第4話
駅の外にある噴水広場。その近くにあるベンチで一人腰掛けていた。今更ながらなんだか恥ずかしくなって顔を上げられない。急にピアノなんか聞かせて、自己顕示欲が強いヤツだと思われたりしていないだろうか。
ちょっと待っていて、と言い残して彼はどこかに行ってしまった。置いてきぼりにされたのかもしれない。
そんなはずはないと思うが、やはり若干不安は残る。ヤキモキしながら待つこと数分、少年はペットボトルを数本携えて隣に座った。
「喉乾いてたらと思って。好きなの選んでいいよ」
熱いミルクコーヒー、炭酸ジュースとスポーツドリンクがあった。なんというか出会ってから気を遣われっぱなしで立つ瀬がない。
「…あ、ありがとう、ございます」
ミルクコーヒーを選んで礼を言う。そういえばこれほど施しを受けておいて一度も礼を言っていなかった。自棄になって粋がりまくっていた数時間前の自分を思い出して更に顔が熱くなる。
「本当に上手だった。凄いね。月の光だったっけ」
「………う、うん。そ、そうです、よ」
お世辞かもしれないけれど褒められたのが嬉しくてどもってしまう。何故だろうか、さっきから胸が痛いくらいに高鳴っている。苦しいはずなのにこの感覚を手放したくなくて、そんな自分に一番驚いていた。
駄目だ。どうにも落ち着かない。黙ったままでいると内側に広がっている感情に潰されそうだ。なんでもいいから喋らなければ。
「つ、ツバサさんはクラシックに詳しいの!?」
焦ったせいで変てこな声が出てしまった。ピアノなら思い通りの音が出せるのに、自分の体は全然言うことを聞いてくれない。
「へ?ああ、そこまでじゃないけれど、姉が昔やってたから。いくつか覚えているってだけ」
「そ、そそ、そうなんだ、ですか」
「さっきから変な喋り方。無理に敬語使わなくてもいいよ」
ついに笑われてしまった。羞恥に耐えきれなくなって顔を足の間に埋めた。
そうして会話が途切れる。終電のアナウンスが駅の方から微かに聞こえた。そういえば私はともかく彼はどうやって帰るのだろうか。私が連れまわしたせいで家から遠ざかってしまっただろうし。
雪は降り続けて、街が白く染まっていく。建物も車も、帰り道も。全部雪の中に埋もれていくようだった。
帰り道、家。母さんと父さんがいる場所。ああ、そういえば父さんは出張でいないんだっけ。………私はどうしたいのだろう。
手元にある缶コーヒーを呷る。熱い液体が僅かながら体を温める。その熱で口が軽くなったのか、私は引っ張られるように言葉を発していた。
「理由…」
「ん?」
「なんで家出したかって…聞いたよね。だから、話す…」
最初は酷い言い方で突っぱねたのに気が変わったから話すなんて、あまりにも虫のいい話だけれど、多分この人なら許してくれる。
「母親がさ、悪い人じゃないんだけど、教育熱心っていうかあれこれ口ださないと気が済まないタイプっていうか、口答えをさせてくれないっていうか…」
「……」
「あの人がそう望んだから私立の中学に行かされたし、高校だってレベルの高いところがいいって、塾にいつも通わされてさ」
こんなこと話したことなかったからどう言葉にすればいいか分からなくて何回も言葉に詰まったけれど、ツバサは口を挟まず静かに聞き手に徹してくれた。
「…私の気が弱いせいでもあるんだろうね。意外に思うかもしれないけど私人と喧嘩したりするの凄く苦手で…」
「いや、それは最初から割と…」
私の告白はあっさりと切って捨てられた。舐められまいとなんとか虚勢を張っていたのに。羞恥で顔が赤くなるのを止められない。私のそんな顔を少年はどこか面白がっていた。いい人だけどいい性格している。咳ばらいをして無理やり仕切り直した。
「…さっき褒めてくれたピアノも結局は親にやらされたものなんだよ、自分の意思じゃなくて言われるがまま惰性で続けてただけ。たまたま向いてたからずっと続けさせられてる、ううん。続けさせられてた」
