読めそうにない。

 周りには、元は縄飾りだったらしい残骸が散らばっていた。


 少し先に見える社の方はその板に比べると新しいものに見えたが、強風でも吹けば倒れてしまいそうな危うさがある。

 薄い月明かりに照らされる、謎めいた社。

 麟は興味を惹かれ、石畳の上に踏み出した。


「……っ!?」


 途端に、驚いた顔をしてきょろきょろと周りを見渡す。

 土の地面から一歩踏み出した時、まるで薄い膜を突き抜けたような感覚があった。

 それと共に軽い目眩を覚えながら、麟は後ろを振り返る。

 しかし、当然ながらそこには何もない。

 ただ彼が通ってきたであろう竹林が広がっているのみであった。


 麟は首を傾げながら、社の前まで歩み寄った。

 正面に付いた扉は、太い閂と大袈裟な錠前で閉じられている。

 不思議なことにその錠前には軽く錆は浮いているものの、それほど老朽化しているようには見えない。

 ……誰かの手によって、近年のうちに取り換えられたものなのだろうか。


 建物の中を覗いてみたいという好奇心が無かった訳ではないが、麟はそれ以上に詮索することなく社の軒下に腰を下ろす。

 顔をあげると、穴が空いて骨組みが露出した屋根が頭上に伸びていた。


「ここなら、誰の邪魔にもならない」


 麟は安堵のため息と共に、誰に向けるでもなく呟く。

 そのまま忘れられた地の一部と同化したように座り込み、星の輝き出した空を眺める。

 すると当然ながら、空に浮かんだもう一つの世界……霧の帝都の姿が麟の視界に映った。


 ここからは小さく見えるあの街にも、大勢の人々が暮らしているのだという。

 世界から見れば、麟の抱える想いや悩みなど、酷くちっぽけなものなのだろう。


 きっとこれは、人生をあと二十年も過ごせば『懐かしい思い出』に変わってしまうような……そんな幼い葛藤なのだと、彼自身も理解していた。

 しかし今の麟にとっては何にも代え難い、命の一部を削り取られるような苦しみだったのだ。


「もう一人くらいは、この気持ちを分かってくれる人がいるかな」


 麟は屋根の穴越しに見える霧の帝都に、そっと手を伸ばしてみる。

 指の間から見えるもう一つの世界は余りにも遠くて、到底届きそうもない。


 自分が酷く滑稽に思えた麟は、古ぼけた柱に背を預けると……深く息を吐いて目を閉じた。

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ひび割れ はるより @haruyori

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