居場所
更衣室から帰ってきた麟と紡は防具を付けてしばらく打ち合い、ひとしきり汗を流した後に給水場を訪れていた。
給水場、と言っても道場の裏にある手押し式のポンプの側にボロボロになったベンチが備え付けられているだけである。
二人でベンチに座り、水筒に汲んだ冷たい水を飲んだ。
もう七月も終わり、じきに本格的な夏が来る。
今年もやはり暑くなるのだろうかと、紡は丁度一年前の夏に麟と食べたアイスクリームのことを思い出していた。
「また一緒に食べに行こうね。」
「……何も言っていないのに、よく考えている事が分かったな。」
「当然だろう、俺は読心術が使えるんだから。」
「え?」
「嘘だよ、何となく言ってみただけ」
驚いて麟の方を振り返る紡と、それを見てくすくすと笑う麟。
様々なことへの才能やセンスに溢れた麟の事だ、人の心が読めると言われると咄嗟に納得してしまいそうになる。
揶揄われた紡は、まんまと引っかかってしまった羞恥を隠すために水筒の中身を煽った。
それからしばらく、麟は昨今の尾根山道場の事を語った。
年少の部の主将として真藤が紡の後を継ぎ、拙いながらも頑張っていること。
新しく入門した少年が、少し紡に似て頑固者であること。
麟も正式に尾根山の門下生にならないかと師範から誘いを受けたが、流派間の関係性もあり断ったこと。
それらは紡にとっても身近な話題だった筈なのに、今はなぜか遠い世界の事のように感じる。
「そうだ、絃の話をしよう。まだあれから一度も会いに行けていないんだろう?」
「……うん。」
皇宮警察学校の通常の講義に加えて、紡は戦術訓練で甲の組に入れられてしまったために平日は帰宅が夜遅い時間帯になってしまう。
そして一定期間ごとに行われる試験の為の自習などに追われ、休日らしい休日を取れたのは入学して以来この日が初めてであった。
本当であれば今日は桜花神社に向かう予定だったのだが……昨日のことに加え、絃を救うための手掛かりが全くと言っていいほど掴めていないことが心苦しくて、結局は道場で油を売っていたのである。
麟は、絃との他愛もないやり取りや日常的な出来事について楽しそうに語っている。
紡は何度か絃と手紙で連絡を取り合っていた為、彼女が元気でやっていることは知っていた。
とはいえ、出来事全てを文字に起こすわけにはいかないのだろう。麟の口からは、紡の知らない絃の話がいくつも転がり出てくる。
紡の心の中で、もやもやとした感情が煙のように立ち昇るのを感じた。
自分の知らない道場のこと。
自分の知らない絃のこと。
……かつて紡の立っていた場所が、少しずつ麟の存在で塗り替えられてゆく。
「そういえば、これは聞いているかい?少し前から桜花神社に住んでる人の話。」
「いや、聞いてないな」
「そっか。手紙に書いてないってことは、俺から伝えるのもまずいか。」
麟は口元を手で押さえて言った。
切れ長の眼がすっと細められる。
「そういう事だから、秘密だ。」
いたずらっ子のような表情を浮かべる麟は、その通り『小さないたずら』のつもりなのだろう。
それか「気になるなら一緒に行こう」と紡を桜花神社に誘っているのかもしれない。
麟の性格を知っている紡は、そう考えた。
「良かったじゃないか、居場所が出来て。」
それなのに紡は、自分の口から出た声のあまりの冷淡さに驚く。
麟も目を見開いて紡の事を見ていた。
「……ごめん、紡。気を悪くさせたかい」
「いや違う。俺の方こそごめん、その……今のは」
麟が悪い訳ではないと伝えたかったのだが、うまく言葉が見つからない。
……それもそのはずだ。言い訳の仕様もあるはずがない。
紡は先ほどの瞬間、確かに抱いた嫉妬の感情を自覚していたのだ。
会話もないまま、気まずい時間だけが流れた。
日はいつの間にか傾いており、もうじきに夜の帷を連れてくる事を予感させる。
「俺……今日はもう帰るよ。またね、紡」
麟はそう言うと、足元に置いていた水筒を拾い上げ、足早に道場の中へと入っていった。
紡は彼を引き止めようかとも思ったが、そうしたところで無為な時間を引き延ばすだけである事を悟り、辞めた。
「また、な。」
