第3話
「帰れ、帰れって…本当に鬱陶しいヤツ…」
イライラ、モヤモヤ、チクチク、一言では形容しがたい感情が胸の中で渦巻いている。
ツバサという少年、他の人とはどこか違うと感じたけれど結局同じだ。母さんとなにも変わらない。
「『なんにもならない』、『楽しくない』?勝手に決めないでよ。私の気持ちくらい私に決めさせてよ…」
母さんもずっとそうだった。習い事も部活も進路も、私の気持ちなんて考えずに勝手に決めた。『全部アナタのため』って。少し前までは父さんもそんな母さんに反対してくれていたけれど、言い争いに疲れて何も言わなくなってしまった。
「本当は…」
ベンチに一人きりで座っていて心細くて堪らなかった。冷たいことを言ってしまったけれど、声をかけてくれたのが嬉しかった。こんな遅くまで異性と遊ぶことなんてなかったし、優等生のふりばかりしていて今日みたいにはしゃいだことなんてなかった。だから本気で楽しんでいたのに。
我が儘ばっかり言って、連れ回して、あの少年には迷惑ばかりかけたことは理解している。それでも私の『楽しい』っていう気持ちまで否定しなくたっていいじゃないか。『帰れ』とだけ言われたら素直に従うつもりだったのに。
「…はあ」
苛立ちと運動で熱くなっていた頭が段々と冷めてくる。もう帰るしかないか。
定期券は持っているが終電までに駅につけるかどうか。タクシーを呼ぼうにもお金がない。徒歩…は論外だ。家までどれだけ歩けばいいか見当もつかない。
「…水飲みたいな…」
喉が渇いて考えがまとまらない。まとまっても手はなさそうだが気を紛らわすためにもなにかで喉を潤したかった。
目についたコンビニに寄るために横断歩道を渡る。夜中のコンビニはやけに強く光りを放っていてあまり好きではないが、目につきやすいおかげで助かった。
隅の方に若い、少年と青年の間にいるような、男達がたむろしていた。煙草をぷかぷかと吹かしてなにかの話をしていた。髪を染める、服を乱暴に着崩す、そんなことをしてなにになるのだろう、と見下し交じりの疑問持ったこともあったが、実際目の当たりにすると心臓が締め付けられるような威圧感を覚える。
入り口の数歩前で下品な笑い声が響いた。怯えながらその方向を向くと煙草を吸ってた男達の一人と目が合ってしまった。
「なあ…おい」
ヘラヘラと笑いながら男達は顔を合わせている。私のことを話しているのだろうか、いや自意識過剰だろう、そう願望混じりの予測を立てたが
「ね、一人?」
声をかけられた。信じたくはなかったけれど男は間違いなく私に話しかけていた。
「わた、私はえっと…」
しどろもどろになっている私の反応を男は無遠慮に、楽しそうにみつめている。それでも沸いてきたのは怒りなんかじゃなくて恐怖だった。自分より大きくて力も強い生き物に見下ろされて怖くないわけない。
「こんな時間に危ないよ。オレらの車乗ってく?」
同じことを言われたのは今日だけで二回目だけれど、あの少年は一目見ただけで自分に危害を加えてこないと分かった。この男の人は違う。
何もされないかもしれない。本当に送ってくれるだけかもしれない。でも怖い、怖いから早く逃げないと。
「あ…わっ!!」
頭が真っ白になって震えが止まらないのに一歩も動けない私を、強い風が連れ去った。
先刻まで立っていた場所は目にも留らぬ速さで遠ざかっていき、気がつくと私は見知らぬ路地の上に立たされていた。
何が起こっているのかまるで分からなくて困惑したが、それよりも緊張から解放されたことによる安堵感の方が強かった。疲れも相まって足から力が抜けて体勢が崩れてしまう。
「あ」
頭を地面に打ち付ける寸前になにかが私の身体を支えた。
「大丈夫?」
あの少年、ツバサだった。どんな方法を使ったのかは皆目見当つかないが、この人が自分を連れ出してくれたのだと理解した。
訳が分からなくて、けれどなんだか嬉しくて、言葉に詰まった私は首を縦に振ることでしか返事が出来なかった。
彼は手を離して私に背を向ける。そしてため息を吐いて大きな声を出した。
「ったく…もうキミってやつは!危ないって何度も言っただろ!」
「な、なにも危なくなんてなかったし!声かけられただけ!大きなお世話!」
本当は怖かったけれど認めるのが嫌で言い返した。だってそうだろう。あんな風に捨て台詞を吐いて逃げたのに今更素直になんてなれない。
私の強がりを見透かしていたようで私の逆上に対して眉一つ動かさなかった。落ち着き払った表情で再びもう一度ため息を吐く。