演奏会でも何回かいい成績を残せたし、私自身それなりの自負はあった。それなりだからこそ本当に上手い人達との差が分かってしまって落ち込むこともあったのだが。
「続けさせられていた、ってことは」
「うん、止めろって言われた。大した腕がないんだからそろそろ見切りをつけろ、って。やれって言ったのは自分なのにさ」
思いの外なんでもないことのように口に出来て、自分でも驚いた。少しだけ視界が滲んでしまったけれど。
「今日は先生に辞めることを言うために来たんだ。でも、出来なくて…ずっとあそこで座っていた」
冬休みでもうちの学校は特別授業やらの名目で足を運ばなければならない。それが昼過ぎに終わって、その足でずっと通っていたピアノ教室に行く筈だった。
けれど扉の前に立った時、私は踏み出せなかった。いつもなら多少嫌なことを要求されても最後には諦めて従ってきたのに。
「やめたくないのかは正直よく分からないんだ。ただ、なんていうか…なんだかんだ十年近く続けてきたものを、あんな簡単に捨てろって言われたのが、悔しくて…」
実際、自分でももうやめてしまってもいいかと思った瞬間もある。才能がないって。けれど始めさせた当の本人が少しも認めてくれないのは、あまりにも酷いんじゃないか。
「…」
「ごめんなさい。愚痴ばっかり言って。これで私の話は終わり」
誰かに話せて少しスッキリしたけれど、言葉にしたことで自分の抱えているものの重みが増したような気がしてやっぱり辛くなった。
「…話してくれてありがとう。本当に大変だったんだね」
「大変、なのかな?暴力揮われてるわけでもないし、もっと酷い家に住んでいる人もいるだろうし、こんなことで悩んでていいのかな…?」
「自分より苦しんでいる人がいたら悩んじゃいけない、なんてことはないよ。それだと世界一不幸な人以外誰も悩めないってことになるだろ。……辛かったら辛いって言っていいんだよ」
『辛ければ辛いと言っていい』 そう言った時彼は顔を逸らした。それはほんの一瞬のことだったのに、妙に強く印象に残った。
「…でも、情けないって思わない?もう十四なのに全部親のいいなりで、何一つ自分で決めたことがないんだよ」
「思うわけない。ミドリはちゃんと自分のことをよく考えているし、頑張っていると思うよ。オレがキミと同じくらいの時は…本当に何も考えてなかったし、漫然と生きていただけだった」
少年は遠い目をして語る。その横顔をじっと眺めている私の視線に気づいて誤魔化すように笑った。
「ま、それにさ。今まで何も決めたことがないならこれから変えればいい。ピアノ、好きなんだろ?続ければいいじゃないか?」
「…私が?」
「好きだから止めたくないと思ったんだろ。無理やりやらされてるだけじゃ、あんな風に弾けるまで続けられないと思うけどな」
「………」
好きとか嫌いとか今まで深く考えてこなかった。その余裕がなかったし、親の気分次第で終わらせられる習い事に思い入れを持つのが怖かったから。けれど改めて自分に問いかけてみると微塵の迷いもなく好きだと断言できる。一人で練習して理想の音を探していくことも人の前で弾いて聴いてもらうことも。今まで何故気づかなかったのか不思議なくらいに簡単なことだった。でも、
「でもお母さんが…」
「自分で決めるんだろ。絶好のチャンスじゃないか」
簡単に言ってくれる。初対面の人間に迷いなく話しかけるこの少年と違って私は臆病なんだ。あの母と口論するなんて考えるだけで怖気がする。
「…絶対聞いてくれないよ。今までだってそうだったもん…」
「変わるよ。実の娘が家出するくらい思いつめてるって分かったんだから」
少し前の私ならこんな言葉、ただの気休めだと切り捨てていた。けれど今はこの人が言うなら本当なのかもしれないと信じかけている。
「確かめに行こう、ほら」
