ひび割れ

はるより

麟との再会

 紡は姉である澪と約八年ぶりに会話した日の翌日、かつて通っていた尾根山道場を訪れていた。

 本日、尾根山の門下生たちは少し離れた場所にある別の道場で交流稽古を行なっているため、道場内に居るのは紡ただ一人である。


 ……ここの空気は落ち着く。

 少し埃っぽいような匂いも、一部が老朽化で軋んだ床も、紡が通っていた頃から何一つ変わっていないようだ。

 唯一記憶と異なる点は、道場の端で見つけた名簿の大将の欄に記入されている名前が『真藤』となってることだった。


 窓から差し込む光に照らされてきらきらと光る塵芥以外に『動』の要素はなく、まるでこの空間の時が止まっているような錯覚さえ覚える。


 紡は道着袴に着替え、久方振りに竹刀を握った。

 軽く振るってみると、皇宮警察学校で受け取った実刀や模造刀よりも随分と手に馴染んでくれる。

 紡は打突台相手に手早く基礎打ちの練習を終えると、道場の壁にかけられている大きな鏡の前に立った。


 二年と少し前……まだ自分が絃と共に迎撃戦に参加し始めた頃に比べると、少しは身長も伸び、体格も良くなったと思う。

 それなのに、紡はあの頃よりも無力感を覚えることが幾分も多くなった。


 あの日の少年は、ただ父の背中に追いつくことのできない自分の幼さを悔んでいるだけだった。

 それに比べ今は自分が勝てない相手の多さ、手の届かない理不尽、見つかりさえしない糸口。行動を起こせば起こすほど、自分がどれほど高い壁に囲まれているかを思い知らされるようだ。


『きっと呪われてるのね。』

「……ただの思い違いに決まってる。」


 記憶の中の姉の声に、紡はそう呟いて応える。

 父のこと。母のこと。そして、絃のこと。

 偶然噛み合ってしまった全ての結果が、あたかも定められた運命のように見えてしまっただけだ。

 だから絃を取り巻く死の可能性を消し去ってしまえば、当然その先には彼女にとっても、自分にとっても幸せな未来が続いているに決まっているのだ。


 鏡に両手をついて、顔を正面に向ける

 昨晩はよく眠れなかったからか、紡の顔は少し憔悴しているように見えた。

 ……鏡の向こうの自分が「こんな所で何を立ち止まっているんだ」と恨めしそうに睨み付けてくるようにも思えた。


「紡……?」


 唐突に、稽古場の入り口あたりから名前を呼ばれる。

 がらんとした空間の中で少し反響したその声は、紡にとって聞き慣れた声であった。


「麟……」

「紡!久しぶり、元気にしてたかい!?」


 ぱっと表情を明るくして駆け寄ってくる麟に、紡は向き直った。

 少し紅潮した頬を見れば、彼が親友との再会を心から喜んでいる事が伝わってくる。


「久しぶり。麟、どうして尾根山(ここ)に?」

「実は紡が学校に入ったあとも、一緒に面倒を見てもらっているんだ。師範が『別の流派との交流は余りないから、居ると助かる』って言ってくれて」


 麟はかつて『蒼天流』の剣術の腕を自身の父が師範代を務める神代道場で磨いていた。

 しかし他の神代の門下生との折り合いが悪く、父とも不仲であった麟は、最早『故郷』に戻る気は失くしてしまったらしい。


 いつだったか紡が、神代道場の方は放っておいて問題ないのか、と問うた事があった。

 しかし麟は「あそこにいる連中にとって、俺は邪魔者だから……」と物寂しく笑って答えるものだから、紡はそれ以上何も言えなくなってしまったのであった。


 紡は、初めて彼を尾根山道場に連れて行った日のことを思い出す。

 後輩たちから集られる麟は戸惑ってはいたが、自身に興味を持ってもらえるのは満更でもない様子であった。

 それから何度か尾根山で共に稽古を受ていた彼だが、紡が道場を去った後も訪れているとは思っていなかった。


「今日はみんな試合稽古に出掛けてるんだ。俺は正式な門下生ではないから、遠征にまでついて行くのはまずいだろ?」


 麟はどうやら、今も変わらぬ日常の続きを歩んでいるようである。

 それに安心したような、気を抜く隙のない自分と比較して少し羨ましく思うような、複雑な心地で彼の話を聞いていた。


「それより、紡は?」

「ええと……久々に竹刀を振りたくなって。」


 まさか、『家系にまつわる縁起でもない話を聞かされて溜まった鬱憤を晴らしに来た』などと言えるはずもなく。

 紡は麟から視線を逸らすと、当たり障りのない言葉を返した。


「ねえ、紡。まだ居るなら俺も着替えてくるよ。久しぶりに一緒に稽古がしたい!」

「分かった、待ってる」

「ありがとう、すぐに戻るから!」


 麟は紡と会えた事がよほど嬉しいのか、きらきらと目を輝かせながら更衣室の方に駆けていった。

 それとは真逆に、少しだけ疲れを覚えた紡は小さくため息をつき、打突台を稽古場の隅へと片付けるのであった。

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