「…震えてたし、泣きそうになってただろ。危なっかしいんだよ」
「泣いて、なんかっ…いないっ…て」
否定したかったのに言葉が出てこない。泣くつもりなんてなかったのに涙が止まらなくて、遂には声まで上げてみっともなく泣いてしまった。
泣いている私の肩に少年の温かい手がのせられる。彼はどこか慣れたような手つきでそっと私を慰めた。
「もう無理にでも送るからな。ここまでやったんだから無事に帰ってもらわないと割に合わない。ほら住所言って」
しばらく経って、涙が収まった頃に彼が口を開く。少し乱暴な口調だったけれどやはり優しい声色だった。兄がいたらこんな感じなのだろうかと、頭の片隅でぼんやりと考える。
言われるがままに家がどこなのかを口にした。色々なことが一気に起こったせいで疲れてしまったのだ。反抗する気力はもうなかった。
「マジか。割と遠いな。電車間に合うかな…いや、やるしかないか」
ツバサは立ち上がって私に手を差し伸べる。恥ずかしくてすぐには出来なかったけれど、意を決して手を取った。
「ミドリ、走るよ」
結局間に合わなかった。精一杯急いで走ったのだが、途中で息が切れてしまった。ツバサだけなら間に合ったかもしれないがそれでは意味がない。帰らないといけないのは私なのだから。
「ごめんなさい…」
「あー…まあなんとかなるよ」
終電が出てしまっているが駅自体はまだ営業している。私たちくらいしか人はいないが。
「…外出ようか。もうタクシー使うしかなさそうだ」
オケラまっしぐら…と小さな呟きが聞こえた。調子に乗って奢らせていたけれど頭が冷えた今となっては申し訳ない気持ちしかなかった。
疲れた足を動かして少年の後ろをついていく。その途中であるものが目について、足が止まった。
「待って!」
「なに?もう我儘聞いている余裕は」
「最後だから!!少しだけそこで黙って立ってて!」
「…トイレ?」
「違う!!」
怪訝そうな顔をしたが彼は結局頼みを聞いてくれた。私はさっき目を取られた例のものに小走りで近づき、キーボードベンチに腰掛ける。
「ふう…」
ストリートピアノ。この駅に来たのは初めてだけど置いてあることは知っていた。
軽く鍵盤を押して、調子を確かめてみる。家のよりも少し硬い、いや私の指が震えているだけだ。数秒慣らし運転を続けて、大きく息を吸った。
厳か、それでいて穏やかな夜を思い描いて、指を動かす。表現出来ているのか、伝わっているのか、自信は持てないけれど、弾き続けた。
ドビュッシーの『月の光』。私の大好きな曲。小さな頃、お母さんとお父さんと一緒に行ったコンサートで初めて聞いた。
あの時の私はまだピアノを始めたばかりで、曲の名前も両手で数えられる程しか覚えていなかった。自分の意思で始めたことではなかったから楽しいとは思わなかったし、こなさなければいけないタスクの一つに過ぎなかったからだ。
あくびを噛み殺しながら座っていた私は早く終わらないかと、それだけしか考えていなかった。演奏者がピアノに向き合って、音を響かせるまでは。
たった一小節、それだけで曲の世界に引き込まれた。コンサートホールに響く程なのだから無論小さいわけはないが、静けさを感じさせる音の連なり。音を聞いているだけなのに、澄んだ空の上で輝く、蒼い月が見えたような気がした。
あの日自分が見た景色の十分の一でも、後ろにいる少年に伝えたかった。こんなことが返礼になるとは思っていないけれど、今の私にはこれくらいしか出来ない。私が一番きれいだと思ったものを見せることしか。
最初はミスをしないことに神経を使っていたが次第にのびのびと自由に音を響かせられるようになった。触って間もないこのピアノが一秒ごとに馴染んでいくのが分かる。
遠くにあるなにか、あるいは誰かを想うような感情を呼び起こす、そんな演奏に少しでも近づけるため、一音一音丁寧に、軽やかに積み上げていく。
五分足らずの短く、濃密な時間が過ぎて曲が終わる。どっと舞い込んだ重い疲労感に身を任せ、静かに目を瞑って息を吐いた。
本当に疲れた。演奏会でもここまでエネルギーを使ったことはない。冬場だというのに掌に汗が滲んでいる。
疲れ切って天井を仰ぎ見ている時、パチパチと手を叩く音がした。振り向くと少年が笑顔で拍手していた。たった一人分の賞賛。それでも十分すぎるほど心が満たされた。
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