紡はようやく麟の背中にそう投げかけると、彼の姿が消えるのを見送った。
虚ろな心持ちでその場に座り込み、道場の入り口の扉が開いて、また閉じる音を聞き届けてから立ち上がる。
これ以上何かする気にもなれず、紡は帰り支度をして道場の玄関を出た。
もうすっかり夕暮れ時であり、明日からまた厳しい訓練や講義が続く事を考えると、少しだけ憂鬱な気分になる。
「あれ!?朝夕先輩!?」
紡が薄く散り散りに浮いた雲を眺めていると、不意に素っ頓狂な声が上がる。
そちらを振り向くと、ぞろぞろと列を成した門下生たちがこちらを目指して歩いてくるのが見えた。
声をかけてきたのは、その先頭に立っていた真藤であった。
「先輩、お久しぶりです!」
「久しぶり。元気でやっているか?」
「はい、お陰様で!」
真藤は記憶と寸分違わぬ、あっけらかんとした笑顔を見せてくれた。
他の門下生たちも、試合稽古帰りで疲れた顔はしているが、紡に気付くと嬉しそうな表情を浮かべる。
紡は務めて何でもない風を取り繕い、先ほどの一件を悟らせないよう振る舞った。
「よりによって俺らが留守にしてる時に来るなんて!なんか用事だったんですか?」
「ああ、ええと……久しぶりに竹刀を振ろうと思って。」
「へ〜。皇宮警察学校でも刀の稽古あるんでしょ?似たようなもんじゃないんですか?」
「全然違うさ。身体の使い方も、考えなきゃならないことも」
「そういうもんなんすねぇ」
はへー、と気の抜けたような声を出す真藤。
確かに紡も、実際に訓練を受けるまでは自身の知る剣術の延長だろう、と甘く考えていた節があるので彼にどうこう言うことはできない。
「ま、気が向いたら戻ってきてくださいよ!うちの道場には青年の部だってあるんだし!」
「考えておくよ」
「それに麟さんだって、朝夕先輩のために頑張ってるんですから。」
「麟が……俺のために?」
紡は、真藤の口から飛び出した名前にどきりとする。
真藤は、お調子者らしく指で顎を撫でながら応えた。
「そうですよ!朝夕先輩が何やら気張ってるみたいだから、『いつでも帰って来れるように、彼の大切な場所を守っておきたいんだ』って言って!」
真藤の言葉を聞いた紡の頭を、先ほど会った麟の様々な表情が駆け巡る。
紡と会えた事を喜ぶ笑顔、道場での日常を語る穏やかな面持ち、絃の事を話す時の優しい眼差し、そして……捨てられた子供のような、驚愕と絶望の入り混じった顔。
なんという事をしてしまったんだろう、と紡は後悔した。
昨日の事と日頃の疲れで精神的に参っていたとはいえ、『虫の居所が悪かった』というのは大切な友人を傷付けて良い理由にはならない。
皇宮警察学校に入ったのは紡自身の判断である。
桜花神社から遠ざかったのも、道場を辞めることになったのも、全て自分の決断の結果だ。
そのうえ手を差し伸べてきた麟に事情を隠し、自分と同じ責を背負わせようとすらしなかった。
だから彼がどんなに無垢で穏やかな日々を生きていようとも、羨む資格など自分には無いのだ。
……謝らなければ。
紡はそう思い、家路とは逆の方へ足先を向ける。
「先輩?」
「悪い、真藤。それからみんなも。これから用事があるから、募る話はまた今度にな」
「あ……は、はい!お疲れ様でした!」
頭を下げる後輩たちに応え、紡は走り出す。
街中ですれ違う人々が驚いた顔をするのも気にせず走り続け、神代道場に隣接する麟の自宅を尋ねた。
飾り気のない屋敷には明かりも灯っておらず、人の気配が感じられない。
肩で息をしながら、紡は何度も戸を叩いて呼びかけるが反応はなかった。
どうやら、まだ麟は自宅には戻っていないらしい。
仕方なく、紡は門の脇に立って麟の帰りを待つことにした。
正面を左右に伸びる道は通りから少し離れているためか人通りも少ない。
麟が帰って来たならばすぐに気付くことが出来るだろう。
そう考えて、紡は友人を待ち続ける。
しかしその後、日が暮れて月が高く登ろうとも龍門寺邸を訪れる人影は現れない。
そのまま真夜中の零時を迎えた紡は、後ろ髪を引かれながらも暗い家路を辿るのであった。
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