第5話
小さな背中を見送りながら屋上にもう一度登った。ここからなら様子がよく分かるし、誰にも気取られることはない。距離は十メートル以上離れているが、目を凝らせば彼女の表情まで見えるし、耳を澄ませば会話の内容は十分聞こえる。周りも静かだから多分大丈夫だろう。
「絶対、か…」
自分の吐いた言葉を思い出してため息をつく。『親子なら、きっと分かり合える』 世の中がそんなに単純じゃないことなんて自分が一番よく分かっていたのに。
励ましたかったからか。それもあるだろうが、オレ自身がそう信じたかったのだ。そうあればいいと思ったから、あんな夢みたいな言葉を口にした。
ミドリが家のチャイムを躊躇うように見つめて、遂に押したのが見える。だけどきっと上手く行かないだろう。ピアノを続けたいなんてことを言う時間も与えてもらえずに遅くなった理由を問い詰められて、言う通りにしなかったことを詰られて、今まで以上に息苦しい生活を強いられることになるかもしれない。
「本当に悪いことしたな…」
少し生意気なところもあったがとてもいい子だった。裏切られたと知った時、どれだけ辛い思いをするのだろうか。想像するだけで胸が痛い。
彼女は最後何を言おうとしていたのか。オレに叶えられることならいいのだけれど。
扉が開いて母親と思わしき女性が出てきた。なるほど確かにミドリの話から受けた印象通りの厳格そうな女性だ。こんな夜更けにもフォーマルな服装をしている。
「どうして門限を守らなかったの?どうして電話にも出なかったの?」
厳しい口調で問い詰められてミドリが顔を伏せる。なんとかしてやりたくて体が動きかけたが自制した。これは二人の問題だ。オレが出ても何も変わらない。
「…先生から聞きました。今日来なかったって。どうして?やめることを伝えにいく筈だったでしょう?自分から言いたいってあなたが言ったのに…」
「私は……その…」
聞き取れないようなか細い声。やはり駄目だったか。ミドリは母親と対等に話をすることすら出来ない。幼少期からずっと口答えしないように躾けられてきたのなら無理もない。
声を上げることすら出来なかったとしても、彼女を臆病だと非難するつもりにはなれなかった。
「……母さん!」
もう完全に諦めた時、大きな声が辺りに響いた。背けかけた視線を二人に戻す。
「私ずっと母さんの言うとおりにしてきた!背伸びして私立の中学に通って、習い事も言われた通り続けた!止めろと言われたら止めた!聞き分けのいい顔してなんでも頷いた!」
ミドリは胸を押さえながら無我夢中で息継ぎもせず訴えかけていた。一度止まったら二度と踏み出せないと本人も悟っているのだろう。
「でも、ピアノだけは続けさせてください!プロになれるなんて思っていないけれど、それでも続けたいんです!」
娘の様子に母親は圧倒されていた。こんな風に声を荒げたところなど見たことがなかったという風に。
気づけば、頑張れと口の中で呟いていた。聞こえている筈はないが今応援できるのはオレだけだ。せめてそれくらいはしてやらなければ。
「……ずっと我慢してたの…?だから帰ってこなかったの?」
母親は重く長い沈黙の後、ようやく口を開いた。表情に大きな変化はなかったがよく見ると肩が震えている。
なにを当たり前のことを、と言いたくなるような発言だが、きっと娘のためになると思ってやっていただけで、自分の意思を押し付けているつもりなどなかったのだろう。自分のことというものは案外分からないものだ。
動揺している母親にミドリは一歩近づいてその手を取った。
「でも、でも母さんがピアノを始めさせてくれたことは凄く感謝してる。母さんが始めさせてくれなかったら、ピアノを弾くことが楽しいんだっていうこともずっと知らないままだったと思うから」
意図はどうあれ今まで相当苦しめられてきただろうに、ミドリは母親を否定せず、感謝の言葉を口にした。母親はまた呆気にとられたように目を見開いて、静かに微笑む。
「……分かりました。ならあなたの思うとおりにやりなさい。もう口出しはしません。なんでも素直に聞いてくれたから、ミドリに甘えていたんだと思います。許してもらえないかもしれないけれど、本当に、ごめんなさい」
言い終えて深々と頭を下げた。そして弱弱しい手つきでミドリを抱き寄せた。