大きな手が差し出される。その言葉の意味に戸惑いながらも手を取る。するとものすごい力で突然抱き上げられてしまった。これはお姫様抱っこというやつじゃないか。
「ちょ、ちょっと!?いきなり…」
会ったばかりの相手なのに、男の人とこんなに密着することなんて初めてなのに、不思議と不快感はなかった。胸の中が熱くなって居ても立っても居られなくなるような、あの感覚はまた強くなってしまったけれど。
「さっき曲を聞かせてくれただろ?演奏代にはならないかもしれないけど、オレも一つ特技を見せようと思って」
「は!?ワケ分かんな…いっ!!?」
私の質問なんか待たずに動き出す。彼が地面を蹴るとまるでワイヤーかなにかに引っ張られるように、ものすごい高さまで二人の体が飛んでいき、屋上に着地した。
あまりにも現実離れしすぎていて自分の感覚を信じられない。ツバサという少年の存在、彼と一緒に過ごした僅かな時間、それら全てが夢なんじゃないだろうか。そんな風にさえ思える。
「家、こっちだよね」
「そう、だけど…うわっ!!」
凄まじい速度で景色が移り変わっていく。ちょうど新幹線で車窓から眺めた風景のようなものだ。でもあの時は風が強く打ち付けてきたり、強い衝撃が伝わってきたりはしなかった。
「ちょっと待っ!?説明して!?」
「舌噛むよ。後にして」
耳なんかまるで貸さずにグングンと前に向かって走っていく。ビルの谷間をまるで躊躇せずに飛び越えて、どんどんと加速していく。
疲れも重さも恐怖も、何も縛るものなんかないみたいだった。色んなしがらみに雁字搦めになっている私にはそれがとても羨ましく、遠いものに見える。
「ここら辺でいいかな」
段階的に走る速度が落ちていく。あれほどすごい速度で動いたら急に止まることは出来ないのだろう。
大丈夫か、という呼びかけと同時に丁寧な手つきで地面に降ろされた。正直足が若干震えているが、反射的に頷いた。なんだか頭がごちゃごちゃしていてまともに考える余裕がなかったのだ。
「…どうやってやったの?」
「どうやってって…走って跳んだだけだよ」
「いや、だって普通…ああ、もう!」
「キミのピアノと同じだよ、パルクールが得意ってことにしといてくれ」
「もういいよ…それで…」
揶揄っているようにしか聞こえない言葉だが声色は真剣そのものだった。掴み所がない。
そしてようやく、今更ながら、気づいた。コンビニの前で怖い人たちに話しかけられた時、彼はこうやって助けてくれたのだと。
初めて声をかけられたあの時からどこか不思議な、浮世離れしているというのだろうか、とにかく独特な雰囲気を纏っていたから、この非現実的な現状をどうにか受け入れることができた。
ツバサは足湯にでも浸かるような気楽さで建物の縁に腰掛け、両足を宙に投げ出す。私はそこまで勇気がなかったから彼の斜め後ろに腰掛けた。
「まあでも、良い眺めでしょ?」
「うん…」
上から見下ろす景色は綺麗だった。数ブロック先に私の家が見える。黒い屋根をした二階建ての一軒家。小さいころよく家族で行ったファミレス、塾の帰り道に母が連れて行ってくれたメロンパン屋、今は潰れて駐車場になった本屋。身近にあったものが掌に入りそうなくらい小さく見える。自分が住んでいる場所、抱えている悩みが小さくなったように思えて気が楽になる反面、どこか寂しくも感じた。
「……正直、私自分でもよく分からないんだ。本当に続けるべきなのか、そうじゃないのか。ただ親に逆らいたいだけなのかもって思ったりして…どこにでもいる程度にしか上手くないのは、本当だし」
「夢中になれるものは大切だよ。凄くなくても、人にみせられないものでも。あるだけで支えになる。オレもなにもかも嫌になった時はこうやって屋上で空を見上げてた」
「…そっか。誰だってそう言う時はあるよね」
なんとなく安心した。どんな人にも好きなことがあって苦しい時期がある。そんな当たり前のことを確認しただけなのに。ずっと一人きりで悩んでいたからだろう。
「ミドリ」
「な、なに?」
ツバサが振り返り、私の顔をこれ以上ないくらい真っすぐな眼差しで見つめた。心の臓まで射抜かれてしまったみたいに体が固まる。訳が分からないくらい体が火照ってしまった。
「さっきから偉そうなこと言っているけど、キミの進路とか習い事を続けるかどうかとか、そういうことを決めることは出来ないし、責任も持てない。本当にごめん」
「あ、うん…」
そっちの話だったのか、と落胆する。いや、そっちもなにもないだろう。一体私は何を期待しているのだ。
現実に意識が戻って、茹だった頭が冷えていく。そうだ。結局最後は私が決めなければいけないことだった。この少年に家まで付いていってもらう訳にもいかない。私一人で決めて、私一人でその責任を負わないといけない。
今までほとんどの選択権を母に握られていた。そのことに耐えられなくて飛び出した筈なのに、いざ自分で選択するとなるとどうしようもなく心が震える。
俯いた私の肩に手がかけられる。ツバサは少し躊躇うような素振りを見せてから「けれど」と言葉を続けた。
「これだけは確信を持って言える。お母さんとしっかりと向き合えば、きっと分かってくれる。……絶対だ」
「……もし、何も変わらなかったら?」
「その時は…その時はなんでも一つ言うことを聞くよ。オレが悪いんだし」
少年は『自分が悪いのだから何をされても構わない』というようなことを平然と口にした。なにも悪いことなどしていないのに。
人がいいとかそんな領域を軽く超えている。壊れている、そんな言葉が脳裏に浮かんだ。
「でも、そうならないことを信じている」
彼は祈るようにそう言って口を閉じた。私はそれに応えたくてずっと逃げてきた心を奮い立たせた。
「……うん。分かった、やってみるよ。降ろして」
彼はもう一度私をひょいと抱きかかえて地面に降りた。背の低い建物を使って段階的に降りてくれたから衝撃はあまり伝わらなかった。
ゆっくりと腕から降ろされて、自分の足で雪が積もった地面を踏みしめる。そう、ここから先は私一人でやらなくちゃ。
「すぐ近くまでついていこうか?」
彼の提案にを私は跳ねのけた。嬉しいけれどきっと決意が鈍ってしまう。そう言うと彼は少し寂しげに笑った。
一歩踏み出す前に振り返った。言っておきたいことがあったから。
「もし上手く行かなくても私恨んだりしないよ。楽しかったし、聞いてもらえただけで嬉しかったから。でも、もしツバサさんがよければ……」
連絡先を教えてもらえないか、と言おうとしたがやめた。いきなりそんなこと言われたらビックリしてしまうだろうし、もしかしたら彼女とかいるかもしれないし。
「ミドリ?」
「ううん、なんでもない。じゃあ行ってくる。さようなら、今日は本当にありがとう。ツバサさん」
手を振って今度こそ前に踏み出した。後ろ手を引かれるような感覚はあったがそれも振り払った。
『これだけは確信を持って言える。お母さんとしっかりと向き合えば、きっと分かってくれる。……絶対だ』
『絶対』、そう口にした時彼の声は僅かに揺らいでいた。自分自身その言葉が欺瞞であることを知っていたからだろう。その反面失敗したらなんでも言うことを聞く、と口にしたときはその声になんの淀みもなかった。
察するに彼は上手く行かないと踏んでいるのだ。私を信じていないからか、私の母親を信じていないからか、それとも人を信じていないからか、どれかは分からないけれど。
私はそれを覆してみたくなった。一人でも私は大丈夫だって、公園のベンチから動けない子供のままじゃないって、証明したい。きっとそれが一番の恩返しになると思うから。
しかしそうなると彼ともう一度話す機会はなくなってしまうかもしれないが、それでもいい。上を向いて歩いていけばいつの日か、屋上で空を見上げている彼にまた会えるだろう。
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