「けれど、遅くなる時はちゃんと連絡しなさい。ずっと帰ってこなかったから、危ないことに巻きこまれたんじゃないかって…私…」
母親は泣いていた。ミドリに見られないように彼女の肩に頭を置いて。
「ごめんなさい…だけど、すごく親切な人が助けてくれたから大丈夫だったよ」
ミドリも応えるように母親の体に手を回した。そして思い出したように小さく呟く。
「ただいま、母さん」
「……おかえりなさい」
本当に拍子抜けしてしまうほどの優しい結末だった。偶然いい目が出ただけ。誰もがこうなれるわけじゃない。そうだとしても、だからこそこの出来事がかけがえのないものに映った。
涙を拭きながら母親が家の中に入っていく。ミドリもそれに続いて扉の中に入ろうとしたが直前で振り向き、キョロキョロと辺りを見渡す。オレを探しているのだと気づき手を振る。しばらくしてミドリはこちらの存在に気づき口を開いた。涙交じりの笑顔をして手を振りながら。
『ありがとう』
声は出していなかったが、口の動きでそう言っているのが分かった。それに倣って『どういたしまして』と無音で口にした。聞こえないし、見えもしないだろうがきっと伝わったと思う。
降りて最後になにか喋ろうか迷ったが、止めた。別れの挨拶は済ませている。それにもうオレの出る幕はない。
オレも帰るべき場所に戻ろう。本当に長い間待たせてしまった。ただ薬を買いに出かけただけの筈がこんなに時間がかかるとは。
しかし、まあ悪くない夜だった。大したことは出来なかったが、二人も仲直り出来たみたいだし。親子はああでなければ。
凍り付くような寒空の下、蝋燭一本分ほどの小さな、それでも確かな熱を感じて帰路についた。
「……ん」
不意に目が覚めて、体を起こす。相変わらず疼痛は続いていたがそれでも穏やかな気持ちだった。
時計の針は一時手前を指している。まったく彼はどれだけ遠くに行ってしまったのだろうか。会ってすぐの相手のために。本当にお人好しなんだから。
かけ布団を引きずりながら部屋を出る。そして玄関の前で座り込んだ。
布団で身を包んでも少し肌寒い。
目を閉じて待つ。暗くて寒い一人きりの家の中にいるのはとても心細かったけれど、それ以上にこうして待っていることが楽しかった。
「………」
チクタクチクタクと、針が進んでいく。まだかまだかと胸が弾む。
長いようにも短いようにも思える時間が過ぎる。そしてようやく待ち人が来たことを感じて目を開けた。
扉がゆっくりと開いて彼が足を踏み入れる。私が廊下で待っていることに驚いたのか声を上ずらせた。
「唯、寝てないと駄目じゃないか、ああ、そうじゃなくて遅れたことを謝まらないといけないんだった」
慌てた様子で捲し立てる彼に近づいて、胸に飛び込む。言いたいことは色々あるが、一番初めに言うことは決まっていた。
「おかえり、翼」
彼はぽかんと目を見開いて、それから小さく笑う。私も笑顔で応えた。
「ただいま、唯」
冷えていた体に互いの熱が伝わっていく。帰ってきてくれた実感が湧いてもっと嬉しくなってしまった。
「嬉しいけど今度からこういうことはやらないでくれよ。帰るまで床でずっと待たれてたら気軽に出かけられない」
「…翼が待たせなければいいだけ。他の女と浮気してた癖に指図しないで…」
「人聞きが悪すぎる。迷子を家に送ってただけだって。ちょっと寄り道してたかもしれないけどそれはオレのせいじゃ…」
「…弁明はいらない。触れば分かるから」
この後、初対面の女を抱きかかえていたこと、二人きりで仲良くしていたことを知った私が激怒したが、それはまた別の話。夜が明けたらまた仲直りした。
これでこの話は終わり。翼が走り回り、私は帰りを待つ。ただそれだけの、いつも通りの光景。
初詣の日、神社でお願いしたことを思い出す。以前の私はお参りなんてしなかったし、祈るほどの願いごともなかった。あの日も特に思いつかなくて、目を閉じてお祈りしている最中も迷っていたくらいだ。
そんな私の願いは今のところ叶っている。もっともまだ一年が始まって間もないのだから叶ったどうか判断するには早すぎるのだが。
『穏やかで騒がしいこの日々がいつまでも続きますように』
白い帰路、月の光 @infinitemonkey
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